前述のように、内堀通りは国会議事堂前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って緩やかに左にカーブして、桜田門に向かってなだらかな坂を下っていきます。皇居(江戸城)より東側(海側)は元々は低湿地帯で、徳川家康が江戸城に入府して以降、東京湾に流れ込んでいた利根川と荒川の流路を変えることにより生まれたり、埋め立てたりしてできあがった人工の陸地であり街であることは何度も書きましたが、ここから西側は徳川家康の江戸城入府以前から陸地であったところというのがこの景色からも分かります。これが「山の手」ってことなんですね。
法務省旧本館です。この建物は旧司法省庁舎として明治28年(1895年)に竣工したドイツ・ネオバロック様式の歴史主義建築です。基本設計は明治政府が招聘して建築顧問官を務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが行い、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行いました。大正12年(1923年)の関東大震災では煉瓦外壁が鉄材補強されていたことでほぼ無傷で乗り切ったものの、昭和20年(1945年)の空襲により壁面と床以外を全て焼失した。昭和25年(1950年)に法務府庁舎(1952年からは法務省本館)として再利用されることになるのですが、それにあたっての改修工事では屋根材(雄勝石のスレートから瓦へ)等に変更が加えられました。しかし平成6年(1994年)の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、平成6年(1994年)12月27日には国の重要文化財に指定されました。
この敷地には江戸時代には有力外様大名の1つ、出羽国米沢藩30万石 上杉家の上屋敷があり、その記念碑も建立されています。米沢藩の初代藩主は上杉景勝。その前は上杉景勝の家老だった直江兼続の所領でした。直江兼続と言えば、平成21年(2009年)のNHK大河ドラマ『天地人』で取り上げられ、主演の直江兼続を妻夫木聡さんが、上杉景勝役を北村一輝さんが演じられました。
“ある筋”の方々の間の業界用語だと「桜田門=警視庁」と言う解釈になるそうですが、本来は皇居(江戸城)にある城門の事を指します。これがその桜田門、幕府大老井伊直弼の暗殺事件(いわゆる桜田門外の変)で有名な桜田門です。万延元年(1860年)3月3日、大雪の朝、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した大老・井伊直弼(近江彦根藩の第15代藩主)は上屋敷から60名ほどの供を従えて登城する途上、外桜田門を目前にしたこの場所で水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されました。強権をもって国内の反対勢力を粛清したいわゆる「安政の大獄」の反動を受けて暗殺されたものです。この桜田門外の変から時代は大きく動き、7年後の慶応3年(1867年)10月14日には江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したいわゆる大政奉還が起き、江戸幕府、徳川の世は264年の歴史に幕を下ろすことになります。
井伊直弼が暗殺された場所は、現在の東京メトロ有楽町線、桜田門駅の3番出口付近だと言われています。
現在この門は一般に「桜田門」と呼ばれていますが、正式には「外桜田御門」といい、本丸に近い「内桜田御門(桔梗門)」に対してこの名称が付けられました。“桜田”の名称は、古くこのあたりを桜田郷と呼んでいたことに由来します。当初は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていましたが、寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立ての門を現在のような枡形門に改築した際に「桜田門(外桜田御門)」と改称しました。
外桜田御門は枡形門が完全な形で残っています。枡形門とは防備のための二重の門です。比較的小さい最初の門(高麗門といいます)をくぐると、濠や石垣に囲まれた方形の空き地があり、通常は左側または右側に第二の門があります。このため城内に侵入しようとする敵勢は直進できないようになっています。そして、第二の門は渡櫓(わたりやぐら)という形式で、門の上部に櫓があり、ここから弓や鉄砲で敵を狙い撃ちして殲滅しました。しかも、外部からは枡形の中が見えにくいため、敵の後続部隊からは門内で何が起きているか分からないようにもなっています。外桜田門の場合、高麗門を入ると、正面と左側が濠で、右側が渡櫓です。このような枡形門は江戸城の内濠、外濠に架かるほとんどの橋に設けられ、厳重な警備が行なわれていました。この外桜田門は昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定されています。
外桜田御門が建築されたのは寛永13年(1636年)とされ、現存する門は明暦3年(1657年)の明暦の大火でいったん焼失した後、寛文3年(1663年)に再建された門が元になっています。大正12年(1923年)の関東大震災で破損し、その後復元されました。
外側にある高麗門の内側です。
渡櫓門です
。
外桜田御門は江戸城西の丸の防御のため、320坪(15間×21間)という異例の大きさで作られました。この広さは江戸城の城門の中では濱御殿(浜離宮)の濱大手門に次ぐ広さです。
隙間なく見事に積み上げられた石垣です。でもこれはあくまでも徳川幕府の威光を示すための装飾用の石垣です。威光を示すといえば石垣に使われる石の大きさもありますが、ここの石垣にはこんな大きな石も含まれていて、それが少しの隙間もなく積み上げられています。亀の甲羅のようですので、「亀甲積み」と呼ばれています。手間と時間がかかるので、予算と工期によっぽどの余裕がないとできません。
しかし、石垣の強度としては「野面積み(のずらづみ)」と呼ばれる自然の石や切り出した石を加工せずにそのまま使用するほうがよっぽど強かったようです。石が不揃いなぶん目地(めじ)に隙間が多くでき、余裕があって、地震の揺れにも十分に耐えられたから。さらには野面積みのほうが隙間があるぶん排水も良かったみたいですし。これだけ隙間なく積み上げられた石垣では余裕がないので、1箇所崩れたら全壊ってことになってしまいます。関東大震災の大きな揺れもあったでしょうに、よく現在まで持っているものです。
渡櫓門の外側に急な石段がありますが、これは警護の武士達が櫓門の上に登るための石段です。
前述のように、この外桜田御門は高麗門と渡櫓門からなる門全体が昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定され、特別史跡「江戸城跡」の重要な一画を担っています。重要文化財指定されている江戸城の城門は、この外桜田御門のほかには、この日訪れた清水御門と田安御門があります。
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