公開日2019/8/01
[晴れ時々ちょっと横道]第59回:
稀代のプロジェクトマネージャー足立重信
このところ私が帰省するたびに訪れる松山市石手1丁目にあるうどん屋『水車』の裏手には石手川が流れています。そして、ちょうど『水車』の裏が岩堰(いわぜき)というところで、松山市内中心部からほど近いところですが、ちょっとした渓谷になっています。現在はスーパー・セブンスター石手店になっているようですが、このあたりにかつて「イワゼキヒル」という観光温泉施設があり、地元松山市民の間で大変な人気がありました。私も両親に連れられて何度か訪れたことがあります。そのイワゼキヒルがあった頃はもっと大きな巨岩がゴロゴロと川底に転がっている渓谷だったように記憶しています。
実はこの岩堰は人工の渓谷なのです。
松山市石手1丁目、四国霊場八十八箇所の第51番札所・石手寺近くを流れる石手川はちょっとした渓谷のようになっています。ここが岩堰と呼ばれるところです。この岩堰の渓谷は人工の渓谷で、松山藩初代藩主・加藤嘉明の家老・足立重信はここで湯山川(現・石手川)の流路を南方向に変えました。それにより、現在の松山市の市街地中心部ができあがりました。
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松山城を築城し、松山の城下町を整備した豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人の加藤嘉明(松山藩初代藩主)は当初は伊予国正木城(現在の伊予郡松前町)城主で10万石の大名でした。慶長5年(1600年)、加藤嘉明は関ヶ原の戦いで東軍(徳川軍)に味方し、石田三成の本隊と戦って武功をあげ、その戦功により20万石に加増。翌慶長6年(1601年)、道後平野(松山平野)の中にポツンと立つ勝山の山頂(海抜132メートル)に城を建造する許可を徳川家康より得て、築城に着手しました。当時の松山平野は伊予川(現在の重信川)と湯山川(現在の石手川)という2つの河川がたびたび氾濫を繰り返す一面の荒れ地でした(なので、松前に城があったわけです)。
勝山への築城にあたり、加藤嘉明は、重臣・足立重信を普請奉行に任じ、『伊予川の氾濫を防ぎ、要害に備え、城下町の繁栄を促し、近在の田畑の灌漑に活用できるように改修せよ』と命じました。
足立重信は、美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、若年で加藤嘉明に小姓として仕え、文禄四4年(1595年)、主君・加藤嘉明の転封に伴い伊予国正木(松前)城に入った後、文禄・慶長の役(俗に言う“朝鮮征伐”)に従軍して幾多の戦いで活躍し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、石田三成側に応じた毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢が正木城に来襲したのを撃退する手柄を立てました(三津浜夜襲)。これらの戦功によって家老に任ぜられ、5,000石の所領を与えられました。この足立重信、勇猛果敢な猛将というだけでなく、文武両道を供えた優れた武人でした。その才能は武術・兵術よりも土木技術、プロジェクトマネジメントにあったように思います。
(江戸幕府を開き、日本最大の巨大な城郭・江戸城、さらには人口100万人以上という当時世界最大の都市・江戸を築いた徳川家康をはじめ、当時の戦国武将には土木技術やプロジェクトマネジメントに秀でた人物が数多くいます。そういう視点で眺めてみると、戦国武将のイメージも学校の教科書や歴史小説で私達が読んできたものとは大きく変わってきます。)
主君・加藤嘉明から伊予川をはじめとした河川の改修を命じられた足立重信は、すぐに綿密な地形調査を行い、湯山川(石手川)の流れを変えて、これを伊予川(重信川)と合流させるという大規模な河川改修工事を計画しました。
足立重信は、まず、勝山の南麓を流れていた湯山川の流路を南方向に変え、その末流を伊予川に合流させる方法を考えました。また、流れを変えることで旧流路を城の堀として活用し、城の防衛線を築くことを狙ったわけです。この大改修で困難を極めたのは、湯山川の流路を南に変更させることでした。そこで、今は岩堰と呼ばれているこの箇所にかつてあった数十メートルの巨大な岩石を切り崩し、その巨大な岩を使って流れを堰き止め、それにより河川の流路を少し南方に変えてしまうという途方もない計画を立てました。発破(ダイナマイト)も重機もない時代のことです。数十メートルもある巨大な岩を切り崩すわけですから、さぞや大変な作業だったことでしょう。
地図を見ると、石手川(旧・湯山川)が鉤状に曲がっていることが、よく分かります。
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しかし、足立重信達は卓越した手腕によりこの離れ業を見事にやってのけ、湯山川の流路を南方に変えることに成功しました。下流には余土の出合大橋のところで伊予川(重信川)に合流するまでの約12kmに渡って新たな流路を開削し、そこに高い堤防を築きました。この人工の河川は「石手川」と呼ばれ、その後、湯山川のまま残っていた岩堰より上流の部分も合わせて石手川と総称して呼ばれるようになりました。この河川の付け替えという大土木工事により、見事水害を防ぎ、流域に五千町歩(約5,000ヘクタール)にも及ぶ広大な耕作地を生み出し、さらには松山城の防衛線(濠)を作り城下町の建築地を築くことにも成功しました。
岩堰から石手川(旧・湯山川)を上流に遡ると奥道後の約2km先に石手川ダムがあります。石手川ダムは洪水調節や上水道・灌漑用水の供給を目的に昭和47年(1972年)に竣工した多目的ダムで、松山市の約半分(松山市中心部の大部分)の上水道水を賄っています。
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石手川ダムのダム湖、白鷺湖です。石手川ダムは高縄山(標高986メートル)をはじめ高縄半島の山々(高縄山地)に降った雨を貯めています。このダム湖の水量を見ると、かつて湯山川(現・石手川)がいかに流量の多い急流であったかが容易に想像できます。その急流の流路を変えるわけですから、足立重信が巨岩を崩して堰き止めるという途方もない方法を採ったことも理解できます。
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伊予鉄道横河原線の石手川公園駅付近の石手川です。石手川は岩堰を境に上流部と下流部で川の様相が大きく変わります。下流部は河川としての構造や築堤の構造から、どう見ても人工の河川ですね。写真を撮影したのは4月中旬ですが、この地点の約10㎞上流に石手川ダムがあり、これから夏場に向けて水を貯めておく必要があるためか、この日の石手川には1滴の水も流れていません。
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石手川公園駅は石手川を跨ぐ橋の上にあります。駅を支える鉄道橋は横河原線開業当時の明治26年(1893年)製で、現役の鉄道橋で移設されていないものとしては日本最古のものです。
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その工事の成功を確かめてから加藤嘉明は勝山に新しい城を築城することに取り掛かり、それと同時に城下町の整備にも着手しました。慶長8年(1603年)、加藤嘉明は本拠地をそれまでも正木(現在の松前町)から勝山に移すことを正式に決定し、その勝山に築城中の城のことを「松山城」と命名しました。そして、これを機にその周辺の地名も勝山から「松山」と改名し、松山という地名が公式に誕生しました。もちろん足立重信はその松山城の築城と松山の城下町の建設にも引き続き普請奉行として関わり、その辣腕を奮いました。すなわち、あの難攻不落の連立式天守の構造を持ち、国宝姫路城と並んで日本の城郭建築の最高傑作とも称される松山城も、実際には足立重信の設計及びプロジェクトマネジメント(PM)により築かれた城というわけです。
加藤嘉明は寛永4年(1627年)、松山城が完成する前に43万5,500石に加増されて陸奥国会津藩へ転封となり、代わりにそれまで会津藩主だった蒲生忠知(戦国武将・蒲生氏郷の孫)が24万石の松山藩主になり、その時にこの岩堰での湯山川の付け替えに始まる松山城の築城と松山の城下町の建設の一連の工事が完成します。歴史の表舞台からは忘れ去られているようなところがありますが、この岩堰と足立重信が現在の松山市の繁栄をもたらしたといっても過言ではありません。
松山市山越の来迎寺の裏手の小高い丘の上にある足立重信の墓です。
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足立重信の墓からは、彼が生前完成を待ち望んだ松山城が真正面に見えます。
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その偉業を讃え、足立重信は現在の一級河川・重信川(旧名称:伊予川)にその名を残しています。個人の業績を名に残す一級河川は、全国でも他に例がありません。それだけ凄い土木エンジニアであり、プロジェクトマネージャーだったということです。また、大正8年(1919年)にはその功績が認められ、正五位を追贈されています。ちなみに、現在の東温市の中心となっている旧温泉郡重信町は昭和31年(1956年)に久米郡北吉井村、下浮穴郡南吉井村・拝志村の3村が合併し重信町となったもので、町内を流れる重信川から付けられた町名ではありますが、足立重信の直接の知行地であったわけではありません。
私はエンジニアとして、この松山の町を作った稀代のプロジェクトマネージャー足立重信に大いに関心を持っていて、時間があればその業績をさらに調べてみたいと思っています。そして、足立重信という稀代のプロジェクトマネージャーと彼が残した業績がもっともっと松山の人達に注目されてもいいのではないか…と思っているのですが…。まっ、エンジニアってこういうものかも知れません。
ちなみに、この松山市山越の来迎寺には、足立重信の墓のほかにも、もう1つ、歴史遺産があります。それが、日露戦争当時、愛媛県松山市に日本で初めて設けられたロシア兵捕虜収容所で亡くなられたロシア兵捕虜の墓地です。司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』にも次のような一文があります。
来迎寺には、日露戦争当時、愛媛県松山市に日本で初めて設けられたロシア兵捕虜収容所で亡くなられたロシア兵捕虜の墓地があります。
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「この当時の日本政府は日本が未開国ではないということを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜の取り扱いについては国際法の優等生であった。ロシア兵捕虜をとびきり優しく取り扱ったというよりも、むしろ優遇した。その収容所は全国各地にあったが、松山が最も有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、彼等は投降するという言葉を「マツヤマ」というまでになり、「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地に走ってきたりした。」
もう一つの『坂の上の雲』ですね。
この日露戦争当時、松山市に設けられたロシア兵捕虜収容所で出会った日本人看護師“ゆい”と、ロシア人将校“ソローキン”の現代まで続く数奇な運命を描いた日本とロシアの合作映画『ソローキンの見た桜』が、今春、全国公開されました。キャッチコピーは「日露戦争時代のロミオとジュリエット」。いい映画でした。
余談ですが、四国にあった捕虜収容所としては、この日露戦時の松山収容所だけでなく、第一次世界大戦時にドイツ兵捕虜を収容した徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所が有名です。この板東俘虜収容所も捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られています。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されています。例えば、プロ野球球団「北海道日本ハムファイターズ」を所有する食肉加工会社「日本ハム」の旧社名は「徳島ハム」。四国徳島発祥の会社です。この日本ハムがこの徳島発祥の理由の1つには板東俘虜収容所を通じてハム・ソーセージの製法がドイツ人から徳島の人達に伝わったことがあると言われています。加えて、この板東俘虜収容所は日本で、いやアジアで初めてベートーヴェンの交響曲第9番が全曲演奏されたことでも知られています。このエピソードは2006年に映画『バルトの楽園』として映画化されました。
このように四国にあった捕虜収容所が国際法の優等生であった背景には、四国霊場八十八箇所を巡礼するお遍路さんに対する「お接待文化」があったと言われています。この地を訪れた異教徒や異国の人に対しても心からもてなす「お接待文化」です。これが四国というところの本質ではないか…と私は思っています。
【追記】
足立重信のこのような功績は、江戸時代初期の関東郡代の伊奈忠次・忠治父子と相通じるところがあります (江戸幕府をバックにした伊奈忠次・忠治父子のほうが、もっとスケールが大きいですが…)。伊奈忠次は徳川家康の命を受け、息子(次男)の忠治とともに現在の元荒川を流れていた荒川の流路を入間川へ付け替える大工事や、利根川の流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業等を次々と成し遂げ、毎年のように河川の氾濫を繰り返し一面の荒れ地(湿地帯)であった関東平野を広大な一大穀倉地帯に生まれ変わらせ、 江戸城下の開発と江戸幕府の財政基盤の確立に大きく寄与しました。この伊奈忠次・忠治父子の業績は計り知れなく、この伊奈忠次・忠治父子の功績により、今のような関東平野、そして世界的な大都市で日本の首都である東京(江戸)が生まれたと言っても過言ではありません。そして、今も関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防は、いずれも忠次の官位「備前守」に由来するものであるほか、直接の知行地であった小室藩(1万石)一帯は現在、埼玉県北足立郡伊奈町という地名になって残っています。
この伊奈忠次・忠治父子の業績に関しては、直木賞候補作にもなった門井慶喜さんの書かれた歴史小説『家康、江戸を建てる』に詳しく書かれています。歴史小説というと戦国武将の軍記物が中心ですが、このような一大社会インフラの整備に尽力した技術者集団の業績も後世に語り継ぐべき歴史の真実で、現代の私達の生活にも直接影響が残っているという点では、軍記物以上に興味深いものがあります。是非、お読みください。最近はNHK総合テレビの人気番組『ブラタモリ』などによって、こうした都市や社会インフラの歴史への関心が徐々に高まってきていて、理系のエンジニアにとっては嬉しい限りです。
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