公開日2020/03/05
[晴れ時々ちょっと横道]第66回:
伊予八藩紀行【大洲藩】(その1)
『晴れ時々ちょっと横道』の第65回(2月号)では、「伊予八藩」と題して、愛媛県が持つ魅力的な“多様性”の源泉であろうと私が分析(推察)している江戸時代の伊予国(現在の愛媛県)の幕藩体制について書かせていただきました。そこでも書かせていただきましたが、『伊予八藩』という言葉が残っているように、愛媛県(旧伊予国)には、江戸時代、主として次の8つの藩が置かれていました。
• 伊予松山藩 (親藩15万石。城は松山市)
• 宇和島藩 (外様7万石。城は宇和島市)
• 大洲藩 (外様6万石。城は大洲市)
• 今治藩 (譜代3万5千石。城は今治市)
• 西条藩 (親藩御連枝・紀州徳川家分家3万石。陣屋敷が西条市)
• 伊予吉田藩(3万石。宇和島藩の支藩。陣屋敷が宇和島市吉田町)
• 小松藩 (外様1万石。陣屋敷が西条市小松町)
• 新谷藩 (大洲藩の支藩1万石。陣屋敷が大洲市新谷)
このほかに寛永13年(1636年)から寛永19年(1642年)までの6年間、西条藩の支藩として川之江藩(外様2万3千石)があったのですが、廃藩後、天領(江戸幕府直轄領)となっています。また、松山藩の支藩として、桑村郡・越智郡の一部を領地とする松山新田藩(まつやましんでんはん)1万石が享保5年(1720年)から明和2年(1765年)まであったのですが、廃藩後、こちらも天領となっています。
私は地形の複雑さと歴史から来る多様性こそが愛媛県の本当の魅力なのではないか…と思っています。この第65回の一文を書いているうちに、そういう認識を持ったうえで、改めて愛媛県内各地を訪ねてみようと思い立ちました。題して『伊予八藩紀行』。その第1回目は「大洲藩」です。
郷里愛媛を長く離れ、再び郷里に戻ってきた、言ってみれば出戻りの私が、地元の皆様に対して、地元の紀行文を書くのは実は大変に勇気が要ることで、漏れや解釈の相違等でお叱りを受けることも多々あろうかと思いますが、それは十分に覚悟のうえで、首都圏から出戻りの私が地元愛媛のどういうところに注目し、どういう感想を持ったのかの参考としてお読みいただければ…と思っております。
私が申し上げるまでもなく、大洲は、愛媛県の西部、南予地方に位置し、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町で、古い街並みが残っているところから「伊予の小京都」とも呼ばれています。ここではその大洲市だけではなくその周辺部を含めた大洲藩を対象にします。大洲藩は、伊予国大洲(現在の大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩です。
伊予藩領図(幕末)です。大洲藩の藩領って、現在の大洲市だけでなく、旧喜多郡、旧伊予郡の広い範囲に及んでいたことがお分かりいただけるかと思います。
出典:「復元大洲城」平成の城普請を探る
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大洲は一級河川・肱川の中下流域にあり、特に旧大洲地域は肱川と矢落川とが合流する地点で盆地を形成しています。さらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域にて伊予灘に注ぎ込みます。山は、肱川支流の河辺川源流では標高1,000メートルを越える地点もあるのですが、それ以外は日本最大の断層帯である中央構造線の南側にあることから500〜800メートルの比較的なだらかな山々が連なっています。この肱川は下流で川幅が狭まっていることから、大洲盆地でボトルネックとなり、大雨が続くと増水しやすく、過去に何度も氾濫を繰り返し、浸水被害に見舞われてきました。その反面、肱川の氾濫により、大洲盆地は肥沃な土壌に恵まれ、古くからそれなりに豊かな土地でした。また、大洲盆地は、伊予国を南北に繋ぐ大洲街道と宇和島街道の結節点にあり、また東にはなだらかな四国山脈の山々の間を抜けて土佐国に繋がる街道が伸びていました。さらには、北側の肱川河口には藩港の長浜があり、同じくすぐ西側には大洲の外港とも言える八幡浜(旧宇和島藩)もあり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にありました。
【大洲城】
最初に訪れたのは、大洲藩の拠点となった大洲城です。大洲藩ということで、まずは最初にここを訪れないといけません。
この地に最初に城を構えたのは伊予宇都宮氏でした。伊予宇都宮氏の初代・宇都宮豊房は豊前宇都宮氏第6代宇都宮頼房の次男で、鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられ、翌年大洲の地に入り、肱川と久米川(現在の滝の宮川)の合流点にあたる地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)を築城して初代城主になり、ここを伊予宇都宮氏の本城としました。伊予宇都宮氏による統治はその後8代、240年近く続くのですが、第8代宇都宮豊綱は、当時の伊予国内で道後方面を統治していた同じく守護の河野氏、宇和郡の西園寺氏と対立し、永禄11年(1568年)に毛利氏の援軍を受けた河野氏との間で繰り広げられた鳥坂峠の合戦にて大敗を喫し、その後、毛利方に捕らえられました。その後は河野氏の重臣の1人、大野直昌が地蔵ヶ嶽城に入り、この地を統治したのですが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐の際に、圧倒的な兵力で押し寄せてきた小早川隆景率いる四国討伐軍の前に主君・河野通直が恭順(戦わずして降伏)。地蔵ヶ嶽城城主・大野直昌も河野通直に付き従って伊予国を退去しました。
翌天正14年(1586年)、豊臣秀吉の重臣の1人であった藤堂高虎が7万石で板島城(宇和島市)に入城すると、すぐにこの大洲の地に目を付け、同じく豊臣秀吉の重臣の1人、丹羽長秀の子で藤堂高虎の養子となった藤堂高吉を地蔵ヶ嶽城(大洲城)に入れ、統治のための主たる居城とすべく新しい城の構築を始めました。江戸幕府成立後の慶長14年(1609年)、藤堂高虎が伊勢国津藩に転封となった後は、淡路国洲本藩より外様の脇坂安治が5万3千石で入城し、大洲藩が正式に立藩しました。この脇坂安治による統治の時代に大洲城が完成しました。この時、従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更され、それにあわせて地名も「大洲」に変更されました(異説あり)。第2代脇坂安元が、元和3年(1617年)、信濃国飯田藩に転封となったあとは慶長19年(1614年)からの大坂の陣において徳川方として参戦して戦功を立てた同じく外様の加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入り、明治維新後の明治4年(1871年)の廃藩置県まで、250年以上もの間、13代にわたり加藤家による統治が存続しました。その大洲藩の支藩が新谷藩で、元和9年(1623年)、大洲藩第2代藩主・加藤泰興の弟・直泰が幕府より1万石での分知の内諾を得て成立し、こちらも明治維新後の廃藩置県まで存続しました。
藤堂高虎と脇坂安治により築城された大洲城の象徴は“天守”。大洲城の天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し、それらを渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階の天守です。中央付近に心柱が通され、それに伴い2階の床には吹き抜けが造られていました。外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用され、吹き抜けとなった2階には、寺院のような華頭窓(かとうまど)のみが並べられていました。明暦の大火(1657年)により江戸城の大天守が焼け落ち、それ以降、3重櫓の富士見櫓が江戸城の天守と見做されたことで、それ以降は富士見櫓(3重3層、15.5メートル)より高い天守を建てることは江戸幕府に対する謀反の企てがあるのではないか…と疑いをかけられる危険性があるため避けられ、極力高い天守が建てられなくなったので、その明暦の大火以前に建てられた大洲城の4重4層、高さ19.15メートルという天守は四国では一二を争う立派さでした (ちなみに、現存する松山城の天守は明暦の大火以降に建てられたものなので、3重3層です)。
大洲城天守の特徴は1本の心柱の存在があげられます。この心柱に沿って、天守1階から最上階までの階段周りが吹き抜けの構造になっていて、これは他の城郭の天守には見られない特徴です。
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前述のように、大洲城はほぼ藤堂高虎と脇坂安治により築城された当時のままの状態で明治維新期の明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の廃城令発布まで存続しました。廃城令発布後、城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民達の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されました。しかし天守は老朽化のために明治21年(1888年)に解体され、現在の天守は平成16年(2004年)に大洲市市制施行50周年記念事業として復元されたものです。大洲城がいかに地元住民の心の拠り所であったかが窺える、羨ましいくらいのエピソードです。
天守の構造が分かる「木組み模型」です。大洲城の復元は、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型(大洲市指定文化財・大洲市立博物館蔵)により内部構造を知ることができたことで実現できました。この天守に入ったところに展示してある「木組み模型」は平成16年(2004年)に復元された時のものです。
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で、平成16年(2004年)に復元された現在の天守ですが、もとの天守が明治21年(1888年)に解体されたことで明治期に撮影された古写真や、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など内部構造を知ることができる豊富な資料が残っていたことから、築城当時の伝統工法を用いて往時の姿をほぼ正確に木造で復元したものです。このように、多くの資料が残っていることは稀なことです。天守の高さは石垣の上から19.15メートルもあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、当時の建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったそうなのですが、大洲市関係者による2年近い熱心な折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至ったのだそうです。また、天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されています。素晴らしいことだと思います。平成16年(2004年)に復元された新しい天守ということで、文化財指定を受けていない天守ではありますが、私は十分に歴史的価値のある天守だと思います。
この復元された大洲城の天守は土台となる石垣(天守台)の上からの高さが、前述のように19.15メートル。同じく土台となる石垣の上からの高さでは、松山城の15.4メートル、宇和島城の15.3メートル、高知城の18.1メートル、丸亀城の14.5メートルを凌ぎ、現存する四国の木造天守の中で、一番の高さです (今治城は移築されたとされる丹波国亀山城を参考に再建されたので約26メートルの高さがありますが、残念ながら鉄筋コンクリート製の天守です)。
中江藤樹が住んだ屋敷の跡は、今の愛媛県立大洲高等学校の一画にあったと伝えられており、庭先に残る井戸は「中江の水」と称されています。昭和14年(1939年)には、中江藤樹の遺徳をしのび、敷地の一部を造成して「至徳堂」が建築されました。また、その前庭には藤樹書院(滋賀県高島市、中江藤樹が近江国で開いた私塾)から分けられた「遺愛の藤」が植えられているのだそうです。
大洲城の天守は平成16年(2004年)に復元されたもので文化財の指定は受けておりませんが、その両脇に繋がっている2重3階の高欄櫓(左側)と2重2階の台所櫓(右側)は国の重要文化財に指定されています。 |
この復元された大洲城の天守は土台となる石垣(天守台)の上からの高さが、前述のように19.15メートル。同じく土台となる石垣の上からの高さでは、松山城の15.4メートル、宇和島城の15.3メートル、高知城の18.1メートル、丸亀城の14.5メートルを凌ぎ、現存する四国の木造天守の中で、一番の高さです (今治城は移築されたとされる丹波国亀山城を参考に再建されたので約26メートルの高さがありますが、残念ながら鉄筋コンクリート製の天守です)。
天守の大きさの比較です。大洲城は現存する四国の木造天守の中で、実は一番の高さです。
出典:「復元大洲城」平成の城普請を探る
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大洲城の天守は復元されたもので文化財の指定は受けておりませんが、櫓の中には江戸時代から現存するものが幾つかあり、安政4年(1857年)の安政の大地震で大破し安政6年(1859年)に再建された2重2階の台所櫓、同じく万延元年(1860年)に再建された2重3階の高欄櫓、天保14年(1843年)に再建された肱川堤防上にある苧綿櫓、大洲城最古の建築物とされる明和3年(1766年)に建てられた三の丸南隅櫓の4つの櫓は、国の重要文化財に指定されています。
大洲城は肱川と久米川(滝の宮川)が天然の濠の役割を果たしていました。大洲城の本丸から肱川を眺めていると、肱川に架かる鉄橋の上をJR予讃線の単行(1両編成の)の普通列車が通り過ぎていきました。鉄ちゃん(鉄道マニア)の私としては、たまらない光景です。
【中江藤樹】
大洲城の二ノ丸には、江戸時代初期の儒学者で、日本陽明学の祖、陽明学の確立と「知行合一」の道を実践し、のちに「近江聖人」と称えられた中江藤樹の銅像が建てられています。中江藤樹は近江国小川村(滋賀県高島市)の出身で、9歳の時に後に大洲藩主となった伯耆国米子藩主・加藤家の家臣であった祖父・中江吉長の養子となりました。元和2年(1617年)、10歳の時、主君である伯耆国米子藩主・加藤貞泰が伊予国大洲藩に国替えとなったことで、加藤貞泰に従って大洲へ移り住み、儒学を究め、徐々に好学の藩風を醸成しました。元和8年(1622年)、祖父の死去により家督を相続しますが、寛永11年(1634年)、27歳のとき大洲の地を離れ、母の待つ近江国へ戻りました。
中江藤樹が住んだ屋敷の跡は、今の愛媛県立大洲高等学校の一画にあったと伝えられており、庭先に残る井戸は「中江の水」と称されています。昭和14年(1939年)には、中江藤樹の遺徳をしのび、敷地の一部を造成して「至徳堂」が建築されました。また、その前庭には藤樹書院(滋賀県高島市、中江藤樹が近江国で開いた私塾)から分けられた「遺愛の藤」が植えられているのだそうです。
大洲藩では、延享4年(1747年)に、伊予八藩の中では最も早く藩校「止善書院明倫堂」の学舎が完成しました。この藩校「明倫堂」には孔子像に加え王陽明と中江藤樹の画像が祀られていたそうで、大洲の陽明学は、中江藤樹を始祖とし、その学風は大洲藩・新谷両藩の教学の基礎となりました。藩校「明倫堂」は明治5年(1872)に廃校となったのですが、その校風は今も大洲高校に脈々と色濃く残されていると伺っています。その中江藤樹の顕彰碑です。
【おはなはん通り】
大洲城をあとにして、大洲市内の散策に出掛けました。大洲には、白い漆喰のなまこ壁の土蔵が残る、城下町らしいなかなか趣きのある通りがあります。「おはなはん通り」です。昭和41年(1966年)4月から翌昭和42年(1967年)4月にかけて1年間放送されたNHK朝の連続テレビ小説の第6作『おはなはん』(主演:樫山文枝さん)は、ここ愛媛県大洲市が舞台でした。「おはなはん通り」は、そのNHK朝の連続テレビ小説『おはなはん』にちなんで命名されました。私は10歳でしたが、地元愛媛が舞台ということもあり、朝、観ていた記憶があります。また、平成3年(1991年)に放送された鈴木保奈美さん織田裕二さん主演のドラマ『東京ラブストーリー』では、織田裕二さん演じる主人公・永尾完治「カンチ」の出身地がこの愛媛県という設定で、この大洲市の「おはなはん通り」でもロケが行われました。『東京ラブストーリー』と言えば、鈴木保奈美さん演じる自由奔放な赤名リカの名セリフ「ねえ、セッ◯スしよ」は、あまりにも衝撃的でした。
大洲市内にはこうした昭和レトロを感じさせる風情のある街並みが、ほかにも幾つかあります。
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【臥龍山荘】
「臥龍山荘」です。清流肱川河畔の最も優れた景勝地であるこの丘陵に初めて庭園を築いたのは文禄年間、藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛の時代に遡ると言われています。大洲藩第3代藩主・加藤泰恒がこの山荘が建つ丘陵の姿が龍が臥す姿に似ていることから「臥龍」と命名しました。幕末まで歴代藩主の遊賞地でしたが、明治維新後は補修されることなく荒廃。現在の山荘は、大洲市近郊の新谷出身で、木蝋貿易で大成功をおさめた明治の豪商・河内寅次郎が余生を故郷で過ごしたいという思いから、明治30年(1897年)頃から10余年の時をかけ、多額の財を投じて再建させた別荘です。 国指定の重要文化財で、平成23年(2011年)にはミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに「一つ星」として紹介されました。臥龍院の縁側から眺める借景の肱川の風景は素晴らしい!…の一言です。
臥龍山荘からは眼下に清流肱川の流れが見え、素晴らしい!…の一言です。
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【肱川】
大洲市街中心部を流れる一級河川の肱川です。肱川の名物、夏の風物詩と言えば鵜飼いです。鵜飼いは「古事記」や「日本書紀」にも記述がある昔ながらの漁法で、鵜の食道で魚を一気に気絶させるため、傷がつかずしかも新鮮。古くから天皇、貴族、大名などへの献上品として保護されていました。江戸時代に大洲藩でも鵜を使った漁法が行われていたことが古文書に記されています。明治以降は、漁法も近代化が進み一時は衰退していましたが、昭和32年(1957年)に観光事業として復活。見物客は年を追うごとに増え、現在では水郷大洲市の夏の風物詩となっていて、岐阜県長良川、大分県三隅川と並び日本三大鵜飼の1つに数えられています。その鵜飼い船のほとんどは冬季の今は河原に引き上げられて、休んでいます。また肱川の堤防には、城下町大洲らしく、城壁のような装飾が施されています。
【おおず赤煉瓦館】
「おおず赤煉瓦館」です。明治34年(1901年)に建築された元
大洲商業銀行の建物です。イギリス積みと呼ばれる赤煉瓦壁に和瓦葺き寄棟造り屋根という和洋折衷の建物は、今はギャラリーや休憩所として利用されています。
……(その2)に続きます。
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