公開予定日2023/03/03
[晴れ時々ちょっと横道]第102回 縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡②
上黒岩岩陰遺跡考古館です。この上黒岩岩陰遺跡考古館は遺跡の発掘現場のすぐ前にあります。入館料100円。久万高原町営とは言え、ウソみたいに安いです。 |
昭和36年当時の発掘写真です。 |
縄文時代とは明確な始まりと終わりが規定されているわけではなく、前述のように「縄文土器が製作・使用されていた時代」という意味に過ぎません。で、縄文時代は出土する縄文土器の作られた時期と形態・形状により次の6つの時期に分けられます(縄文土器編年区分)。
草創期:約1万6,000年前~
早期: 約1万1,000年前~
前期: 約 7,200年前~
中期: 約 5,500年前~
後期: 約 4,700年前~
晩期: 約 3,400年前~
一方、縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするのが一般的ですが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、今も多くの議論があり明確にはなっていません。ここではそのうち一番古い紀元前10世紀頃まで(すわなち、今から約3,000年前まで)を縄文時代と呼ぶことにします。
図4 旧石器時代~縄文時代にかけての主な遺跡の分布 |
縄文時代は1万年という長い期間にわたることから、その間に大規模な気候変動も何度も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったと思われます。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなったわけです。昨日のコラムで示した図1をご覧いただくと、草創期や早期、前期…といった縄文時代の時代区分が起きるのは、寒冷期、温暖期の変わり目といった大きな気候変動が地球規模で起きたタイミングとほぼ一致していることがお分かりいただけるかと思います。縄文時代は、土器型式上の区分から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられるというのは前述のとおりですが、この土器型式の違いは、もしかしたら、気候変動に伴う植生の違いから寒冷期と温暖期により食文化が大きく異なることになり、煮炊き等の調理や食事に使う器の形状も微妙に異なることになった…と考えれば、論理的に辻褄が合うように思えます。
縄文時代のそれぞれの時期を、以下に簡単に振り返ってみたいと思います。
今から約2万年前に最終氷期が終わってから6,000年前頃までの間は、地球の気温は徐々に温暖化していった時期で、この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験しています。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当します。また、約6,000年前には海水温の上昇による膨張のため海面の水位が現在より4メートル〜5メートルも高かったことが分かっていて、これは縄文海進と呼ばれています。
縄文時代草創期(約1万6,000年前~)当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心でしたが、落葉樹の森林も一部で出現していました。また地学的に見ても、前述のように北海道と樺太、さらにはユーラシア大陸(シベリア)は陸地で繋がっていましたし、津軽海峡は現在よりもずっと狭い海峡で、冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていたと考えられます。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、それとおそらく対馬は一つの大きな島となっていました。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15km程度の細い水路が横たわっていただけで、その間の人の行き来はなんとか出来たくらいではないかと推察することができます。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなりました。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになりました。
人々は竪穴式住居を建てて家とし、集団生活のための定住集落(ムラ)を作り生活していたようです。こうしたムラは日当たりの良い平坦な台地に作られる事が多く、これはより良い生活環境を求めた結果であろうと考えられています。当然、狩りや漁、植物採取に都合が良いように山や海に近い台地が選ばれています。また、縄文時代の頃から男女の分業が始まったと見られ、男性は山や海へ出て狩猟や漁業をし、女性はムラで食材の加工や保存をしていたと考えられています。
縄文時代早期(約1万1,000年前~)にはこのように定住集落が登場したほか、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化的要素が付け加わったようです。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡(鹿児島県霧島市)や金峰町(現・鹿児島県南さつま市)の遺跡で、およそ1万1,000年前に季節的な定住が始まり、約1万年前には通年の定住も開始されたと推測されています。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られているそうです。植生面から見ると、縄文時代早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部、および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢でした。
現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県の大平山元I遺跡から出土した文様のない無文土器で、土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で約1万6,500年前に作られたものであるとされています。この大平山元I遺跡は青森県外ヶ浜町にある縄文時代草創期の遺跡で、1998年に民家の建て替え工事に伴い、旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査によって発掘されました。約1万6,500年前の土器ということは、世界で最も古い土器ということができます。また、同時に出土した石鏃(石でできた矢じり)も世界でもっとも古いもので、これは世界で最も古い弓矢の使用を意味しています。
棒状の線刻礫です。使用目的は不明です。 |
礫器です。おそらくナイフのような使われ方をしたものなのではないか…と推定されています。 |
前述のように、上黒岩岩陰遺跡は1961年の発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査が実施されました。その結果、浅いほうから第1層から第9層までの地層に遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた遺跡であったことが判明しました。特に、1962年(昭和37年)に行われた調査では、最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器…と厚手の無文土器が幾つも出土しています。その中でも第9層から出土した細隆起線文土器は約1万4,500年前のもので、日本最古級の土器の一つとされています。
縄文時代草創期初頭の一群の縄文土器、隆起線文土器です。器形は丸底や平底の屈曲のない深鉢形をしており、いずれも小型です。 |
約1万年前の土器です。押型文土器といって、丸い棒に刻み目をつけ、これを回転させて紋様を付けたもので、この時代の土器が全て縄で紋様をつけた縄文土器だというわけではありません。 |
こちらは厚手の無文土器。煮炊きに使った実用品としての土器ですね。 |
さらに、第4層からは約1万年前の縄文時代早期の20体を超える埋葬人骨や、投槍の刺さった腰骨、女神像線刻礫が出土しています。これら上黒岩岩陰遺跡から発掘された遺物は、発掘現場に隣接する上黒岩岩陰遺跡考古館に保存・展示されています。縄文時代早期というのは約1万1,000年前から約7,200年前のこと。実は、西日本でこの時代の埋葬人骨が発見されるのは奇跡的なことでもあるのです。
頭部と腕に損傷を負った女性の骨です(実物)。約8,000年前の人骨です。 |
こちらはたくさん出土した幼児の頭蓋骨。約9,000年前の人骨です。当時は幼児の生存率は低かったので、たくさん出土しています。 |
投槍(?)の刺さった腰骨です。戦さがなく平和だったとされる縄文時代に何故。世界最古の殺傷事例…と思われたのですが、どうも死後に差し込まれたヘラのようです。ヘラを差し込んだのは、なんらかの宗教儀式ではないか…と考えられています。 |
腰骨のヘラの刺さった女性の人骨が発掘された瞬間の写真です。発掘を指揮した教授が、刺さったヘラを指差しています。 |
縄文時代早期(約1万1,000年前~)から前期(約7,200年前~)に移る時期には、時代に一つの区切りをつけるような重大な事態が起こりました。それが鬼界カルデラの大噴火です。鬼界カルデラは九州の薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地)です。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当し、その薩摩硫黄島は現在もランクAの活火山に指定されています。この鬼界カルデラが今から約7,300年前に大噴火を起こしました。この鬼界カルデラの噴火の爆発規模は、20世紀最大規模の大噴火と呼ばれる1991年6月に起きたフィリピンのルソン島のピナツボ火山の噴火の10~15倍(この大噴火では噴火前に1,745mあった標高は、噴火後に1,486mまで低くなっています)。同じく1991年6月3日に起きた雲仙普賢岳の大噴火のおよそ100倍と驚異的なもので、この鬼界カルデラの噴火により地表に噴出されたマグマの量は1兆3000億トンにものぼるとされていて、過去1万年間の日本火山史の中では最大の火山噴火であったと言われています。最近の調査によると、上空3万メートルの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散ほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さの火山灰で一面が埋め尽くされたと言われています(図4参照)。
前述のように九州南部には上野原遺跡や金峰町の遺跡の発掘調査により、およそ1万1,000年前に季節的な定住が始まり、約1万年ほど前には通年の定住も開始されたと推測されるなど、縄文時代早期には人々が定住生活をしていた跡が発見されているのですが、これらの文明はこの鬼界カルデラの大噴火によりほぼ絶滅したと考えられています。当然、九州南部の生態系はことごとく破壊され、とても人々が住めるところではなくなってしまったということは容易に考えられます。当然、多くの犠牲者が出たと考えられますが、なんとか生き残ったとしても、土地は火山灰に厚く覆われてしまい、長い間(おそらく数百年~1千年くらいかもしれません)、農作物がまったく育たない不毛の大地となったことでしょう。多くの人々がこの地を離れて、どこか安全に住める場所に移住したと考えられます。この被害は九州南部だけでなく広く中国地方や四国、近畿と言った西日本一帯に及び、鬼界カルデラの大噴火はそれ以前の縄文時代初期(草創期、早期)の遺跡や遺物が関ヶ原から東の東日本や東北地方に比較的集中していることの理由の一つではないか…と考えられています。
この鬼界カルデラの大噴火はその代表と呼べるものですが、日本列島は火山列島と呼ばれるほど面積のわりに火山が多くあるところで、それらの火山が噴火を繰り返したために広く列島全体を火山灰が覆っています。火山灰を多く含んでいることから、日本列島は基本的に酸性土壌で、骨も腐敗して溶解してしまうことから、古い人骨というものはほとんど残されていないのですが、この上黒岩岩陰遺跡からは約1万年前の縄文時代早期の地層からほぼ完全に近い人骨が発見されました。これは現地が南向きの岩陰で、しかも傾斜地であるためいつも乾燥している上に、この上黒岩岩陰遺跡のある久万高原町美川のあたり一帯は石灰岩が厚く堆積したカルスト台地で、上黒岩岩陰遺跡も高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあることに原因があると考えられます。なんと言っても石灰岩の成分の多くは炭酸カルシウムで、アルカリ性ですから、石灰岩から溶け出した石灰分(アルカリ)の消毒力(中和力)が腐敗を防いだものと考えられています。
上黒岩岩陰遺跡では第4層に縄文時代早期の遺物が発掘されているものの、第3層より上の層、すなわち縄文時代前期より以降の遺物はさほど発掘されておりません。それはおそらく鬼界カルデラの大噴火が影響しているものと推察されます。
上黒岩岩陰遺跡の発掘現場です。現在も発掘調査は続けられているのだそうです。時間が合えばボランティアで協力したいので…と、連絡先を考古館に残しておきました。お茶汲みでもなんでもやります…とも。 |
これは分かりやすいです。今から約14,500年前の縄文時代草創期早期から古墳時代までの約1万年間、ここに人が暮らしていた痕跡が残っているって凄いことです。なんで愛媛のこんな山深いところに…。 |
さらに上黒岩岩陰遺跡と言えば女神像線刻礫です。この女神像線刻礫は「日本最古のヴィーナス像」とも称され、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたもので、信仰の対象だった可能性が指摘されています。長い髪、大きな乳房、腰蓑を、鋭い石器などで小さい緑泥片岩に描いてある線刻像で、この種の像が出土したのは日本ではこの久万高原町の上黒岩岩陰遺跡が初めてのことで、南ヨーロッパに類似のものが出土しているだけという世界的にも極めて貴重なものです。前述のように、同じ地層(第9層)からはおよそ約1万2,000年前の発見当時としては世界最古級の土器、細隆起線文土器も出土していることから、おそらくその時代以前に描かれたものではないか…と考えられています。この線刻礫(石偶)は中央構造線南側にある三波川変成岩帯特有の緑泥片岩(青石)の礫に鋭利な剥片石器を用いて女性像を描いたとされるもので、信仰の対象だった可能性が指摘されています。ズバリ言うと、子供を産む時に握りしめる「安産のお守り」だったという説が有力です。大きさから言っても握りしめるのにちょうどいい大きさです。
女神像線刻礫、いわゆる「縄文のヴィーナス」の説明です。写真の女神像線刻礫は国立歴史民俗博物館に展示されているものですね。これまで12個出土しています。 |
女神像線刻礫、いわゆる「縄文のヴィーナス」です。この考古館には実物が5個展示されています。 |
上黒岩岩陰遺跡からはこれまで12個の「縄文のヴィーナス」が出土していて、そのうちの5個が展示されています。展示されているのは出土した実物です。 |
ちなみに、女神像線刻礫(縄文のヴィーナス)はこれまで12個が出土していて、1個が国立歴史民俗博物館に展示されていて、6個が慶應大学や新潟大学、愛媛大学などに研究目的に行っていて、残り5個がここ上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されています(上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されているのはレプリカではなく、実物です)。
また、動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体にカモシカ、ニホンザル、アナグマ、タヌキ、ニホンオオカミ、オオヤマネコ、ニホンカワウソ、イタチ、ツキノワグマ、ウサギ、ムササビ、ネズミなど多様な種の骨が出土しており、骨髄を利用した解体痕も見られます。また、家畜では埋葬事例とされるイヌ(縄文犬)の骨の出土が特筆されます。
動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体にカモシカ、ニホンザル、アナグマ、タヌキ、ニホンオオカミ、オオヤマネコ、ニホンカワウソ、イタチ、ツキノワグマ、ウサギ、ムササビ、ネズミなど多様な種の骨が出土しています。 |
約1万年前の耳飾りやペンダント等の装身具の数々です。縄文時代も女性は装身具で飾っていたようです。驚くべきは海で採れる貝(タカラガイ等)が使われていること。海から遠く離れた標高800メートルも山の中で、何故、海の貝殻が……。約1万年前でも山の民と海の民との間で交流(交易)があったと言うことですね。 |
おそらく前述の鬼界カルデラの大噴火の影響で上黒岩岩陰遺跡では遺物がほとんど発掘されていないのですが、縄文時代前期以降についても、少し触れておきます。縄文時代前期(約7,200年前~)から中期(約5,500年前~)にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在、縄文時代の遺跡の代名詞のようになっている青森県にある三内丸山遺跡もこの時期にあった集落の遺跡です。この時期には三内丸山遺跡に代表される東北地方北部のほか、日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられています(「石狩低地以東の北海道」、「北海道西南部および東北北部」、「東北南部」、「関東」、「北陸」、「東海・甲信」、「北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」、「九州(豊前・豊後を除く)」、「トカラ列島以南」)。海水面は縄文時代前期の中頃には、前述のように現在より4~5メートルほど高くなり、そのぶん海岸線も内陸に入っていました(縄文海進)。また、気候も現在より遥かに温暖であったと考えられています。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと考えられています。植生面では関ヶ原より西の地域は概ね一様に照葉樹林帯となっていたと類推されています。
縄文時代後期(約4,700年前~)に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きます。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなりました。一方、西日本や東北地方では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していったようです。中部や関東地方では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化しました。その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じます。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」、「西日本」、「九州」、「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしています。驚くことに、この当時の人達(縄文人)は既に犬を飼っていたようで、ソバのほかにもヒョウタンやウリ、ゴボウなどの植物栽培(農業)までを行っていたと考えられています。
縄文時代は、今から約3,000年前の紀元前10世紀頃に北九州に大陸からの渡来人が大挙流入し、コメ(米)を栽培する稲作が日本全土に広まり、弥生文化が始まったことにより終焉を迎えたとされています。最近では大陸から渡来した人々がいったいどれくらいの人数であったのか、また、それまで日本列島に住んでいた縄文人がどのように弥生文化を受け入れていったのかに関する研究も進められていて、弥生文化は、徐々に南日本、西日本から東日本、北日本へと北上していったのではないか…と考えられています。津軽海峡が横たわっていたため、その流れから隔離された感じになってしまった北海道では、今に残るアイヌ文化にも繋がる独自の「続縄文文化」を生み出しました。ちにみに、渡来人流入のきっかけは、大陸で起きた政治的変動にあるではないか…と考えられています。
いかがですか? ほとんど知られておりませんが、愛媛にはこんな時空を超えたとんでもない遺跡があるんです。上黒岩岩陰遺跡から出土した遥か約1万年前の遺物を眺めながら、その当時の人々の暮らしに思いを馳せてみませんか?
とにかく、愛媛はメッチャ面白いところです。