大手御門です。大手御門は正確には「三の丸大手御門」あるいは「本丸大手御門」と言い、江戸城の正門で、諸大名はここから登城し、三の丸に入りました。勅使の参向、将軍の出入りなどもこの大手御門から行うのが正式だったのだそうです。高麗門前の桔梗濠には大橋が架かっていました。ちなみに、この大手御門から先の濠は大手濠と呼ばれています。大手御門は現在も皇居東御苑のメインゲートとなっています。
大手御門は高麗門と渡櫓型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、櫓門は桁行22間(約40メートル)、梁間4間2尺(約7.9メートル)という大きさです。
この大手御門は慶長12年(1607年)に、当時、伊予国今治藩初代藩主であった藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどかけて作られました。ちなみにこの藤堂高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに城造りの名人として知られていました。江戸城を近世の城郭として整備する総指揮を執ったのも藤堂高虎でした。藤堂高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比されて語られることがあります。ちなみに藤堂高虎が初代藩主であった四国今治は、私の本籍地です。なぁ〜んか誇らしい思いになります。藤堂高虎が築城した今治城は日本三大水城の1つに数えられる名城です。お濠に海水を取り入れているのが特徴で、クロダイやフグが泳ぐ姿が見えます。このように、藤堂高虎はその場所の地形を活かした築城を得意としていました。
最初の大手御門は藤堂高虎によって築かれたのですが、その後何度も焼失し、再建されています。現在のような枡形門になったのは元和6年(1620年)の江戸城修復に際に伊達政宗(陸奥国仙台藩初代藩主)や相馬利胤(陸奥国相馬中村藩初代藩主)といった陸奥国の大名達によって再建された時です。その伊達政宗や相馬利胤といった陸奥国の大名達によって築かれた大手御門も明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失し、現存している大手御門は、その後、万治2年(1659年)に再建された時のものと考えられています。
徳川家の居城の正門で、将軍も出入りする門だけあって、ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代大名諸侯が、24時間365日、その守衛にあたるなど、江戸城にあるすべての城門のうちでセキュリティーレベルは最高位にありました。番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)が常に肩衣を着て、平士は羽織袴で控え、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組を備えて警戒にあたっていたそうです。現在も大手御門を通るにはセキュリティーチェックを受けないといかず、厳重に警備されています。ちなみに、大手御門の開閉時間は、享保6年(1721年)の定めによると「卯の刻(午前6時頃)から酉の刻(午後6時頃)まで」と決められていました。
高麗門を潜ると枡形になっていて、右に折れると大きな渡櫓門が構えています。この大手御門に限らず、枡形門はどこも中で右折して進む構造になっています(左折する枡形門はありません)。これは防御上の理由からです。と言うのも、武士は必ず右側に刀を差していました。左利きの武士もいたでしょうが、左利きの武士でも刀を差すのは右側と決まっていました。高麗門を潜って侵入してきた敵はそこで右側に直角に曲がる必要があるのですが、その際に刀を抜こうとすると、実は2アクションになってしまい、戦闘態勢になるのに一瞬遅れが出るのです(試しにそういう状況をイメージしてやっていただけると、お分りいただけると思います)。いっぽう、待ち受ける防御側はすぐに刀を抜いて戦闘態勢に移れるという特徴があります。これが枡形が常に右折構造になっている理由なのだそうです。
城を眺める時は、常に攻める人の立場になって眺めてみると面白い…、これは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんの言葉です。まさにその通りだと思います。なぜ、ここにこういうものがあるのかの謎は、攻める者の立場になって眺めてみるとよく分かります。江戸城は軍事的な要塞としても、当時としては鉄壁の防御態勢を敷いた城でした。
枡形の角のスペースに、かつて渡櫓門の屋根を飾っていた鯱が展示されています。この鯱には「明暦三丁酉」という刻印が施されています。このことから、この鯱は明暦3年(1657年)の明暦の大火で渡櫓門が焼失した際に、地上に降ろして、ここに鎮座させたものとされています。
ちなみに鯱は、姿は魚で頭は虎、尾ヒレは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いトゲを持っているという想像上の動物のことです。また、それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種のことを鯱と言います。通常、大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされました。特に建物が火事の際には水を噴き出して火を消すということから、火除けの“まじない”にしたと言われています。
渡櫓門は、その後、第二次世界大戦の戦災で再度焼失しました。現在の渡櫓門は、昭和43年(1968年)の皇居東御苑の開園に合わせて木造復元により再建されました。残されていた江戸時代の図面に基づき、忠実に復元したのだそうです。復元したものといっても、見事な門です。使われている木材は昔と同じくケヤキ(欅)です。節が1つもないので、相当のケヤキの大木が使われたものと思われます。
11月中旬だと言うのに、大手御門の渡櫓門を抜けたところに桜の花が咲いています。ジュウガツザクラ(十月桜)です。白いジュウガツザクラの向こうには黄色いツワブキと赤いボケの花も咲いていて、綺麗です。当時の江戸城もこのように一年を通して楽しめる様々な植物が植えられていたのだそうです。この先は日本庭園になっています。
「三の丸尚蔵館」です。日本の皇室は、京都御所で儀式の際に用いる屏風や刀剣、歴代天皇の宸筆などの伝来品のほか、近代化以降は東京の皇居宮殿、御所で用いた調度品、近代以降に華族、財界人、海外の賓客などから献納された美術品、院展などの展覧会で買い上げた美術品など、多くの美術品や文化財を所有していました。こうした皇室所有品は「御物(ぎょぶつ)」と称されます。第二次世界大戦直後、正倉院と正倉院宝物、京都御所、桂離宮、修学院離宮、陵墓出土品や古文書・典籍などかつての皇室財産は相当数が国有財産に移されました。さらに、昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が御崩御なされたことに伴い、残された美術品類を国有財産と皇室の私有財産に区分けする必要が生じました。そして、「三種の神器」を始め、歴代天皇の肖像・宸筆、皇室の儀式に用いる屏風や刀剣類など、皇室にゆかりの深い品々は皇室経済法第7条により、引き続き「御物」として皇室の私有財産とみなされたのですが、それ以外の絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180件(約6,000点)は平成元年(1989年)6月、皇室より国に寄贈されました。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境で保存研究し、一般に公開する目的で平成5年(1993年)11月に皇居東御苑内に開館した施設が、この「三の丸尚蔵館」です。
皇宮警察の武道場です。天皇陛下の座られる御椅子も用意されていて、今上天皇陛下も時々稽古の様子をご覧になられるのだそうです。
……(その6)に続きます。