ラベル 鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2022年6月8日水曜日

鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線③

 公開予定日2022/10/08

[晴れ時々ちょっと横道]第97回 鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線③


の日の行程図。レンタサイクルと徒歩で進む佐田岬半島の先端部分だけを拡大しました。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


三崎港のフェリー乗り場に隣接する観光交流拠点施設「佐田岬はなはな」です。昼食を摂った後はここでレンタサイクルを借りて、四国最西端の佐田岬に行ってみることにしました。佐田岬はここ三崎港からさらに西へ15kmほど行った先にあります。国道197号線はここからは海上区間となり、フェリーで大分県の佐賀関方面へ向かっています。

三崎港から佐田岬までは愛媛県道256号佐田岬三崎線を進みます。借りたレンタサイクルは電動アシスト付きですが、なんと言っても、ここから佐田岬半島の突端にある佐田岬灯台までは引き続き細長い佐田岬半島の尾根筋を通って行かねばならず、その標高はゆうに100メートルを越えており、結構な起伏があるので、このような電動アシスト付きかそれなりのスポーツタイプの自転車でないと、自転車で佐田岬まで行くのは無謀というものです。


観光交流拠点施設「佐田岬はなはな」の観光案内所。ここでレンタサイクルを借りました。私が借りたのは写真に写っているようなスポーツタイプの自転車ではなく、前に籠の付いた電動アシスト付きのいわゆるママチャリでしたが…()


三崎港から佐田岬灯台方面に向かう道路沿いに石垣にへばり付くように大きく茂っている木があります。推定樹齢600年の高さ約20m、樹幹6mの巨大なアコウ樹です。アコウはクワ科で亜熱帯性の常緑高木です。別名アコウジュ、アコギ、アコノキ、タコノキなどとも呼ばれています。この三崎が生息の北限といわれていることから、大正10(1921)に国の天然記念物に指定されました。


国の天然記念物に指定されている北限のアコウです。下から見上げると、亜熱帯の植物感がアリアリです。


佐田岬半島の海に面した傾斜地は概ね夏柑等の段々畑になっています。三崎港すぐ裏手の傾斜地も段々畑になっています。


宇和海(三崎湾)の海水は綺麗に澄んでいて、波打ち際から2030メートル先の海底までも見えます。この海抜0メートルのところから、海抜100メートル近い佐田岬半島の尾根筋まで、電動アシスト付きとはいえ、一気にママチャリで登っていきます。


愛媛県道256号佐田岬三崎線は尾根筋に向けて一気に高度を上げていくのですが、電動アシスト付きの自転車でも結構キツいです()。私の脚では3段変速のギアをLowにしてやっと登れると言ったところが、ところどころにあります。

尾根筋に到達すると多少起伏はあるものの、電動アシスト付きのおかげで快適なサイクリングが楽しめます。佐田岬までの道は随所で海が見えます。進行方向右側は瀬戸内海(伊予灘)、左側が宇和海です。フェリーやコンテナ船、バラ積み貨物船、自動車運搬船など、何隻もの大型の船舶が航行しているのが見え、乗り物マニアとしては超楽しいです。太平洋から宇和海を通って瀬戸内海に入り、関西方面を目指す船舶は必ずここを通るので、結構な航行数があります。この視界の左右両側に広がる海の景色は感動的です。言葉になりません。こういう道が10km以上も続きます。こんな場所、日本で、いや世界でもここぐらいのものでしょうね。そのくらい素晴らしく、十分に世界に誇れる風景だと私は思いますね。


宇和海です。左に写っているのが三崎湾で、湾の一番奥が三崎港です。遠くに九州・大分県の陸地がうっすらと見えています。

三崎湾の入り口です。見えているのは井野浦漁港でしょうか。このあたりには三崎港以外にも小さな漁港が幾つもあり、その漁港を中心に集落があります。

こちらは瀬戸内海(伊予灘)側の風景です。遠くにうっすらと見えるのは山口県の屋代島(周防大島)でしょうか。同じ海でも宇和海と瀬戸内海(伊予灘)でまるで雰囲気が異なります。こちらも綺麗に透き通った海です。美しい風景です。


「みさき風の丘パーク」です。前述のように佐田岬半島は風力発電所が多数あります。デカい風車です。真下に来るとブンブンと風を切る音が物凄く、ブーンと発電音も感じることができます。壮観な風景です。それにしても、左右が海で遮るものがないので、細長い半島の尾根筋にあるこのあたりは、結構風が強いです。三崎港あたりでは風はほとんど吹いていなかったのに。こりゃあ風力発電向きのところですね。


「みさき風の丘パーク」です。風力発電用のデッカイ風車が幾つも並んでいます。壮観な風景です。

風車を下から見上げると、その巨大さに圧倒されます。

風車はさらにずっと続きます。


佐田岬漁港です。佐田岬半島で一番西側、すなわち突端の佐田岬に一番近いところにある漁港です。漁港としての規模はかなり大きく、さすがに好漁場である豊予海峡がすぐの漁港です。岬サバ、岬アジを獲る漁船も、多くはこの佐田岬漁港を母港としているのでしょう。


四国最西端の漁港、佐田岬漁港です。

朝の漁を終えた漁師さんが、港でヒジキを干しています。豊予海峡の速い潮の流れの中で成長した良質なヒジキも、佐田岬半島の特産品です。

佐田岬漁港に停泊中の漁船です。この海域は中央構造線が通っている関係で海底の起伏が複雑で、漁網を使った漁に適さないため、伝統的に岬サバも岬アジも一本釣りで獲ります。そのため、漁船も一本釣りに適した形状のものになっています。


その佐田岬漁港の近くに歌手・鳥羽一郎さんの「海峡の春」と「佐田岬」の歌碑があります。どちらもこの佐田岬のご当地ソングです。私は知らなかったので、さっそくYouTubeで聴いてみました。現地で聴くと格別ですね。楽曲のイメージそのものの豊予海峡の風景がそこに広がっていますから。それにしても、漁師の歌を歌わせたら、やっぱ鳥羽一郎さんが日本一ですね。


佐田岬漁港の近くに歌手・鳥羽一郎さんの「海峡の春」と「佐田岬」の歌碑があります。


野坂の石垣です。佐田岬半島先端に位置する佐田岬漁港周辺のこの地区は、古くから漁村として栄えてきたのですが、地理的に波や風の影響が強く、その波風から民家を守るため、集落の外側を囲むように石垣が積み上げられています。石垣には高価な庭石として知られる扁平で深緑色をした緑泥変岩、いわゆる「伊予の青石」が使われていて、その景観は素晴らしく、厳しい自然と調和しながら生活してきた人々の歴史を偲ばせます。前は海、後は沼地という地形で、住むのに適した場所の乏しいこの野坂の人々の生活を守り続けたのは、これらの石垣ってことですね。地元の人はこの石垣のことを「へいかさ」と呼ぶのだそうです。平成18(2006)に水産庁が選定した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に指定されています。


野坂の石垣です。このあたりは地理的に波や風の影響が強く、その波風から民家を守るため、集落の外側を囲むように石垣が積み上げられています。

野坂の石垣に限らず、佐田岬半島ではいたるところにこのような石垣が見られます。その石垣に使われている石は高価な庭石として知られる扁平で深緑色をした緑泥変岩、いわゆる「伊予の青石」ばかりです。この緑泥変岩を積み重ねた石垣は、佐田岬半島の象徴とも言えるものですね。


また、石垣に関しては三崎港から佐田岬とは反対側、八幡浜方向に一山越えたところに「名取の石垣群」があります。名取は宇和海を一望できる斜面の標高100メートルから150メートルのところにある集落で、その集落の家屋の基礎部分や道路に築かれた石垣は、まさに「天空の石垣」と呼ぶにふさわしい見事なものです。事前の調査で、その「名取の石垣群」の写真を見て、是非訪れて実際にこの目で見てみたいと思っていたのですが、今回は時間の関係で、残念ながら訪れるのを断念いたしました。次回はこの「名取の石垣群」を見ることだけを目的に佐田岬半島を訪れてもいい…と思っているくらいです。佐田岬半島を代表する石垣の風景です。

名取の石垣 (さだみさきナビ)

半島の北側(瀬戸内海側)に漁業用とは異なった雰囲気の桟橋が目に入ってきました。「旧正野谷桟橋(きゅう しょうのだにさんばし)」です。計24本の円柱に支えられ、表面をモルタル洗出しとした係船柱付の長さ約50メートル(陸地部分を含むと約73メートル)、幅約5メートルのコンクリートと一部鉄製の桟橋が、緑泥変岩を矢筈積風とした石垣と接続しています。接続部の橋台上には花崗岩が配されています。また、半島の先端部だけあって風による波も強く、桟橋には穴があいており、荒波の時には海水が抜けるように設計されているなど、崩壊を免れるための様々な工夫も凝らされています。この桟橋は昭和2(1927)に大日本帝国陸軍豊予要塞・佐田岬第二砲台をはじめ佐田岬一帯に残る軍用施設の資材の陸揚げのために構築された桟橋で、現在は国の登録有形文化財に指定されています。この桟橋が現存することの建築的、また歴史的価値は計り知れなく、周辺の貴重な自然環境とあわせて、大切に守りたい遺産ですね。また、地元の住民の皆さんからは「軍艦波止(はとば)」の愛称で親しまれています。ここから佐田岬までは約3km。随分と近づいてきました。


「旧正野谷桟橋(きゅう しょうのだにさんばし)」です。この桟橋は昭和2(1927)に大日本帝国陸軍豊予要塞・佐田岬第二砲台をはじめ佐田岬一帯に残る軍用施設の資材の陸揚げのために構築された桟橋で、現在は国の登録有形文化財に指定されています。

このあたりの海岸線は日本最大の断層帯である中央構造線の南側に沿って東西に細長く分布する三波川変成岩帯に属しています。この三波川変成岩帯の代表的な岩石が緑色片岩(伊予の青石)。デッカイ緑泥片岩の塊です。この景色を見ると、『ブラタモリ』のタモリさんも大興奮することでしょう。


途中寄り道が多かったので、三崎港にある観光交流拠点施設「佐田岬はなはな」からレンタサイクルを駆ること約1時間半。佐田岬灯台の駐車場に着きました。この駐車場から佐田岬灯台まで残り約1.8kmは自転車でも行くことができず、徒歩になります。ここから佐田岬までは絶景ビューポイントがいくつかあり、展望台が設けられています。各展望台から見える景色は微妙に異なっていて、それぞれ素晴らしいです。まずは水尻展望台。駐車場から歩いて5分くらいのところにあります。展望台から今回の旅の最終目的地である佐田岬灯台が見えます。その姿をやっと見ることができましたが、予想を遥かに上回る素晴らしい風景です。豊予海峡を挟んでうっすら見える対岸は九州の大分県です。


水尻展望台から今回の旅の最終目的地である佐田岬灯台の姿がやっと見えました。豊予海峡を挟んでうっすら見える対岸は九州の大分県です。素晴らしい風景です。


佐田岬灯台までの遊歩道は起伏が多く、途中に階段になっている区間もあるのですが、総じて歩きやすいです。長い遊歩道を歩いていくと左側眼下には緑泥片岩が粉砕してできた少し緑色をした砂浜と、美しい色の宇和海が見えます。


佐田岬灯台の駐車場から佐田岬灯台まで残り約1.8kmは自転車でも行くことができず、徒歩になります。ここからこの遊歩道を進んでいきます。

佐田岬灯台へ続くこの遊歩道はアップダウンの激しい道ではあるのですが、なかなか風景がいいところばかりなので、総じて歩きやすいです。

長い遊歩道を歩いていくと、左側眼下に緑泥片岩が粉砕してできた少し緑色をした砂浜と美しい色の宇和海が見えます。


次に訪れたのは椿山展望台。水尻展望台と比較して佐田岬灯台に近いので、佐田岬灯台が間近によく見えます。広大な海をバックに立つ白亜の灯台、もう感動です。ここはお勧めです。振り返って八幡浜側を見ると一つの視界で瀬戸内海(伊予灘)と宇和海を同時に眺められます。微妙に海の感じが違っていて、なんとも特異な眺めです。


椿山展望台から見た佐田岬灯台です。水尻展望台と比較して近いので、佐田岬灯台が間近によく見えます。まさに四国最西端。孤高の灯台って感じです。

振り返って八幡浜側を見ると一つの視界で左側に瀬戸内海(伊予灘)と、右側に宇和海を同時に眺められます。微妙に海の感じが違っていて、なんとも特異な眺めです。


この日の旅の目的地、愛媛県の、いや四国の最西端、犬の尻尾のように細長く真っ直ぐに海に突き出した佐田岬半島の、そのまた尖端に立つ『佐田岬灯台』についに到着しました。駐車場から約1.8kmの距離ですが、見える景色がことのほか美しく、それなりに楽しい道なのであっという間に到着した感じです。

繰り返しになりますが、佐田岬半島は瀬戸内海と宇和海を隔てる半島で、長さが40kmあまりもあり、日本で最も細長い半島です。この佐田岬半島より北側が瀬戸内海 (伊予灘)、南側が宇和海 (豊後水道:ぶんごすいどう)、そして宇和海 (豊後水道)の先が太平洋です。ここからは豊後国(大分県)と伊予国(愛媛県)を挟む豊予海峡(ほうよかいきょう)となり、海峡の幅は約14km。対岸は大分県の佐賀関半島の先端にある関崎(大分県大分市)です。佐田岬半島の北岸は日本最大の断層帯である中央構造線の南縁が走っているため、高い断崖絶壁になっています。真っ青な海を背景として、細長く伸びた半島の先端の断崖の上に“凛”として聳え立つ真っ白い灯台の姿は神々しいくらいに美しいです。近くから見上げると、想像していたよりも巨大です。まさに孤高の灯台という感じです。


日本一細長い佐田岬半島の先端の断崖絶壁の上に“凛”として聳え立つ白亜の灯台。その姿には神々しささえ感じます。

まさに岬の先端に立つ灯台です。幅約14㎞の豊予海峡を挟んだ対岸は、大分県の佐賀関半島の先端にある関崎で、ここにも関崎灯台があります。

近くから見上げると、想像していたよりも巨大です。まさに孤高の灯台という感じです。


この佐田岬灯台は豊予海峡を挟んで向かい立つ関崎灯台とともに宇和海(豊後水道)と瀬戸内海(伊予灘)の間を往来する船舶の安全に寄与することを目的に、大正7(1918)に建造されました。現在の灯台は2代目です。建物の塔頂までの高さは18メートル。平均海面から灯火点までの高さは48.7メートルです。平成29(2017)に国の登録有形文化財に指定されました。

灯台には四国最西端を示す碑が立っています。北緯332035.0秒、東経132053.7秒。まさに四国最西端の岬です。豊予海峡を挟んでその先に見えるのは大分県、90度右を向くと瀬戸内海(伊予灘)を挟んで遠くに山口県も見えます。九州があまりに近く見えることもさることながら、ここから見ると瀬戸内海が大海に見えることに驚きます。孤高の灯台ではありますが、寂とした感じが全くありません。素晴らしい風景です。いつまで眺めていても見飽きません。


北緯332035.0秒、東経132053.7秒。四国最西端を示す碑が立っています。


まったくの余談ですが、昭和32(1957)に公開された灯台守とその家族を描いた木下惠介監督の名作映画作品『喜びも悲しみも幾歳月』(高峰秀子さん・佐田啓二さん主演)は、私が両親に連れられて初めて観に行った映画で(単に連れて行かれただけですが…)、「俺らの岬の 灯台守は」で始まる同映画の主題歌は、私が初めて歌った歌だと母から笑い話としてよく聞かされます (本当か?)。そんな私ですので、灯台を見ると妙に興奮してしまいます。

先ほど、佐田岬灯台のところに四国最西端の碑が立っているということを書きましたが、20174月に伊方町によって灯台のさらに西側にある御籠(みかご)島までの遊歩道が整備され、灯台から200メートルほどの遊歩道を西に進んだ先にある広場には「四国最西島 御籠島」と書かれた案内板が設置されています。


灯台のさらに西側にある御籠(みかご)までは遊歩道が整備されています。前にある四角いプールは畜養池と呼ばれた漁業施設の跡です。畜養池は自然の海水が流入する生簀となっており、漁師が獲ってきたイセエビやアワビ、サザエなどをここに畜養しておくことで、市場への出荷時期を調整していました。現在は使用されておりません。

御籠島には「四国最西島 御籠島」と書かれた案内板が設置されています。

御籠島には「永遠(とわ)の灯」と呼ばれる佐田岬灯台を東側から望むモニュメントがあります。


また、佐田岬半島の先端部分、まさに佐田岬灯台周辺には、第一次世界大戦後の大正10(1921)から築かれた豊予要塞の一部として、合計12門の旧大日本帝国陸軍の砲台跡が残されています。この豊予要塞は対岸の大分県にある関崎砲台、丹賀砲台、鶴見崎砲台などとともに豊予海峡の防備のために整備されたもので、岬の先端約3kmは事実上太平洋から宇和海を通って瀬戸内海に侵入して来る敵艦隊に対する砲撃基地となっていました。


豊予要塞の三八式十二糎(センチ)榴弾砲です。


戦後長く放置されたままになっていましたが、2017年になり一部が観光用に整備され、公開されています。灯台直前の階段を右にそれて灯台先の御籠島に渡ると、灯台直下の2門と大島の2門の砲台を見ることができるほか、「永遠(とわ)の灯」と呼ばれる灯台を東側から望むモニュメントが設置してあります。また、現在の佐田岬灯台キャンプ場付近には司令部や発電所が置かれ、駐車場付近に弾磨き鍛造所などが作られていました。現在使用されている灯台への通路も、かつては砲弾などを運搬する要塞の連絡通路だったところで、レールの上を電動車が走っていたそうです。いずれの砲台も実戦に使用する機会は無く終戦を迎えたのですが、戦闘機や飛行艇からの機銃掃射攻撃や小型爆弾による散発的な攻撃は何度か受けているのだそうです。終戦までは近くの水尻集落との境界で兵士による終日厳重な監視が行われていたのだそうです。

考えてみれば、第二次世界大戦当時の大日本帝国海軍聯合艦隊の停泊地とされた柱島泊地は、広島県呉港の近く、広島湾内にある柱島(山口県岩国市)付近にあり、第二次世界大戦開戦時の戦艦長門をはじめ戦艦大和や戦艦武蔵といった聯合艦隊の歴代旗艦が投錨し、作戦の立案から前線部隊の指揮を行っていました。したがって、旗艦を含む聯合艦隊の艦艇が隊列を組んで戦地に赴く時には、必ずこの豊予海峡を通っていたわけで、豊予要塞で護られた豊予海峡は聯合艦隊にとっての玄関のようなところだったと言えます。

昭和20(1945)47日に沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和とその護衛艦艇(軽巡洋艦矢矧、駆逐艦響、潮、磯風、浜風、雪風、初霜、霞、朝霜、冬月、涼月)の艦隊もこの豊予海峡を通ったわけで、その時は、おそらく、豊予要塞を守っていた陸軍の守備隊の将兵達は、大きく手を振ってこの出撃を見送ったものと思われます。その直後、その艦隊は九州南方海域の坊ノ岬沖でアメリカ海軍の空母艦載機部隊による攻撃を受け、戦艦大和以下6隻が沈没し、栄光ある大日本帝国海軍の聯合艦隊は最期を迎えました。今はその豊予海峡をコンテナ船や自動車運搬船、バラ積み貨物船と言った日本経済を支える大型の商船が何隻も繋がるように航行している姿が見えます。そんなことを思いながらここから海を眺めてみると、この豊予海峡、そして佐田岬灯台って、我が国日本にとって極めて重要な場所だということが分かります。


豊予要塞の展望所からの風景です。前に広がる海は瀬戸内海(伊予灘)です。


こうして佐田岬をしばらく散策した後は、再びレンタサイクルを駆って三崎港にある観光交流拠点施設「佐田岬はなはな」まで戻ってきました。帰りは寄り道もせず、ただひたすら絶景を眺めながらのサイクリングだったのですが、とても気持ちよかったです。ただ、レンタサイクルを4時間の予定で借りていたのですが、佐田岬灯台に行くまでに途中いろいろなところに立ち寄ったので、思った以上に時間がかかり、30分の延長。帰りはほぼノンストップでペダルを漕いで、バスの発車時刻の20分前の1730分過ぎに、なんとか三崎港まで戻ることができました。

三崎港口からは今度は1750分発の八幡浜駅行きの伊予鉄南予バスの路線バスで八幡浜駅まで戻りました。伊予鉄南予バスは、平成元年(1989)に伊予鉄道自動車部(現・伊予鉄バス)からの分社化により新設された伊予鉄グループのバス会社です。本社は八幡浜市。営業エリアは、愛媛県南予地方のうち、伊予鉄バスが乗り入れる八幡浜市以北で、三崎港(西宇和郡伊方町)を含みます。また、平成17(2005)には、同じ伊予鉄グループの伊予鉄久万バス(本社:上浮穴郡久万高原町)を吸収合併し、伊予鉄久万バスが運行していたすべての路線を引き継いだため、伊予鉄南予バスという会社名ながらも上浮穴郡の久万地域もカバーしています。

やって来たバスは日野レインボーRJ。伊予鉄バスの1世代前の車体塗装をしています。この日野レインボーRJは実はバスマニアの間では人気の車種で、昭和61(1986)式。運行開始からなんと36年が経過している古い車両ですが、よほど整備がいいのか、伊予鉄南予バスには複数台が在籍しており、今も定期運行されています。数年前までは松山市内でも伊予鉄の路線バスとして走っている姿を時々見かけましたが、現在は全て伊予鉄南予バスに移籍しているようです。スケルトンボディ初期の無骨な車体と、現在のバスとは一味も二味も異なる独特のエンジン音が、昭和の時代を懐かしむにはピッタリの車両です。この日野レインボーRJがやって来るのを目にした時、私は思わずニッコリしちゃいました。

ちなみに、愛媛日野自動車は松山市に本社を置く日野自動車のディーラーであり、愛媛県内を販売エリアとして日野ブランドのトラックとバスの販売と整備を一手に取り扱っている会社なのですが、実は伊予鉄グループの100%子会社なのです。そのため、伊予鉄バスや伊予鉄南予バスの保有する車両は、全て日野自動車製に統一されています。加えて、整備も非常によく行われていて、少し古い年式のバスでも、いまだに現役のまま使われています。ここがバスマニアにとっては嬉しいところです。


三崎港口まで戻り、1750分発の八幡浜駅行きの伊予鉄南予バスの路線バスで八幡浜駅まで戻りました。やって来たバスは昭和61(1986)式の日野レインボーRJ。運行開始からなんと36年が経過している古い車両で、バスマニアの間では人気の車種です。


始発の三崎バス停で乗り込んだのは私ともう1人。その乗客も2つ先のバス停で下車したので、あとは八幡浜市内に入るまで、私1人の貸し切りバス状態でした。伊予鉄南予バスの八幡浜駅前〜新伊方〜三崎線の路線バスも国道197号線の頂上線「佐田岬メロディーライン」を走行します。八幡浜駅前まで約40km。独特のエンジン音を轟かせながら、軽快に走ります。


日野レインボーRJは運行開始からなんと36年が経過している古い車両ですが、よほど整備がいいのか、国道197号線「佐田岬メロディーライン」を軽快に走行します。


ちなみに、伊予鉄南予バスには昭和55(1980)式の車両で運行開始から40年を越える日野自動車製のレインボーRL型バスが日本で唯一現役で1台残っていて、現在も予備車として月に1回程度、八幡浜港~JR伊予長浜駅間の路線で運行されているのだそうです。日野レインボーRL型はモノコックボディーで車体のリベット()が特徴のバスで、方向幕も昔ながらの布製と昭和の時代の雰囲気をそのまま残しており、バスマニアの間では、超人気の車両です。運行される日がわかれば、是非ノスタルジーを味わいに、乗りに行きたいと思っています。こういう古いタイプの路線バス、私は大好きなんです。

伊予鉄南予バスの八幡浜駅行きの路線バスは、途中、八幡浜市内に入ってから短区間の乗客の乗降が何人かあったものの、ほぼノンストップで走り続け、定刻の1905分にJR八幡浜駅前のロータリーにあるバス停に到着しました。八幡浜・三崎特急線の特急バスは八幡浜駅近くの伊予鉄南予バス本社営業所前に停車したのですが、伊予鉄南予バスの路線バスは文字通り八幡浜駅前が終点でした。


八幡浜市内は宇和島自動車との競合区間となります。宇和島バスと伊予鉄バス(伊予鉄南予バス)とで同じ場所にありながら名称が異なっている停留所がいくつかありました。路線バスあるある…の1つです。

伊予鉄南予バスの終点、八幡浜駅です。伊予鉄南予バスの路線バスは八幡浜駅のロータリー内が終点でした。


八幡浜駅からはJR予讃線の特急「宇和海」に乗って松山に帰りました。この日は往復で、路線バス約150km、レンタサイクル約30km、なんやかんや歩いたのでウォーキング約13km(プラスJRの特急約70kmほか)トライアスロンを楽しんできました。景色も超綺麗でしたし、この1日旅は、ホント充実していました。心地良い疲れです。鉄道よりも途中の風景や雰囲気がゆっくりと味わえる、これがバス旅の最大の魅力です。もしかしたら、現在、乗り鉄”“降り鉄の醍醐味を一番味わえる乗り物は路線バスなのかもしれません。間違いない! 

その満足感から、特急「宇和海」の車内では八幡浜名物のじゃこ天を肴に缶ビールを飲んだこともあって、気持ちいい疲れから寝てしまいそうになりましたが、大丈夫。特急「宇和海」は松山駅が終点なので、寝過ごすことはありませんでした()

なかなか行きにくいところではありますが、ここはお勧めです。松山から十分日帰りで行けます。


八幡浜駅からはJR予讃線の特急「宇和海」に乗って、松山に帰りました。実に楽しい充実した日帰り旅行でした。

さぁ〜て、次の「鉄分補給シリーズ」、どこに乗りに行こうか思案中です。鉄道、バス、はたまたフェリー…、愛媛県には私が不足しがちな鉄分を十分に満たしてくれる魅力的な路線がまだまだたくさんありますから。


【おまけ】

私の模型コレクションから、いくつかご紹介させていただきます。

最初は私のバスコレクション(1/150スケール)の伊予鉄バスの車両達です。右から2番目の旧塗装の日野セレガFシリーズの車両は、今でも松山・新居浜特急線との共通運用で八幡浜・三崎特急線にも使用されていますよね。しかし、私の中での八幡浜・三崎特急線や松山・新居浜特急線、松山・今治~大三島線といった伊予鉄バスの特急バスのイメージとしては、やはり一番右の日野ブルーリボンRSですね。1980年代初めに導入されたスケルトンボディのこの日野ブルーリボンRSが愛媛県内を走り回っていた頃が、伊予鉄特急バスの全盛期でした。


私のバスコレクション(1/150スケール)の伊予鉄バスの車両達です。


次にペーパークラフトで作った佐田岬灯台です。細長く伸びた佐田岬半島の先端の岸壁の上に“凛”として聳え立つ真っ白い灯台の姿はあまりに神々しく感動したので、その感動を忘れないようにと製作してみました。この佐田岬灯台のペーパークラフト展開図は公益社団法人 燈光会のHPからダウンロードさせていただきました。A4判で4ページ。縮尺は1/100。部品数は少ないのですが、上手く組み立てるには意外と難しかったです。


自作した佐田岬灯台のペーパークラフトです。

2022年6月6日月曜日

鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線②

公開予定日2022/10/07

 [晴れ時々ちょっと横道]第97回 鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線② 


八幡浜・三崎特急線のバスは伊予平野駅を過ぎたあたりで愛媛県道234号大洲保内線から国道197号線に入り、さらに西を目指します。この国道197号線は四国と九州を結ぶ海上区間がある一般国道の路線で、高知県の県庁前交差点を起点に西へ四国山地を迂回し、愛媛県の佐田岬半島まで陸上区間が続き、関サバ・関アジの漁場で知られる豊予海峡を挟んで大分県の佐賀関半島から終点の大分市に至ります。高知県内の高知市から須崎市にかけてと、愛媛県大洲市内の一部では国道56号線と重複しています。また、四国・九州間の豊後水道(豊予海峡)は海上国道方式で、旧日本道路公団が開設し、現在は民間事業者の国道九四フェリーへ移管したフェリー航路によって、三崎港・佐賀関港間が結ばれています。八幡浜市より西側に細長く伸びる佐田岬半島のルートは、「佐田岬メロディーライン」の愛称で呼ばれ、半島の尾根部を走る大変に眺めのいい快走路になっています。


この日の行程図。佐田岬半島部分だけ拡大しました。佐田岬半島は日本最大の断層帯である中央構造線の南縁に沿って直線的に全長約40kmにわたって海に突き出た、日本一細長い半島です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

片原町交差点を右折し、愛媛県道234号大洲保内線に、さらに伊予平野駅前で愛媛県道259号信里伊予平野停車場線に入り、すぐに国道197号線に合流します。ここから先は国道197号線を進みます。


国道197号線の区間に入ってまもなく、夜昼トンネルを抜けます。この夜昼トンネルは“伊予の小京都”と呼ばれた城下町の大洲市と、“四国の西の港町”として古くから栄えた八幡浜市との間にある夜昼峠(よるひるとうげ)の下を貫通するトンネルです。大洲市と八幡浜市の間は直線距離でわずか10km ほどではあるのですが、わずか標高300メートル程度とそれほどの高さはないものの急峻な山々に阻まれ、陸路によっての通行は困難を極めていました。この夜昼峠の頂上の標高は280メートル。大洲盆地の西の端にあたり、江戸時代はこの夜昼峠が大洲藩領と宇和島藩領との境でした。峠の東側の現大洲市平野町野田地区はかつては宇和島藩領で、宇和島藩の番所が置かれていました。で、夜昼峠というなんとも気になる変わった地名の由来ですが、昼なお暗い峠を意味するとか、夜()登り始めても頂上に付くのが昼()になるからとか、大洲側は朝霧のため暗いが八幡浜側は海岸で早く晴れているからとか、大洲側の霧が峠に寄って行き、峠を越えると消えていくことから“寄る干る”峠が訛ったといった気候の差を示すとか、“ヨヒル”という集落が昔このあたりにあり、その名前が訛ったといった様々な説があるようです。

この夜昼峠と呼ばれる古道は、人はともかく自動車のような乗り物が通行するにはあまりにも狭く急な道でした。そのため明治時代の終わりになって拡幅やルート変更などの改良が行われ国道197号線に昇格したのですが、それでも国道とは名ばかりで曲線が多く、幅員も狭く(最小幅員3メートル)、台風時においては地滑り、崩壊などによる交通遮断をたびたび起こし、幹線道路としての機能を果たせない状況でした。


夜昼トンネルに入ります。


で、その厳しい状況を打破するために掘削されたのがこの夜昼トンネルというわけです。夜昼トンネルは延長2,141メートル、幅8.25メートル、高さは4.5メートル。一般道のトンネルとしては四国で最も長いトンネルです。完成したのは昭和46(1971)5月。このトンネルの開通によって、旧道経由の約21km、車で約50分の区間が、約14km、約20分の距離に短縮されました。その結果、隣接する八幡浜市と大洲市の間の、あるいは八幡浜市と松山市との間の経済交流にも大きな変化が生じることになりました。

この夜昼峠より西側、佐田岬半島に向かって伸びる国道197号線の区間は、日本最大の断層帯である中央構造線の南側に沿って東西に細長く分布する三波川変成岩帯に属しています。この三波川変成岩帯の結晶片岩は主に緑色片岩(青石)と黒色片岩(蛇紋岩)で構成され、特に黒色片岩であるところは風化土も厚く、地滑り・破壊の傾向が強いという特徴を有しています。この夜昼峠一帯はまさに黒色片岩(蛇紋岩)帯にあたり、掘削はかなりの難工事だったようです。国道197号線の夜昼トンネルの北側をJR予讃線の夜昼トンネル(全長2,870メートル)が並行して抜けていますが、こちらのトンネルが完成したのが昭和14(1939)。この予讃線の夜昼トンネルの掘削では工事途中で黒色片岩(蛇紋岩)帯に遭遇したため、鉄道トンネルでは昭和9(1934)に開通した東海道本線の丹那トンネル(熱海駅~函南駅間、総延長7,804メートル)に次ぐ難工事であったとまで言われました。なので、鉄道マニアの間では少し有名なトンネルです。

この予讃線の夜昼トンネルでの難工事に恐れをなしたのか、国道197号線の夜昼トンネルが開通したのは鉄道から遅れること32年後の昭和46(1961)のことでした。それまでは前述のように国道とは名ばかりで曲がりくねった幅員も狭い坂道で峠を越えるかなりの難所でした。今もこの旧道は地元の方の生活道路として使われており、峠の頂上付近には「千賀居隧道(ちがいずいどう)」という明治38(1905)に開通した長さ16.5メートル、幅員4.6メートル、高さ4.5メートルの短いレンガ積みの魅力的なループトンネルが今も残っているそうです。街道歩きを趣味とする私としては、是非一度訪れてみたいという衝動に駆られます。

ちなみに、JR予讃線の夜昼トンネル(全長2,870メートル)が完成したのが昭和14(1939)のことだということは先に書きましたが、この夜昼トンネルの難工事の完成により鉄道(予讃線)が八幡浜駅まで伸び、第二次世界大戦終戦間際の昭和20(1945)620日に八幡浜駅〜卯之町駅間が開業し、それまで宇和島線と呼ばれていた宇和島駅〜卯之町駅間を編入することにより予讃本線(現在のJR予讃線)が全線で開通しました。

夜昼トンネルを抜けると旧宇和島藩領だった八幡浜市に入ります。


夜昼トンネルを抜けると八幡浜市です。


大洲営業所を出て約30分で八幡浜駅前に停車します。JR八幡浜駅のロータリーには宇和島自動車と伊予鉄南予バスの八幡浜駅始発便のみの停車で、高速バスや八幡浜・三崎特急線のバスはロータリーから少し離れた伊予鉄南予バスの本社営業所前にある路上バス停で乗降扱いを行います。


JR八幡浜駅です。八幡浜駅では八幡浜・三崎特急線のバスは駅前のロータリーに入らず、そのまま国道197号線をそのまま進みます。

八幡浜・三崎特急線の運航を伊予鉄バスから委託されている伊予鉄南予バスの八幡浜本社です。八幡浜駅前バス停は、この伊予鉄南予バス本社営業所に併設されています。

八幡浜の市街地は伊予鉄バス(伊予鉄南予バス)と宇和島自動車の競合区間なので、宇和島自動車の路線バスと頻繁に行き会います。この宇和島自動車の車体塗装、私は好きです。


そして次に八幡浜港に停車します。松山市駅を出発してからここまで約2時間。途中、車窓は山の風景ばかりでしたが、やっと海が見えました。この八幡浜港からは豊予海峡を挟んだ対岸の大分県の臼杵港行きの宇和島運輸、九四オレンジフェリー、また別府港行きの宇和島運輸のフェリーが運航されていて、連絡します。私はこれまで何度か宇和島運輸の八幡浜〜別府航路のフェリーを利用したことがあります。


四国の西の玄関口・八幡浜港です。八幡浜港のフェリーターミナルは今年4月1日に新規開業しました。2隻のフェリーが停泊して、出航の準備をしているようです。

別府港行きの宇和島運輸フェリーですね。

こちらは臼杵港行きの九四オレンジフェリーです。


愛媛県の西端にある佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜市は、北に瀬戸内海(伊予灘)、西に宇和海を望み、丘陵地が多く、海はリアス式海岸が続き、温暖で大変に風光明媚なところです。古くから九州や関西地方との海上交易が盛んで、かつては「伊予の大阪」とも呼ばれ、商業都市として隆盛を誇りました。現在も年間40万人近くが行き来する八幡浜港は西日本有数の旅客港で、四国の西の玄関口となっており、西四国の交流・交易活動の拠点として発展してきました。

また、温暖な気候と地形を生かした柑橘栽培が盛んで、温州ミカンは質・量ともに全国有数の産地であり、「日の丸」「真穴」「川上」「蜜る」など全国に知られたブランドミカンを生産しています。太陽の直射光、海からの反射光、段々畑の石垣の輻射熱の「三つの太陽」を浴びて育った八幡浜産のミカンの美味しさは格別です。漁業も盛んで、天然の良港である八幡浜港は昔から中型トロール船団の基地となっており、くわえて近年は養殖漁業も盛んで、西日本有数の水揚高を誇る八幡浜港近くの水産市場には、四季折々、たくさんの種類の魚が水揚げされます。


西日本有数の水揚高を誇る八幡浜港近くの水産市場です。セリの時間は終わっているのか、落ち着いた雰囲気になっています。背後の山は一面の柑橘畑になっています。

バイパスである名坂道路が分岐します。その名坂道路を通らず、国道197号線をそのまま進みます。


名坂トンネルを潜ります。名坂トンネルは幅員が狭く、大型車の離合ができないため、大型車は反対側の口でこちらが通過するのを待っています。また、自転車と歩行者専用のトンネルが別に整備されています。


この先で、伊予市から伊予灘の海岸線に沿って延びてきた国道378号線と合流します。このあたりは、現在は合併して八幡浜市になっていますが、かつての西宇和郡保内町です。


八幡浜からは四国の最も西に位置する半島、佐田岬半島に入ります。この佐田岬半島は三崎半島と呼ばれることもあります。この佐田岬半島は日本最大の断層帯である中央構造線の南縁に沿って直線的に全長約40kmにわたって海に突き出た日本一細長い半島で、この半島の北側と南側で瀬戸内海(伊予灘)と宇和海とを隔てています。先端には四国最西端の佐田岬があります。半島の先端部分の佐田岬周辺が瀬戸内海国立公園に指定されているほか、半島腹部は佐田岬半島宇和海県立自然公園に指定されています。付近の海岸はリアス式海岸であり、良港に恵まれ漁業が盛んです。しかし、港の背後には中央構造線の断層活動が形成した断層崖による標高100メートルを超える急峻な山地が迫っており、平地はほとんどなく、道路の整備は遅れていました。突端部の旧西宇和郡三崎町までバスが通じたのは1960年代であり、それまで交通は海を港伝いに結ぶ船舶に頼らざるを得ない、まさに「陸の孤島」でした。このような事情から、特に佐田岬半島の北側は季節風の影響を受けがちであるため、航路も発達せず、集落は半島の南側に多いという特徴があります。


国道197号線(佐田岬メロディーライン)は佐田岬半島の尾根筋を通っているので、そこまで登坂車線のあるちょっと傾斜のキツい登り坂が続きます。


佐田岬半島を縦貫する国道197号線は、かつては山腹に沿って眼下に宇和海を臨む形で走っていたため、曲がりくねり、幅員が狭く、自動車同士のすれ違いもままならないような悪路でした。くわえて、前述のように佐田岬半島全体が中央構造線の南側に沿って東西に細長く分布する三波川変成岩帯に属すことから土質の脆い地滑り地帯がいたるところに存在し、台風等の降雨時には、たびたび地滑りで通行止めになっていました。このことから、“197”をもじって、別名「イクナ(行くな)酷道(こくどう)」とすら呼ばれていました。しかし、昭和62(1987)に半島の尾根を縦走する頂上線(愛称:佐田岬メロディーライン)が完成し、今では八幡浜市から三崎港まで1時間もかからずに行くことができます。

ちなみに、佐田岬メロディーラインの“メロディー”の由来は、風と潮騒、野鳥のさえずり等の自然の音が聞こえる佐田岬半島のイメージから想起されたものです。平成23(2011)には、一部の区間にアスファルト舗装の表面に溝を掘ってタイヤ接地面のロードノイズで音を奏でる「メロディー道路工法」による路面舗装が四国で初めて施され、文字通りの「メロディーライン」になりました。大峠トンネルを抜けたあたりから1曲目のメロディーが奏でられるのですが、残念ながらバスではエンジン音にかき消されて、よく聞き取れず、曲名も分かりませんでした。また、帰りも路線中間地点付近にあたる道の駅瀬戸町農業公園前の国道を八幡浜方面へ走ると奏でられるのですが、こちらは「みかんの花咲く丘」のメロディーがしっかり聴き取れました。(バスやトラックだとホイールベースが長いので、メロディーが重なって、よく聴き取れないんだそうです。ご注意ください。)

ちなみに、佐田岬半島は西宇和郡に属し、かつては半島の付け根部()から伊方町、瀬戸町、三崎町という3つの自治体に分かれていたのですが、平成17(2005)に瀬戸町と三崎町が伊方町と合併し、現在は半島全体が西宇和郡伊方町1町になっています。

伊方町といえば四国電力伊方原子力発電所ですね。一時は四国の電力消費量のおよそ4割を供給していた伊方原子力発電所ですが、全発電機が定期検査に入った平成24(2012)1月以降、送電を停止したままになっています。伊方原子力発電所は、道の駅「伊方・きらら館」のある伊方ビジターズハウスバス停の北側にあり、国道からはまったく見えません。

また、佐田岬半島は半島の北側が瀬戸内海に、南側が宇和海に面しており、遮る山岳がないため風が強く、風力発電に適しており、半島の稜線には6箇所、58基の風車が林立しています。


一面の柑橘畑になった山の頂上に、風力発電の大型の風車が幾つも並んでいるのが見えます。


国道197号線の道路脇に立っている風力発電用の風車。随分と小型の風車です。


国道197号線佐田岬メロディーラインは基本的に佐田岬半島の尾根筋の南側を走っているので、バスの車窓には宇和海の絶景が広がります(時折、山の切れ目から瀬戸内海(伊予灘)の景色も見えます)。進行方向左手が宇和海、右手が瀬戸内海(伊予灘)です。日本一細長い佐田岬半島の尾根を縦走する頂上線なので、標高も高く、まさに絶景です。まったく異なる趣きを持った海を左右に見ながらのドライブが楽しめる場所なんて、私は他に知りません。くわえて、路線バス利用の場合、自分で運転する必要もなく、おまけに視点が乗用車に比べて高いので、目一杯この絶景が楽しめます。ずっとあっち見、こっち見で、キョロキョロしていました。


進行方向左側の車窓には宇和海の美しい風景が広がります。

眼下に見える海岸線に幾つかの集落があります。佐田岬半島の海岸線はリアス式海岸で、良港に恵まれ、漁業が盛んなところです。

こういう風景を見ると、どうしても山本コウタローとウィークエンドが歌った『岬めぐり』のメロディー♪が頭の中でリフレインを繰り返してしまうのは、オッサンの証拠ですね()


八幡浜から三崎港口までの間は“◯◯口”という名称のバス停をいくつも通過します。“◯◯口”だらけと言った感じです。これは八幡浜・三崎特急線のバスが通る佐田岬メロディライン(国道197号線)が佐田岬半島の尾根を走るためです。半島の集落は主に海岸沿いにあるため、バス停が国道から分かれて各集落に向かう細い道路との交差点の近くに設置されているためではないかと思われます。


八幡浜から三崎港口までの間は“◯◯口”という名称のバス停をいくつか通過します。


終点の三崎港口に到着しました。松山市駅を出てからちょうど3時間。3時間と書くとけっこうな乗車時間のように思えますが、車窓を流れる美しい風景の数々に見惚れているうちに、あっという間に着いた感じがします。圧巻なのは運賃表示。ここまでビッシリ表示されているのは初めて見ました。


圧巻の運賃表示。ここまでビッシリ表示されているバスの運賃表示は初めて見ました。

バスは、三崎港のフェリー乗り場に隣接する観光交流拠点施設「佐田岬はなはな」の前で終点となります。以前は1つ手前の三崎が終点でしたが、「佐田岬はなはな」の開業に合わせて延伸されたようです。


三崎港です。前述のように、この三崎港からは豊後水道(豊予海峡)を挟んだ対岸の大分県の佐賀関港行きの国道九四フェリーが出ています。国道九四フェリーの名称の通り、このフェリーは国道197号線の海上国道区間になっています。私は20年ほど前に佐賀関港から三崎港まで国道九四フェリーを利用したことがあります。国道九四フェリーの三崎港〜佐賀関航路は四国九州間の最短航路(31km)で、所要時間はわずか70分。毎時1本程度の116往復が運航されていて、便利です。平成27年度(2015)のデータによると、年間の利用客数は約51万人。まさに四国の西の玄関です。


三崎港です。この三崎港からは豊後水道(豊予海峡)を挟んだ対岸の大分県の佐賀関港行きの国道九四フェリーが出ています。


目の前に広がる海は豊後水道の中でも特に豊予海峡と呼ばれる海域です。この日は天気が良かったので、遠くに九州の陸地が見えます。この豊予海峡は全国的に有名な水産品の高級ブランド“関サバ”・“関アジ”の漁場として知られています。ただ、この“関サバ”・“関アジ”は、豊予海峡で漁獲されたサバ()とアジ()のうち大分県大分市の佐賀関港で水揚げされたサバとアジに対するブランド名称で、愛媛県側の三崎漁港に水揚げされたものは、(はな)サバ(はな)アジと呼ばれています。ブランド力としては関サバ・関アジには遠く及ばないのですが、関サバや関アジと同じ場所で育ったサバやアジが手頃な価格と新鮮さで味わえるために、むしろ人気だったりします。


国道九四フェリーの三崎港〜佐賀関航路は四国九州間の最短航路(31km)で、所要時間はわずか70分。この日はよく晴れていたので、対岸の九州・大分県がよく見えました。


豊予海峡は瀬戸内海(伊予灘)と太平洋(宇和海)の境界に位置しており、水温の変化が少なく、餌となるプランクトンが豊富で、潮流が速いため、この海域で生育するサバは肥育がよく身が締まっているという特徴があります。体色はサバもアジも少し金色がかり、腹部に線が入っています。脂肪量の季節変化が小さいのもこの豊予海峡で獲れる魚の特徴です。この海域は波が高く、日本最大の断層帯である中央構造線が通っている関係で海底の起伏が複雑で、漁網を使った漁に適さないため伝統的に「一本釣り」が行われており、関サバ・関アジだけでなく、岬サバも岬アジも一本釣りで獲られたものです。この一本釣りの場合、魚にストレスがかからず、魚体に傷が付きにくく、鮮度が落ちにくいという特徴を有しています。


三崎港です。このあたりは大きな入り江(三崎湾)になっていて、天然の良港です。

三崎湾の対岸です。

こちらは佐田岬灯台に続く佐田岬半島側。半島の尾根筋には風力発電用の大型の風車が幾つも並んでいます。午後からはここをレンタサイクルと徒歩で進んでいきます。

1230分発の国道九四フェリーが、佐賀関港に向けて出港していきました。


三崎港の前に伊方町の観光交流拠点施設『佐田岬はなはな』があります。令和25月に、新たにレストランやカフェを導入し、リニューアルオープンした新しい施設です。『佐田岬はなはな』のはなとは花(Flower)のことではなく、岬(Cape)のこと。このあたりでは岬のことをはなと呼びます。建物内外には佐田岬の文化である「石垣」を随所に取り入れ、佐田岬半島の独特な地形や景観美に触れることのできる施設になっています。

レストランでは佐田岬自慢の魚介類を使用した海鮮丼や定食、しらす丼など充実したメニューが取り揃えられているということなので、さっそくここの三崎港を一望できる絶景のレストランで、昼食を摂りました。いただいたのは『佐田岬はなはな』お薦め№1の「釜揚げ生しらす二色丼」。私は食レポの才能がないので、上手く表現ができませんが、とにかくメチャメチャ美味しかったです。やっぱ、海鮮は現地で水揚げされたばかりのものをいただくに限ります。本当は豊予海峡で獲れた岬サバや岬アジも現地で食べてみたかったのですが、岬サバや岬アジはレストランのメニューに載っていなかったので、もしかすると、大規模な市場を有する八幡浜漁港のほうに水揚げされているのかもしれません。


伊方町の観光交流拠点施設『佐田岬はなはな』です。

『佐田岬はなはな』のレストランお薦め№1の「釜揚げ生しらす二色丼」です。とにかくメチャメチャ美味しかったです。


鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線③は明後日(68)に掲載します。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...