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2018年10月5日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その11)

一ツ橋を渡ります。かつてここに一ツ橋御門がありました。一ツ橋御門も寛永6(1629)に東北地方の諸侯によって築かれました。一ツ橋は日本橋川の架かる橋で、錦橋の上流約200メートルのところにあります。一ツ橋1丁目と大手町1丁目の間から、一ツ橋2丁目と神田錦町3丁目の間に通じる橋です。徳川家康の入国頃は大きな丸木の橋が一本架けられていたことが一ツ橋の名の起こりと伝えられています。近くに松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋とも呼ばれていました。元文5(1740)、第8代将軍徳川吉宗の子である宗尹が一ツ橋門内に御三卿の一つである一橋家を興しました。


明治6(1873)に櫓門を撤去、現在の橋は、大正14(1925)115日の架けられたもので、古い一ツ橋の位置よりやや東寄りに架けられてます。長さ19.6メートル、幅28.0メートルの石及びコンクリ-ト橋です。


一ツ橋河岸交差点です。ここにも江戸城に物資を運び込むための荷降ろし場(河岸)がありました。


このあたりは内濠以外だと一番長く昔のままの石垣が残っているところです。一ツ橋から雉子橋までずっと往時の石垣がそのまま残っています。


雉子橋を渡ります。雉子橋は日本橋川に架かる橋で、一ツ橋の上流約300メートルのところにあります。九段南1丁目と一ツ橋1丁目の間から一ツ橋2丁目へ南北に通じています。かつてここに江戸城内郭門の1つ雉子橋御門がありました。雉子橋御門も寛永6(1629)に東北地方の諸侯によって築かれました。その頃の雉子橋は、一ツ橋2丁目東南角の所から九段南1丁目へ東西方向に架けられていました。


徳川家康が朝鮮の使節を饗応するために、好物の雉子(キジ)を囲った鳥小屋があった場所がこの辺りであったので、この名が付けられたといわれています。元和年間(1615年~1623)に門外の人家を移して雉子町としましたが、そこは現在の神田小川町1丁目南部一帯にあたります。



明治6(1873)に櫓門を撤去、明治36(1903)に鉄橋に改架しましたが、関東大震災で被災しました。現在の橋は大正14(1925)1025日に、今の位置に架設されました。長さ32.89メートル、幅27.6メートルの鋼橋です。

雉子橋を渡った先のビルの横に大きな石垣があります。一瞬、雉子橋御門の跡かな…と思うのですが、これは雉子橋御門で使われていた石垣の石を近年積みなおしたものだということです。どうりで石の積み方が下手で、他の石垣と比べあまり美しくはありません。


実際に雉子橋御門で使われていた石垣の石なので、石にはどの藩が掘り出して運んできたものかを示す「刻印」が刻まれていたり、石を割りやすくするように石の目に沿って石切ノミで掘られた「矢穴」が残っていたりします。


この雉子橋の周辺で日本橋川(外濠)は江戸城(皇居)の内濠(清水濠)に最も近いところで約30メートルの距離まで接近します。


竹橋です。竹橋はその内濠に架かり、一ツ橋1丁目から代官町通りに向かう橋です。橋の名称の由来は、初めは竹で編んだ橋が架かっていたからと伝えられています。また、古い地図には「御内方通行橋」と記載されています。元和6(1620)に造られた江戸城の竹橋御門のあったところですが、御門は撤去され石垣の一部と橋だけが残っています。現在の橋は、平成5(1993)3月に補修されました。長さ51.05メートル、幅22.8メートルのコンクリ-ト橋です。


竹橋の右手は内濠の1つ清水濠です。濠の水面は一面がホテイアオイと思しき水草で覆われています。今年の夏の猛暑が原因と思われますが、あまりに異常な繁殖ぶりに環境省もお手上げの状態なのだそうです。


竹橋の左手は同じく内濠の1つ平川濠です。ここも水面は一面ホテイアオイと思しき水草で覆われています。遠くに見える橋は平川橋、そしてその平川橋を渡ったところにあるのが平川御門です。平川御門は江戸城の裏門。大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようです。太田道灌が最初に江戸城を築いた頃からここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門や橋の名前の由来になったのだそうです。


この日の江戸城外濠内濠ウォークはこの竹橋がゴールでした。この日はJR新橋駅前を出発して、幸橋御門、山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門、神田橋御門、一ツ橋御門、雉子橋御門を経て竹橋まで歩いてきました。この日1日だけで8つの江戸城の外郭門(見附)を通りました。江戸城がいかに堅牢な要塞であったかがよく分かりました、

江戸城外濠内濠ウォークは“の”の字を描く江戸城の外濠をこれまで反時計回りに歩いてきたのですが、徐々に江戸城までの距離を狭めて内濠に近づいてきました。次回はこの竹橋をスタートして半蔵門まで歩きます。いよいよ内濠歩きです。


――――――――〔完結〕――――――――

2018年10月4日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その10)

神田橋を渡ります。神田橋は日本橋川に架かり、鎌倉橋の上流約240メートルの位置にあり、大手町1丁目から神田錦町1丁目と内神田1丁目の間に通じる橋です。かつてここに神田橋御門がありました。この神田橋御門も寛永6(1629)に東北地方の諸侯によって築かれました。神田橋御門は幅約30メートル、奥行き約25メートルという非常に大きい枡形門でした。


橋の名称は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。江戸城の増築により外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。慶長時代の地図には芝崎口と記載されていますが、寛永時代の地図では大炊殿橋となっています。それは橋の西南に土井大炊頭の屋敷があったためです。その後神田橋と改められました。


神田橋御門から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は、歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから「御成道」と呼ばれ、警備が厳重でした。現在でも、天皇皇后両陛下が車で北関東方面に向かう際にここを通ることから、「御成道」の名は残っています。


明治6(1873)、櫓門が撤去され、同17(1884)、木橋を改架、のち道路拡張と電車開通にともない改修しましたが、大正12(1923)の関東大震災で焼け落ちてしまいました。大正14(1925)1110日に長さ17.3メートル、幅34.0メートルの石及びコンクリ-ト橋に架けられました。現在の橋は昭和55(1980)に架け替えられたものですが、石灯籠を思わせる親柱と、橋のたもとには復興に尽力した太田圓三の碑が立っています。


私にとって非常に馴染みの深い建物が見えてきました。気象庁です。この気象庁の建っている敷地は、かつては徳川御三卿の1つ、一橋徳川家の屋敷があったところです。一橋徳川家は第8代将軍徳川吉宗の四男、徳川宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2(田安徳川家、清水徳川家)とともに後嗣を出す資格を有していました。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。一橋徳川家からは第11代将軍徳川家斉、第15代将軍徳川慶喜を輩出しました。

ちなみに気象庁は2年後の2020年に虎ノ門への移転を予定しています。



気象庁の北側は日本橋川に沿って親水公園になっています。


気象庁が桜(ソメイヨシノ)の開花を発表する際に利用するのが、各地の気象台が観測する「標本木」です。東京なら靖国神社、岐阜県は清水川堤、大阪は大阪城公園内に標本木があり、シーズンになると気象庁の職員がこれを目視で観測し、5~6輪咲いていれば“開花”の宣言が出されます。東京の標本木が靖国神社の桜(ソメイヨシノ)になる前、標本木として使用していたのがこの桜の木です。この木から靖国神社の木に標本木が移った時期や経緯については、よく分かりません。


気象庁では「桜の開花」以外にも季節観測を行っています。ほとんどニュースで耳にすることはありませんが、「梅」「アジサイ」「イチョウ」「カエデ」等の開花や紅葉も発表していて、もちろん標本木も定められています。意外なところでは「ツバメ」「モンシロチョウ」の初見日、「ウグイス」「アブラゼミ」の初鳴日の観測も行っています。ここには「イロハモミジ」の紅葉の標本木があります。


錦橋を渡ります。この錦橋は日本橋川に架かる橋で、神田橋の上流約400メートルのところにあります。大手町1丁目から神田錦町3丁目に通じる道筋にあります。この錦橋は江戸時代にはなくて、関東大震災の復興橋の一つで、昭和2(1927)55日に架設されました。長さ33.75メートル、幅22.97メートルのコンクリ-ト橋です。橋の名称は錦町や旧地名の錦町河岸から付けられました。「錦」は昔近くに一色という武家屋敷が2軒あったので、二色錦と転化したのだといわれています。


錦町河岸交差点です。神田界隈の日本橋川沿いには江戸城に物資を運び込むための荷降ろし場(河岸)が何箇所もあったのですが、ここにもその1つ錦町河岸がありました。


石垣は積み方によって野面積(のづらづみ)、打込接(うちこみはぎ)、切込接(きりこみはぎ)の3つに大別されます。接(はぎ)とは石と石との接合のことで、積み石の接合部分を削って、接合部の面積を増やすことです。この錦町河岸の付近には野面積の石垣が今も残っています。この野面積は自然石を削るなどの加工を行わず、そのまま積む方法です。したがって、表面もゴツゴツしていて、実にワイルドです。さらに野面積の中でも、様々な大きさの石を組み合わせた場合は野面乱積(らんづみ)、ほぼ大きさの揃った石を横に積み上げた場合は野面布積(ぬのづみ)といって、細分化されます。このあたりの石垣は野面布積ですね。


日本橋川や隅田川の橋を巡る「日本橋周遊クルーズ」という遊覧船があるそうです。日本橋川に架かるそれぞれの橋にまつわるストーリーなど、ガイドが細やかに解説してくれるそうなので、一度乗ってみたいと思っています。


……(その11)に続きます。

2018年10月3日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その9)

外堀通りと江戸通りが交差する新常盤橋交差点です。


龍閑橋架道橋で何本も通っているJRの線路の下を潜ります。このあたりはJR山手線、京浜東北線、東北本線(上野東京ライン)、中央線、東北(上越、北陸)新幹線と通っているので、架道橋もそのぶん長いです。


昔、このあたりを龍閑川という人口の川(運河)が流れていて、龍閑橋という名の橋が架かっていました。


ここをその龍閑川が流れていました。龍閑川は自然河川ではなく、人口の河川、堀です。江戸時代に掘られたもので、当時は神田堀という名称でした。神田堀が開鑿されたのは明暦3(1657)の大火(振袖火事)の直後、または元禄4(1691)と言われています。

龍閑川はここからまっすぐ直線で馬喰町付近まで流れ、そこで直角に折れて浜町で隅田川に流れ込んでいました。龍閑川の元となった神田堀は日本橋川にあった、鎌倉河岸の東端から馬喰町まで東北方向に掘られた下水道でした。その後、江戸時代初期からあった浜町の入堀を拡張したものと合流します。神田堀は幅三間(5.4メートル)ほどと狭く、防火、下水としての役割に利用されました。一方浜町の入堀(浜町堀)は浜町河岸という物揚げ場が広がり、水路として利用されたようです。

神田堀はその後幕末にその役割を終え、埋め立てられます。しかしその後、明治16(1883)再び堀が開かれます。神田駅近くに神田下水という明治17(1884)に作られたレンガ造りの地下下水がありますが、その排水先として再度神田堀が注目されたようです。神田堀はその後龍閑川と名前を変え、浜町堀も浜町川という名前になります。浜町川は神田川方面にも堀進められて、明治以降に岩井河岸という物揚げ場が作られています。

その後、戦後の残土処理のため、龍閑川、浜町川はともに埋め立てられてしまいました。町の変化に振り回され続けた竜閑川ですが、現在もその流路は神田、日本橋の境(千代田区の境)となっていますし、龍閑橋、今川橋などの名称も交差点名として残っています。


竜閑橋交差点です。かつてここに竜閑橋という橋が架かっていました。長さ約8メートルほどの橋で、神田堀の両岸の町民がお金を出し合って作った橋でした。


「神田鎌倉町・鎌倉河岸」という案内看板が立っています。それによると、

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天正18(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東240万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長8(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。
家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦3(1657)の「新添江戸之図」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。(以下略)
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なのだそうです。江戸に最初に出来た繁華街のようです。鎌倉河岸と言えば、佐伯泰英さんの時代小説「鎌倉河岸捕物控」があり、NHK土曜時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」と題して放映されました。



鎌倉橋を渡ります。



このあたりには江戸時代の石垣が数多く残っています。ここには荷降ろし場と荷受けのための石段が残っています。この神田界隈の日本橋川沿いには江戸城に物資を運び込むための同様の荷降ろし場(河岸)が何箇所もありました。


この鎌倉橋から神田橋付近の親水公園には神田橋御門で使われていた石垣の石がモニュメントとして展示されています。


このベンチの下に金網に囲まれて入れられている石は“グリ石”、“割栗石(わりぐりいし)”と呼ばれる石です。割栗石は岩石を割って直径12㎝~20cmくらいの小さな塊りにした石材のことで、基礎工事の際に地盤を固めるために、基礎の下に並べ、十分に突き固めるのに使用します。また、石垣の隙間を埋めるためにも用いられました。



……(その10)に続きます。




愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...