これは極めて分かりやすい枡形です。旧街道では道がクランク(鉤状)になった枡形によく出くわします。この枡形のあたりが甲府柳町宿の江戸方(東の出入口)でした。
甲府は戦国時代の永正16年(1519年)に当時の甲斐守護職である武田信虎が躑躅ヶ崎館(武田氏館)を設けその城下町として整備された町です。天正10年(1582年)に武田家が滅ぶと、その後は豊臣家の家臣浅井長政が入封し、近くに甲府城(鶴舞城)を築城し、近世的な城郭、城下町が形成されました。江戸時代に入ると、甲府城は江戸城の支城として位置付けられ、甲府藩が立藩、徳川家の一族が納める親藩として重要視されました。甲府藩が廃藩になった後は幕府直属(天領)の代官所となり、城下町は今度は甲州街道の宿場町(甲府柳町宿)として賑わいました。前述のように、甲府の市街地は武田信虎(信玄の父)が現在のJR甲府駅の北部に躑躅ヶ崎館を構えたことから始まり、武田滅亡後、徳川家康が現在の「舞鶴城公園」の地に舞鶴城を築城したことから繁栄は南部に移りました。江戸時代にはこの舞鶴城周辺を下府中といい、武田時代の市街地である駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んでいました。
当初はこの甲府柳町が甲州街道の終駅だったのですが、慶長7年(1602年)に五街道が決定されると、この先、下諏訪まで甲州街道は延伸され、甲府の宿駅はいったんは八日街に変更されるのですが、のちに再び柳町に移転されました。柳町の一丁目に問屋場が設けられ、代々松本弥右衛門家に駅務をとらせました。宿場の正式名称は「甲府柳町宿」。宿場の中程にある柳町に問屋場などの機能が集約されていたことに由来します。甲州街道は慶長9年(1604年)に中山道の下諏訪宿まで延伸され、完成しました。江戸時代後期の記録によると甲府柳町宿の宿内人口は905人、宿内総家数は209軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒が設けられていました。
宿場町らしく、歴史を感じさせる古い民家が建っています。これは石川家住宅です。石川家は江戸時代から金物屋や繭糸問屋を営み、屋号を河内屋と称した商家でした。敷地は間口が広く、向かって左側は庭園とし、表門を設けるなど、随所に当時の富裕層の住居の造りが見られます。街道沿いに見える蔵屋敷は明治5年(1872年)に建てられたもので、木造平屋建て、塗屋造、寄棟、桟瓦葺、外壁は黒漆喰で仕上げられています。敷地の間口の割合に対し主屋の間口が狭く庭を広く取っていることからも相当に裕福な商家だったと推測されます。また、敷地内にはこの主屋のほか弘化4年(1847年)に建てられた文庫蔵も現存しています。この他の建物は明治時代後期から大正時代初期に建てられたと推定されるものですが、江戸時代の形態を偲ばせる貴重な存在になっています。このため、石川家住宅は甲府市内に残る数少ない商家建築の遺構として、昭和54年(1979年)に甲府市指定文化財に、平成28年(2016年)に山梨県の指定文化財に指定されています。
その石川家住宅の脇に可愛らしい道祖神が祀られています。
甲府柳町宿の中を進みます。
甲府柳町宿の宿内は甲府が城下町だったこともあり、防御のために枡形が多くあります。
功徳山天尊躰寺です。この天尊躰寺は、大永元年(1521年)に武田信玄の父・武田信虎が忠連社弁誉上人に深く帰依し、武田家の古跡に一宇の精舎を建立し、真向三尊を本尊とし、弁誉上人を開山として創建された寺です。天文2年(1533年)、第105代 後奈良天皇より深草院功徳山天尊躰寺の勅額を賜ったことから現在でも天尊躰寺と号しています。大永元年は信虎夫人(大井夫人)が積翠寺において勝千代、のちの武田信玄を出産した年です。開山当時は古府中の元柳町(現在の武田3丁目)付近にあり、寺内5千余坪を擁し、隆昌を極めていましたが、武田氏滅亡後、代わって甲州を領した徳川氏による甲府城(舞鶴城)築城に伴い、文禄・慶長年間(1592年~1614年)に、それまで躑躅ヶ崎館を中心に配置されていた他の寺社とともに現在の地に移転し、甲府浄土5ヶ寺(甲府五山)の1つに数えられてきました。
この天尊躰寺には佐渡金山奉行を勤めた大久保長安、甲府学問所教授
冨田武陵、俳人 山口素堂の墓所があります。
このうち、大久保石見守長安は猿楽師大蔵太夫の二男として甲斐国に生まれました。初め武田信玄に猿楽師として仕えたのですが、甲斐武田家滅亡後は徳川家康に用いられ、甲斐国の民政にあたりました。徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、甲州街道の八王子に旧武田家臣団を中心とした八王子千人同心を誕生させたのも大久保長安です。その後、石見、佐渡、伊豆の金山奉行などを務め、慶長6年(1601年)、甲府代官となり「石見検地」を実施。慶長12年(1607年)には石見守となり勘定奉行、さらには老中として国政にも参与しました。慶長18年(1613年)、駿府にて死去。天尊躰寺にある卵塔は慶長19年(1614年)に建立された大久保長安の供養塔です。
富田武陵は寛保2年(1742年)、江戸の生まれ。武陵は号で、通称富五郎。祖先は伊賀同心だとされています。儒学に通じ、温恭な人柄で、武道にも達し、江戸で御広敷添番に抜擢されていたのですが、寛政5年(1793年)、ある事件に連座して甲府勝手小普請に左遷されました。甲府では閑職を利用して勤番子弟らの指導を行っていたのですが、その才を知った時の甲府勤番支配近藤政明と氷見為貞は幕府に建議し寛政8年(1796年)に甲府学問所を創設し、近藤の役宅に仮学舎を設け、武陵を教授として迎えました。近藤の後任、滝川利雍の尽力により、享和3年(1803年)、甲府城追手門南方に新しい学問所が落成、林大学頭により「徽典館」と命名されました(現在の山梨大学の前身)。富田武陵は新学舎に移り住み、門人とともに起居し、大いに成果を上げたと言われています。文化9年(1812年)、甲府で死去しました。
江戸時代前期の俳人・山口素堂は寛永19年(1642年)、甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれました。20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしました。俳諧は寛文8年(1668年)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。延宝3年(1675年)、初めて松尾芭蕉と出逢い、深川芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、以降、門弟ではなく友人として互いに親しく交流しました。元禄8年(1695年)には甲斐国を旅して、翌元禄9年(1696年)には甲府代官
櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承が残っています。漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、延宝6年(1678年)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉
山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られています。ちなみに、この句により初夏になると初鰹が飛ぶように売れたとかで、俳人というよりも商品や企業を宣伝するためのコピーライターの走りのような人物でした。
有名な(株)印傳屋 上原勇七の本店です。印傳屋は天正10年(1582年)の創業。鹿革と漆の伝統を今に伝える「甲州印伝」の老舗です。印伝(いんでん、印傳)とは、印伝革の略で、羊や鹿の皮をなめしたもののことをいいます。細かい“しぼ”が多くあり、肌合いがよいのが特徴です。なめした革に染色を施し、漆で模様を描いたもので、主に袋物などに用いられます。名称はインド(印度)伝来に因むとされ、印伝の足袋が正倉院宝庫内に見られ、東大寺に文箱が奈良時代の作品として残っているのだそうです。印伝は昔においては馬具、胴巻、武具や甲冑の部材・巾着・銭入れ・胡禄・革羽織・煙草入れ等を作成するのに用いられ、今日においては札入れ・下駄の鼻緒・印鑑入れ・巾着・がま口・ハンドバッグ・ベルト・ブックカバーなどが作られています。
私も頂き物ですがこの印傳屋 上原勇七製の鹿革の名刺入れを25年ほど愛用しています。25年も使っているのでさすがに少し型崩れをしてきてはいますが、使い込んでいるうちに味わいも出てきているので、まだまだこの先も愛用するつもりでいます。ちなみに、山梨県の工芸品として「甲州印伝」が国により、「その他の伝統的工芸品」に指定されています。
(株)印傳屋 上原勇七の本店の並びに日蓮宗総本山
身延山久遠寺の尼別院があります。
NTT甲府支店の南側、道を隔てて向い側の駐車場脇に「新聞発祥の地」と刻まれた黒御影石の石碑が建っています。明治5年(1872年)にこの地で「峡中新聞」が創刊されました。当初は木版摺りでほぼ月刊の県庁広報誌でした。しかし、甲州における明治初期の農民一揆のため発行不能に陥り、わずか8号まで発行しただけで終刊となり、翌年「甲府新聞」と名前を変えて発行されるようになりました。明治9年(1876年)には「甲府日日新聞」と改称され、1822号まで発行されました。一時休刊の後、明治14年(1881年)から現在の「山梨日日新聞」と名称を変えて日刊となり、現在に至っています。以上の歴史を踏まえて、山梨日日新聞は「現存する我が国最古の新聞」であるとしており、昭和47年(1972年)に創刊百周年を記念して、この発祥碑が建てられたと刻まれています。
NTT甲府支店西交差点を左折します。ここも枡形になっています。この枡形を曲がった先の道路は現在は「遊亀通り」と呼ばれていますが、かつては「柳町通り」と呼ばれていました。
現在ワシントンホテルプラザが建っているあたりが旧甲州街道の宿場町、甲府柳町宿の中心地でした。ワシントンホテルプラザの向かい側にあるこの「どて焼き」屋さんが建っているあたり一帯に甲府柳町宿の本陣と脇本陣があったと言われていますが、今はその形跡は何も残されておりません。
江戸五街道と言えば参勤交代です。参勤交代とは、全国250以上ある各藩の大名家が2年ごとに交替で江戸に参勤(出仕)させ、1年経ったら国元へ引き上げ交代を行う制度のことで、五街道はそのために整備された道路という意味合いもありました。東海道や中山道と言った大きな街道は多くの大名が参勤交代で利用し、それに伴い参勤交代の行列が道中利用する各宿場は大変に栄えました。いっぽう、甲州街道を参勤交代で利用した藩は諏訪の高島藩諏訪家 3万石、伊那の高遠藩内藤家 3万3000石、信濃飯田藩脇坂家(のち堀家) 2万7000石の3藩だけで、いずれも譜代の中規模禄高の大名の藩ばかりでした。これは甲州街道が江戸幕府が整備した軍事用の道路という側面が強く、その堅苦しさが敬遠されたためと言われています。利用した3藩が譜代の中規模藩ばかりだったというのも興味深いところで、これは参勤交代というよりも軍事訓練の意味合いもあったのではないかと推察されます。このため、甲州街道の各宿場の本陣や脇本陣は東海道や中山道の宿場に比べて規模が小さなものが多く、宿場自体も大きく栄えた…とまでは言えない規模でした。
甲州街道唯一の大通行は「お茶壷道中」でした。お茶壷道中とは、京の天皇家から江戸幕府に献上される「宇治の茶」を運ぶための行列のことで、京からは中山道を通って途中の下諏訪宿まで運ばれ、下諏訪宿からは今度は甲州街道を通って江戸まで運ばれました。お茶壷道中は1日当たり人足約600人、馬50疋を要し、規模が小さく疲弊していた各宿場にとっては負担を強いられるものでした。このお茶壺道中は将軍の通行と同じ権威を持ち、道中で行き合った大名は乗物のまま道の端に寄って控え、家臣は下乗、共の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待つほどのものでした。庶民は「茶壷に追われて戸をピシャン
抜けたぁ〜らドンドコショ」ってな感じで、行列が近づいてくるとすぐに家に隠れたといわれています。このお茶壷道中は慶長18年(1613年)から慶応2年(1866年)まで約250年間続きました。石和宿を出たところを流れていた平等川もそうですが、甲州街道沿線に妙に京都にちなんだ地名が多いのは、このお茶壷道中が影響しているのかもしれません。
問屋街入口の交差点を右折します。問屋街という地名になっていますが、問屋さんは見当たりません。かつてこのあたりに問屋場が置かれていましたが、問屋場と言っても甲州街道の問屋場はどこも規模が小さいものばかりだったので、時代の流れとともに、すぐに衰退していったのでしょう。それは“中馬(ちゅうま)稼ぎ”と呼ばれる江戸時代の信濃国・甲斐国で発達した陸上運輸手段があったことによります。“中馬(ちゅうま)稼ぎ”とは、江戸時代、主に信州の農民が農閑期の余業として2~3頭の馬で物資を目的地まで運送した輸送業のことで、農民の駄賃(だちん)稼ぎということから“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。中馬は物資を最終目的地まで直送する「付通し」、すなわち今で言うところの長距離トラックのようなものだったので、その隆盛につれ、宿継ぎ送りが基本の宿場の問屋側(既得権益側)とは利害が対立し、しばしば紛糾が起こっていたようです。中馬稼ぎの活動範囲は信濃国や甲斐国の全域に及び、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方、関東地方を結ぶ重要な運送手段となっていました。輸送物資は米、大豆、煙草、塩、味噌、蚕繭、麻などで、庶民の物資を運ぶ上での重要な輸送機関でした。
問屋街は短く、すぐに突き当たりのT字路を左折します。そしてすぐに右折します。とにかく甲府柳町宿は城下町であることもあり、枡形が幾つもあります。
その最後の枡形を曲がった先のこの甲府商工会議所が建っているあたりが甲府柳町宿の諏訪方(西の出入口)でした。
……(その4)に続きます。