2021年4月11日日曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

 公開予定日2021/04/01

[晴れ時々ちょっと横道]第79回 



ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていなかった…と言うことは、本拠地の日振島をはじめ船舶を隠す幾つかの港があるところを除けば、伊予国内に領地をほとんど有していなかったということを意味します。生きていく上で必要な食糧は海賊行為を働くことで幾らでも簡単に入手することができたでしょうから、特に広い耕作面積の田畑というものは必要ありません。なので、藤原純友とすれば海賊集団を支配しその首領であれば十分なわけで、平将門のように領土を拡張し、そこに住む民衆をも統率し、ともに独立王国を築こうというような野望は、実はまったく持ち合わせてはいなかったのではないか…と考えられます。では、藤原純友はいったい何を目指していたのか?……これが私の中で芽生えた新たな疑問です。

 そして、その疑問を解くヒントは藤原純友が本拠とした日振島にあるのではないか…と私は考えました。日振島は、愛媛県宇和島市に属し、宇和島新内港から西方に約28km。宇和海で最大の島ではあるのですが、面積は約4平方kmという南北に細長い形をした小さな島です。多島海の宇和海にあるのですが、豊後水道に最も近く、ここから西の豊後水道には島が1つもないという一番西に位置しています。そんな日振島を、何故、藤原純友は選んで拠点にしたのか? 瀬戸内海を暴れ回る海賊達を首領として統べるのであれば、瀬戸内海から離れたそのようなところを拠点とするのは適しません。古代越智氏族の伊予水軍がそうであったように、瀬戸内海の中心とも言える大三島をはじめとした芸予諸島の島々を拠点とするのが最適です。ましてや朝廷に叛旗を翻すのであればなおのことで、芸予諸島をガッチリと固めることで、西(九州方面)から京へ向かう物資の流れを完全に遮断し、朝廷を一種の兵糧攻めにすることだって可能になるわけですから。実際、その後の河野水軍や村上水軍も芸予諸島の戦略的重要性が十分に分かっていて、芸予諸島の島々を活動の拠点としました。しかし、藤原純友だけはそうしなかったのです。瀬戸内海からは東西に細長い佐田岬半島をグルっと回って、さらに南下したところにある宇和海に浮かぶ日振島を拠点としたわけです。そこには間違いなく瀬戸内海の海賊達を統べる以外の明確な目的があると考えられます。「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」……日振島に拠点を構えたことには藤原純友の明確なメッセージが込められていて、「藤原純友はいったい何を目指していたのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という大きな謎を探るヒントが日振島に隠されているように私は思ったのでした。実はこれは私が藤原純友に興味を持って以来ずっと抱いていた疑問でした。

 そこで、この「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」の謎を探るため、実際に日振島に行ってみようと思いました。現場第一主義の私としては、藤原純友が見たのと同じ景色をこの目で眺め、自らが当時の藤原純友の気分になって日振島を拠点にした理由を推察してみようと考えたわけです。世の中の最底辺のインフラは地形と気象。そして、昔も今も人間の考えることや個々人の能力にさほど大きな違いはない。これが私の歴史探求における基本的な考え方ですから。

 宇和島新内港から日振島までは盛運汽船の高速船「しおかぜ」が13便出ています。宇和島新内港630分発(10月~4)1便が宇和島新内港→能登港→明海(あこ)港→喜路(きろ)港→水ヶ浦港→宇和島新内港、宇和島新内港1130分発2便と1530分発の3便が宇和島新内港→喜路港→明海港→能登港→宇和島新内港の航路で運航されており、このうち、喜路港、明海港、能登港の3港が日振島内の港です。私は宇和島新内港1130分発の2便で島の一番南にある喜路港に渡り、4時間ちょっと滞在して日振島内を歩いて北上。島の一番北にある能登港から3便に乗って宇和島新内港に戻って来ることにしました。観光地としての開発はほとんどなされていませんので、残念ながら日振島内には飲食ができる施設は1つもありません。加えて人口が500人にも満たない過疎の島なので、島内にコンビニエンスストアはもちろんのこと、飲料水の自動販売機さえもないということなので、私は宇和島新内港そばのコンビニエンスストアでオニギリとペットボトル入りの飲料水をちょっと多めに買って乗船することにしました。

 いよいよ乗船です。私が乗る日振島行きの高速船「しおかぜ」は左側。右側は「しおかぜ」の5分後に出港する日振島の隣の戸島行きの客船です。盛運汽船は宇和島市沖の宇和海に浮かぶ島々と宇和島新内港を結ぶ航路を幾つも運航しています。どれも島に住む人達の貴重な生活路線になっています。ちなみに、「しおかぜ」は乗客40人乗りの双胴の高速船です。

宇和島新内港を定刻の1130分に出港。発高速船「しおかぜ」の船内からは多島海・宇和海の島々の風景が楽しめます。リアス式の海岸線と相まって美しく、実に素晴らしい風景です。この便の乗客は10名ほどでしょうか。卒塔婆をお持ちの袈裟を着たご住職がいらっしゃいます。宇和島市内の寺院から島に住む檀家様のところに法事に向かわれているのだと思われます。

日振島の形状と各港(各集落)の位置関係です。日振島は宇和島の西方沖約28kmのところにあり、ここより西側には島はなく、豊後水道を隔てた先は九州(大分県南部・宮崎県北部)です。また、喜路、明海、能登、日振島にはこの3つの集落しかなく、それぞれに港があります。

宇和島新内港からきっかり40分。日振島に3つある港のうち、一番南にあるこの喜路港に到着しました。上陸します。

この日振島、釣りを趣味になさっている一部の方を除けば、地元愛媛県人でも訪れたことがある人はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。日振島の島の形は北西から南東に細長く延びており、島の北にはいずれも無人島で属島の沖の島、竹ヶ島、西には横島が隣接、さらに南方約5kmの海上には御五神島があるのですが、他の有人島とは群島を形成していません。また、島全体が山のようになっていて、平地は極めて少なく、切り立った崖が多いのが特徴です。特に豊後水道に面した西側海岸は懸崖が続き、容易に接近することができません。島の大部分と属島の横島、沖の島、竹ヶ島の全域は足摺宇和海国立公園に属しており、多島海の大変美しい風景を楽しむことができます。日振島という地名の由来に関しては、昔から船の往来があり、島民が松明(たいまつ)の火を振ることで灯台の代わりをしたことに因むとの説があります。

 歴史的には藤原純友が本拠を構えたことで知られていますが、天正14(1587)、九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主・長宗我部元親の一行が土佐国に逃れる前にしばらく潜伏していたところでもあるのだそうです。江戸時代には宇和島藩の領地となり、イワシの曳網漁で隆盛を誇りました。明治22(1889)、北宇和郡日振島村となり、昭和33(1958)、周辺4村との合併により宇和海村に、そして昭和49(1974)、宇和島市に合併・編入されました。現在、行政区画としては愛媛県宇和島市に属し、市域の最西端にあたります。

 喜路港の桟橋から見た海です。海水は透き通っていて、海底まで見えます。大小様々な魚が群れをなして泳いでいるのが見て取れます。日振島の周囲が豊かな海であることが、よく分かります。

喜路港から北上。明海集落を経て、一番北にある能登集落の能登港まで歩きます。喜路港は大きく入り組んだ湾の一番奥にあります。この湾内でも魚類の養殖筏が幾つも浮かんでいます。これは真珠の母貝の養殖用の筏のようです。


湾内だけでなく、日振島の周囲はいたるところに魚類や真珠母貝の養殖用の筏が浮かんでいます。真珠母貝の養殖と言えば三重県の伊勢志摩が有名ですが、実は養殖真珠の生産量のダントツ日本一は愛媛県。それも、この宇和海一帯です。現在の日振島はブリ()やタイ()、ヒラメといった魚類の養殖や真珠母貝の養殖が盛んな水産業の島になっています (近海の海で獲れるアワビやサザエ、ヒジキ、テングサ等も特産品のようです)。島中いたるところにある複雑に入り組んだ湾には、そうした魚類や真珠母貝の養殖いかだが無数に見られます。かつてはこの複雑に入り組んだ湾に海賊達の大小無数の船舶が停泊していたのでしょう。1,000年以上の年月が経過した今、かつて藤原純友がこの日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部にかけての多くの海賊集団を支配し、瀬戸内海一帯を暴れ回っていた痕跡はほとんど残っておりません。ただ、かつて藤原純友も見たであろう宇和海の景色は、瀬戸内海以上に美しかったです。予想した以上に素晴らしいところでした。(ただし、美しい風景以外には、なぁ〜んにもありませんでしたが…)


この湾なんか、かつては海賊達の大船団を隠しておくのに最適な場所だったのでしょうね。実は日振島は3つの島が連結されたような特殊な形状をしています。湾の先に左右の島から橋が架かったように見えるところがありますが、近づいてみるとそれは橋ではなく、細い陸地なのです。いつ頃陸続きになったのかは解りませんが、もしかすると藤原純友が拠点とした時代には、狭い水路になっていたのかもしれません。だとすると、当時の軍港としては完璧な形状をしたところです。

島内の道路は海岸線に沿って伸びているのではなく、アップダウンを繰り返しながら、かなり標高の高いところを通っています。登り道の勾配は結構キツく、歩くとかなり脚にきます。島内には基本的にこの1本の道路しかありませんので、初めて来たところではありますが、迷いようがありません。遠くに明海(あこ)の集落が見えます。


海賊がいたところには、だいたい財宝の埋蔵伝説なるものがあるものですが、この日振島にも御多分に洩れず藤原純友の隠した莫大な財宝が眠っているという「財宝伝説」が伝わっています。地中に埋めた説、洞窟に隠した説、海底に沈めた説などいろいろあるようですが、詳しいことはよく分かっておりません。そもそも財宝が実在するのかどうかも確かではありません。

ここが2つの島の連接部分。砕けた岩の集まりで連接されています。ちょっとワイルドな光景です。

遠くにうっすらと見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から西の海域は豊後水道。ここから九州までは1つの島もありません。ちなみに、右に見える島のような山は日振島の一部です。なるほど、この位置関係が、藤原純友がこの日振島を海賊支配の拠点とした理由の一つかもしれません。


明海の集落に近づいてきました。このあたりの海も海水が透き通っていて、岸から随分先の海底までもが見えます。そこを小さな魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。このあたりも養殖用の筏が浮かんでいます。この筏は真珠母貝の養殖用の筏ではなく、ブリやタイといった魚類の養殖用の筏でしょうか。形が異なります。



明海集落の背後に立つ、高さ約80メートルの小山城が森。その名が示すとおり、ここには土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っています。その山頂には藤原純友の碑が立っているとのことで、登ってみようと思い、明海港の桟橋で釣り糸を垂らしていた地元の方に山頂へ向かう道の登り口を訊いたところ、「山には野生のイノシシが出没して、最近地元の住民が襲われて怪我をしたところだから、危険なので立ち入らないほうがいい」とのアドバイスを貰い、散々迷ったのですが、最終的に登ることを断念しました。


明海集落から能登集落に向かいます。本当は能登へ向かう道路にも野生のイノシシが出没するので、歩いていくのは危険なので、やめておいたほうがいい…と先ほどアドバイスをいただいた地元の方からは伺っていたのですが、明海港の宇和島新内港行きの3便の出港時間まで2時間以上もあり、藤原純友の砦の跡へ行けないのであれば他に見るべきところもないので、ここは敢えて危険を冒して能登集落を目指して歩くことにしました。

明海集落から能登集落に向かう途中、ドスンドスンと大きな音がするので何事か!?…と思って音がするほうを覗いてみると、檻に入ったイノシシが暴れているところでした。この檻が罠だったのでしょうね。捕まってすぐのようです。このあたりは野生のイノシシが本当にいるのですね。捕まっていたのは体長1メートルほどの大きなイノシシで、こいつに襲われたら、そりゃあ一大事です。さすがに怖くなったので、明海集落に戻ろうかとも思いましたが、そのまま能登集落に向かうことにしました。ただし、坂道(山道)が続いていましたが、周囲を用心しながら、かつ大声で歌を歌いながら、歩く速度をかなり速くして。(なので、異常に疲れました)

眼下には宇和海の美しい光景が広がります。次の写真は島の北側を眺めたところです。遠くに東西約40kmに渡って細長く直線的に伸びる佐田岬半島が、付け根から先端の佐田岬までしっかり見えます。おおっ!! ちょっと感動です。

日振島ではマスクを外していました。だって、ほとんど人と出会いませんでしたから。喜路港を出てから2時間以上歩いてきましたが、途中で出会ったのは、明海港で道を訊いた釣り人1人だけです。軽トラックに乗って横を通り過ぎていった人は数人いらっしゃいましたが、歩いている人は私1人だけでした。

 豊後水道を挟んで遠くに見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から九州までの距離、すなわち豊後水道の幅は約30kmあるのですが、この地点はこの道路の最高地点のようで標高が高いところにあるので、その九州がすぐ近くにあるようによく見えます。先ほど通り過ぎた明海集落の背後に立つ高さ約80メートルの小山城が森には、その名が示すとおり、土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っており、その山頂には藤原純友の碑が立っているということを書かせていただきましたが、おそらくその砦の跡も同じくらいの標高なので、藤原純友の目にも同じように豊後水道を隔てて九州の陸地が間近に見えていた筈です。

前述のように、私は「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」ということに疑問を抱き、その答えを見つけるために日振島にやって来たわけですが、ここから豊後水道を隔てた先に見える九州の姿をしばらく眺めているうちに、「なるほど、そういうことかっ!」…と藤原純友がこの日振島を拠点に選んだ答え、言ってみれば“必然”のようなものを感じました。

 平将門が関東の地で自らを「新皇」と称して、独立王国を築くことを目指したように、おそらく藤原純友も西国で独立王国を築くことを目指したのではないでしょうか。それも“九州”の地で。実際、藤原純友は乱が起こってすぐに太宰府を攻略していますし、討伐軍に本拠地・日振島を襲撃された際にも、捲土重来を期して太宰府を占拠しています。このように藤原純友は九州への思いが強く、九州支配の意思は海賊集団の首領となった当初からあったのではないか…と思われます。

 もし藤原純友が京の朝廷に対して本気で謀反を起こし、朝廷にとって代わろうと挙兵したのであれば、日振島が拠点ではダメなんです。いくら武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わったと言っても、藤原純友率いる海賊集団は、所詮は暴れん坊の寄せ集め集団です。大将である藤原純友が京から遠いそんな後方に拠点を置いたのでは弱腰と見られ、まとまるものもまとまりません。藤原純友は日振島に拠点を構えることで、配下の海賊集団を固く結束させるための何らかのメッセージを発出していたと考えるのがふつうです。それが九州侵攻と制圧であったのではないか…と、ここからの景色を眺めているうちに思い至ったわけです。

 その九州も、正しくは太宰府の置かれた北九州ではなくて、おそらく現在の宮崎県や鹿児島県といった南九州の支配ではなかったでしょうか。当時の中国は唐が滅んだ直後で、国内は五代十国時代と呼ばれる群雄割拠する混乱期にあったと思われますし、朝鮮半島も高麗によって統一されたばかりで、ここも国内における混乱が引き続き続いていたと思われますので、海外貿易どころではなく、したがって交易量も少なく、海賊集団にとって北九州はさほど魅力的な地には思えなかったでしょうから。太宰府占領はあくまでも朝廷勢力の南九州への侵攻を防ぐための防御策。なので、博多湾の戦いの直前にはせっかく手に入れた大宰府に火を放ち、惜しげもなく燃え尽くしてしまっています。

 こう考えてみると、日振島は南九州攻略のための最前線基地の色彩が強くなってきます。その先には南九州をベースとして、富を求めて、琉球、台湾、中国(当時は唐が滅亡して北宋が成立するまでの間の五代十国時代)、フィリピン等、南の国々との海上貿易を目論んでいたのではないかと私は勝手に推察しています。船を利用して海上を進めば、どこまでも行けますからね。

 古代の伊予水軍は、私達現代人が驚くほど進んだ造船技術や操船技術を持っていたと考えられます。藤原純友が瀬戸内海を支配して暴れ回った頃から約300年近く前の西暦663年。水軍大将・越智守興が率いる伊予水軍を主力とした倭国海軍の大船団は、かつて伊予国(現在の愛媛県)のどこか(私の推定では今治市桜井)にあったとされる熟田津軍港を出港して、今でも海の難所と言われる関門海峡を抜けて博多湾へ。博多湾から対馬海峡、朝鮮海峡を渡って朝鮮半島の白村江に百済救済に向かったわけです(白村江の戦い)。それ以前も遣隋使船、その後も遣唐使船を操船して東シナ海を渡り、大陸と往復していたわけで、古代から優れた造船技術と操船技術を持っていたことは容易に想像できます。

 なので、藤原純友はこの日振島を拠点に選んだのだ…という結論に、私は日振島からのこの景色を眺めているうちに、至りました。海賊という海の民ですから、領地にこだわる陸の民(ほとんどの日本人)とは根底を流れる発想がまるで違っていたのでしょう、きっと。第77回「風と雲と虹と承平天慶の乱(その1)」で、藤原純友のもとに集まった海賊達の多くは、元々は舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達だったこと。そして、瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達だったということを書かせていただきました。このように、藤原純友軍の主力の人達は日頃から中国や朝鮮など海外の文化や文物に触れていた人達、現代風の言葉で言うと「グローバリスト」とでも呼ぶべき人達でした。しかも、彼等の多くは領地を持たない下級貴族や没落貴族達。寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、貿易も儀式も途絶えたことでほとんど仕事がなくなり、余剰人員となって朝廷からリストラされた人達でした。そのため彼等は(生活するために仕方なく)京へ向かう重要物流路である瀬戸内海を支配し、海賊として海外から運ばれてくる文物を収奪することを主たる生業としていたのですが、貿易量が激減してきたのでそれも成り立たなくなってしまっていたのではないでしょうか。また、いわゆる「藤原純友の乱」勃発後、藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)や備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国の国衙、ついには北九州の大宰府までをも襲撃していますが、おそらくこれらは国衙の倉庫に備蓄されていた食料の収奪が目的の海賊行為、すなわち略奪だったのではないでしょうか。せっかく襲撃に成功しても、彼等は長くはその場に留まらず、さっさと撤収しているようにしか見えませんから。このように彼等は生きていくために相当追い詰められていたのは確かなようです。そうなると、「よしっ! 海外からの文物が運ばれて来ないのならば、こっちから出向いて奪ってくるか!」と考えるのは、とても自然な成り行きではなかったかと私は推測しています。

 藤原純友の最期に関して、「博多湾の戦い」で大敗を喫した後、伊予国に逃れ、そこで伊予警固使・橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではないこと。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説もあるということを書かせていただきましたが、上記の私の仮説が正しいとするならば、その「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説」が一番しっくり来ますし、第一カッコいいですよね。私に文才があって、藤原純友に関する歴史小説を書くとするならば、絶対にそういう終わり方にしますね。

 以上は今の時代に残されている幾つかの状況証拠をもとに私が勝手に推察した1つの仮説に過ぎませんが、この日振島からの風景を眺めながら立てた仮説だけに、私の中では「多分そういうことだったのだろう」とストンと腹に落ちるところがあり、大いに納得しちゃいました。これは実際に現地に足を運んで、そこから見える風景を目にしたからこその感覚ですね。

 私が今回日振島を訪れた目的である「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」の謎解きに私なりの答えを見出せたことで、後は気持ちよく島内ハイキングの続きです。ここからはゴールである日振島北部にある能登港を目指して坂道を下っていきます。

オヤッ!? 10月だというのに、季節はずれのサクラ()が開花しています。この1本だけでなく、周囲に何本も咲いているので、秋咲きの品種なのでしょうか?

能登の集落まで下ってきました。この日は日振島の約13km、歩数にして17,425歩を、約3時間半の時間をかけて歩きました。島内はアップダウンの激しい道路で、歩数以上に疲れました。ただ、美しい宇和海の景色を眺めながらのウォーキングは気持ちよく、心の底から癒されました。

能登港に盛運汽船の高速船「しおかぜ」の3便が入港してきました。桟橋前の待合室を兼ねた小さな事務所で乗船券を販売していたオバちゃんが桟橋に出てきて、船から係留索(係留用のロープ)を受け取り、ビットと呼ばれる係船具に結わえます。慣れた手つきです。


「藤原純友が本当に目指したものは何であったのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という謎を探るための糸口は、「なぜ藤原純友は日振島を本拠地にしたのか?」ということの解明からだと思い日振島を訪れてみたわけですが、実際に日振島から見える風景を眺めてみて、私なりにこの謎を解くヒントが得られたように思っています。

 平安時代中期の承平年間(西暦931年~938)から天慶年間(938年~947)のほぼ同時期に起きた『承平天慶の乱』、この朝廷に対する2つの叛乱の首謀者とされる関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友、そもそも彼等2人を同じ土俵で論じ、分析することが間違っているのではないかと思い始めました。叛乱を起こすに至った彼等2人の根底に流れる政治思想のようなものが根本的に違っていたのではないかと私は思っています。現代風の言葉で言うと、平将門の場合のそれは「ナショナリズム」、すなわち、独立した共同体を自己の所属する民族のもとで形成するという考え方。いっぽう、藤原純友の場合のそれは「グローバリズム」、すなわち国境を超えて世界を1つの共同体として捉えるという考え方とでも言えばいいでしょうか。とにかく、当時の藤原純友は現代人である私達から見ても相当に進んだ価値観・世界観を持っていたのではないかと思えてきました。

 そう考えてみると、おそらく藤原純友は平将門よりも壮大で、ある意味危険なことを企てていたのかもしれません。それはおそらく瀬戸内海の海賊達との交流の中から気づいたことなのでしょう。伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務に就いていた藤原純友は、瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功した後、突然、日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、その急変の背景も、海賊ならではのグローバリズムの気づきという観点で捉えると、なんとなく分かる気がします。真実がなんであったかはまったく分かりませんが、そう考えることで私は腑に落ちているところがあります。そして、これが藤原純友に関してこれまでの歴史学者がなかなか研究を深められずにきた主たる要因のように、私は思っています。

それにしても、藤原純友、及び彼が中心となって起こした藤原純友の乱に関しては、時系列を整理しながら冷静になって考えてみると、実に様々な素朴な疑問が次から次へと湧いてきます。例えば、

① 藤原純友がいくら武勇に優れていたと言っても、京のお公家さんがどうしてわずか5年ほどの間で千艘以上の船を操る瀬戸内海の海賊集団を率いるまでになれたのか?

② 藤原純友軍は備前国や播磨国、淡路国、讃岐国の国衙等を襲撃しているのに、朝廷の地方出先機関の中で最も手っ取り早い筈の伊予国の国衙(国府)を襲った記録が残されていないのはなぜか?

③ 瀬戸内海周辺でこんなに組織だった海賊行為が行われているのに、当時の朝廷の主力海軍である筈の伊予水軍(越智三島水軍)が博多湾の戦いに至るまで直接鎮圧に乗り出していないのはなぜか?

④ 博多湾の戦いで藤原純友軍を壊滅させたのは伊予水軍(越智三島水軍)だと分かっている筈なのに、いくら自分の拠点があったと言っても、藤原純友親子が博多湾の戦いでの大敗後、伊予水軍の拠点でもある伊予国に逃げ帰って来たのはなぜか?

……等々。

このようにこの藤原純友という人物、次から次へと出てくる謎が多すぎて、調べ甲斐のある実に面白い人物です。もう少し藤原純友に関していろいろな角度から調べてみようと、帰りの船の中で美しい宇和海の景色を眺めながら考えていました。とにかく歴史の解明は面白いです。

 

……(その4)に続きます。



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