その問屋場も並びに和菓子の老舗「金精軒」があります。甲斐国山梨県のお土産(和菓子)の定番と言えば「信玄餅」。金精軒は明治35年(1902年)創業の「信玄餅」の老舗です。この台ヶ原宿が発祥の地で、店舗となっている建物はかつての旅籠だった建物です。信玄餅は白玉粉または餅粉に砂糖や水飴を加えて練りあげた求肥(ぎゅうひ)と餅米で作った餅に、きな粉をまぶした餅菓子で、黒蜜をかけ、付属の楊枝で食べます。武田信玄が出陣の際、陣中の非常食として持ち歩いていたという砂糖入りの餅にちなんで作られたことから「信玄餅」と命名されたという逸話があるそうです。「信玄餅」と言えばもう1社、笛吹市にある桔梗屋が製造・販売する信玄餅があり、どちらかと言うとこちらのほうが有名ですが、この桔梗屋の信玄餅の商標は「桔梗信玄餅」。そのものズバリの「信玄餅」の商標を保有しているのは、この台ヶ原宿の金精軒なのだそうです。
金精軒では賞味期限わずか30分という夏季限定の「水信玄餅」をいただきました。この水信玄餅は信玄餅の派生形で、台ヶ原宿近くの北杜市白州町から湧出しているミネラルウォーターに寒天を少量加えた水餅のことです。透明度と食感を表現するため固形化できるギリギリの量の寒天を使用していることから常温だと製造直後から水が染み出し続け、約30分で萎んでしまい販売できなくなります。これが賞味期限わずか30分ということです。そのため金精軒の店舗である「台ヶ原金精軒」のみでしか取り扱っておらず、かつ販売時期も6月から9月までの土・日曜日のみとなっています。これがその水信玄餅です。餅のほとんどがミネラルウォーターということで、変わった食感ではありますが、きな粉と黒蜜の味しかしません。でも、物珍しさはあるので、機会があれば食べてみられたらいかがでしょうか。
金精軒で水信玄餅をいただき、甲州街道歩きの再開です。台ヶ原宿は「日本の道百選」の1つにも選ばれているだけに、往時が偲ばれる古い建物が建ち並んでいます。
お馴染みの題目碑です。
「登記所跡」と書かれた案内板が立っています。その説明書きによると「この登記所は明治24年2月 甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年12月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により大正10年7月より現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和50年3月、韮崎出張所に統合され廃所になった」とのことです。
その登記所跡から右に入ってすぐのところに田中神社があります。そこにこの田中神社とお茶壺道中の由来が書かれた説明板が立っています。説明板によると、「お茶壺道中とは、将軍徳川家光の時代の時代の寛永10年から毎年4月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壺に納封して江戸城に運んだ行列のことです。この行列の往路は東海道を利用したのですが、帰路は中山道で下諏訪にいたり、甲州道中に入ってこの田中神社で1泊し、江戸に向かったそうです。この道中の格式は高く、御三家の大名でさえ道を譲るほどだったと伝えられています」とのことです。
ちなみに、童謡の『ずいずいずっころばし』はこのお茶壺道中の風刺歌だという説があります。この説によると、この童謡『ずいずいずっころばし』の歌詞は次のように解釈されます。
ずいずい ⇒ どんどん
ずっころばし ⇒ どんどんの強調
ごまみそずい ⇒ ゴマ擦りしなきゃ
茶壷に追われて ⇒ お茶壺道中が来たわ
トッピンシャン ⇒ 戸をピシャリと閉めろ!
抜けたら ⇒ 通り過ぎたら
どんどこしょ ⇒ もう騒いでも大丈夫
俵のねずみが ⇒ 付き添いの役人どもが
米食ってチュウ ⇒ お米奪って嬉しいでチュウ
チュウチュウチュウ⇒ 嬉しいでチュウチュウチュウ
おっとさんが呼んでも ⇒ お父さんが呼んでも
おっかさんが呼んでも ⇒ お母さんが呼んでも(たとえ両親が呼んでも)
行きっこなしよ ⇒ 決して外に出ちゃいけないよ!
井戸の周りでお茶碗割ったの誰? ⇒ 昔、茶碗割っただけで井戸に落とされた奴もいるそうだから
その田中神社の先に修験智拳寺跡があります。修験道は山岳宗教と仏教が習合された信仰的宗教のことです。奈良時代に役行者(役小角)を開祖として始まったと言われています。この修験智拳寺は明治4年の神仏分離令により廃寺となりましたが、今でも甲斐駒ケ岳で山伏たちが修行しているところから、この地方でも修験道が盛んだったことが伺えます。
台ヶ原宿の宿内をさらに進みます。ここで少し気になることが…。台ヶ原宿の宿内の建物は旧甲州街道沿いに整然と並んで建っているわけではなく、建物の江戸方(東側)が少し引っ込んで建てられ、ノコギリの刃型に建ち並んでいることに気づきます。これは中山道の宿場でも幾つか見られた建てかたです。意味があるのでしょうね。
旧甲州街道一里塚跡の石碑が立っています。これは甲府府中からの一里塚ではなく、江戸の日本橋からの旧甲州街道の一里塚です。旧甲州街道の一里塚は鶴瀬宿のあたりにあった江戸の日本橋から29里目の鶴瀬一里塚以降ずっとその痕跡が残っておらず、現代では正しい場所の比定ができておりませんでしたが、やっとこの台ヶ原宿で随分と久し振りに出逢えました。この台ヶ原の一里塚は江戸の日本橋を出てから43里目の一里塚です。と言うことは、その間14里、約56kmもの間、一里塚跡と出逢わなかったことになります。一里塚の存在を忘れかけていたところでした。
ちょっと真新しい石塔が立つ民家があります。庭の松が立派です。
「つるや旅館」です。この「つるや旅館」は明治初期の創業で、2階の手すりのところには「津留や 諸国旅人御宿鶴屋」と書かれ、表には昔の講札が3枚掛けられ当時の面影を残しています。今でもホテルや旅館などには入口に「日観連」や「国観連」と言ったステッカーが貼られているのを目にしますが、この講札もその類いのもののようで、貼られている講に属する人は安価で宿泊することができたようです。旧館は現在では使われていないようですが、新館は現在でも営業を続けているようです。
静かな佇まいの宿内をさらに進みます。このあたりが台ヶ原宿の諏訪方(西の出入口)でした。台ヶ原宿から隣の教来石宿までは1里14町(約5km)の距離です。
秋葉山と刻まれた秋葉大権現の石塔が立っています。
……(その11)に続きます。