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2018年7月7日土曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その6)


大橋場跡です。「武州千歳村大橋場跡」と記された橋の親柱が立っています。脇にはこのあたりの地頭名主の下山家が建立した下山地蔵尊があります。この地蔵は身代わり地蔵尊、出世地蔵尊とも呼ばれ、地元の信仰を集めたのだそうです。

  
 南烏山りんれい広場に「せたがや百景」と題された道標が立っています。その道標には次のような文字が書かれています。


旧甲州街道は千歳烏山の商店街を通ります。この左手に京王線の千歳烏山駅があります。この千歳烏山という駅名は、駅の所在地の地名が今は世田谷区南烏山ですが、元々は北多摩郡千歳村の大字烏山(旧烏山村)であったことから命名されたようです。

南烏山から給田へと続くこの道がかつての甲州街道です。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていませんが、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできます。


烏山には「下宿」「中宿」「上宿」という地名が残っています。おそらく、甲州街道の“間の宿”だったのではないでしょうか。ここにも現在は何も残っていませんが、この微妙なS字カーブと道端にある石塔・石仏群に唯一、旧街道の面影を感じます。 



このあたりの地名は給田(きゅうでん)。給田とは荘園制における給田を意味すると考えられます。給田は、日本の中世において、荘園領主や国衙が、荘官、地頭、年貢運輸者・手工業者などに対して給与した田地または田畠地のことをいいます。また、近世においては、庄屋などの村役人へ給与された田地のことを給田と呼んでいました。おそらくここはそういう土地だったのかもしれません。



世田谷区と調布市の境目あたりの給田の民家の門前に「新一里塚の里程標」が立っています。この新一里塚の里程標は明治3(1870)に品川県が建てた道標で、内藤新宿を基点として甲州街道に建立されたものです。新一里塚は高さが3メートルほどの規模で、里程標の銘文には「内藤新宿から三里、品川県」と刻まれています。当時、品川県は荏原郡、豊島郡の半分及び多磨郡の一部を含む行政区だったということです。この新一里塚の里程標は内藤新宿の石工に造らせて、幡ヶ谷村、下高井戸宿、給田村、国領宿、染谷村、番場村の計6ヶ所に配ったのですが、現存するのは給田のこの1点のみなのだそうです。



この日のゴールである京王線仙川駅の手前で甲州街道を外れてどこに行くのやら…と思っていると連れていかれたのが給田観音堂でした。京王線仙川駅前には整理体操をするための広いスペースがないので、この給田観音堂の境内で整理体操をするためでした。とは言え、この給田観音堂、なかなかの建物です。創建年代は不詳とのことですが、堂内には千手観音と昭和32(1957)にこの近くの土中から発見された釈迦如来坐像が安置されています。徳川家(あるいは紀州徳川家)の息女の庵室だったとの言い伝えも残っているようです
す。



 この日のゴールポイントである京王線の仙川駅を目指して、ラストの歩きです。


大川橋を渡ります。下を流れる川は仙川です。仙川(せんかわ)は、東京都を流れる一級河川。多摩川水系野川の支流である。東京都小金井市貫井北町あたりを水源とし、現在の地名で小金井市、武蔵野市、三鷹市、調布市を通り、世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流する。仙川という名称の由来は、上流部にある現在の三鷹市新川丸池公園にかつて丸池という湧水池があった。その丸池はたくさん水が湧いていたことから千釜と呼ばれていた。この千釜という言葉が仙川の由来とされています。また、流域に仙人が住んでいたという伝説からという説もあります。


ここで右手から国道20号線が迫ってきて、合流します。この仙川三叉路交差点から世田谷区を抜けて東京都調布市に入ります。ここでついに東京23区を抜けました。


昌翁寺(しょうおうじ)です。仙川の領主であった飯高主水貞政が快要法印を師と仰ぎ、当寺を建立して菩提寺としました。貞政は、もと今川義元の家臣でしたが徳川家康に帰属し、戦功により旗本となり下仙川村の領地を与えられました。明治123月の仙川の大災で、古記録や什器類を焼失。本堂は大正13年に再建されました。いまの本堂は昭和60年新築です。近年境内では8のつく日に植木市がたちました。地元農家が栽培した植木の交換会で、その市を記念した石碑(昭和39年建立)が建っています。門前には元禄時代の庚申塔2基と宝暦の廻国塔が並んでいます。


昌翁寺の前に「日本橋から20km」という道標が立っています。このあたりに江戸の日本橋から数えて5番目の仙川一里塚があったとされているのですが、この道標が立っているだけです。この先にやや立派な石造りの一里塚跡碑が立っているそうなのですが、それは次回ってことのようです。

江戸時代の旅人は通常1日に10(40km)を歩いたといいますから、2回かけてやっとその半分しか歩いていない自分はちょっと情けない感じがします。が、この日の街道歩きはここまででした。


京王線の仙川駅です。実はこの仙川駅、私にとっては思い出深い駅なんです。この京王線仙川駅と南側を走る小田急小田原線の成城学園前駅のちょうど中間あたりにNTTの中央研修センターがあります。電電公社が民営化されてNTTとなるまで、そこは電電公社の中央電気通信学園(通称:中央学園)と呼ばれていました。私も千代田区内幸町にあった電電公社本社(NTTコミュニケーションズ本社)講堂で入社式を終えた後、すぐにバスでこの中央電気通信学園に護送され()、ここで約2ヶ月間の新入社員研修を受けました。全寮制だったので、言ってみれば、私が東京に出てきて最初に暮らしたスタートポイントがその中央電気通信学園でした。


最寄駅としては京王線の仙川駅と小田急線の成城学園前駅の両方が使えたのでしたが、私は京王5000系という電車が好きだったこともあり、圧倒的にこの京王線の仙川駅を利用していました。成城学園前は当時も上品な街で、田舎から出てきたばかりの者にとってはいささか敷居が高いようなところがありましたが、仙川のほうはまったくそんな感じではなくて、庶民の街って感じですぐに馴染めましたし。毎週末、新宿をはじめ都内各地に遊びに行く時に使う駅はこの仙川駅でしたし、ほぼ毎晩のように同期となった友人達と親睦を深めるため飲むのも仙川駅の駅前にあった居酒屋がほとんどでした。その同期達とは入社から40年が経過した今でも仲良くさせていただいていて、最近はリタイア組も出てきたので、四半期ごとに同期会を開催して逢っています。そうそう、田舎者でしたので、ミスタードーナツ(ミスド)の存在を初めて知ったのも、この仙川駅前でした。都会にはこんなにお洒落で美味しい食べ物があるんだ!…って感動したのを覚えています。よく飲んだ帰りにミスドでドーナツを買って、寮までの帰り道で食べていました。と言うことで、今、振り返ってみると、ここ京王線仙川駅前は私にとって首都圏暮らしの原点のようなところです。

2ヶ月間の新入社員研修を終え、最初の勤務地となった横浜に着任した以降、この仙川駅を利用するのは実は初めてのことです。中央電気通信学園やその後のNTT中央研修センターには何度か来ているのですが、バスの便がいいという理由で小田急線の成城学園前駅ばかりを利用していたので、仙川駅はホント久し振りなんです。およそ40年ぶりでしょうか。駅舎も駅前も、当時の面影がまったく感じられないほどに変わってしまっています。へぇ〜〜〜〜。

昭和50(1975)に野口五郎さんが発売して大ヒットした楽曲に「私鉄沿線」があります。今から40年前の京王線仙川駅はまさにその「私鉄沿線」という楽曲のイメージにピッタリのように私は思ったのですが、変わったものです。ちなみに、新御三家と言われた1970年代の日本を代表する男性アイドルの3人、野口五郎さん、西城秀樹さん、郷ひろみさんと私は同い年です。

それにしても、当時の電電公社の新入社員研修ってメチャメチャ厳しかったって記憶があります。入社式を終えて、集団で中央電気通信学園に連れてこられ、バスを降りてすぐに教官から怒鳴られましたものね。広島の大学を卒業して東京に出てきて、“おのぼりさん”気分でいたのが、いっぺんで「こりゃあヤバいところに入っちゃった」って思いましたもの。あれだけ一挙手一投足まで捉えられて怒られたのは生まれて初めて…ってくらいに怒られました (まぁ〜あれだけ毎晩のように仙川駅前に飲みに出掛けていたわけですから、怒られますわね)。でも、浮かれ気分から醒めて、ピリッとしたのは確かです。精神的にも随分と鍛えられました。数年後にその中央電気通信学園の教官になった同期に聞くと、あれが電電公社の伝統なんだそうです。毎年ああやるんだって。なぁ〜んだ(笑笑)


仙川駅のホームに京王線の路線図が掲げられています。それを見ると、仙川駅は新宿を出てから12駅目。途中に初台、幡ヶ谷、笹塚、代田橋、明大前、高井戸、桜上水、上北沢、八幡山、芦花公園、千歳烏山、そして仙川です。この日、歩いてくる途中で遭遇した地名ばかりがズラズラっと並んでいます。新宿から仙川まで約10kmほどの距離しかないのに12駅ですか。元々が軌道線であると言っても駅間が短すぎますわね。各駅停車だと、出発してスピードが上がったと思ったら、すぐにブレーキ。駅のホームの端に立ったら、隣の駅のホームの端が見える感じかもしれません。でも、この路線図を眺めていると妙な達成感は湧いてきますね。12駅ぶん歩いて来たんだって()

ということで、この日は新宿駅まで各駅停車に乗って帰りました。10(初台と幡ヶ谷は京王新線のみ停車)停まると言っても20分もかからないで終点の新宿駅に到着しました。

この日は距離にして17.1km、歩数にして23,348歩、歩きました。次回、甲州街道歩きの【第3回】は仙川から府中宿まで歩きます。途中、布田五宿と呼ばれる国領、下布田、上布田、下石原、上石原という調布市にある5つの宿場を通ります。

(その1)でも書きましたが、甲州街道の新宿から八王子を過ぎるあたりまでは街道歩きで言えば「繋ぎの区間」。都市化が急激に進み、往時の面影を偲ばせるものはほとんど残っておらず見どころの少ない区間ということで、いったい書くことがどれほどあるのか…と歩き出す前は心配していたのですが、その心配も無用だったようで、【第2回】も気がつけば文字数が4万字近くにもなり、(その6)まで書いちゃいました。都市化の陰でかつての甲州街道の面影はほとんど残っていないと思っていたのですが、随所に微かに残っているものなのですね。これから先も「繋ぎの区間」はしばらく続きますが、どういう甲州街道の面影が今も残っているのか、楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――





2018年7月6日金曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その5)

京王線桜上水駅に近い桜上水駅北交差点のあたりに下高井戸宿の江戸方(東の入り口)があります (この手前に京王線の下高井戸駅があるのですが、実際の下高井戸宿は桜上水駅のほうが近いです)


高井戸宿は下高井戸宿と上高井戸宿の2つの宿場の合宿でした。しかも、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で延宝8(1680)頃の記録によると旅籠が24軒存在していたのですが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、内藤新宿との距離がさほどないこともあり次第に素通りする旅人が多くなりました。天保14(1843)頃の記録によると、本陣は既になく、旅籠も上高井戸宿で2軒、下高井戸宿で3軒と寂れてしまいました。

周辺住民は農業を主としており、東海道や中山道といった幹線ではなかったので旅人の数もさほど多くはなく、一宿で継ぎ立てを勤められなかったので、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていました。

下高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、宗源寺の左隣あたりに本陣が置かれていました。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋場がありました。

いっぽう、上高井戸宿は日本橋から41240間のところにあり、現在の環八通りとの交点である上高井戸一丁目交差点の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれていました。問屋は篠弥惣治が勤めていました。

この下と上ですが、当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

下高井戸宿は小さな宿場だったそうなので、当時の面影を偲ばせるものは残念ながらほとんど何も残っていません。中山道の例で言うと、通常、それらしい碑や説明板等があったりするものですが、そういうものすら見つけることができません。



街道脇に大きな象のモニュメントが飾られたお店があります。どうも竹細工のお店のようです。店内で若い男性の職人さんが竹細工を作っている姿がガラス越しに見えます。こうした若い人達が日本の伝統工芸を受け継いでくれている姿を見ると嬉しくなります。



日蓮宗の寺院の覚蔵寺です。門前に掲げられた説明書きによると、この寺はもともとは真言宗の寺院でしたが、慶長年間(1596年〜1614)に日蓮宗に改宗。中興開山は実成院日相と伝えられているのだそうです。安置されている鬼子母神像は日蓮聖人の直刻と伝えられていて、このことは「江戸名所図会」にも記載されているのだそうです。それによれば、この鬼子母神像は文永8年(1271年)日蓮聖人が龍ロ法難に遭われる前、胡麻のボタ餅の供養を受けた礼として信者に渡したもので江戸時代中頃、妙法寺から移されたものだということです。



叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。慶長(1596-1614)初年の頃、光伯院日善が創建したと伝えられます。


  
境内に建つこの不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治5年に廃寺)のものでしたが、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものです。なお、この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。なるほどぉ~、「高井堂(たかいどう)」が「高井戸(たかいど)」ですか…。



境内に立派なラカンマキ(羅漢槙)の巨木があります。



宗源寺の左隣にあるこの淀川電機製作所東京営業所あたりに下高井戸宿の冨士屋源蔵本陣がありました。天保14(1843)頃の記録によると、その頃には既に本陣はなかったそうなので、今はその面影の欠片も残っていません。


本陣前のこのあたりに高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋場(篠崎弥惣次家)がありました。現在は国道20号線になってしまっています。


石材店ですが、庚申塔やら、道祖神やら、道標やら、昔の旧街道で使われていたとしか思えない立派な石塔・石仏が並んでいます。きっと、こういうものを趣味として蒐集される方もいらっしゃるのでしょうね。



鎌倉街道入口の信号のところの横断歩道で甲州街道(国道20号線)を渡り、ここからは反対側(左側)の車線の歩道を歩きます。



鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意味としても用いられています。ここで甲州街道と交差するこの道路もその数ある鎌倉街道の1つだったのですね。鎌倉時代と江戸時代の軍事道路同士がここで交差するというわけですね。



上北沢駅入口交差点のあたりで、今まで街道の空を塞いでしまっていた高架になった首都高速道路がようやく右側に逸れてくれます。その高速道路の高架が曲がりはじめるあたりの左側歩道上に「甲州道中一里塚跡」の説明板がひっそりと立っています。この説明板の前方、高速道路の下に、日本橋かから数えて4里目(16km)の一里塚「上北沢の一里塚」があったといわれています。まだまだ都心部に近いので、都市化の影響で一里塚の現物は取り壊されているようです。現物の一里塚を見られるのはまだまだ先のことになるようです。



 この上北沢一里塚のあたりが下高井戸宿の諏訪方(西の入り口)でした。



首都高速4号新宿線はこの先に高井戸の料金所があり、そこから先は中央自動車道に変わります。

ちなみに、玉川上水はここで甲州街道と分岐し、現在の首都高速4号新宿線の高架に沿って北西に遡ります。玉川上水は、現在の東京都羽村市にある多摩川上流の羽村取水堰から水を取り入れ、現在の地名で言うと、順に福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市という全て東京都下の各市を通って、ここで甲州街道にぶつかり、今度は甲州街道に沿って杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区を通り、四谷大木戸にまで延びていた延長が約43kmにも及ぶ人工の水路です。先ほど三多摩地域は帝都東京の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くことを理由として明治26(1893)に神奈川県から東京府へ移管されたということを書きましたが、地図でその流路を眺めてみると、何故東京都が西方向にだけ伸びているのかが、よぉ〜く分かります。要は玉川上水という飲料水の確保が目的だったのですね。

「政治」は“政(まつりごと)”を“治”めると書きますが、“治”の本来の意味は「治水」のことです。徳川家康が見渡す限り一面水浸しの湿地帯だった土地を、利根川と荒川という2つの大きな河川の流路を変えることによって人が暮らせる土地に変え、現在の大都会東京に繋がる江戸という街を作り上げたように、また、そこに暮らす飲料水を確保するために江戸城を築くよりも前に神田上水を作らせたように、そもそも水を治めることが政治の基本だってことですね。

玉川上水もここまで歩いてきた甲州街道沿いの区間はほとんど暗渠(地下トンネル)になっていますが、羽村取水堰からこの先の中央自動車道とぶつかる杉並区久我山の浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点までの約30kmの区間は開渠区間であり、東京都の清流復活事業により水流が復活し、遊歩道として整備もされているようなので、いつかぜひ歩いてみたいと思っています。街道歩きを始めてから、歩いてみたいと思うところが増えていけません()

高速道路の高架が逸れていったので、ここからは空が広く感じます。街道歩きは、せめてこうじゃなくっちゃあいけません!

おやっ!  こんなところに高速バスの車庫があります。高速道路の入り口はとうに過ぎたのに、やたら甲州街道(国道20号線)を走行する高速バスの数が多いと思ったら、ここに高速バスの車庫があったのですね。どうりでこのあたりの甲州街道(国道20号線)を走行しているバスは客扱いをしていない“回送”表示をしたバスばかりでした。車庫では京王バス、富士急行(山梨県)、山梨交通(山梨県)、アルピコ交通(長野県)、信南交通(長野県)、伊那バス(長野県)など中央自動車道を走行する中央高速バスを運行している各社の高速バスがしばしの休憩を取っています。こりゃあバスマニアにはたまりませんね。


京王線八幡山駅にほど近いこのあたりが上高井戸宿の江戸方(東の入り口)でした。この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。



「環八(かんぱち)通り」の愛称で知られる東京都道311号環状八号線と交差する上高井戸一丁目交差点です。環八通りは、大田区の羽田空港から、世田谷区、杉並区、練馬区、板橋区を経由して北区赤羽に至る環状道路です。起点付近に羽田空港があり、第三京浜、東名高速道路、中央自動車道の起点インターと接続し、笹目通りおよび目白通り経由で関越自動車道とも接続しています。また、国道20号線(甲州街道)、国道246号線(玉川通り)といった主要一般道路とも交差しており、まさに東京の大動脈といっても差し支えないほどの重要な道路です。そのため、早朝から深夜まで終日交通量が非常に多く、その渋滞の長さは東京都内でも屈指と言われています。

その環八通りと交差する上高井戸一丁目交差点のあたりに上高井戸宿の武蔵家本陣(並木家)がありました。また、その手前には問屋場(細淵三左衛門家)がありました。


国道20号線から左手に分岐し、東京都道229号府中調布線に入ります。ここが旧甲州街道です。やっと旧街道風情が楽しめるかなと思いきや、車、人、自転車の通行量がかなり激しく、歩道スペースはありますが縁石はなく、対向人とすれ違いはみ出す時に車に轢かれそうになるので、ちょっと怖いです。




ここに「井之頭辨財天道道標」が立っています。「井の頭弁財天」は吉祥寺駅からすぐの井の頭公園の中の井の頭池のほとりにある弁財天のことです。源氏の祖である源経基が、伝教大師の作である弁財天女像をこの地に安置したのが始まりとされ、その後、源頼朝がお堂を建立したと伝えられています。当時の武将が戦勝祈願に訪れたことなどから、「勝ち運の銭洗い弁天」としても信仰されています。

その後鎌倉時代に一度は焼失してしまいますが、江戸時代になり、この地を鷹狩り場として使っていた三代将軍徳川家光が、弁財天の宮社を再建しました。井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、家光が訪れた際に「井の頭」と命名されたのだそうです。このように徳川家とも所縁が深い場所です。

元々は家康の時代に、江戸の上水道(神田上水)の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。井の頭弁財天の近くには家康がお茶をたてたと言う「お茶の水」と言う場所もあります。このように、水源の守り神、財産を授ける神として、古くから庶民に信仰されている弁財天だったので、玉川上水沿線の皆さんも参拝に訪れたのだろうと推察されます。


国道20号線から分かれておよそ300mほど進んだ左手に長泉寺があります。慶安元年(1648)にもう少し西の烏山に開創したものの、二年後に火災に遭い、明暦元年(1655)にこの地に移ったそうです。「円通閣」という観音堂には板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた貴重な文化財が入っているそうです。上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺にあります。


  

この長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の諏訪方(西の入り口)でした。ここは京王線の芦花公園駅がすぐ近くにあります。





……(その6)に続きます。




愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...