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2020年8月9日日曜日

伊予八藩(その2)



公開日2020/02/07
[晴れ時々ちょっと横道]第65回 伊予八藩(その2)

それを一変させたのが天正13(1585)に行われた羽柴(後の豊臣)秀吉と四国の覇者・長宗我部元親との戦い、いわゆる「四国征伐」でした。同年6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路国から阿波国、備前国から讃岐国、安芸国から伊予国の3方向から四国への進軍を命じました。伊予国へは小早川隆景率いる毛利輝元配下の中国地方8ヶ国の3万とも4万とも言われる大軍勢が今張(今治)浦から東予地方の沿岸に次々と上陸。当時、東伊予の実質的な指導者であり、長曾我部元親と同盟関係にあった金子城城主・金子元宅(もといえ)と激突しました。その最大の激戦が現在の西条市氷見のあたりで繰り広げられた「野々市原の戦い」です。この「野々市原の戦い」では、小早川隆景率いる約3万から4万と言われる四国討伐軍の怒涛の攻撃の前に、金子元宅を総大将にした新居・宇摩両郡を治める石川氏(高峠城)配下の土豪達と、周敷・桑村・越智・野間・風早郡を治める河野氏配下の土豪達(すなわち東予の土豪達)は結集し、氷見高尾城に籠って良く抵抗したものの、最後は多勢に無勢でほぼ全員が野々市原に討って出て、討死にしました。約2千人の兵力じゃあ、とてもじゃないが勝ち目はありません。

その後、小早川隆景率いる四国討伐軍は周敷・桑村・越智・野間・風早郡を次々に制圧して中予の道後平野に達し、8月末には河野通直の籠もる湯築城(松山市)を包囲。小早川隆景の薦めにより河野通直は開城し、道後の町に蟄居しました。さらに小早川隆景軍は喜多郡の土豪達を攻め、帰順させたことで、南予地域を治めていた黒瀬城(西予市)城主・西園寺公広と大洲城城主・大野直昌も相次いで小早川隆景の元に赴いて降伏し、伊予国全域の制圧が完了しました。

余談ですが、当時、伊予国には土豪達が大小合わせて数百もの夥しい数の城()を築いていたと言われています。そうした土豪達の1人に、私の有力な祖先として推定される鈍川鷹ヶ森城(砦?)城主・越智経平がいました。城主と言っても、所詮は土豪。兵力はせいぜい総勢2030人ほどではなかったでしょうか。朝倉村誌によると、この鷹ヶ森城も野々市原の戦い後の小早川隆景率いる四国討伐軍の怒涛の進撃の前になすすべもなく落城。城主の越智経平は運良く生き延びられたようで、その後、一族3人とともに朝倉郷峠の奥地に隠伏して河野嫡家の再起と鷹ヶ森城の再興の機会を窺っていたのですが、それもかなわず、朝倉の地(今治市朝倉)に下って帰農したようです。「ファミリーヒストリー」的には、それがおそらく私の祖先のようです。小早川隆景率いる四国討伐軍の大軍勢の猛攻を受けたにもかかわらず、なんとか生き延びてくれたおかげで、今の私がいるということもできようかと思います。越智経平の判断に感謝です。

その後、小早川隆景は伊予一国を与えられたのですが、天正14(1586)からの九州征伐による功績で秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の371,300石を拝領し移封されたことで小早川隆景による伊予国一国統治は約2年で終了してしまいます。その後は、前述のように、「賤ヶ谷の七本槍(七将)」の1人として有名な福島正則を113千余石で国府城(今治)に、同じく加藤嘉明を6万石で正木城(伊予郡松前町)に、藤堂高虎を7万石で板島城(宇和島市)と、名だたる豊臣秀吉子飼いの重鎮をこの伊予国に配置する分割統治体制となりました。

さらに慶長5(1600)、関ヶ原の戦いでの功績により広島藩498,000石に移封になった福島正則の後に藤堂高虎が国府城に入り、東予と南予という伊予国の半分を203千石で治めることになったのですが、その藤堂高虎も、今治城を築城した後の慶長14(1609)、大坂冬の陣・大坂夏の陣での功績により伊勢国津城に323000石で移封となり、その後、東予と南予にあったその領地は幾つもに分割されてしまいます。

本拠であった今治藩3万石だけ残され、そこを藤堂高虎の養子・藤堂高吉が継いだものの、寛永12(1635)、伊賀国名張に領地替えとなり、代わって譜代の松平(久松)定房が伊勢国長島城7千石より3万石に加増されて入り、明治維新後の廃藩置県まで松平(久松)家による統治が存続しました。

私がペーパークラフトで作った今治城です。今治城は、福島正則が広島藩に移封になった後に、宇和島藩から入府した藤堂高虎が築城した城です。藤堂高虎の築いた今治城は慶長9(1604)にほぼ普請が完成したのですが、完成から僅か5年後の慶長14(1609)、藤堂高虎が伊勢国津城に移封になった際に天守が丹波国亀山城に移築されたため、撤去されてしまいました。現在の天守は昭和55(1980)56階で再建された鉄筋コンクリート製のものです。この再建天守は、移築されたと伝えられる丹波国亀山城の天守の残されていた図面を参考に建築された“模擬天守”です。

西条藩には寛永13(1636)、伊勢国神戸より外様の一柳直盛が68千石で入りました。一柳家の統治は3代約30年続いたのですが改易となり、その後には徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、紀州藩の支藩として明治維新後のー廃藩置県まで存続しました。その一柳家時代の西条藩の支藩として寛永13(1636)から寛永19(1642)までの6年間存在したのが川之江藩(23千石)で、廃藩後、天領(江戸幕府直轄領)となりました。同じく一柳家時代の西条藩の支藩として分藩されたのが小松藩 (1万石)で、こちらは西条藩の一柳家が改易になった後も残り、幕末まで一柳家による統治が続きました。

続いて大洲藩ですが、慶長14(1609)、藤堂高虎が伊勢国津藩に転封となった後、淡路国洲本藩より外様の脇坂安治が53千石で入城し、大洲藩が正式に立藩しました。第2代脇坂安元が元和3(1617)、信濃国飯田藩に転封となったあとは同じく外様の加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入り、明治維新後の廃藩置県まで存続しました。その大洲藩の支藩が新谷藩で、元和9(1623)、大洲藩第2代藩主・加藤泰興の弟・直泰が幕府より1万石での分知の内諾を得て成立し、こちらも明治維新後の廃藩置県まで存続しました。


“肱川あらし”の濃い霧の中に佇む大洲城です。大洲城は文禄4(1595)に藤堂高虎により近世城郭としての整備が始まり、その後、大洲藩初代藩主となった脇坂安治の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されました。しかし天守は老朽化のために明治21(1888)に解体され、現在の天守は平成16(2004)に伝統工法を用いて復元されたものです。

宇和島藩は、慶長14(1609)、藤堂高虎が伊勢国津藩に転封となった後、伊勢国津藩5万石の藩主だった外様の富田信高が藤堂高虎と入れ替わりに宇和郡102千石を与えられて板島(丸串)城主として入ったことにより立藩しました。その富田家は僅か5年で改易となり、慶長19(1614)、戦国の世に「独眼龍」と称された陸奥国仙台藩(62万石)初代藩主・伊達政宗の長男・伊達秀宗が10万石で入封し、宇和島藩伊達家初代藩主となり、その後9代、幕末に至るまで宇和島城を居城に宇和郡一帯を統治しました。特に、幕末になると宇和島藩は名君の呼び声も高い第8代藩主伊達宗城(むねなり)を輩出したことで知られています。この伊達宗城は幕政にも深く関与し、福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津斉彬と並び「幕末の四賢侯」と称されました (伊達政宗の長男を藩祖とすることから、名門伊達家の本流は仙台藩ではなく、この宇和島藩ということもできようかと思います)。その宇和島藩の支藩として、明暦3(1657)3万石で分知されたのが伊予吉田藩です。

私がペーパークラフトで作った宇和島城です。宇和島城は、中世期、宇和島地方を勢力下に置いていた西園寺氏によって築かれた丸串城(板島城)の跡に、文禄4(1595)、豊臣秀吉から伊予国板島(現在の宇和島市)7万石を拝領した築城の名手と名高い藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。現存する天守は、藤堂高虎が築城した望楼型33層の天守の老朽化が進んでいたため、宇和島藩伊達家第2代藩主の伊達宗利が層塔型33層に改修したものです。寛文2(1662)に着工し、寛文11(1671)に竣工しました。宇和島城も江戸時代に建造された天守が現存する全国12の城(現存12天守)1つで、国の重要文化財に指定されています。

そして、松山藩。松山藩も、寛永4(1627)、大坂夏の陣でも功績のあった加藤嘉明が435,500石に加増されて陸奥国会津藩へ転封となり、代わりにそれまで会津藩主だった蒲生忠知が24万石の松山藩主になりました。寛永11(1634)、蒲生忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶すると、隣接する大洲藩主の加藤泰興が松山城を一時的に預かり(松山城在番)、その翌年の寛永12(1635)に徳川家康の異父弟・松平定勝を宗家初代とする久松松平家の宗家2代目であり伊勢国桑名藩主だった松平(久松)定行(今治藩主となった松平定房の兄)15万石で松山藩主に転封となり、松山城に入りました。その後、幕末まで松山藩の松平(久松)家による統治は続きました。

私がペーパークラフトで作った松山城です。松山城は松山市の中心部に聳える勝山の山頂(海抜132メートル)に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城です。姫路城、和歌山城と並んで日本三大平山城にも数えられる名城で、山頂の本丸・本壇にある天守は、江戸時代に建造された天守が現存する全国12の城(現存12天守)1つで、国の重要文化財に指定されています。慶長7(1602)、加藤嘉明が家臣の足立重信を普請奉行に任じ、築城させたものです。その後、天守を含む本丸・本壇の主な建物が落雷により焼失し、現在の天守は安政元年(1854)に復興されたものです。

これが『伊予八藩』で、結局のところ伊予国は主な土豪達による分割統治の時代に戻った感じです。もともと伊予国はバラバラで、分割統治に向いていたのかもしれません。しかもその伊予八藩は、松山藩が親藩、今治藩が譜代大名、宇和島藩と伊予吉田藩、大洲藩、新谷藩、小松藩の5藩が外様大名、西条藩は徳川御三家の1つ紀州徳川家の分家(御連枝)…と多種多様で、さらには江戸幕府の直轄地である天領が入り乱れて、バラバラ感はさらに増します。松山藩と今治藩に親藩・譜代大名を配置した理由は、宇和島藩伊達家、大洲藩加藤家に加えて、土佐藩山内家202,600石、瀬戸内海を挟んだ対岸に広島藩浅野家426千石、さらには長州藩毛利家37万石、福岡藩黒田家473千石といった極めて有力な外様大名がいたため、江戸幕府としてのそれらへの備えだったのではないか…と容易に想像できます。ちなみに松山藩松平(久松)家は最も西に位置する親藩で、九州の玄関口を抑える譜代大名の小倉藩小笠原家15万石とともに西国における外様大名の監視の任にあたっていたように思えます。

各藩の政治体制が異なると、それぞれの特色によって藩民の性格形成に少なからず影響があったことは否めません。それぞれの藩の政策や藩主の性格、藩の規模や藩士の行動、教育、城下の佇まい、住民の主な生業(なりわい)の種類やその状況、その他諸々により住民相互が醸し出す雰囲気も当然異なってきます。特に大きく影響したのが教育。江戸時代、第3代将軍徳川家光時代までの武断政治から第5代将軍徳川綱吉の時代になると文治政治への転換が図られ、それとともに、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で藩校を設立しました。伊予八藩でも明教館(伊予松山藩)、明倫館(宇和島藩)、時観堂(伊予吉田藩)、明倫堂(大洲藩)、求道軒(新谷藩)、克明館(今治藩)、択善堂(西条藩)、養正館(伊予小松藩)といった藩校が設立され、文武両面から藩士の子弟の教育を行いました。その教育内容は政治体制の違いや藩主の性格や嗜好等から各藩の独自性が色濃く出ていたため、この藩校での教育方針や内容がその地域の気風に大きな影響を与えたことは、想像に難くありません。ちなみに、愛媛県立松山東高校は伊予松山藩の藩校・明教館の、また愛媛県立大洲高校は大洲藩の藩校・明倫堂の、愛媛県立小松高等学校は伊予小松藩の藩校・養正館の伝統を受け継ぐ学校とされており、その他の藩の藩校もそれぞれの地域の主たる学校の校風に、現在もなお大きな影響を与えていると伺っています。

そのような政治体制の違いに加えて、前述のような地勢学的側面での複雑さも手伝い、交通の不便さもあって各藩の交流も僅少。このような時代が江戸時代の250年以上続いたわけです。それらが人々の日常の生活において陰に陽に影響を与え、時間の経過とともに徐々に地域の独自の伝統と文化を形成し、さらには住民達の性格形成においても大きな要因となったということは容易に推察されます。

そして忘れてならないのが城の存在です。伊予八藩中4(今治・松山・大洲・宇和島)は立派な天主閣を持った城があったということによる影響も大きかったのではないかと思われます (今治城の天守閣は、慶長14(1609)、藤堂高虎が伊勢国津城に移封となった際に丹波国亀山城に移築され、撤去されてしまいましたが…)。城や天主閣は大名の権力の象徴と見られることも多いのですが、城下に住む住民にとっては心の故郷、誇りの源ともなりうるものです。身近な城の存在がそこに住む住民達の精神を安定させ、その積み上げが伊予人の多くを平和で穏やかな気性に作り上げた原因の一つとなっているとも考えられます。これは現代の今も変わりません。“おらが町”に城があることは住民達にとって誇りであり、郷土愛の源泉です。その天守閣を持つ城が愛媛県内に4(うち2つは江戸時代から今も残る日本で12箇所の天守「現存12天守」の中の2)もあったということにも大きな意味があったように思えます。

加えて、幕末の慶応4年から明治元年・明治2(1868年〜1869)に行われた戊辰戦争で各藩の力関係に大きな変化が訪れたように私は分析しています。幕末の激動期、伊予国の各藩はそれぞれの立場から異なった対応をとりました。

まず外様の宇和島藩。宇和島藩は、前述のように、第8代藩主伊達宗城が福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津斉彬と並び「幕末の四賢侯」と称されるほどの人物で、戊辰戦争においては非戦中立の立場をとりました。ただ、支藩である伊予吉田藩は佐幕派として行動していました。

次に同じく外様の大洲藩。大洲藩はもともと勤王の気風が強く、幕末期には早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4(1868)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら新政府軍に参陣し、活躍しました。また、あの坂本龍馬が運用したことで知られる蒸気船いろは丸は大洲藩の所有の船であり、大洲藩より海援隊に貸与していた船です。支藩の新谷藩も大洲藩と行動を共にしていたようです。

外様の小松藩も小藩ながら新政府軍に加わり、新潟・長岡・村上などで繰り広げられた北越戦争に参戦しました。

親藩だった松山藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍として参戦するも、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知ると松山に帰国。その後の戊辰戦争では戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれました。

譜代の今治藩は、慶応元年(1865)の第二次長州征伐の際、情勢を見極めた上、朝廷側に付くことを決意。鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍としていち早く京に兵を進め、御所の警護を行いました。その後の戊辰戦争でも藩兵の一部は新政府軍として奥州まで転戦しました。このように今治藩は、宗家で隣藩である松山藩が将軍家の親族であることを理由に、鳥羽・伏見の戦いまで佐幕を通したこととは大きく異なる対応をとりました。さすがに元水軍の本拠地だったところです。潮目の変化に対するアンテナ感度はここでも高かったようです。

そして、意外な対応をとったのが西条藩。藩主の松平家は徳川御三家の1つ紀州徳川家の分家(御連枝)という親藩でありながら、いち早く新政府に恭順の姿勢を示し、新政府軍として戊辰戦争に参戦しました。

このように、松山藩と伊予吉田藩以外の6藩は新政府軍に加わったか、非戦中立の立場。こうなると、明治維新以降の各地域の力関係に微妙な変化をもたらせます。その後、愛媛県となり松山市に県庁が置かれたといっても、県都松山市への求心力はさして高まらず、昔からのバラバラ感はその後も残ってしまったのではないかと、私は推察しています。

これが『伊予八藩』です。私は愛媛県民としての一体感があまり感じられないことの主たる原因がこの『伊予八藩』にあると分析しています。しかしながら、バラバラ感は今風の言葉で言うと「多様性」と言うことができようかと思います。地形と歴史から来る多様性。私はこの多様性こそが愛媛県の本当の魅力なのではないか…とも思っています。だから愛媛県は謎がいっぱいあって、実に面白いのです。



2020年8月8日土曜日

伊予八藩(その1)



公開日2020/02/06
[晴れ時々ちょっと横道]第65回 伊予八藩(その1)

郷里愛媛を長く離れ、再び郷里に戻ってきた者にとって、いささか気になっているのが愛媛県人の県民性です。申し訳ないけど、愛媛県民としての一体感があまり感じられず、ハッキリ言わせていただくと、向いている方向がどこかバラバラ。私が現在住んでいる埼玉県がそうですが、昔からの土着の人間が少なく、他地域からの移住者が大半を占める首都圏や関西圏といった大都市の周辺地域ならいざ知らず、地方の県でこんなにも一体感が希薄な道府県は他に例を知りません。かと言って、郷土意識が低いのかと言ったら、決してそういうわけではなく、むしろ他県に比べ高いほうかもしれません。ただ、その郷土意識の向く方向が愛媛県という大きな単位ではなく、松山や宇和島、今治といったもう少し狭い地域単位のほうにより強く向けられているようにも感じられます (気に障った方がいらっしゃったら、ごめんなさい)。そんな県民性をはじめ郷里愛媛県のことをあれこれ調べていく中で、この謎を読み解くある重要なキーワードがあることに気づきました。それが『伊予八藩』です。

藩とは、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語のことです。『伊予八藩』と言われるように、愛媛県(旧伊予国)には、江戸時代、主として次の8つの藩が置かれていました。

伊予松山藩 (親藩15万石。城は松山市)
宇和島藩 (外様7万石。城は宇和島市)
大洲藩 (外様6万石。城は大洲市)
今治藩 (譜代35千石。城は今治市)
西条藩 (親藩御連枝・紀州徳川家分家3万石。陣屋敷が西条市)
伊予吉田藩(3万石。宇和島藩の支藩。陣屋敷が宇和島市吉田町)
小松藩 (外様1万石。陣屋敷が西条市小松町)
新谷藩 (大洲藩の支藩1万石。陣屋敷が大洲市新谷)

このほかに寛永13(1636)から寛永19(1642)までの6年間、西条藩の支藩として川之江藩(外様23千石)があったのですが、廃藩後、天領(江戸幕府直轄領)となっています。また、松山藩の支藩として、桑村郡・越智郡の一部を領地とする松山新田藩(まつやましんでんはん)1万石が享保5(1720)から明和2(1765)まであったのですが、廃藩後、こちらも天領となっています (ちなみに、この松山新田藩跡の天領のおかげで、私の本籍地である今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)は元今治藩領と元松山藩領と元天領とが複雑に入り組んで存在しています)

 伊予八藩分布図(幕末)
愛媛県史県政編 第1章第2節「近代へのあゆみ」より

このように1つの県に8つも藩が置かれていたというのは極めて異例のことで、同じ四国でも、香川県(旧讃岐国)は高松藩(親藩12万石、城は高松市)、丸亀藩(外様51千石、城は丸亀市)、丸亀藩の支藩である多度津藩(外様1万石、陣屋が仲多度郡多度津町)3藩、徳島県(旧阿波国)は徳島藩(外様257千石、城は徳島市)1藩のみ(一時期支藩の阿波富田藩があった)、高知県(旧土佐国)も土佐藩(外様202,600石、城は高知市)、土佐藩の支藩である土佐新田藩(外様13千万石、定府大名であったため城や陣屋はなし)2藩のみです。

伊予八藩のうち最も大きな伊予松山藩の規模(石高)15万石なので、いささか小さな感じは受けますが、伊予国(愛媛県)8藩全体の石高の総合計は、天領となった藩の部分も加えると40万石を超え、これは四国全体の総石高の1/3を超える約38パーセント。備前国(岡山県)を実質1藩支配していた大藩の岡山藩(外様315千石)をしのぎ、安芸国(広島県)を実質1藩支配していた同じく大藩の広島藩(外様426千石)とほぼ同規模だったということが分かります。

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を米(コメ)の生産力に換算して“石”という単位で表したものです。豊臣秀吉が天正19(1591)に日本全国で行なった太閤検地以降、明治6(1873)に明治政府が行った地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記されました。また農民に対する年貢も石高をもとにして徴収されました。また、1石は大人1人が1年間に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになり、石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していました。実際、江戸時代の軍役令によると、大名は江戸幕府の命令に応じて石高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていたと言われています。

このように伊予国(現在の愛媛県)は昔から自然に恵まれ、気候温暖で災害も少なく、生産力も高く、生活も豊かで人々が暮らしやすいところでした。伊予国が正式に誕生したのは、孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる「大化の改新」以降、第37代斉明天皇、代38代天智天皇、第40代天武天皇、第41代持統天皇らにより強力な中央集権体制確立のため当時の中国()に倣った律令制への移行が徐々に整備されていき、第42代文武天皇の時代の大宝元年(701)に、ついに『大宝律令』が制定・施行された時のことです。この改革の大きな柱は公地公民、すなわち、豪族らの私有地を廃止し、中央による統一的な地方統治制度を創設すること、さらには戸籍・計帳・班田収授法を制定し、租税制度を再編成することでした。これにより、それまでの国造制が廃止になり、代わって各地に国府が置かれることになりました。新たに定められた伊予国の中心地として国府(現在の県庁)が置かれたのが現在の今治市でした。平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄(略称:和名抄)」にも「国府在越智郡」という記述があります(現在、伊予国の国府が今治市のどこにあったかは不明で、諸説あります)

ちなみに伊予国は大和朝廷にとって重要な国だったようで、歴代の国司には錚々たる名前が並んでいます。貞観7(865)に就任した藤原基経、天延2(974)に就任した藤原道隆はともに後に関白になっていますし、寛和2(986)に就任した藤原公任は和漢朗詠集の編者、実際に赴任したかどうかは分かりませんが平治元年(1159)には平重盛、文治元年(1185)にはあの源義経が伊予国の国司に任命されています。さらに建保3(1215)には新古今和歌集の選者となった藤原定家が就任しています。伊予国はそれほど朝廷にとって重要なところだったと推定されます。また、中世、豊臣秀吉の時代には「賤ヶ谷の七本槍(七将)」の1人として有名な福島正則を113千余石で国府城(今治)に、同じく加藤嘉明を6万石で正木城(伊予郡松前町)に、藤堂高虎を7万石で板島城(宇和島市)と、名だたる子飼いの重鎮をこの伊予国に配置していました。これはいったい何を意味しているのかです。少なくとも伊予国のポテンシャルに注目し、重要視していたことは容易に窺えます。おそらく江戸幕府もこの伊予国を1人の大名に持たせるのは危険と判断して、8つの藩に分割して統治させたとも推察できます。

また、伊予八藩に関しては、地政学的側面からの分析も必要かと思います。『晴れ時々ちょっと横道』の第5(201525)「愛媛県の地形と気象」でも書かせていただきましたが、私は「世の中の最底辺のインフラは地形気象」という基本的考え方を持っていて、愛媛県の文化や歴史を考察する上においては、この地形気象からの検討アプローチが極めて重要であると考えています。中でも、ここで注目すべきは地形です。
愛媛県は日本最大の断層帯である中央構造線が瀬戸内海の海岸線に沿って東西方向に伸びています。中央構造線は屏風のように連なる高い山々を形成し、しかもその中央構造線が瀬戸内海の間際を走っているため、県内の陸地はほとんどが山で、平野と呼ばれるのは海岸線沿いの極僅かな土地に過ぎません。愛媛県は東予、中予、南予に大別されるのですが、東予と中予を分けているのは瀬戸内海に大きく突き出た高縄半島です。四国山地ほどではないですが、ここもなにげに1,000メートル級の高い山々が連なっています。しかも高縄半島が瀬戸内海に突き出た突端のあたりは山がそのまま海に突っ込むように迫っているため、同じ伊予国といってもかつては人々の往来もこの高縄半島を境にして東西に分断されていました。中予と南予も同様に基本的に高い山々で区分されます。ここの区分を決定付けているのが前述の中央構造線で、愛媛県西部において、基本的に中央構造線より北側の地域が中予、南側の地域が南予…と私は理解しています(実際には中央構造線より多少南にその区分線はありますが、それは中央構造線により形成された山の形状によるものです)。このため、かつては人々の往来も容易ではなかったと推測されます。 


室町期伊予の支配領域
愛媛県史資料編 古代・中世 第2編第2節「守護と国人」より

それを補っていたのが海上交通です。現在のように全国に道路網や鉄道網が整備されたのは、明治維新後に西洋の技術が取り入れられ、土木建設技術が急速に発達した以降のことで、それ以前は人流も物流も主体は海上交通でした。江戸時代にも東海道や中山道といった五街道をはじめ、全国に街道が整備されはしたのですが、険しい峠道を人馬で越えるのには無理があり、主要な輸送手段は海上交通でした。四国は周囲を海で囲まれていることもあり、瀬戸内海や太平洋を利用した海運が盛んで、島内の陸上交通網はさほど発達してこなかった歴史があります。『晴れ時々ちょっと横道』の第24(201692)「リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力」でも書かせていただきましたが、伊予国(愛媛県)関連でも讃岐街道や今治街道、大洲街道といった旧街道が整備はされたのですが、どれも地形の関係で険しい峠道が続く山道で、幹線道路というほどの利用はされず、海上交通には及ばなかったようです。

第24回:リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力(その1)
第24回:リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力(その2)

従って、隣の地域に行くにしても主な交通手段は船でした。そうすると、隣の地域に行くのも、同じ海を渡って京都や大阪といった関西地方や、岡山、広島、山口といった中国地方、九州の大分といった瀬戸内海の対岸に行くのも感覚としては同じことで、それによりそれぞれの地域が独自の経済圏を構築し、長い年月をかけてそれぞれの独自の文化や地域性を形成していったのではないか…とも分析できます。すなわち、伊予国とは、陸地で捉えるのではなく、瀬戸内海という海のほうから眺めて捉える必要があるのではないか…と考えられます。その瀬戸内海を活動拠点としていたのが水軍(海賊衆)です。特に南北朝時代(1336年〜1392)以降、能島、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の絶対的な制海権を握っていたのが村上水軍と河野水軍です。

その水軍はもともとは瀬戸内海の沿岸に拠点を構える土豪達の集合体であり、河野氏や村上氏はそれら土豪達の棟梁といった位置付けだったと考えられます。土豪達は主として食料の確保と日々の生活のために四国本島の沿岸部の平地に独自の領地を持ち、そこを守るために砦()を築きました。村上武吉(武慶)が居城とした国府城と今治平野、河野通直が居城とした湯築城と河野氏の拠点の1つであった正木城(松前城)と道後平野、伊予金子氏の金子元宅が居城とした金子城(新居浜市)とその周辺などがそれにあたります。彼等は主たる生業(なりわい)を瀬戸内海の海上に求めていたため、前述の地政学的側面も相まって領地に対する執着心がどこか希薄で、領土拡張の野心もほとんど持っていなかったと考えられます。すなわち、自分達の食料の確保と日々の生活ができるだけの領地があればそれで十分だったわけです。なので、陸上交通網はほとんど発展せず、土豪達による都市国家のようなものが幾つも形成されていたのではないか…と考えられます。その意味で、愛媛県(伊予国)はその時点からバラバラで一体感に乏しかったのではないかと言えます (戦国時代に有力な1人の戦国大名も輩出しなかった理由も、そのあたりにあるかと思います)

伊予における主要中世城郭所在図
愛媛県史資料編 古代・中世 第2編第5節「中世の城郭」より


……(その2)に続きます。




愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...