ラベル 伊予八藩紀行【大洲藩】 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 伊予八藩紀行【大洲藩】 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月14日金曜日

伊予八藩紀行【大洲藩】(その4)


公開日2020/04/03

晴れ時々ちょっと横道]第67回

 伊予八藩紀行【大洲藩】(その4)


喜多郡内子町内子と西予市野村町惣川を結ぶ愛媛県道56号内子河辺野村線を通って、大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)に向かいます。この河辺は皆さんよくご存知の幕末の英傑・坂本龍馬が、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、青雲の志しを胸に抱いて土佐藩を脱藩し、最初に足を踏み入れたところです。私も息子の名前に坂本龍馬からの字を貰って「馬」と付けたほどの坂本龍馬ファンで、第1弾で長浜港を訪れた際に、「そうだ! 龍馬が脱藩した時に通った道を訪ねてみよう」と思い立ったわけです。

 

【屋根付橋】

クリント・イーストウッド監督・主演で1995年に公開された映画『マディソン郡の橋』に出てきたような屋根付橋があります。小田川の支流・柿原川に架かる常盤橋です。

愛媛県の南予地方のうち、喜多郡内子町、大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)などには、木造の屋根付橋が現存しています。小河川に架けられているもので、農道として使用されていた道につけられており、歩行者専用です。たいていは中央が半円形に反った太鼓橋で、屋根が付いた珍しい形状の橋です。幅員は2メートル程度、長さも510メートル程度のものがほとんどですが、なかには長いものもあります。かつては、生活道路としてだけでなく、農作物の保管場所などとしても使用されていたのですが、今日では、かつての農村風景をとどめる産業遺産の1つとして、多くは地域の人々の手により、管理・保存されています。


ドンドン山の中に入っていきます。かなり標高も高くなってきました。

眼下に見えるのは、つい先ほど走ってきた道で、このあたりはクネクネ坂を登って、高度を急激に上げていきます。

愛媛県道56号内子河辺野村線で大洲市河辺町に向かう途中で、脇道に入り、山道を登っていきます。私も大好きなテレビ朝日系列の人気番組『ポツンと一軒家』のロケのようなドライブです。この先に本当に目的とする◯◯はあるのだろうかと、ちょっと不安になってきます。前から対向車がやってきたら、どうしよう


【泉谷の棚田】

細い山道を走り目指したのは、ここ。「日本棚田百選」の1つに認定されている「泉谷の棚田」です。平均標高470メートル、北西に向かって開けた約4ヘクタールの斜面に、95枚の棚田が広がっています。幾重にも等高線を描きながら広がる石積みの棚田の風景は絶景です。冬季の今はこんな感じですが、緑が映える夏季にはメチャメチャ美しい風景が広がることでしょうね。

愛媛県道56号内子河辺野村線は県道といってもこんな感じの道路です。山が多い四国では、「酷道ヨサク」で有名な国道439号線をはじめ、国道や県道(険道)でもこんな感じの対面通行不能の細い山越えの道路が幾つもあります。進行方向右側は岩肌が剥きだし、左側は高い崖になっています。運転には注意が必要です。

写真は走行中ではなく、ちゃんと停車してサイドブレーキを引いた状態で撮影しています。


【泉ヶ峠】

内子町と大洲市(旧河辺村)の境のある泉ヶ峠の最高地点(標高約850メートル)あたりは濃い霧に覆われていました。文久2(1862)326日、国境の韮ヶ峠を越えた坂本龍馬、沢村惣之丞、那須俊平の3人は、その夜、この泉ヶ峠に着き、脱藩後、伊予路での第一夜を過ごしました。現在、この峠には、樹齢450年の杉が生茂るのみで、その昔、宿が建っていた面影は何も残っていませんが、この泉ヶ峠は、土佐国と伊予国を結ぶ街道のうち大洲の城下町を通らずに長浜港まで抜ける抜け道が通り、宿となる施設もあったところでした。本当はここで脱藩のため坂本龍馬達が歩いた道の痕跡を少しでも辿りたかったのですが、周囲にクルマを駐車する適当なスペースが見つからなかったのと、あまりに霧が濃いので、危険と判断し諦めました。確かにここは人目を忍んで脱藩するにはいい場所かもしれません。


【河辺ふるさとの宿】

ここ河辺は今は大洲市に属していますが、喜多郡東部に位置し、肱川の支流の一つである河辺川の上流域にあたります。四方を山に囲まれ、東は小田町(現在は内子町)、西は肱川町(現在は大洲市)、南は野村町(現在は西予市)、北は内子町・五十崎町(現在は内子町)に接していますが、肱川町との境を除きいずれも山で接しており、それぞれの町との往来も険しい峠道を越えてになります。地形急峻で、全面積の8割以上が山林です。

この大洲市河辺町を目指したのは、ここを訪ねてみたかったからです。「河辺ふるさとの宿」です。この「河辺ふるさとの宿」は廃校になった小学校の建物をそのまま利用した宿泊施設です。残念ながらこのあたりを通っている道路は土佐藩と大洲藩を結ぶ旧街道で、実際には坂本龍馬達が脱藩に使っておらず、もう少し山の中の抜け道を通って脱藩したのですが、ここには坂本龍馬脱藩に関する資料館等があるので、訪れました。


河辺ふるさとの宿」の横に、幕末の英傑、あの「坂本龍馬」の銅像が立っています。この河辺は坂本龍馬が土佐国の高知から梼原村を抜け、宮野々関所を破り、韮ヶ峠にあった土佐藩・大洲藩(伊予国)の藩境を越えて最初にやって来た(すなわち、脱藩した)ところです。文久2(1862)324日、土佐藩の郷士・坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐藩を脱藩し、ここから維新動乱の渦中に身を投じ、脱藩後僅か5年間という短い生涯でしたが、幾多の活躍により「幕末の英傑」と呼ばれるようになります。

「飛翔の像」と題されたこの銅像に、坂本龍馬と一緒に立っているのは、龍馬と一緒に脱藩した盟友の沢村惣之丞()と、脱藩の道案内をした那須俊平()です。実は大洲藩と坂本龍馬の繋がりは深く、脱藩の際に領内を通過することをスルー(黙認)したばかりでなく、長浜港から長州の三田尻港(防府市)まで藩船「いろは丸」に乗船するのもスルー(と言うか、大洲藩が脱藩の手助けをしたのかもしれません)。さらには、坂本龍馬が海援隊を設立した際には、大洲藩が所有していたイギリス製の最新蒸気船「いろは丸」を海援隊に貸与したりして、坂本龍馬の活躍を陰で支えました。この「いろは丸」は海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こしたことで知られています。

このように、脱藩したことで土佐藩の直接援助を得られなくなった坂本龍馬を、脱藩後に後ろから支えたのは、実は大洲藩でした。外様の大洲藩はもともと勤王の気風が強く、幕末期には早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4(1868)の鳥羽・伏見の戦いでも石高6万石の中規模藩ながら新政府軍に参陣し、最前線で活躍しました。大洲藩って、薩摩や長州、土佐と言った大規模な外様藩と比べると目立たないので、幕末を舞台にした小説やドラマなどではほとんど取り上げられることはないのですが、坂本龍馬をキーワードにして眺めてみると、幕末期において、実に素晴らしい働きをしているのですよね。もっと脚光を浴びていい藩だと、私は思います。内子の木蠟のところで触れましたが、明治維新後は木蠟の輸出という財政面で日本国の近代化にも大いに貢献しているし。

 「坂本龍馬脱藩之日記念館」です。坂本龍馬の脱藩に関する様々な記録が展示されています。


坂本龍馬と言えば、この方ですね。フォークグループ「海援隊」の武田鉄矢さんです。現在、坂本龍馬脱藩の道は地元の人達の手で昔のままに整備されていて、そこを歩けるようです。武田鉄矢さんもその道を歩かれたようです。さすがに武田鉄矢さん。この大洲が坂本龍馬にとって重要な意味を持つところだということを、お分かりのようです。坂本龍馬を英雄へと導いた「坂本龍馬脱藩の道」、旧街道歩きを趣味にしている私の好奇心を大いに擽りました。いつか歩いてみようと思っています。

ちなみに、坂本龍馬は、この河辺から大洲を抜け、肱川の河口にある長浜から大洲藩の藩船いろは丸に乗って瀬戸内海を渡り、長州の三田尻港へと至りました。最終目的地は下関にある白石正一郎邸でした。この脱藩の道は、龍馬が脱藩する時、高知から下関まで同行した沢村惣之丞の口述を記録した文書に基づいています。

坂本龍馬の土佐藩を脱藩して長州に向かった脱藩路のルート上には、実は大洲藩しか存在しません。このルートを眺めていると、坂本龍馬の脱藩には大洲藩が深く関わったとしか思えません。

「坂本龍馬脱藩之日記念館」の隣は「才谷屋」。才谷屋は坂本家の本家で、高知城下でも屈指の豪商の屋号です。純日本建築造りの昔ながらの日本の民家を再現して建てられた宿泊施設です。いいですねぇ。いつか泊まりたい。

「河辺ふるさとの宿」の近くにも屋根付橋が幾つかあります。この橋は豊年橋。「河辺ふるさとの宿」がオープンした際に架けられた観光用の橋のようです。このあたりの屋根付橋は長さが長いです。


愛媛県道56号内子河辺野村線は、現在、この大洲市河辺町三嶋と西予市野村町惣川の間は通行不能区間になっているのですが、その野村町惣川からは愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線が伸びています。この愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線は野村町惣川を出るとすぐに愛媛県と高知県との県境を越えます。その県境は四国山地の標高1,0001,400メートル以上の尾根にあり、日本三大カルストの1つ四国カルストが広がっています。カルストとは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食されてできた地形で、鍾乳洞などの地下地形も多く形成されています。


【御幸の橋】

愛媛県道56号内子河辺野村線をさらに奥に進みます。屋根付橋の1つ、「御幸の橋」です。現在、河辺地域には八つの屋根付橋が存在しており「河辺浪漫八橋」と呼ばれていますが、その中でも、この御幸の橋が最も古く、現在架かっている橋は明治19(1886)に完成したと伝えられています。

御幸の橋は向こう岸にある天神社の参道を横切って流れる河辺川(肱川の支流)に架かる屋根付橋で、桁行8.3メートル。屋根は切妻造りの杉皮葺きで、欄干には擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれる装飾が付けられ、「御幸乃橋」と刻名されています。平成22(2010)には屋根の葺替え修理が行われました。

この御幸の橋の向こう側には坂本龍馬が脱藩時に通ってきた山道があります。この山道を登った先に脱藩路中最高地点の榎ヶ峠があり、土佐藩を脱藩した坂本龍馬達はこの山道を下り、ここに架けられていた当時の御幸の橋を渡って、また山の中を通る抜け道を歩き、まずはここに来るまでに通った内子町と大洲市(旧河辺村)の境のある泉ヶ峠を目指しました。なので、多くの龍馬ファンに親しまれている橋です。

これがその抜け道のようです。

天神社に参拝して、大洲市方面に下ることにしました。ここの天神社は菅原道真を祀った神社なのだそうですが、随分と寂れています。ただその分、不思議なオーラを感じさせる神社です。


河辺川に沿って愛媛県道55号小田河辺大洲線を大洲に向かいます。この道路も県道といっても道幅が狭く、ところどころに前からやって来るクルマを退避するための場所があります。

鹿野川大橋のところで河辺川は肱川の本流と合流するのですが、同時に鹿野川大橋を渡ったところで愛媛県道55号小田河辺大洲線も国道197号線と合流します。この国道197号線は高知県高知市を起点としていて、幕末の頃、土佐国から伊予国へ抜け長州に渡る利便性によって志士たちの脱藩ルートと多くの区間で重なり、坂本龍馬や吉村寅太郎ら土佐勤王党の志士たちも脱藩するために通った道が、現在の国道197号だとも言われています。このことから、このルートは「脱藩道」や「維新の道」とも呼ばれており、特に、高知県高岡郡津野町から同郡檮原町梼原までの30.8kmの区間は、土佐勤王の志士脱藩の歴史ある道として、「日本の道100選」にも選ばれています。このあたりから大洲市肱川町(旧 喜多郡肱川町)に入ります。大洲市も平成の大合併で随分と広くなったものです。

 

【八大龍王神社】

その鹿野川大橋を渡った左手に赤い大きな鳥居があり、「八大龍王神社」の文字が掲げられています。日本では古くから龍(や大蛇)は雨や川といったものと深く関係する水の神だとされており、竜王(竜神)を祀った八大龍王も昔から雨乞いや治水の神様として祀られ、日本各地に八大龍王に関しての神社や祠が点在しています。この八大龍王神社もその1つのようです。

今は穏やかな流れの肱川ですが、一昨年の7月に起きた西日本豪雨では、この鹿野川大橋のすぐ上流にある鹿野川ダム、さらにその上流にある野村ダム(西予市野村町)も耐えきれずに緊急放流を余儀なくされ、その結果、この辺り一帯を含む下流域の大洲市内でも氾濫を起こし、9名の流域住民が犠牲となったほか、建物や田畑に甚大な被害が出ました。

 その肱川、そして鹿野川ダムに極めて近いところにある八大龍王神社ですので、一昨年の西日本豪雨で犠牲になられた方々のご供養と、二度とこういう災害が起こらないことへの祈りのため、参拝させていただきました。

二の鳥居をくぐったところからは苔むした道が続きます。前日からの雨で滑りやすくなっているので、足元を用心しながら進みます。

八大龍王神社の拝殿です。神殿はこの奥の山の上にあるようで、さらに赤い鳥居が見えます。


冬の陽は短く、かつ山あいの場所なのであたりは徐々に暗くなりかけてきています。大洲市内で訪れてみたいところはあったのですが、明るいうちにそこまで到着するのは時間的に無理と判断し、今日は緩やかな肱川の流れを右手に見ながら、松山に帰ることにしました。

いやぁ〜、大洲藩は見どころたっぷりです。しかも、道後温泉や松山城といった松山市とは全く異なる魅力が溢れるところで、面白いです。愛媛県の魅力はこの“多様性”にあると、改めて再認識しました。

現在の重信川の西側が概ね大洲藩で、大洲藩の藩領には現在の伊予市や伊予郡砥部町といった地域も含まれるので、まだまだ大洲藩を見て回って、大洲藩の魅力が分かったとは言い難い状況なのですが、キリがないので、このくらいにして、次の藩に移ります。

さぁ〜、『伊予八藩紀行』、次はどこに行こう?


2020年8月13日木曜日

伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)

公開日2020/04/02

晴れ時々ちょっと横道]第67回

 伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)


66回に引き続いて、伊予八藩紀行【大洲藩】の第2弾です。

一口に大洲藩と言っても旧愛媛県喜多郡や伊予郡一帯を指すので、面積がかなり広いです。調べてみると、前回に訪れた大洲市内中心部以外にも、私の好奇心を刺激する魅力的なところがいっぱいあります。第2弾で訪れたのは、木蠟(もくろう)や、その原材料となるハゼの流通で財をなした白壁の商家が建ち並ぶ町並みが保存されていることで知られる内子町(喜多郡内子町)と、あの幕末の英傑・坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、維新動乱の渦中に身を投じた最初の地である大洲市河辺町(旧喜多郡河辺村)です。

 

【内子・八日市護国地区

まずは内子町。ここは江戸時代から明治・大正にかけての雰囲気が色濃く残る町並みが人気のスポットで、ノスタルジックな旅が大好きな方には絶対お薦めの場所です。

愛媛県喜多郡内子町は県都松山市から南西に約40km。一級河川・肱川の支流である小田川に沿った盆地にある人口15千人ほどの小さな町です。古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町です。江戸時代から明治時代にかけては和紙と木蠟の生産で大いに栄え、特に木蠟は品質の高さで海外でも高く評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。

大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蠟生産は衰退したのですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ町並みが、今でも八日市・護国地区に残っています。この歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在でも地元の人々の努力により保存されています。女性観光客が喜びそうな竹細工のお店があります。


 これは理髪店(床屋)です。常夜灯がいい感じです。

国の重要文化財に指定されている上芳我邸です。上芳我邸は、江戸時代から明治時代にかけて木蠟生産で大いに栄えた豪商です。内子の木蠟生産の基礎を築き、その発展の中心となった芳我(はが)家の分家で、文久元年(1861)にこの地に出店を構えました。本家を本芳我家と呼ぶのに対して、上芳我家と通称されています。


主屋は内子の木蠟生産が最盛期であった明治27(1894)に上棟された建物で、往時の豪商の暮らしぶりを窺うことができます。邸内には釜場や出店倉、物置などの木蠟生産施設も一体で往時のままで残されており、居住施設と木蠟生産施設合わせて10棟がまるまる国の重要文化財に指定されています。

大変な豪商だったようで、建物はどれも極めて良質の材を用いた立派なもので、敷地も往時の面影をよく残しています。敷地も含め建物は現在も芳我家の所有のままですが、内子町が管理しています。

生蠟(きろう)です。ハゼノキ(櫨の木)の実を粉にして、蒸して搾ったものです。

木蠟の原料はハゼノキ(櫨の木)の実です。この実を粉にし、蒸して搾ったものを生蝋(きろう)、これを漂白したものを白蠟(はくろう)または晒蠟(さらしろう)と言います。いずれも総称して木蠟(もくろう)と呼ばれます。生蠟は和ロウソクや鬢付け油、白蠟はかつては石鹸、光沢剤、蠟細工等の原料として使用され、近年では化粧品、医薬品、文房具(クレヨンや色鉛筆)等に使用されています。

こちらは白蠟(はくろう)。生蠟を漂白したものです。内子産の白蠟は品質の高さで海外でも高く評価され、明治時代から大正時代にかけて、日本の重要な貿易商品でした。最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。

内子の背後の四国山地の高い山々は良質なハゼノキが自生していた産地で、内子は白蠟の生産が多く、品質が良いことでも知られ、その多くが海外に輸出され、大きな利益をもたらしました。明治時代、白蠟は絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、首都圏から遠く、教科書にも載っていないのでほとんど知られておりませんが、ここ内子は日本の近代化を支えた極めて重要なところでした。

生蠟、白蠟の原料となるハゼノキ(櫨の木)の実です。内子の背後にある四国山地の高い山々は良質なハゼノキの産地でした。

中庭を囲むように、主屋、炊事場、仕舞部屋、便所、産部屋、離座敷、風呂場棟が配置されています。

和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに装飾として設置される板状の瓦、通常は鬼瓦であったり鯱鉾であったりするのですが、上芳我邸のそれは船の舳先の形をしています。これは広く海外に木蠟を輸出していたことで、海上輸送の安全を願ったものです。よく見ると、屋根の最も高い位置に設置される棟瓦には、細かい波の装飾が施されています。

建物はどれも極めて良質の材を用いた立派なもので、贅を尽くしています。主屋の内部です。

ここは離座敷。客人用で、大事な商談もこの部屋で行われました。

主屋2階は座敷とする計画だったのですが、間仕切や造作が作られないまま現在に至っているため、小屋組がよく分かります。

主屋3階です。ここは倉庫として使われていたようです。

蠟という非常に燃えやすい商品を扱っていたので、自前の消火設備も保有していました。

30坪もの広さがある炊事場です。屋敷の使用人や職人達の食事も賄っていました。内部には井戸、流し、戸棚、かまど()、煙突など、炊事に必要な設備が揃っています。

邸内には木蠟生産の工程を紹介する展示棟(木蠟資料館)もあり、豪商の暮らしぶりと木蠟産業について見学できます。

内子の製蝋業は、享保年間、大洲藩が殖産興業のため櫨蝋(はぜろう)の生産を奨励したことに始まります。その後、本家の本芳我家初代・弥三右衛門が独自の晒し技術「伊予式蠟花箱晒法」を開発したことにより、生産量、品質が向上。日本有数の産地となりました。「伊予式蠟花箱晒法」とは、弥三右衛門が深夜厠に立った際、手に持った蠟燭からこぼれ落ちた蠟が手水鉢の水に触れて白く弾けたことにヒントを得て開発したと伝わっている独自の晒し技術です。水に弾けた蠟の小片(蠟花)を箱(蠟蓋)に入れ、棚に並べて天日に晒しました。

最盛期である明治時代中期には、山間部でハゼ()の実の収穫、生蠟の生産が行われ、内子の市街地では主に白蝋の生産、出荷が行われていました。しかし、大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により需要が激減。内子では大正13年を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。


内子の木蠟は、その品質の高さで、当時、パリやシカゴ、セントルイスなどで開催された複数の万国博覧会で上位表彰を受け、内子の木蠟は日本を代表するブランドになっていました。


こちらは本芳我家住宅。木蠟生産で大きな財を成した豪商、芳我家の本家(本芳我家)の屋敷です。豪商の屋敷らしく、建物は贅を尽くしたもので、随所に漆喰を使った鏝絵(こてえ)、懸魚(げぎょ)、海鼠壁(なまこかべ)、弁柄(べんがら)の出格子(でごうし)、鬼瓦などに上質な意匠が見られます。また、主屋に隣接する土蔵にも、当時の商標「旭鶴」の鏝絵が今も輝いています。この本芳我家住宅も国の重要文化財に指定されています。

本芳我邸は現在も芳我家が住居としてお使いなので、内部を見学することはできませんが、お庭の一部だけは見学することができます。とても個人のお宅のお庭とは思えない立派な庭です。

ちなみに、「懸魚」とは屋根の“妻”の破風板の部分に施される装飾のこと。「鏝絵」とは漆喰を塗る鏝の技術で描かれるレリーフ状の装飾のこと。「海鼠壁」とは、漆喰の壁が雨で流れるのを防ぐため、壁の腰の部分に瓦を貼り、目地を漆喰で固めた装飾のことです。

本芳我家に隣接する大村家住宅です。この大村家の母屋は、寛政年間(1789年〜1801)に建てられたものと言われ、内子の古い町並みの中でも最も古い民家の1つです。平成21年〜24(2009年〜2012)にかけて修理が行われ、建てられた当初の姿に復元されました。この大村家住宅も国の重要文化財に指定されています。現在も大村家が住居としてお使いなので、内部を見学することはできません。

こちらは中芳我家住宅です。この中芳我家も芳我家の分家です。

内子は古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。その証しが残っています。八日市・護国地区の趣きのある町並みの端には、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」があります。

この八日市・護国地区の歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、また、昭和61年には「八日市道路」として「日本の道100選」にも選定されています。

私は旧街道歩きを趣味の1つとしていて、これまで中山道や甲州街道、日光街道などを歩いてきましたが、これほど歴史的情緒溢れる町並みはほとんど見たことがありません。強いて挙げれば中山道の奈良井宿や妻籠宿ですが、真っ白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ美しさという点では、この内子の八日市・護国地区の町並みが一番です。これは、和紙や木蠟といった非常に燃えやすい商材を扱う商家が多かったことで、各家が漆喰壁や卯建(うだつ)といった防火設備が当初から整っていたことと、田舎だったために第二次世界大戦中に空襲の被害を受けていないことが挙げられます。

 

【内子座】

次に訪れたのは『内子座」です。内子座は、大正5(1916)に、大正天皇の即位を祝い、地元の商家の旦那衆が建てた劇場です。木造2階建て瓦葺き入母屋造りで、回り舞台や花道、升席等が整えられました。かつてこの内子が大いに栄えた証しのような建物です。

老朽化で取り壊されるところを町並み保存運動に連動して、地元の人達の手で昭和60(1985)に開業当時の姿に修理復元され、劇場として再出発を果たしました。現在でも歌舞伎をはじめ、各種演芸で使われています。平成27(2015)に国の重要文化財に指定されました。

内子座では「奈落」と呼ばれる舞台の床下を見学することもできます。回り舞台や「せり」と呼ばれる昇降装置等がありますが、内子座ではそれらすべて昔ながらの“人力”で動かしています。


JR内子駅】

JR内子駅です。第66回のJR五郎駅のところでも述べましたが、昭和61(1986)、予讃線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間が開通し、現在はJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線の中間駅になっていますが、かつて予讃線が伊予灘の海岸線を走っていた頃は、予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸のような路線であった内子線の終着駅でした。現在でも、正式にはこの内子駅を境にして伊予市方面が予讃線、伊予大洲方面が内子線と分かれているのですが、運転系統上は一体化されており、列車はすべて相互に直通するため、運用上は途中駅同様となっています。現在は高架の駅になっていますが、駅舎は往時を偲ばせる建物になっています。

内子線の開業は大正9(1920)。開業したのは私鉄の愛媛鉄道で、当初は軌間762mmの軽便鉄道でした。その後、国有化され、現在のような1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10(1935)のことです。この愛媛鉄道は大正7(1918)には長浜駅〜大洲駅間も開通させており、明らかに内陸部の大洲・内子と港のある長浜を結ぶ鉄道路線でした。

ちなみに、愛媛県における鉄道の歴史は古く、明治21(1888)に三津〜松山(現松山市駅)間に開通した伊予鉄道が、全国で3番目の私鉄(四国で最初の鉄道。現存する私鉄では南海電鉄に次いで2番目に古い私鉄)として開業したのが最初です。東海道本線の東京〜神戸間が全通する前の年だということで、いかに早く鉄道が敷設されたかが窺えると思います。その後も、明治26(1893)には別子銅山の鉱石や資材を輸送する目的で住友別子鉱山鉄道 が創業。続いて、道後鉄道(現在の伊予鉄道の市内線)、南予鉄道(現在の伊予鉄道郡中線)、松山電気軌道(伊予鉄道城南線・本町線の一部として現存)、宇和島鉄道(現在のJR予讃線の宇和島〜吉野生間)、そしてこの愛媛鉄道と、合計7つの鉄道事業者(私鉄)が大正時代の末までに開業していました。

現在のJR予讃線は伊予鉄道が開通した翌年の明治22(1889)に私鉄の讃岐鉄道により丸亀駅〜多度津駅〜琴平駅間が開業したのを皮切りに、明治30(1897)に高松駅〜丸亀駅間が開業。山陽鉄道による買収を経て、明治39(1906)に国有化されました。その後、西に向かって線路を延ばし、大正5(1916)に観音寺駅〜川之江駅間が開業し、愛媛県内にまで線路が延びてきました。伊予北条駅〜松山駅間が開業して、松山市まで線路が延びてきたのは昭和2(1927)のこと。愛媛鉄道を買収して伊予大洲駅まで延びたのが昭和10(1935)のことで、宇和島鉄道を買収し、宇和島まで線路が延びて、現在の予讃線が予算本線として全通したのは昭和20(1945)のことです。

現在は買収や廃止が進み、愛媛県内で営業している鉄道事業者はJR四国と伊予鉄道の2社だけですが、こういう時代背景を考えると、大正時代に愛媛県内に7つの鉄道事業者が営業していたということは特筆すべきことで、それだけ当時の愛媛県人が先取の気運に満ちて、西洋の新しい技術をどこよりも早く取り入れようとしていたことが窺えます。

鉄道を敷設したということは、その区間に人や物の大きな流れがあったということ。内子線(当時の愛媛鉄道)の場合は、内子の白蠟と和紙でした。前述のように、内子の白蠟は、明治時代、絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、日本の近代化を支えた極めて重要な産品でした。なので、それらを内子から長浜港まで運び、そこから瀬戸内海を渡って神戸港へ。そして、神戸港から海外へ…というルートが日本の極めて重要な貿易路だったというわけです。内子が白蠟と和紙の取り引きで大変に栄えたことの証拠が、この内子線だったように思えます。

ただ、前述のように、大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により需要が激減し、内子では大正13(1924)を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。なので、大正9(1920)に開通した内子線は、本来の目的を十分に果たすこともなく、ただの鄙びたローカル線として、長く地域住民の皆さんの通勤通学の足として使われてきました。現在は前述のようにJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線になって、再び開業した意義をある程度取り返しているように思えます。

 内子駅前には内子線単独時代に走っていた小型の蒸気機関車C12231号機が静態保存で展示されています。

 

 ……(その4)に続きます。












愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...