ラベル 江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年8月2日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その4)



小石川後楽園をあとにして、この日のゴールであるJR飯田橋駅を目指します。神田川の上を首都高速5号池袋線の高架が通っています。



今から2年後の2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックの開催に向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。昭和39(1964)の東京オリンピック開催に向けても、今と同じように様々なインフラが整備されていきました。特に、当時は昭和30年代の高度経済成長期に首都東京の人口は急増し、加えて本格的なモータリゼーションの時代を迎えて道路交通量が飛躍的に増えてきたことから、高速道路網を中心とした交通インフラの整備が急務でした。そこで首都高速道路の建設が計画されたのですが、既に東京の都心部は、ビルや住宅の密集地となっていて、高速道路を建設するスペースなどありませんでした。江戸時代の古地図を見ても、既に住宅密集地で、江戸時代からとても高速道路を建設するスペースはありませんでした。しかも、高速道路建設の用地は公共用地利用が原則とされていました。

そこで当時の建設省(現在の国土交通省)が目を付けたのが東京の都心を網の目のように張り巡らされていた運河や河川でした。ビルや住宅の密集地の中で唯一ビルや住宅が建っていない、しかも公共用地である運河や河川を利用し、その上に首都高速道路を建設したわけです。実際、東京の街を歩いていると、首都高速道路の下が川になっている場所が多々見受けられます。現在、首都高速道路はクネクネと曲がりくねっていて、それが渋滞を多く発生させているとして問題視されることもありますが、これも計画的な用地買収ができなかったため用地買収の必要がなかった運河や河川の上や、かつて運河や河川であった場所を辿るように通っているからです。現在の首都高速道路の路線と、江戸時代の古地図を照らし合わせてみると、見事に運河や河川、外濠等と合致します。この飯田橋から後楽園、一ツ橋、そして日本橋、隅田川に至る首都高5号池袋線は江戸時代の平川、のちの日本橋川の流路にほぼ合致しますし、途中、江戸橋ジャンクションから南下して京橋方面に至る都心環状線は運河であった楓川、築地川の流路そのままです。

江戸時代、まだ自動車がなかった時代、物流の主役は圧倒的に船でした。なので、江戸の町中に張り巡らされた運河や河川、堀割り等は物流の大動脈で、この運河や河川が当時ロンドンやパリをも凌ぐ世界最大の都市であった江戸の町の発展・繁栄を支えていました。そして、今もその運河や河川は首都高速道路に姿を変えて、世界的大都市・東京の営みを支える大動脈であり続けています。神田川等の運河や堀割りの開削を命じた徳川家康がそこまで先のことを読んでいたかどうかは分かりませんが、都市計画として驚くべき先見性があったと言うしかないです、はい。とにかく、江戸は調べれば調べるほど奥が深く、面白いです。

飯田橋交差点とJR飯田橋駅です。飯田橋という橋の名称は人名に由来します。天正18(1590)、開府前の江戸で徳川家康にこの地域を案内したのが、土地の長老であった飯田喜兵衛なる人物で、家康はその功を称えて、この地域一帯を「飯田町」と命名しました。明治14(1881)、交通の便のため、新たに外濠(神田川)を跨ぐ橋が架けられ、飯田町に接する橋であることから「飯田橋」と命名されました。昭和3(1928)、当時の国鉄は飯田町駅の旅客営業および牛込駅を廃止すると同時に両駅の中間地点に新駅を設置したのですが、その際、至近であったこの橋の名をとって「飯田橋駅」と命名しました。以降、駅周辺の地域名として「飯田橋」の通り名が次第に浸透し、逆に元の「飯田町」という地名の存在感は急激に薄れていくこととなりました。

飯田橋交差点は外堀通りと目白通りの交差点であり、かつ大久保通りの起点であり、さらに目白通りと並行した神田川の対岸の通りも合流する「変則六叉路」になっています。その複雑な交差点の直下が神田川と江戸城外濠の合流点となっていて、その神田川の本流側に架かっている橋が船河原橋です。この船河原橋、現在は外堀通りに属する本来の橋と、目白通りへの左折専用の橋との2つで1セットになっています。写真の左側の橋が船河原橋で、右側の橋が飯田橋です。



船河原橋の最初の架橋年代は定かではないのですが、おそらく前述の仙台堀(神田川)が開かれて間もない頃であろうと言われています。神田川が開削されて隅田川と結合すると、この2つの川は江戸の物資運送の一大動脈となりました。神田川に沿って運ばれてきた物資は、現在の飯田橋付近で江戸城と反対側である北側の岸に陸揚げされ、船着場には船荷を扱う河岸が多く立ち並んでいました。特に、船河原橋から水道橋付近の地域は、当時小石川に屋敷を構えていた岩瀬市兵衛という幕府直参旗本の名前にちなんで「市兵衛河岸」と呼ばれていました。現在もこの船河原橋の付近には「新宿区揚場町」という町名が残っているのですが、この町名は船着場で船荷が陸揚げされていたことの名残です。




また、江戸時代、この船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたことから、別名「どんど橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていました。さらに、平川のここから上流の神田上水を分水する目白下の石堰(大洗堰)との間には紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流されていて、御留川、すなわち禁猟区となっていたことから、「おとめ(お留め)橋」とも呼ばれていました。この紫鯉はたいそうな美味で、将軍の食膳にだけ供されるものであったそうです。ただ、下流に流れ落ちた鯉を獲るぶんにはお咎めなしだったため、このあたりは数多くの釣り人で賑わった場所でもあったそうです。

ちなみに、現在の船河原橋は昭和40年(1965)に架けられた橋です。

この日は横断歩道橋で神田川を渡った先にあるJR飯田橋駅西口前がゴールでした。この日歩いた歩数は14,578歩、距離にして10.4km。今回も歩いた距離は短かったものの、江戸の町の発展と繁栄を支えた上水道設備と運河という重要なインフラの整備、さらには、徳川御三家をはじめ、江戸城の周囲に配置された各藩の藩邸など、実に多くのことが学べたように思います。

次回はこのJR飯田橋駅を出発して、江戸城の外濠に沿って四ツ谷のほうに歩きます。次回はどんな新たな発見があるのか、今から楽しみです。


【追記】
小石川後楽園のところで水戸藩徳川家をはじめとした徳川御三家の江戸藩邸、特に上屋敷に関して触れたついでに、徳川御三家の上屋敷以外の代表的な江戸藩邸とその跡地の現在について調べてみました。その結果を以下に示します。


・田安徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区北の丸公園)→北の丸公園内

・一橋徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区大手町)→気象庁

・清水徳川家上屋敷跡 (御三卿)(千代田区北の丸公園)→北の丸公園清水門

・会津藩松平家上屋敷(千代田区)→皇居前広場

・加賀藩前田家上屋敷(文京区本郷)→東京大学本郷キャンパス

・西条藩松平家上屋敷 (渋谷区渋谷)→青山学院大学

・福岡藩黒田家上屋敷 (千代田区霞が関)→外務省庁舎

・米沢藩上杉家上屋敷 (千代田区霞が関)→法務省庁舎
・広島藩浅野家上屋敷 (千代田区霞が関)→国土交通省庁舎

・松代藩真田家上屋敷 (千代田区霞が関)→経済産業省別館

・延岡藩内藤家上屋敷 (千代田区霞が関)→霞が関コモンゲート

・広島藩浅野家中屋敷他 (千代田区永田町)→国会議事堂

・彦根藩井伊家上屋敷 (千代田区永田町)→国会前庭北地区(憲政記念館等)

・田原藩三宅家上屋敷 (千代田区隼町)→最高裁判所

・熊本藩細川家上屋敷 (千代田区丸の内)→丸の内オアゾ

・岡山藩池田家上屋敷 (千代田区丸の内)→丸の内ビルディング

・土佐藩山内家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京国際フォーラム

・鳥取藩池田家上屋敷 (千代田区丸の内)→帝国劇場

・備後福山藩阿部家上屋敷 (千代田区内幸町)→帝国ホテル

・白河藩阿部家上屋敷 (千代田区内幸町)→帝国ホテル(一部)

・長州藩毛利家上屋敷(千代田区日比谷公園)→日比谷公園(一部)

・佐賀藩鍋島家上屋敷(千代田区日比谷公園)→日比谷公園(一部)

・長府藩毛利家上屋敷 (港区六本木)→六本木ヒルズ毛利家庭園(史跡・毛利甲斐守邸跡)

・仙台藩伊達家上屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(東京汐留ビルディング)

・龍野藩脇坂家上屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(電通本社)

・牛久藩山口家上屋敷 (港区赤坂)→アメリカ合衆国駐日大使館

・薩摩藩島津家上屋敷 (千代田区内幸町)→みずほ銀行旧本店

・佐土原藩島津家上屋敷 (港区三田(旧芝三田綱町))→綱町三井倶楽部

・川越藩松平家上屋敷 (港区虎ノ門)→ホテルオークラ東京本館

・丸亀藩京極家上屋敷(港区虎ノ門)→虎ノ門金刀比羅宮

・小田原藩大久保家上屋敷 (港区浜松町)→世界貿易センタービル

・久留米藩有馬家上屋敷(港区三田)→三田国際ビル

・森藩久留島家上屋敷(港区三田)→港区立三田中学校

・宇和島藩伊達家上屋敷(港区六本木)→国立新美術館

・多度津藩京極家上屋敷(港区六本木)→国際文化会館(←岩崎小弥太邸 ←井上馨邸)

・三河吉田藩大河内家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・津山藩松平家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・松本藩戸田家上屋敷 (千代田区丸の内)→東京駅

・安中藩板倉家上屋敷 (千代田区神田錦町)→学士会館

・津藩藤堂家上屋敷(千代田区神田和泉町)→和泉小学校

・紀州藩徳川家中屋敷(千代田区紀尾井町)→グランドプリンスホテル赤坂

・尾張藩徳川家中屋敷(千代田区紀尾井町)→上智大学

・彦根藩井伊家中屋敷 (千代田区紀尾井町)→ホテルニューオータニ

・米沢藩上杉家中屋敷及び米沢新田藩上屋敷(港区麻布台)→外務省飯倉公館及び麻布郵便局

・伊予松山藩松平家中屋敷(港区三田)→イタリア共和国駐日大使館(史跡・大石主税良金ら十士切腹の地)

・福岡藩黒田氏中屋敷(港区赤坂)→赤坂ツインタワー敷地

・川越藩松平家中屋敷 (港区赤坂)→アークヒルズ(サントリーホール)

・熊本藩細川家中屋敷(港区高輪)→旧高松宮邸・東宮御所(史跡・大石良雄外十六人忠烈の跡)

・島原藩松平家中屋敷 (港区三田)→慶應義塾大学

・佐賀藩鍋島家中屋敷 (港区虎ノ門)→国立印刷局・虎ノ門病院

・長州藩毛利家中屋敷 (港区六本木)→東京ミッドタウン

・広島藩浅野家中屋敷(港区赤坂)→赤坂サカス

・松代藩真田家中屋敷(港区赤坂)→アメリカ合衆国駐日大使館宿舎

・会津藩松平家中屋敷 (港区東新橋)→汐留シオサイト(ホテルヴィラフォンテーヌ汐留)

・薩摩藩島津家中屋敷 (港区芝)→屋敷の中心部はセレスティンホテルや三井信託銀行芝ビル、戸板女子短期大学など、西側は桜田通りに面し、南端はNEC本社ビルや東京女子学園等

・岡崎藩水野家中屋敷 (港区芝)→史跡・水野監物邸跡

・高田藩榊原家中屋敷 (港区芝)→旧岩崎邸庭園

・小田原藩大久保家上屋敷(港区海岸)→旧芝離宮恩賜庭園

・水戸藩徳川家中屋敷(台東区池之端)→東京大学本郷キャンパス弥生地区

・熊本藩細川家下屋敷 (中央区日本橋浜町)→浜町公園

・尾張藩徳川家蔵屋敷 (中央区築地)→築地市場

・彦根藩井伊家下屋敷 (渋谷区代々木)→明治神宮

・高遠藩内藤家四谷内藤新宿下屋敷 (新宿区内藤町) →新宿御苑

・尾張藩徳川家和田戸山下屋敷 (新宿区戸山) →都立戸山公園

・薩摩藩島津家下屋敷 (渋谷区東 旧常磐松町):常陸宮邸(常盤松御用邸)

・郡山藩柳沢家下屋敷 (文京区本駒込) →六義園

・大垣新田藩戸田家下屋敷 (文京区小日向) →拓殖大学

・久留里藩黒田氏下屋敷 (文京区関口) →椿山荘(旧山縣有朋邸宅)

・熊本藩細川家下屋敷 (文京区目白台)→肥後細川庭園、和敬塾、永青文庫

・盛岡藩南部家下屋敷 (港区南麻布) →有栖川宮記念公園

・薩摩藩島津家下屋敷 (港区白金台)→八芳園

・会津藩松平家下屋敷 (港区高輪)→オーストリア共和国駐日大使館

・安志藩小笠原家下屋敷(文京区弥生)→東京大学本郷キャンパス弥生地区

・岡山藩池田家下屋敷 (品川区東五反田)→池田山公園

・仙台藩伊達家下屋敷 (品川区東五反田)→清泉女子大学

・備後福山藩阿部家下屋敷 (墨田区本所)→ライオン本社

・宮津藩本庄松平家下屋敷 (墨田区横網)→旧安田庭園

・下総関宿藩久世氏下屋敷 (江東区清澄)→清澄庭園

・福井藩松平家上屋敷(江東区新砂)→東京国際郵便局


――――――――〔完結〕――――――――



2018年8月1日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その3)

次に訪れたのは小石川後楽園です。小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6(1629)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて水戸徳川家の江戸上屋敷内に築いた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)を、嫡男の光圀が改修。明の遺臣朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させたものです。ちなみに、「後楽園」とは宋の学者・范仲淹の著書「岳陽楼記」の中に出てくる「(士はまさに)天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に“後”れて“楽”しむ」によるものです。


7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がります。また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れています。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚な庭園になっています。

明治2(1869)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となりました (この名残で現在でも砲兵工廠の遺構のいくつかを園内で見ることができます)。明治7(1874)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになりました。大正12(1923)、国の史跡および名勝に指定されたのですが、その指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」という名称を頭に冠しました。昭和27(1952)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されています。ちなみに、特別史跡と特別名勝の両方の重複指定を受けているのは、東京都内の庭園では浜離宮恩賜庭園とこの小石川後楽園の2ヶ所だけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせた9ヶ所だけなのだそうです。

なお、昭和12(1937)に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」(東京ドーム」の前身)と名づけられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されています。この日も後楽園遊園地のほうから歓声が聞こえてきました。


小石川後楽園を取り囲む白塀の上には瓦が乗っているのですが、そこには徳川家の家紋である「三つ葉葵」と、水戸藩徳川家の家紋である「水戸六つ葵」の両方の家紋が刻まれています。


この小石川後楽園に隣接して、かつては水戸藩徳川家上屋敷がありました。江戸時代に江戸に置かれた各藩の藩邸(藩の屋敷)のことを江戸藩邸と言いますが、各藩幾つか保有していた江戸藩邸のうち上屋敷とは大名とその家族が居住し、江戸における各藩の政治的機構が置かれた屋敷のことです (江戸における大名の屋敷には当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼ばれていました)。御三家と言われる尾張藩徳川家(619500)と紀州藩徳川家(555千石)と水戸藩徳川家(28万石)の上屋敷は当初は江戸城内に置かれていたのですが、明暦の大火により江戸城内の御三家の上屋敷はすべて焼失してしまいました。明暦の大火からの復興にあたって、リスク回避の目的から御三家の上屋敷も江戸城外に置かれることになり、水戸藩徳川家が上屋敷を設けたのがこの小石川後楽園に隣接したエリアで、敷地の面積は101,831坪という広大なものでした。現在は小石川後楽園の一部や東京ドーム、後楽園遊園地となっています。

余談ですが、御三家と言われる尾張藩徳川家と紀州藩徳川家と水戸藩徳川家の上屋敷のうち、新宿区市谷にあった尾張藩徳川家上屋敷の跡地は現在は防衛省の庁舎になっており、千代田区元赤坂にあった紀州藩徳川家上屋敷は現在は赤坂御用地と迎賓館(旧赤坂離宮)になっていて、どちらも容易には立ち入ることができません。御三家のうちで私達庶民が気軽に立ち入ることができるのは現在は小石川後楽園、東京ドーム、後楽園遊園地となっている、唯一、水戸藩徳川家上屋敷の跡地だけです。その意味でこの小石川後楽園は貴重なところです。



水戸徳川家といえば徳川御三家(水戸藩、尾張藩、紀州藩)1つ。その水戸藩徳川家の第2代藩主が徳川光圀。徳川家康の孫に当たり、儒学を奨励し、彰考館を設けて水戸学の基礎を創ったことで有名です。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行いました。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行いました。さらに、徳川一門の長老として、第5代将軍・徳川綱吉期には幕政にも強い影響力を持ちました。

徳川光圀といえば、現代では白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする「水戸黄門」としてあまりにも有名です。徳川光圀は存命中から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していたのですが、江戸時代後期あたりからは『水戸黄門漫遊譚』として講談や歌舞伎の題材として取り上げられるようになり、大衆的人気を獲得しました。明治時代末期に日本でも映画製作が始まると、時代劇映画の定番として『水戸黄門漫遊記』がもてはやされ、第二次世界大戦前から戦後にかけて数十作が製作されました。戦後、テレビの時代になるとテレビドラマの揺るぎないほどの定番となり、その人気を不動のものとしています。特にTBSが東野英治郎さんを主演に昭和44(1969)から放映を始めたナショナル劇場『水戸黄門』は昭和58(1983)まで14年間も続き、その後も西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さん、里見浩太朗さん、武田鉄矢さんと水戸黄門役を代えながらも現在もパナソニックドラマシアター『水戸黄門』としてさらに続いています。

この徳川光圀の水戸黄門像は、徳川光圀が『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために佐々十竹(佐々宗淳)ら家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊が勝手にイメージされものです。実際の徳川光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度のほか日光、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録も残っていません。なので、物語はすべて完全なフィクションばかりです。

ちなみに、水戸黄門の名は、徳川光圀が徳川御三家の1つである水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称です。また、『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために各地へ派遣された家臣の筆頭で彰考館総裁であった佐々十竹(佐々宗淳)と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が「助さん(佐々木助三郎)・格さん(渥美格之進)」のモデルとされています。風車の弥七やうっかり八兵衛、さらには艶っぽいシーンで有名なかげろうのお銀さんのモデルは分かりません()

また、テレビドラマ『水戸黄門』では格さん(渥美格之進)が「この方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」というお決まりのシーンがあまりにも有名ですが、残念ながら江戸幕府に“副将軍”という役職は存在せず、実はこれも架空のものです。そもそも御三家は、万一、徳川本家が断絶した時の備えとして初代将軍徳川家康が作った制度とされていますが、当初、御三家と言われる尾張藩徳川家と紀州藩徳川家と水戸藩徳川家では役割が大きく異なっていました。万一、徳川本家が断絶した場合は尾張藩徳川家、または紀州藩徳川家から養子を出し、水戸藩徳川家はこれを補佐するものとするという役割分担でした。さらに、当初は将軍家(徳川本家)・尾張藩徳川家・紀州藩徳川家を御三家といい、第2代将軍徳川秀忠の三男である駿河藩主徳川忠長が甲府に蟄居のうえ改易されるまでは尾張徳川家・紀州徳川家・駿河徳川家が御三家と呼ばれた時代もありました。水戸藩徳川家が御三家に加わるのは徳川忠長改易の後のことです。

家格の点では、その成り立ちからして尾張藩徳川家・紀州藩徳川家に劣り、官位・官職・禄高の点でも両家の下に位置づけられていました。例えば、禄高で言うと、尾張藩徳川家の表石高は619500石、紀州藩徳川家は555千石であるのに対して、水戸藩徳川家は28万石でした。そのいっぽうで、水戸藩徳川家は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を免除された江戸定府の藩であり、朝廷に次期将軍を奏聞したり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持つなど、常に将軍を補佐する役割を期待された藩でした。このように、家格や将軍の継承権では劣ってはいたものの、常に将軍の傍にいることから、水戸藩主は俗に「副将軍」と呼ばれるようになったと推測されます。

(なお、徳川光圀は水戸藩歴代藩主で唯一の水戸生まれでしたが、前述のように参勤交代を免除されていた水戸藩徳川家では、帰国は藩主からの申し出によるものであり、藩主時代に計11回しか帰国していません。それでもこれは歴代藩主の中では最多で、その後の藩主は藩の財政悪化もあり、ほとんど帰国しなかったと言われています。また、光圀は隠居してから没するまでの約10年間を水戸藩領内で過ごしたので、水戸藩領内における関連した光圀関連の史跡は後の藩主に比べると格段に多いと言われています。)

徳川光圀は存命中から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していた…ということを書きましたが、果たして名君であったのかどうかは甚だ疑問が残るとされています。先ほど尾張藩徳川家の禄高は619500石、紀州藩徳川家は555千石であるのに対して、水戸藩徳川家は28万石でしかなかったいうことを書きましたが、同じ御三家を言われる徳川家にあって、2倍以上というこの禄高の差はプライドの異常に高い徳川光圀にとっては屈辱的なことでした。そこで光圀がやらかしたことがとんでもないことでした。光圀は他の御三家に対抗するため、検地(倹地:田畑の面積と収量の調査)の際、当時1間=63寸だったのを6尺に改め、表石高が28万石だった水戸藩を、見かけ上、369千石にしてしまったのです。この実態(内高)とは大きくかけ離れた表石高が次代の徳川綱條の代に幕府に認められることとなり、その後の水戸藩の財政困窮の大きな要因となったようです。

前述のように、水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石高の修正を行ったため、内高(実質)が表高(格式)を恒常的に下回ることになりました。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も369千石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなってしまいました。これに上記の大日本史編纂事業とあいまって水戸藩の財政困窮の決定的な要因となってしまいました。もちろん、徳川光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきなのですが、その一方で藩の財政の悪化を招き、ひいては領民への過度な負担を強いたことにより農民の逃散が絶えなかったという側面も存在し、単純に「名君」として評することはできないという声もあるようです。

小石川後楽園の園内に入ります。庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっていて、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されているのが特徴になっています。

まず、目に入って来るのがこの大泉水です。大泉水は小石川後楽園の中心的景観で、蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれています。


内庭です。もともと水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門を隔てて、大泉水のある「後園」と分かれていました。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれていたと伝えられ、池を中心にした純日本式の庭園です。小石川後楽園の昔の姿をそのままとどめているといわれています。


明治4(1871)、明治新政府は水戸藩徳川家上屋敷の庭園を除く跡地に小銃を主体とした兵器製造工場(東京砲兵工廠)や砲兵工科学校を設立しました。そのほか国の施設で使う金属加工品や銅像の鋳造なども行なっていました。しかし、大正12年の関東大震災で壊滅的な被害を受け、33晩、地下に埋設した弾薬の破裂音が鳴り響いたと伝わっています。この東京砲兵工廠はあまりに被害の程度が大きかったため復旧がかなわず、昭和4年から昭和10年にかけて兵器製造工場は九州の小倉工廠や北区赤羽に順次移転し、66年間の銃器機製造の幕を閉じました。


東京砲兵工廠の国有跡地は、昭和11(1936)、新設された後楽園スタヂアムに売却され、その翌年、職業野球専用の後楽園球場が開場しました。さらに、昭和24(1949)、東京都が戦後復興策として後楽園球場の隣接地に後楽園競輪場を開設したのですが、昭和42(1967)、東京都知事に美濃部亮吉氏が当選するとギャンブル廃止の方針のもと取り壊され、ジャンボプールやゴルフ練習場に様変わりしました。昭和63(1988)に競輪場跡地に日本初の屋根付き野球場の東京ドームが完成しました。後楽園球場は昭和62(1987)度の日本シリーズ(西武ライオンズ×読売ジャイアンツ)が公式戦最後の野球の試合となり、その後取り壊され、跡地にはプリズムホールや東京ドームホテルが建設されています。

「藤田東湖先生遺蹟」という標柱が立っています。藤田東湖は、幕末期の水戸藩士で、戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された人物です (武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称されることもあります)。特に水戸学藤田派の大家として著名で、全国の尊皇志士に大きな影響を与えました。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、この水戸藩小石川上屋敷の藤田東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどです。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など幕末期に名を残した人物が次々と藤田東湖を訪ねてやってきたことが記録に残されています。そこでは単に一方的に藤田東湖の薫陶を受けただけでなく、訪ねてきた若者同士がこの国の将来について熱い議論を展開しました。そういう日本の若者達の出会いと自己研鑽の“場づくり”をした意味でも、明治維新に向けて水戸藩士・藤田東湖の果たした役割は極めて大きいと言えます。ちなみに、水戸藩徳川家は親藩の御三家であると同時に、水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦さが起きたならば、躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされ、この家訓が水戸学の基本となっていました。


その藤田東湖は安政2(1855)102日に発生した安政の江戸地震に遭い死去しました。関東地方を襲ったマグニチュード7とも伝えられるこの直下型の地震で、彼は母親を守り脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したと伝えられています。実にあっけない最期でした。享年50歳でした。

ちなみに、世にいう「安政の大地震」は、特に安政2(1855)に発生した安政江戸地震を指すことが多いのですが、この前年にあたる安政元年(1854)に発生した南海トラフを震源とする超巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、そのほか伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な地震も含めて「安政の大地震」と総称されることもあります。アメリカ合衆国との間で日米和親条約を締結し、日本国が長い鎖国の時を経て開国したのがその安政江戸地震の前年の嘉永7(1854)33日。その開国から8ヶ月後の嘉永7年(1854)114日、5日と相次いで南海トラフを震源とした巨大地震である安政東海地震、安政南海地震が発生し、さらには翌年の安政2(1855)102日には江戸の町に大きな被害をもたらす安政江戸地震が発生したわけです。上記のように安政年間はこのほかにも大きな地震が次々に日本列島を襲い、世情が極めて不安定になった時期でした。そうした中、安政5(1858)から安政6(1859)にかけて「安政の大獄」が起き、安政7(1860)33日には江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺(桜田門外の変)。そして慶応3(1867)1014日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許しました。いわゆる「大政奉還」です。で、その江戸幕府最後の将軍となった第15代将軍徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の実子です。

学校で習う日本史においては幕末を語る際にこの「安政の大地震」について触れることはほとんどありませんが、南海トラフを震源とした超巨大地震が日本列島を襲ったわけです。この地震による直接的な被害や復旧・復興に向けての途方もないく巨額の財政支出が江戸幕府の統治を急速に弱体化させていったことは想像に難くありません。なので「大政奉還」なのでしょう。そういう目で幕末を眺めてみると、幕末という時代も学校で習ったものとはまるで違ったように見えてきます。そして、その幕末、徳川御三家の1つ、水戸藩徳川家が非常に重要な役割を果たすことになります。

小石川後楽園にの赤門があって、そこを出ると、お稲荷さんの祠が建っています。前述のように水戸藩徳川家は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を免除された江戸定府の藩であったのですが、歴代の藩主は藩の財政の悪化もあり、ほとんど水戸藩の領地に帰国することはなかったと言われています。その代わりにこの上屋敷に隣接した稲荷神社で、水戸藩の繁栄を遠くから日々祈っていたと言われています。


九八屋です。この茅葺の建物は江戸時代の酒亭を復元した建物です。もともとの建物は、江戸時代に作られたものでしたが、戦災により焼失してしまい、現在の建物は昭和34年(1959)に復元されたものです。九八屋の解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋なんですね。



美女の形容として使われる言葉に「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」というのがありますが、その牡丹(ボタン)の花です。原産地は中国西北部で、中国では唐の時代以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになったと伝えられているのですが、この花を見れば、それも分かります。小石川後楽園は四季折々の花が楽しめる場所としても有名で、小石川植物園が隣接してあります。その小石川植物園は江戸時代小石川養生所だったところです。小石川養生所は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設で、第8代将軍徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相の主導した享保の改革における下層民対策の1つとして、享保7(1722)に小石川薬園(現在の小石川植物園)内に開設されました。建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置されていたのだそうです。


園の北側地域は、景観が一変します。梅林、稲田、花菖蒲、藤棚等の田園風景が展開します。庭園の中に稲田があるのは、この小石川後楽園くらいのもので、珍しいものです。これは農民の苦労を、徳川光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようとして作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。


小廬山です。ここは一面笹で覆われた円い築山で、その姿形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたものです。山頂からは庭園全体を見おろせます。


清水観音堂跡です。ここにはかつて京都の清水寺を模した観音堂が建っていたのですが、大正12年の関東大震災で焼失したのだそうです。


得仁堂です。この建物は、徳川光圀が18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置したと伝わっている堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。


愛宕坂です。ここは京都愛宕山の坂にならって造られたもので、47段の石段から成っています。


大堰川です。ここは小石川後楽園で川の景色を代表する場所となっていて、その名は、京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんでおり、昔は神田上水から水車で水を汲みあげて流していました。ちなみに小石川後楽園があるあたりは小石川台地の先端に位置していて、近くを神田上水が流れていたことから、神田上水の水を引入れて築庭されました。


円月橋です。徳川光圀が篤くもてなした明の儒学者・朱舜水が設計したといわれる石橋で、水面に映る様子と合わせると満月のように見えるので、この名がつけられました。現在は渡ることはできません。


萱門跡です。この萱門では門外に水車を設け、傍を流れる神田上水の水を汲み上げて小廬山(庭園内)に通したと言われています。この萱門は第二次世界大戦の戦災により焼失しました。


若い大道芸人がコマの曲芸を披露していました。これも江戸の街の1つの風俗でした。いいですねぇ~。


ちょうど5月。小石川後楽園の周囲は色とりどりのサツキの花で溢れていました。綺麗です。



……(その4)に続きます。



2018年7月31日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その2)


本郷給水所公苑を出たところから「忠弥坂」を下ります。本郷台はちょっとした標高があるので、この坂もかなり急な勾配になっています。


この坂の上のあたりに浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名な槍の名手・丸橋忠弥の槍の道場があって、丸橋忠弥が慶安4(1651)に由井正雪とともに江戸幕府転覆を企てて失敗に終わった慶安事件の際に丸橋忠弥が捕らえられた場所にも近いということで、この坂の名称が付けられました。

慶安事件は前述のように、由井正雪や丸橋忠弥らが中心となって慶安4(1651)に江戸幕府転覆を企てて起こしたクーデター事件で、由井正雪の乱と呼ばれることもあります。徳川家康が江戸に幕府を開いてから50年近くが経過したこの頃、江戸幕府では第3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていました。また、関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人が溢れていました。浪人の中には、武士として生きることを諦め、百姓や町人に転じるものも少なくありませんでした。しかし、浪人の多くは、自分達を浪人の身に追い込んだ幕府の政治に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在していて、これが大きな社会不安に繋がっていました。優秀な軍学者であった由井正雪は徳川将軍家や各地の大名家からの仕官の誘いを断り、独自の軍学塾「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていたのですが、正雪はそうした浪人達の支持を集めました。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には幕府の政治を批判する多くの浪人が集まるようになっていました。

そのような情勢の下の慶安4(1651)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなりました。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った由井正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始しました。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人達を味方に付けて、幕府を支持する者たちを完全に制圧する…という作戦でした。

しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまうことになります。慶安4(1651)723日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛されました。その前日である722日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、725日、駿府に到着し、駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したのですが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。その後、730日には首謀者である由井正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、810日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫してしまいました。

江戸幕府では、この慶安事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を教訓に、老中・阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直して、各藩には浪人の採用を奨励するなど浪人対策に力を入れるようになりました。その後、江戸幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになります。

忠弥坂を下りきったところに、大正2(1913)に開館した宝生(ほうしょう)流の能楽専門の公演場である宝生能楽堂があります。


讃岐金刀比羅宮東京分社です。宝生能楽堂からこの讃岐金刀比羅宮東京分社にかけてのあたり一帯はもともと讃岐高松藩松平家の下屋敷のあったところです。この讃岐金刀比羅宮東京分社は讃岐高松藩松平家の第13代当主で本郷学園理事長・校長や日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任された松平賴明(よりひろ)さんが寄進し、昭和39(1964)に建立されたものです。神社としては比較的新しいものですが、ここが讃岐高松藩松平家の下屋敷跡だということに大きな意味があります。この下屋敷に隣接して讃岐高松藩松平家の上屋敷もありました。この讃岐高松藩松平家の藩邸に関しては、次に訪れる小石川後楽園のところで、水戸藩徳川家との関係で出てきます。


また、東京にある金刀比羅宮としては港区虎ノ門にある金刀比羅宮が有名ですが、こちらは讃岐丸亀藩61千石・京極家の上屋敷内に勧請されたものです。万治3(1660)、讃岐丸亀藩の藩主となった京極高和が芝・三田の江戸藩邸(上屋敷)に金毘羅大権現を勧請したものを、延宝7(1679)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座したものです。丸亀は金刀比羅宮への金毘羅詣りの海路と陸路の拠点として繁栄したところです。なので、東京の金刀比羅宮はあくまでも旧丸亀藩上屋敷跡にある虎ノ門の金刀比羅宮で、同じ讃岐国といっても讃岐高松藩の金刀比羅宮は分社ということなのでしょう。

ちなみに丸亀(香川県丸亀市)は私が中学高校時代を過ごしたところで、私が通った香川県立丸亀高校は総高として約60メートルと日本一の高さを誇る見事な石垣で有名な丸亀城の南側、かつて侍屋敷が建ち並んでいた内濠に面した六番町にありました。なので、丸亀藩上屋敷跡と聞くと、メチャメチャ身近に感じられます。


神田川に架かる水道橋です。この水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していました。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあったようですが、この寺院は明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転しています。寛文12(1670)の地図では「水道橋」と表記されていることから、明暦の大火以降、水道橋と呼ばれるようになったようです。この橋の名称は、橋の下流に神田上水の懸樋があったことに由来します。前述の東京都水道歴史館のところでも述べましたように、江戸時代初期の神田上水は、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、そこからこの場所で神田川を懸樋で渡して、神田・日本橋方面に給水をしていました。


現在の水道橋は、昭和3(1928)に、長さ17.8メートル、幅30.7メートルの鋼製の橋に架け替えられました。現在の橋は昭和63(1988)に架け替えられたもので、先代の橋でよりやや大ぶりの橋となっています。現在の橋には上下各4車線の白山通り(東京都道301号白山祝田田町線)が通り、地下には都営地下鉄三田線が通っています。白山通りは、水道橋の左岸側の水道橋交差点で外堀通りと交差します。また、右岸側にはJR中央本線が通り、水道橋駅東口が至近にあります。都営地下鉄三田線の水道橋駅は水道橋交差点の北側にあり、橋を渡っての乗換となります。なお、この水道橋は東京都千代田区と文京区の区境になっています。


神田川を少しだけ下流のほうに進みます。ここに神田上水を神田・日本橋方面に分水するための「お茶の水分水路」があった跡を示す石碑が立っています。


さらにもう少し進むと、水道橋という橋の名称の由来となった神田川に架かる懸樋の跡を示す石碑です。石碑には当時の様子が描かれています。


戻って水道橋を渡ります。先ほど渡ったお茶の水橋と違って、同じ神田川でも水面までの距離が近いことが分かります。こういうことからも、いかに神田山(現在の本郷台、駿河台)が高い山(台地)だったかが窺えます。



水道橋で神田川を渡った先にあるのがJR総武線の水道橋駅です。


三崎稲荷神社です。三崎稲荷神社は、800年以上前の寿永元年(1182)に武蔵国豊島郡三崎村(現在の千代田区神田三崎町)の鎮守の社として創建されたと伝わっています。ちなみに、ここ“三崎町界隈”は、かつて日比谷入り江に突き出した岬でした。そのため、「三崎村」と呼ばれるようになったとされています。神社の正式な社号は「三崎稲荷神社」なのですが、金刀比羅神社を合祀しているため、地元では「三崎神社」と通称されています。現在の場所に移転したのは明治38(1905)のことで、それまでは徳川家康による日比谷入り江の埋め立て工事や江戸城外濠神田川筋の掘割工事、甲武鉄道(JR中央本線)の敷設工事という江戸(東京)の町の発展に合わせて慶長8(1603)、万治2(1659)、万延元年(1860)と何度か移転してきました。


三崎稲荷神社は、第3代将軍徳川家光から旅行安全の神様として信仰されており、家光が江戸城の出入りの際は参拝したと伝わっています。参勤交代の制度を定めた時も将軍家光自らが参拝し、諸大名にも参拝を促したとされています。それがきっかけで諸大名は参勤交代による江戸入りの際には必ずこの三崎稲荷神社に参拝し、心身を祓い清めることが慣例となっていました。このことから、「清めの稲荷」と呼ばれていたとも伝わっています。明治の時代に入ってもその風習は引き継がれ、大隈重信が海外へ渡航する際も、旅の安全を祈願するために参拝したのだそうです。

現在でも「交通安全」や、「旅行の安全」のご利益があるとされ、オフィス街の中にある神社にもかかわらず、多くの参拝者が訪れるところらしいです。私達もこの先の道中の安全祈願をさせていただきました。

新三崎橋で日本橋川を渡ります。


日本橋川は神田川の分流で、東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分岐、ここを起点として真南に流れます。分岐直後からほぼ全流路に渡って首都高速5号池袋線、首都高速都心環状線といった高速道路の高架下を流れます。靖国通りと交差後、南東方向に流れを変え、竹橋の雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に約30 メートルという近距離まで接近し、この付近から首都高速都心環状線の高架下を流れます。神田橋、日本橋、江戸橋などを通過して、江戸橋JCT(ジャンクション)からは首都高速6号向島線の高架下を流れ、亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく川面が開けるのですが、空を望める川面は僅か500メートル弱ほどで、そこを過ぎると中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。


この日本橋川ですが、もともとは平川と呼ばれていました。平川に繋がる神田川開削工事が行われた際、この小石川見附門付近にある三崎橋(新三崎橋の元の橋)より南側の平川の流路は一度埋め立てられ、明治36(1903)に再度開削されたものです。


神田川の前身である平川は、武蔵野台地のハケ(崖線)からの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったのですが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水でした。そこで徳川家康が着手したのが平川の普請でした。

平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われました。当時は潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸の水も海水が混じった水しか出ず飲料水には適しませんでした。これを解決するため、天正18(1590)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水を整備して主に江戸城内への用水は確保できたのですが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、次に豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備しました。神田上水は目白下(現在の文京区関口の大滝橋付近)に、石堰(大洗堰)を作って海水の遡上を防ぎ、ここで分水した平川の水を平川の北側の崖に沿って開削された特別な水路を使って通しました。平川の本流から分水した上水は水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)の中を通った後に(水道橋のところで説明した)懸樋や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給しました。で、当時は目白下の石堰から下流の平川本流は江戸川(現在の江戸川とは別物)と呼ばれていたというのは前述のとおりです。

次に、江戸城を拡張するため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀と繋ぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の外濠としました (現在の日本橋から銀座にかけての地域は徳川家康が入府する以前は平川や隅田川によって江戸前島と呼ばれる大きな砂州になっていて、西側に日比谷入江が所在していました)。しかし、この埋め立てられた日比谷入江は低地であったため、たびたび平川の氾濫による洪水に見舞われて、その洪水対策が新たな課題となりました。

2代将軍・徳川秀忠の時代には、平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われました。元和6(1620)、徳川秀忠の命を受け、初代仙台藩主・伊達政宗が現在のJR飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削という大工事に着手しました。この大工事ではこの小石川見附門付近から東の方向に神田山(本郷台地)を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶ノ水に人工の谷(茗渓)を開削しました。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれています。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて川筋を真東に向かわせ、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させました。この開削当初の「仙台堀」は江戸城の外濠としての機能は果たしたものの、川幅が狭く洪水を解消する機能には事欠いたので、次に江戸幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、万治3(1660)より拡幅工事がなされました。その後、この拡幅された掘割りから隅田川に注ぐ河口までの間の区間は神田川と呼ばれるようになり、広く開削された神田川を使って舟運が船河原橋(ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになりました。

一方、この神田川の開削によりこれまでの平川下流域における洪水対策のため、小石川見附門付近にあった三崎橋(新三崎橋の元の橋)から南流していた旧・平川は現在の九段下付近(現在の堀留橋のあたり)まで埋め立てられて、神田川と切り離されて堀留となりました。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、神田川とは別に道三堀からの舟運を導いてきました。以降、近代に至るまでこの堀(飯田川)の流域は江戸の町の経済・運輸・文化の中心として栄えました。堀(飯田川)の両側には多くの河岸が建ち並び、全国から江戸にやってくる商品で溢れ、大いに賑わいました。上流から鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸などがあり、現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。 (道三堀は江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城(現在の皇居)の和田倉門から辰の口(現在のパレスホテルあたり)、さらには現在の大手町交差点を経由し、現在のJR東京駅の北側にある呉服橋交差点あたりで平川に合流していた運河のことです。)

明治の時代に入り、道三堀の西半分と外濠の一部が埋め立てられ、明治28(1895)、甲武鉄道(現在のJR中央本線)の東京側のターミナル駅として飯田町駅(現在の飯田橋駅)が開設されると、飯田川は甲武鉄道の飯田町駅との間を結ぶ運河としても使われるようになります。これを受けて、前述のように明治36(1903)、かつて神田川開削時に埋めた飯田川の北側の区間を再度開削して、再び神田川(旧・平川)と結びました。これが現在の日本橋川と呼ばれている河川となりました。

日本橋川の歴史を書いた「飯田町遺跡周辺の歴史」という説明板が新三崎橋のたもとに立てられています。


今回も企画、そしてガイドは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんです。江戸に関して知らないことはない…って感じで、場所の説明だけでなく、当時の歴史的背景などもスラスラスラスラ出てきます。しかも、話がメチャメチャ上手い!!  話を聞くだけでも価値があります。

かつてここに小石川見附門がありました。小石川見附門は、寛永13(1636)、備前国岡山藩主の池田光政が築いたものです。寛政4(1792)に渡櫓門が焼失したのですが、二度と再建は許されない決まりであったため、再建されることはありませんでした。


この小石川見附門は水戸様御門とも呼ばれ、神田川に架橋された小石川見附橋の外側には徳川御三家の1つ水戸藩徳川家の上屋敷(8万坪)がありました。また神田川を挟んで小石川見附門の内側の一帯には、讃岐高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がありました。実は小石川見附門を挟んで並ぶ水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家は密接な関係があるのです。

後に『水戸黄門』の名で知られる水戸藩徳川家第2代藩主・徳川光圀は実は初代藩主・徳川頼房の三男でした。その徳川頼房は徳川家康の十一男でした。頼房の兄の九男が徳川義直が尾張藩の初代藩主で、尾張藩徳川家の始祖となった人物、そして十男の徳川頼宣が紀伊国和歌山藩の初代藩主で、紀州藩徳川家の始祖となった人物です。で、この御三家のうち最初に男子に恵まれたのが水戸藩徳川家藩主の徳川頼房でした。

ですが、水戸徳川家が尾張藩徳川家や紀州藩徳川家よりも先に嫡男に恵まれるということは江戸幕府の秩序を保つ上で許されなかったことのようで、そういう“大人の事情”からせっかく授かった子供は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させられ、頼房にも隠したまま江戸で育てられました。この子が後に讃岐高松藩12万石の初代藩主となる松平頼重です。頼重は15歳の時に父・徳川頼房に初御目見できたのですが、この間に水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が既に決定していました。翌年に右京大夫を名乗り将軍徳川家光に御目見したのですが。この時の扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いでした。その後、前述のように頼重は松平頼重として讃岐高松藩12万石の初代藩主となります。ということで、水戸藩徳川家の第2代藩主徳川光圀と讃岐高松藩初代藩主の松平頼重は両親を同じくした兄弟ということになります。

水戸藩徳川家と讃岐高松藩松平家の関係はこれだけにとどまりません。後に松平頼重は実子の綱方、綱條の2人を徳川光圀の養子に差し出し、水戸藩徳川家の家督はこのうちの綱條が徳川綱條として継承しました。一方、松平頼重は徳川光圀の実子・頼常を養子に迎え、松平頼常として讃岐高松藩第2代藩主に据えました。この継嗣(相続人、後継ぎ)の交換の背景には、「本来水戸藩徳川家の家督は自分ではなく長兄の頼重が継ぐべきだったのだ」という徳川光圀の思いがあったとされています。水戸藩徳川家の上屋敷と讃岐高松藩松平家の上屋敷がお隣同士と言っていいほど非常に近いところにあるのも、こういうことが背景にあるのかもしれません。

ちなみに、水戸藩徳川家初代藩主の徳川頼房は生涯正室を迎えなかったのですが、何人かの側室から十一男十五女と多くの子をもうけ、男子は高松藩を筆頭に多くの支藩に分かれました。そのおかげで、水戸藩は幕末に至るまで他家からの養子を一切迎えず、藩祖頼房の血統を守り抜くことができました。逆に水戸本家や支藩から他家へ養子に行く者が多かったので、頼房の血筋は更に広がり、幕末に活躍した徳川慶勝(尾張藩徳川家第14代・第17代当主)、徳川茂徳(尾張藩徳川家第15代藩主)、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)などの高須四兄弟は頼房の男系子孫です。そうそう、御三卿の1つである一橋徳川家の第9代当主を経て徳川宗家を相続し、第15代将軍に就任した徳川慶喜も水戸藩徳川家第9代藩主徳川斉昭の実子です。なので、幕末の幕府は水戸藩徳川家が中心になって動くことになります。また、徳川宗家の現当主の徳川恒孝さん(元日本郵船副社長で公益財団法人徳川記念財団初代理事長等)も、水戸藩徳川家初代藩主である徳川頼房の男系子孫にあたります。


小石川見附門の櫓門の遺構が僅かに残っています。小石川見附門の櫓門は前述のように寛政4年(1792)に焼失した後は再建されませんでした。 明治5(1872)には桝形の石垣もあらかた撤去されてしまったことになっているのですが、ほんの一部が今も残っているようです。


小石川橋で神田川を渡ります。この小石川橋は千代田区飯田橋3丁目から文京区後楽1丁目に通じる橋で、江戸時代には小石川見附門があったところです。明治5(1872)に城門を撤去して、木橋を新しく架け直しました。明治28(1895)に甲武鉄道の東京側のターミナル駅である飯田町駅が近くにできてこの一帯は大いに賑わいました。同じ年、利用者の増加に応えるため、橋も修繕を加えられました。昭和2(1927)に鋼橋として架け替えられたのですが、老朽化のため、平成24(2012)に改修されています。


前述のように、小石川橋の少し下流で日本橋川が神田川の右岸から分流します。また、上流にあたるこの先の飯田橋で右岸から外濠(飯田濠)が合流します。明治36(1903)に飯田町堀留までの埋め立て部分の水路が再び掘削され、小石川見附橋(現在の小石川橋)が神田川と日本橋川の合流地点となりました。




……(その3)に続きます。




愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...