公開予定日2022/06/02
[晴れ時々ちょっと横道]第93回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その8)
実は武田勝頼が新府城を放棄し、郡内地方の岩殿山城を目指して脱出を図った際、その武田勝頼の一行とは別行動を取り、うまく脱出に成功したある1人の女性を中心にした集団がいました。その女性というのが武田信玄の五女(すなわち武田勝頼の異母妹)の松姫です。松姫は7歳であった永禄10年(1567年)12月に、武田・織田同盟の証しとして当時11歳だった織田信長の嫡男・織田信忠と婚約。しかし、元亀3年(1572年)、武田信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻である西上作戦を開始。織田信長の同盟国である三河国の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こると織田信長は徳川方に援軍を送ったことから武田・織田両家は手切れとなり、松姫と織田信忠との婚約も解消されました。5年間の婚約期間中、松姫と織田信忠は頻繁に書状のやり取りを行い、プラトニックな愛を育てていっていたようです。
東京都八王子市台町にある信松院に建つ松姫(信松尼)の銅像です。甲斐国から脱出した際の姿なのでしょうね。 |
天正元年(1573年)に武田信玄が死去し、異母兄の武田勝頼が家督を継承すると、松姫は実兄の仁科盛信の庇護のもと信濃国伊那郡の高遠城城下(長野県伊那市)の館に移り、そこに身を寄せて暮らしていたのですが、天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍が甲斐国へと進撃を開始します。織田軍の総大将は皮肉にもかつての婚約者である織田信忠でした。高遠城は、3月2日、織田信忠率いる甲州征伐軍約3万人による総攻撃を受け落城し、兄・仁科盛信は自害しました。松姫は織田軍の攻撃が始まる前に仁科盛信により韮崎にある新府城まで逃されていたのですが、今度は異母兄の武田勝頼が新府城を放棄して郡内地方の岩殿山城を目指して脱出することになったので、松姫は休むまもなく東に向け脱出することになりました。同行したのは高遠城をともに脱出した仁科盛信の長男の仁科信基(当時8歳:のちに江戸幕府旗本)と妹の小督姫(当時4歳:若くして病没)の幼い兄妹、武田勝頼の娘・貞姫(当時4歳:のちに江戸幕府高家旗本・宮原義久室)、小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫とも。当時4歳:のちに陸奥国磐城平藩第2代藩主・内藤忠興室)など。
松姫ら一行はいったん武田家重臣の姫が尼僧として住んでいた海島寺(山梨市上栗原)、さらには臨済宗向嶽寺派の本山である向嶽寺(甲州市塩山上於曽)にしばらく身を隠して滞在したのち、向嶽寺の住職の紹介で後北条氏の支配下にあった武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の金照庵に向かったとされ、その恩方の金照庵には3月27日に到着したとされています。その松姫一行の逃避ルートは確かにはなっておらず諸説ありますが、国道139号線の山梨県都留郡小菅村と山梨県大月市の間にある大菩薩嶺を越える峠に松姫峠(標高1,250メートル)という名の峠があり、その名称の由来というのが松姫が織田信長の軍勢から逃れるためにこの峠を越えたとされることによるということなので、松姫一行は海島寺のある勝沼の手前から青梅街道(現在の国道411号線)に入り、大菩薩峠(標高1,897メートル)とこの松姫峠を越え、最後は陣馬街道(現在の山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線の一部)で陣馬山系にある相模国・武蔵国国境の案下峠(別名・和田峠:標高690メートル)を越えるという古甲州道とも呼ばれるルートを主に辿ったのではないか…と考えられています。
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この古甲州道は前述のように青梅街道(甲州裏街道)とも重なる部分があり、現在では一部国道や都県道になっている区間もありますが、それでも“酷道”や“険道”と呼ばれ、その方面のマニアにしか知られていないような交通量が極めて少ない狭隘な峠道です。標高1,897メートルの大菩薩峠を越えるなど、さぞや大変な逃避行だったのではなかったでしょうか。当然、松姫をはじめとした若い女性や幼い子供達だけでこの山中の峠道を迷わずに安全に逃げきれたとは思えず、必ずや護衛する警護の男性陣が同行していたと思われます。その役割を担ったのが武田勝頼直参の横目衆のうちの何人かだったのではないでしょうか。私の希望的推察で言わせていただくと、その松姫の逃避行を護衛した横目衆の中に、先にご紹介した伊予国出身の河野但馬守通重もいたのではないか…と思われます。もしそうなると、河野通重は武田勝頼の脱出に加えて松姫の脱出にも深く関与していたということになります。こりゃあ、伊予国出身の河野通重を主人公にした歴史小説が1本書けそうです。主な登場人物も武田信玄や武田勝頼、小山田信茂だけでなく、松姫、織田信忠、織田信長、徳川家康など錚々たる歴史上の人物も加わってくるので、一大歴史巨編になりそうです。NHKの大河ドラマとまでは言いませんが、正月特番の3時間ドラマの原作くらいには十分になりそうですね(笑)。
ちなみに、前述のように、古甲州道の途中、甲府側から向かうと大菩薩峠の手前に雲峰寺(甲州市塩山上荻原)という臨済宗の寺院があります。『甲斐国志』によると、この雲峰寺は甲府の鬼門(北東)に位置するため代々甲斐武田氏の祈願所となっていたといわれていて、おそらく幼い子供連れの松姫一行はこの雲峰寺にも立ち寄り、滞在したのではないかと思われます。前述のように、この雲峰寺には天正10年(1582年)に武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで自害した時、部下に命じて密かに山伝いに運んだとされる甲斐武田家の家宝である日本最古の 「日の丸の御旗」や「孫子の旗(俗に“風林火山”の旗と呼ばれる旗)」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」といった武田軍旗が現在も6旒残されていて、山梨県の文化財に指定されています。
天目山の戦いでの甲斐武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れます。正室として迎えたいとのことでした。心を通わせあったかつての婚約者からの思いがけない言葉に喜んだ松姫は、すぐに織田信忠に逢うため織田信忠の居城であった岐阜城に向かうのですが、その道中の6月2日に本能寺の変が勃発し、織田信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自害してしまいました。つくづく歴史の荒波に翻弄された悲劇の女性のように思います。重なる失意のうちに八王子に戻った松姫は、その年の秋に、武蔵国守護代で滝山城(東京都八王子市高月町)城主であった後北条氏一門の北条氏照の庇護下にて心源院(八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに織田信忠の冥福を終生祈ったといわれています。出家した当時、松姫はまだ22歳でした。また、八王子には信松尼は北条氏照の正室・比左(ひさ)姫の話し相手を務めていたという伝承も残っています。
なぜ、この織田信忠からの迎えの使者がこんなに早く八王子に落ち延びていた松姫のもとを訪れたのか…ですが、私はこのことに小山田信茂が関係しているのではないかと推察しています。天目山の戦いの後、甲斐善光寺に出頭してきた小山田信茂に会った織田信忠は、最後にこのように尋ねたのではないか…と推察されます。「松姫は無事か?」。その織田信忠の問いに対して小山田信茂は「はい、松姫様はたぶんご無事だと存じます。仁科盛信様の嫡男の信基様と小督姫、武田勝頼様のお子様の貞姫、それとそれがし小山田信茂の娘・香具と一緒に武蔵国多摩郡に向けて落ち延びている途中かと存じます。幼い子供を何人も連れて山々を越えていく厳しい旅ではありますが、傅役(もりやく)として河野通重ほか何名かが付き従っておりますれば、大丈夫かと」と応えたのではないでしょうか。自身の娘・香貴姫が同行していることもありますが、落ち延びようとする先もある程度知っていたように思います。甲斐善光寺で小山田信茂とともに処刑された武将の中に小菅五郎兵衛の名前があります。この小菅五郎兵衛は小山田信茂配下の国人衆で現在の北都留郡小菅村にある天神山城(小菅城とも)の城主です。この天神山城は古甲州道を甲府方面から進むと大菩薩峠を越えた先の古富士道との分岐点付近にある城で、古甲州道を使って攻め込んで来る敵の侵入から甲斐国、特に郡内地方を守っていた城です。ということは、古甲州道を使って落ち延びる途中の松姫一行と会っていた可能性が十分にあったように思います。松姫が落ち延びる途中に通ったとされる松姫峠のすぐ近くですから。もしかすると古甲州道最大の難所であった大菩薩峠を越えてきた松姫達一行の疲れがとれるまで、数日間ほど匿っていたとも考えられます。そうだとすると、小菅五郎兵衛から話を聞いて、小山田信茂も松姫、そして自身の娘である香具姫の消息をある程度知っていたと思われます。その小山田信茂の話を聞き、甲斐国から戻った織田信忠は父・織田信長の了承をすぐに取り付けた上で、織田家と同盟関係にあり当時武蔵国を支配していた後北条氏を通じて松姫が落ち着いた先を探し出したのではないか…と私は推察しています。そうじゃないと、あの大混乱の中で、これほど早く松姫の落ち着いた先を織田信忠が知ることはできなかったのではないか…と私は思っています。
ちなみに、小山田信茂は織田信忠にこの話をした後、武田勝頼脱出に関するすべての謎を自分の胸の内にしまいこんだまま、自害…、正確には自ら望んで「裏切り者」「不忠者」として処刑(斬首)を受けたと私は思っています。小山田信茂が甲斐善光寺で処刑されたのは天正10年3月24日。松姫一行はその3日後の3月27日に武蔵国多摩郡恩方の金照庵に到着しました。
その後、信松尼は天正18年(1590年)に八王子御所水(現在の八王子市台町)の草庵に移り住み、尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り、それらで得た収入で3人の姫(仁科盛信の娘・小督姫、武田勝頼の娘・貞姫、小山田信繁の娘・香具姫)を養育する日々だったと言われています。この信松尼が養育した3人の姫のうち、小山田信茂の娘・香具姫は成人して譜代大名である陸奥国磐城平藩7万石の第2代藩主・内藤忠興の側室となり、嫡男・内藤義概(よしむね:磐城平藩第3代藩主)をはじめ2男1女をもうけています。正室との間に子供ができなかったことで、世継ぎを産むことを期待されて迎えられた側室であり、もし小山田信茂が広く世の中で言われているような武田勝頼を裏切った「裏切り者」「不忠者」であったのであるならば、7万石の譜代大名家にその小山田信茂の血筋が入ることになる婚姻を徳川家康が認めるはずがなく、なにより内藤忠興も側室として迎えるはずがありません。このことは小山田信茂が笹子峠への峠道を封鎖などしていなかったことの最大の証拠となるかと思います。おそらく徳川家康は信松尼あたりからことの真相を聞いて、小山田信茂こそ真の忠義者であることを知っていたのではないかと私は思っています。また、香具姫が産んだ内藤忠興の娘、要するに小山田信茂の孫娘が、武田信玄の曾孫にあたる江戸幕府高家武田家(武田宗家)の武田信正(父の武田信通が武田信玄の次男・海野信親の子)に正室として嫁ぎ、嫡男・武田信興を産み、甲斐武田氏の血脈を現代にまで残しているという驚くべき事実があります。この歴史的事実をどのように読み解くのか…ってことです。
ちなみに、内藤忠興は藩主となった翌年から約10年間にわたって領内の総検地と新田開発に取り組み、これにより7万石の所領から実質的に約2万石の増収をもたらしたとされる名君なのですが、大変な恐妻家だったといわれ、それを示す逸話が残っています。小山田信茂の娘である側室の香具姫は気の強い女性であったそうで、ある時、内藤忠興が香具姫に内緒で家中でも特に美女といわれる女性を呼び寄せたそうなのです。すると香具姫はこれに怒って、薙刀を振りかざして内藤忠興を追い回したといわれています。このため、以後は女性関係を慎み、藩政に関しても、常に香具姫の意見を聞いたといわれています。そりゃあ、あれだけの苦難を乗り越えてきたのなら、気も強くなりますわな(笑)
八王子市の東浅川山王社にある「子育て地蔵尊」です。この子育て地蔵尊は“松姫地蔵尊”とも呼ばれ、松姫(信松尼)と大変に深いゆかりのある地蔵尊だそうです。八王子には松姫(信松尼)に所縁の場所が他にも幾つかあります。 |
天正19年(1591年)に元武田家家臣である大久保長安が徳川家康より代官頭として武蔵国八王子に8,000石の所領を与えられると、大久保長安は信松尼のために様々な支援をしたとされています。また、八王子を拠点にして元甲斐武田家の家臣達で構成された八王子千人同心が結成されると、彼等の心の支えともなったとされています。信松尼は慶長18年(1613年)頃より、異母姉で穴山信君(梅雪)の正室であった見性尼(見性院)とともに第2代将軍・徳川秀忠の四男である幸松を八王子にて預かり養育したとされています。この幸松は第3代将軍・徳川家光の異母弟にあたり、成人ののちに会津藩23万石初代藩主で、かつ第3代将軍・徳川家光と第4代将軍・徳川家綱を輔佐して幕閣に重きをなし、“会津中将”と通称された保科正之となります。ちなみに、幸松は元和3年(1617年)、見性尼の縁で旧甲斐武田家家臣の信濃国高遠藩主だった保科正光に預けられ、保科家の養子となります。21歳で幸松から保科肥後守正之と名を改めたのですが、最初に実の父である第2代将軍・徳川秀忠から命じられたのは信濃国高遠藩3万石の藩主の継承であり、甲斐武田氏宗家が滅亡した際に仁科盛信が自害した甲斐武田氏所縁の高遠城に入りました。
信松尼(松姫)は元和2年(1616年)に死去。享年56歳でした。信松尼の暮らした草庵は、旧甲斐武田家家臣である八王子千人同心達からの多額の寄進もあって、信松院という曹洞宗の寺院となっています。
東京都八王子市台町にある信松院です。本堂の上に舎利殿が乗っている特徴的な構造をした寺院です。 |
信松院に保管されている木造松姫坐像です(八王子市指定有形文化財)。寄木造、玉眼。彩色されており、剃髪し法衣に袈裟をつけた尼僧の姿で、松姫百回忌に当たる正徳5年(1715年)頃に彫られたものと考えられています。 |
信松院にある松姫尼公墓です(八王子市指定史跡)。延享5年(1748年)、八王子千人同心により墓を囲む玉垣が寄進されました。 |
【信松院】
その信松院には(その4)の武田水軍の項でご紹介した武田水軍の安宅船(あたけぶね)と関船(せきぶね)の2艘の縮尺1/25と推定される長さが約1メートルにも及ぶ精巧な大型模型が保管され、一般公開されています。この2艘の軍船の模型は高遠城で自害した仁科盛信の曾孫、すなわち松姫と一緒に高遠城から八王子に落ち延びた仁科信基の孫である仁科資真が正徳4年(1714年)の信松尼公百回忌の際に寄進したもので、寄進目録とともに東京都指定の有形文化財になっています。この軍船の模型は文禄・慶長の役(1592年〜1598年)における朝鮮出兵の際、小早川隆景軍が使用した(すなわち村上水軍の)軍船の模型といわれていますが、帆に武田菱のマークが付いていますし、それは違うと私は思います。これは間違いなくかつてあった武田水軍の軍船、それも伊予水軍出身という説もある小浜景隆が率いた安宅船の模型です。武田水軍は甲斐武田家滅亡後、徳川幕府の主力水軍として江戸湾(東京湾)の守りの任に就いて活躍していましたからね。文禄・慶長の役における朝鮮出兵の際に小早川隆景軍が使用した軍船の模型であるはずがありません。だとすると、海なし国であった甲斐国の甲斐武田氏の仁科信基が信松尼の百回忌に戦国時代最強と言われた騎馬軍団に因んだものではなく、わざわざ当時でも大変に高価なものであったであろうこの武田水軍の軍船の精巧な大型模型を寄進したことの意味するものとは何か?…ってことです。それはここまで私のコラムをお読みいただいた皆さんのご推察の通りです。
信松院に保管されている武田水軍の安宅船の木製軍船ひな形模型です(東京都指定有形文化財)。 |
こちらも信松院に保管されている武田水軍の関船の木製軍船ひな形模型です(東京都指定有形文化財)。 |
ちなみに、(その4)でご紹介した静岡市清水区にあるフェルケール博物館に展示されている武田水軍の安宅船と関船の大型模型は、この信松院に寄進され保管されている武田水軍の安宅船と関船の模型を参考に製作されたものです。
しまなみ海道の途中の大島(愛媛県今治市宮窪町)にある村上海賊ミュージアムに展示されているものとほぼ同形の安宅船と関船の300年前に作られた精巧な大型模型が、どうして東京都八王子市の甲斐武田氏に所縁の深い信松院にあるのか?…、実は私の謎解きもこの信松院に寄進された2艘の軍船の模型から始まりました。私の推論が正しいとするならば、甲斐武田氏終焉時の謎を解く鍵は、意外なことに山梨県ではなく、東京都八王子市と愛媛県今治市にあったということです。これは伊予武田氏の居城・龍門山城のあった愛媛県今治市朝倉を本籍地とし、かつ街道歩きを趣味にして甲州街道の笹子峠を実際に歩いて越えた経験を持つ私でしか辿り着けなかったことなのかもしれません。なんだか映画『ダ・ヴィンチ・コード』で主演のトム・ハンクスさんが演じたハーバード大学のロバート・ラングドン教授のようになってきましたね。ラングドン教授のように、私も誰かに追いかけられることになるのでしょうか?(笑)
河野通重は文禄4年(1595年)、八王子において86歳で死去したということを書かせていただきましたが、河野通重の晩年は信松尼と甲斐武田家が繁栄した頃を懐かしみながらの昔話をする毎日だったのかもしれません。河野通重は甲斐武田氏が滅亡した直後の天正10年(1582年)4月に、駿河国の浜松城において徳川家康に謁見し、甲州九口之道筋奉行に命じられたとなっていますが、この時に河野通重は72歳。前述のように、河野通重は記録では天正15年(1587年)に官職を退いたということになっていますが、さすがに隠居して、実質的には家督を息子の河野通郷に譲っていたと思われるので、徳川家康に謁見したのはその河野通郷だったのではないか…と思われます。そして、実際には“爺(ジイ)”と呼ばれながら、八王子でずっと松姫(信松尼)や一緒に甲斐国を脱出した幼い子供たちの身の回りの世話をしていたのではないでしょうか。
信松院の近くに甲州街道(国道20号線)と陣馬街道の追分(合流点)があり、そこに「八王子千人同心屋敷跡記念碑」が建っています。このあたりの地名は八王子市千人町。ここはかつて旧甲斐武田氏の直参家臣団から成る八王子千人同心の拝領屋敷が建ち並んでいたところです。 |
千人町のはずれの甲州街道に面した通りに往時を偲ばせる随分と趣のある黒塀の立派な屋敷があります。たぶん、八王子千人同心の屋敷だったお宅なのでしょう。 |
ちなみに、もし私が河野通重を主人公にした歴史小説を書くとするならば、ラストのシーンはこの信松尼と河野通重がお茶を飲みながら昔話をするシーン以外に考えられません。そして、信松尼が夕焼けに染まる西の空を見やりながら河野通重にポツリと告げるこの一言を物語の最後にします。
「勝頼様と信勝様は今頃どうしておいでなのでしょうね……」
【あとがき】
いかがでしたでしょうか? 以上、高知県吾川郡仁淀川町に残る武田勝頼生存説に刺激を受けて、私なりの推論を述べさせていただきました。この私の説はあくまでも状況証拠だけからの推論であり、確たる証拠があってのものではありません。少なくとも、天目山の戦いで自害したのが武田勝頼の影武者だとするならば、その後、笹子峠を越えて土佐国まで落ち延びることができた一つの可能性について、その推定される逃走ルートとともに示したものに過ぎません。なので、単なる“読み物”として楽しんでいただけたら、それだけで十分かと思っております。まぁ、もし甲斐武田氏の最後が私の推論の通りだったとしても、それでもって日本の歴史が大きく変わるというものでもありませんし。しかし、その可能性について調べていくうちに河野通重や武田水軍(小浜景隆)といったそれまで知らなかった伊予国と甲斐武田氏の間の意外な繋がりも発見できて、メチャメチャ面白かったです。しかも、岩殿山城や笹子峠など、2年前に自分の足で歩いた甲州街道の風景と、その時に私が感じた違和感も含めた心情などが重なってくるので、それもリアルで、思いっきり推理に楽しめました。
武田勝頼以外で歴史上の人物の生存説として有名なものには、源義経は岩手県平泉町での「衣川館での戦い」で敗れた後に外国に渡り生きていたとされる伝説や、「本能寺の変」後の「山崎の戦い」で敗れた明智光秀も実は出家して生きていた…と言うような伝説もあります。どれも都市伝説のようなものですが、“火のないところに煙も立たない”という言葉もあるように、その気になって調べてみると何か面白い発見があるかもしれませんね。そこが歴史探求の奥深さと言うものです。
歴史には諸説あります。しかし、「歴史の真実」はタイムマシンが開発され、人類がその時代に行ってみて、その目で見てみないと分かりません。1905年にあの天才アインシュタインが『相対性理論』を発表して、「時間」という概念を再定義したことでタイムトラベルが可能であることを科学的に実証したのですが、残念ながら今日現在、タイムマシンは、いまだ存在してはおりません。タイムマシンが存在していない以上、私達現代人にできることは、残されている事実を論路的に分析し、空間軸上・時間軸上で繋ぎ合わせ、様々な分野からの視点で様々な仮説を立て、さらにその仮説同士を論理的に戦わせることで、歴史の真実に一歩一歩近づいていくしかありません。それが「理系の歴史学」というものだと、私は思っています。いずれ遠い将来、アインシュタインを超えるような新たな天才が世の中に登場してきて、タイムマシンが開発された時に「歴史の真実」が明らかになる筈なので、それまではこの論理の“遊び”で楽しまないといけませんよね。当面、正解が見えないだけに、こんなに面白い“遊び”は他にありません。しかも、正解、すなわち「歴史の真実」は1つだけですから!! (^-^)
この「伊予武田氏をご存知でしょうか?」から続く一連の文章で、愛媛県の伊予武田氏と山梨県の甲斐武田氏の末裔の皆さんの交流が活発になり、今も全国各地に根強くいらっしゃる戦国時代最強と言われた「風林火山」甲斐武田軍団ファンをはじめ歴史マニアの皆さんが愛媛県を訪れてくれるようになれば、いいですね。きっと河野但馬守通重が一番喜ぶと思います。
……「武田勝頼は落ち延びていた!?」完結