2021年6月3日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)

公開予定日2021/06/03

[晴れ時々ちょっと横道第81回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)


戦国時代最強の武将は誰か?…と問われれば、『甲斐の虎』の異名を持つ武田信玄の名前を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄は甲斐国の守護を務めた甲斐武田氏第15代・武田信虎の嫡男として大永元年(1521)に生まれました。母は郡内地方(山梨県東部の都留郡一帯)の有力国人大井氏の娘・大井夫人と言われています。諱(いみな)は晴信。「信玄」とは出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄といいます。甲斐武田氏は長らく甲斐国の守護を務める名門の家系だったのですが、応永23(1416)に前の関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱「上杉禅秀の乱」に敗れたことを契機に守護としての権威が著しく失墜し、甲斐国にはしばらく幾つかの有力国衆が台頭する時代が続いていました。その甲斐武田氏の勢力を回復に向かわせたのは信玄の曾祖父にあたる武田信昌。信昌期には守護代跡部氏を排斥するなど、国衆勢力を次々と服従させて国内統一が進み、先代の父・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成しました。



JR甲府駅前にある甲斐国(山梨県)のシンボル「武田信玄公銅像」です。川中島の戦いの陣中における姿を模したその姿は、戦国時代最強と謳われた名将にふさわしく、堂々としています。

その父・武田信虎を駿河国に追放して武田晴信(後の信玄)が甲斐源氏武田氏の第16代目の家督を相続したのが天文10(1541)、信玄の19歳の時のことです。武田信玄には数々の伝説が残されています。その智力あふれる戦略は、身内に嫉妬されるほど素晴らしいものだったといわれています。例えば周りの武将の成長も考えた成長戦略をとったり、常に領土拡大を図ったりすることで、家臣らの結束を固めていったと言われています。また、武田信玄は「武田二十四将」として知られる戦国時代最強との呼び声の高い家臣団を有し、生涯に72回合戦を行いましたが、49320引き分け(勝率94)だったと言われています(この数字に関しては勝敗の捉え方によって諸説あります)。ちなみに、敗北した3回の対戦相手はいずれも北信濃の猛将・村上義清(上田原の戦い・砥石崩れ・ 葛尾城攻め)で、一説にはこの信濃村上氏が伊予国の村上水軍の祖であるともいわれています。


武田信玄は大永元年(1521)の生まれなので、今年は武田信玄生誕500周年です。JR甲府駅のコンコースでも武田信玄生誕500周年記念のイベントが行われています。

甲斐武田氏の家督を相続した武田晴信(信玄)は追放した父・信虎の体制を継承して引き続き隣国・信濃国に侵攻。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争を繰り返し、信濃国をほぼ領国化しました。その後も周辺諸国への領国拡張の野心を見せ、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領するまでになり、戦国時代最強の武将と呼ばれるまでになりました。その当時の石高はおよそ120万石に達していたと推察されています。次代の武田勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、遠江・三河平定による織田信長包囲網の形成を目的とした西上作戦の途上、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)で徳川家康軍を撃破した(三方ヶ原の戦い)直後に持病が悪化し、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)でしばらく滞在後、元亀4(1573)412日、軍を甲斐国に引き返す途中の三河街道上の信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)の地で死去しました。享年53歳でした。あの織田信長も、もし武田信玄がこの西上作戦の途中で病死しなかったらどうなっていたかわからないともいわれています。

 西上作戦の途中、病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田氏の第17代目の家督を相続したのが四男の武田勝頼でした。武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に敗北。その後失地回復に努めたのですが、天正10(1582)、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が離反して織田信長に通じたのを契機に再び織田信長・徳川家康連合軍との戦いが始まりました。織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れて笹子峠を越えて家臣の岩殿城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換。岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼は小山田信茂離反の知らせを甲州街道最大の難所と言われる笹子峠(標高1,096メートル)を越える直前の駒飼宿の地で受けて、駒飼の山中に逃げ込みます。武田勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った武田勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけが僅かに残るだけとなりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せ、戦国時代最強の武将と言われた武田信玄と、彼の死後約10年後に訪れる甲斐武田氏の滅亡です。このようにあまりにも武田信玄が有名なだけに、武田氏と言えば甲斐国(現在の山梨県)というイメージがあり、確かに清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流である武田氏の本拠は甲斐国なのですが、この他にも「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする「甲斐武田氏」の分家筋にあたる傍流の武田氏が幾つかあり、そういう中に愛媛県にも「伊予武田氏」という一族がいたのをご存知でしょうか?

 その「伊予武田氏」についてご紹介するには清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流(本家筋)である「甲斐武田氏」の興りから振り返る必要があります。


【1.甲斐武田氏について】


山梨県韮崎市役所の前に立つ甲斐武田氏初代当主である武田太郎信義の銅像です。


甲斐源氏武田氏は、平安時代末から戦国時代の武家で本姓は源氏。第56代清和天皇(在位858年〜876)の皇子・諸王を祖とする源氏氏族である清和源氏。その支流である河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光:第56代清和天皇から数えると第7)を始祖としています。河内源氏を称し、河内源氏の祖とされる源頼信は長元2(1029)に甲斐守に任官し、嫡男の伊予守・頼義の三男の義光にこの官職は継承されました。源義光(新羅三郎義光)の長兄は源義家(八幡太郎義家)。この源義家は河内源氏の嫡流を形成し、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物です。源義家は陸奥守を拝命して陸奥国に入ったのですが、清原氏との間の「後三年の役」(1083年〜1087)に巻き込まれ、苦戦を続けていました。長兄義家が陸奥国で苦戦しているとの知らせを受けると、源義光(新羅三郎義光)は長兄義家を援けるために官途を捨てて、陸奥国に下向しました。この「後三年の役」を終結させた功績により源義光は甲斐守を拝命しました。甲斐守といってもそれまでの甲斐守は在京で現地へは直接赴いていないと考えられているのですが、源義光は初めて甲斐国へ着任し土着した人物とも言われ、そこから甲斐源氏と呼ばれる一族が生まれることになります。山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は源義光の在所であったとする伝承が残されています。

 この河内源氏の本流とも言える甲斐源氏の血筋が武田氏を名乗るようになったのは、源義光の子である源義清が常陸国那珂郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)を本貫としたことからとする説が定説になっています。大治5(1130)に源義清の嫡男・清光の狼藉行為が原因で義清・清光父子は常陸国を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたのですが、その後、義清・清光父子は八ヶ岳山麓の逸見(へみ)荘へ進出し、源清光は逸見姓を名乗るようになります。その後、源(逸見)清光の次男で源義清の孫にあたる源信義が保延6(1140)13歳で現在の山梨県韮崎市にある武田八幡宮にて元服したことから祖父義清が名乗った武田姓に戻し、その後に続く甲斐武田氏の初代となったとされています。ちなみに、この武田八幡宮ですが、『甲斐国志』によると、日本書紀や古事記に登場する日本武尊(ヤマトタケル)の子である武田王が御殿を設けたことが武田の地名の由来であり、武田王が館の北東に祠を祀ったのが武田八幡宮の起源とされています。



武田()信義は甲斐国巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)を本拠地と定め、そこから甲斐源氏の一族は甲府盆地の各地に徐々に進出して土着していったのですが、治承4(1180)4月に以仁王から平氏討伐の令旨を受け取ると、嫡男(長男)の一条忠頼や弟の安田義定ら甲斐源氏の一族を率いて挙兵。甲斐源氏は、同年1020日の富士川の戦いにおいて奇襲をもって平家軍を敗走させるなど主力となって戦ってこれに勝利し、その後も木曾義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげました。当時配流されていた伊豆国で北条時政、北条義時などの坂東武士らと共に挙兵した河内源氏嫡流の棟梁である源頼朝から武田信義が駿河国の守護に、弟の安田義定が遠江国の守護に補任されました。この戦いは必ずしも頼朝の傘下での行動ではなく独自の勢力による行動であったと考えられ、敗走する平家方を追討した武田信義・安田義定らの軍勢が駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を源頼朝が追認したものであるという風に考えられています。その後、鎌倉時代になると武田信義は鎌倉幕府の御家人となるのですが、その勢力を警戒した源頼朝から粛清を受けて武田信義はまもなく失脚。嫡男(長男)の一条忠頼をはじめ弟や息子たちの多くが死に追いやられたのですが、武田信義の五男・信光だけは源頼朝から知遇を得て甲斐国の守護に任ぜられ、本拠である甲斐国武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)にて甲斐武田氏の嫡流となりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄を生んだ「甲斐武田氏」です。この甲斐武田氏から「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする甲斐武田氏の分家筋にあたる傍流の武田氏が興ります。「伊予武田氏」の興りについてはこの「安芸武田氏」と「若狭武田氏」の興りと深く関係があるので、次にそのあたりをご紹介します。

 

【2.安芸武田氏について】

安芸武田氏は甲斐武田氏第2代の武田信光の時代の承久3(1221)に起こった承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱)の戦功によって、甲斐武田氏第2代の武田信光が鎌倉幕府より安芸国の守護に任じられたことから始まります。任命された当初は守護代を派遣していたのですが、後に信光の孫(甲斐武田氏第4)の武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城(さとうかなやまじょう:現在の広島市安佐南区祇園町)を築き本格的な領土支配に乗り出すようになりました。


 

元弘3/正慶2(1333)に鎌倉幕府が滅亡した時には甲斐武田氏第7代の武田信武は幕府の六波羅に味方しており、建武の親政において後醍醐天皇方となった甲斐国守護・武田政義(石和流武田氏)の後塵を拝していたのですが、南北朝時代に武田政義が南朝方であったのに対し、武田信武は北朝側の足利尊氏に属して戦功を上げ、室町幕府足利将軍家より甲斐国と安芸国の両守護に任命され、信武の子・甲斐武田氏第8代の武田信成が甲斐国守護、信成の弟の武田氏信が安芸国守護を分けて継承しました。この武田氏信が安芸武田氏の初代となりました。しかし応安元年(1368)、武田氏信は幕府によって安芸国の守護職を解任されたものの(以降、安芸国の守護職は今川氏や細川氏といった足利一門が担いました)、安芸武田氏第4代の武田信繁の代まで安芸武田氏自体は佐東銀山城を中心とした分郡守護として足利将軍家に仕え存続しました。


広島市安佐南区祇園町にあるその名も武田山。安芸武田氏の居城・佐東銀山城はこの武田山の山頂にありました。手前に見える建物群は2015年と2020年の2回最優秀選手賞を受賞した福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手の母校・広島経済大学のキャンパスです。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



【3.若狭武田氏について】

その武田信繁の嫡男である安芸武田氏第5代の武田信栄(のぶひで)が室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて大和永享の乱に参戦し、永享12 (1440)に丹後国・若狭国・三河国・山城国の4ヶ国を兼ねる有力守護大名であった一色義貫と伊勢国守護の土岐持頼を誅殺した功績により若狭国(現在の福井県南部。国府は福井県小浜市)の一国守護職に任命され、それを機会に安芸武田氏は本拠地を安芸国から若狭国に移し、ここに若狭武田氏が誕生します。武田信栄は武田信繁の嫡男であることから、安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏、安芸武田氏は庶流ということになりました。同時に多くの家臣が若狭国に移住しました。この武田信栄は足利将軍家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと、武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと、丹後国守護を兼ね、幕府のある畿内周辺で2ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、この若狭武田氏が武田氏の本流という見解も存在するほどです。この時、武田信栄は佐東銀山城を中心とした安芸国の分郡守護職も兼務していたのですが、この安芸国の領地の経営は弟の武田信賢に守護代として任せました。これがその後の安芸武田氏の分裂と伊予武田氏の誕生に繋がります。

 若狭国守護職となり若狭武田氏初代となった武田信栄は永享13 (1441)28歳の若さで病死したため、跡を弟の武田信賢が継ぎ、若狭武田氏第2代として安芸国と平行して若狭国の経営に乗り出しました。武田信賢は若狭国内の一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属して一色義直が籠る丹後国に侵攻するなどの活躍し、室町幕府からも厚い信頼も得ていました。しかし、文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家は2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになりました。

 

【4.応仁の乱と安芸武田氏について】

実はこの直前まで安芸武田氏の本拠・佐東銀山城には武田信繁の弟である武田信友が城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信を補佐していたようなのですが、武田国信が若狭武田氏を継承して若狭国守護職を務めることになり、武田元綱が新たに安芸武田氏を興して安芸国の分郡守護職を務めることになったので彼等の叔父である武田信友は佐東銀山城を出ることになったようです(この際、多少の諍いがあったようです)。この武田信友は嫡男の武田信保を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町)に移り住み、河野教通(通直)の傘下に入りました。この武田信友が伊予武田氏の初代となります。

 この背景には「応仁の乱」が深く関与しています。応仁の乱は、応仁元年(1467)に発生し、文明9(1477)までの約11年間にわたって継続し、京の都全域を焼き尽くすことになった長期間の内戦のことです。最初は室町幕府の有力守護大名である管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから始まったのですが、そのうち足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、細川勝元率いる東軍が16万人、山名宗全率いる西軍が11万人、合計27万人が京の都を主な舞台に争いを行いました。たった一回の内戦で27万人もの軍勢を集めて戦いを行なったのは、後にも先にもこの応仁の乱ぐらいです。また、京の都だけでなくそれぞれの守護大名家の領国内にも争いが拡大していきました。その規模もさることながら、明応2(1493)に発生した明応の政変と並んで戦国時代への移行の主たる原因とされる大きな内戦なので歴史の教科書には必ず載っており、皆さんも「応仁の乱」の名称くらいはご存知の方も多いのではないかと思われますが、日本の歴史の中でこの応仁の乱ほど分かりにくいイベントは他にないのではないかと私は思っています。とにかくこの「応仁の乱」というのは今一つよく分からない「グダグダ内戦」というか「ダラダラ内戦」です。登場人物があまりに多く、そういう中で際立った英雄が不在。「◯◯の戦い」と呼ばれるような主たる合戦が行われた形跡は乏しく、京の都全域が焼き尽くされ、餓死者が8万人も出たと言われるわりには戦死者の数が極端に少ない内戦。そもそも内戦に至った理由もはっきりせず、おまけに勝敗なんかもまったく付かず、なぁ〜んとなく終わってしまった感じさえ受ける戦いなのです。とにかく最初から最後までグダグダの内戦なのです()

 応仁の乱を全体で見ると今一つ訳が分からないグダグダ内戦ではあるのですが、視点をある一つのことに絞った局地戦で捉えてみれば、なんともはや人間臭い権力抗争劇が見えてきます。まぁ〜これも呆れるくらいのグダグダぶりなのですが…。


佐東銀山城の御門跡です。佐東銀山城は慶長5(1600)の関ケ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれたのですが、後に広島城が築かれるとその重要性が低下し、毛利氏が関ケ原の戦いの後に移封されると廃城となりました。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)

安芸武田氏は武田信栄・信賢・国信・元綱の父である武田信繁の時代から安芸国に隣接する周防国・長門国・豊前国の守護・大内氏と争いが絶えなかったのですが、永享12 (1440)に安芸武田氏第5代の武田信栄が若狭国守護となり、本拠を若狭国に移し、家臣の多数も若狭国に移住したことから安芸国側の守りが手薄になると大内氏との対立がより深まっていました。武田信栄が若狭国に移って以降は父親の安芸武田氏第4代・武田信繁が分郡守護代として佐東銀山城に残り、安芸武田軍を指揮していました。文安4(1447)、東西条(現在の東広島市)にも領地を所有していた大内氏が安芸国内に侵攻し、安芸武田軍と大内軍が衝突する事態が起きていました。この時に窮地に陥った安芸武田氏に援軍を差し向けたのは瀬戸内海の支配や対外貿易をめぐって大内氏と対立関係にあった細川氏。細川氏が安芸武田氏支援の姿勢を強めてきたことで、安芸武田氏と大内氏の対立は中央政界とも直結するものとなりました。また、長禄元年(1457)には、厳島神社の神主・佐伯親春が武田信繁との所領争いで舅の大内教弘を頼ったため、大内教弘が安芸国に再び侵攻し、居城の佐東銀山城と己斐城が攻め込まれました。この時は室町幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの救援で落城を免れたのですが、これも細川氏がバックで動いたからでした。このように安芸武田氏にとって大内氏は不倶戴天の敵とも言える存在で、細川氏とは力強い同盟関係にあったと言えます。

ちなみに、武田信繁は寛正6(1465)に死去し(享年76)、その後、ワンポイントリリーフの形で安芸武田氏の本拠・佐東銀山城の城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信のそのまた代わりの留守居役を務めて領国を守っていたのが、その後、伊予武田氏を興し初代当主となる武田信繁の弟の武田信友でした。


こちらは佐東銀山城の本丸跡です。江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民による保全活動により、ハイキングコースとして定着しています。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)


応仁元年(1467)から始まった応仁の乱では武田信賢は弟の国信、元綱ら若狭武田氏&安芸武田氏一族を率いて細川氏頭領の細川勝元率いる東軍に属し、赤松政則らとともにその中核をなし、京の都で市街戦を展開しました。これは大内政弘率いる大内氏が山名宗全率いる西軍の主力として参戦していたことが大きく影響していたのは間違いないことです。文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家(安芸武田氏)2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになったというのは前述のとおりなのですが、ここに大内氏が深く絡んできます。四男の武田元綱が大内氏方の毛利・福原氏らの勧誘を受け、西軍、すなわち大内氏方に突如転向したのです。武田元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸国の佐東銀山城にあって父・武田信繁から受け継いだ安芸分郡守護代という武田氏の庶流的な地位から脱却して、安芸武田氏として嫡流である若狭武田氏惣領家からの分離独立を図りたかったからだとされています。しかし、当時、安芸武田氏勢力も東軍に属しており、思うように独立できなかった武田元綱は西軍に属する大内氏に摺り拠っていったのであろうと容易に推察されます。


武田山の標高は410.5メートル。意外と高い山です。本丸のあった山頂からは、麓に広がる祇園の町、ゆったりと南流する太田川、高層ビルが林立する市街地を一望することができます。さらに向こうには、絵のような島々が浮かび、光り輝く瀬戸内海の絶景が続きます。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田信繁の四男・武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなったのが佐東銀山城の城代を務めていた武田信繁の弟の武田信友。彼は兄・武田信繁と共に幾度も大内氏と命がけで戦ってきたと思われますので、甥っ子・武田元綱に「はい、そうですか」とついていくことができなかったのだと思います。そして向かった先が瀬戸内海を渡った先の伊予国。ここにも大内氏と対立している一派が存在していました。それが伊予国守護の河野教通(通直)でした。

  

……(その2)に続きます。(その2)は第82回として掲載します。


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