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2019年8月6日火曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その16)

眼下に上蔦木の集落が一望できます。ここからこの日のゴールである蔦木宿のある上蔦木集落に向けて坂道を下っていきます。昔の旅人も同じような光景を見ながらこの坂道を下って行ったのでしょうね。甲州街道は蔦木宿を抜けると、終点の下諏訪宿に向けて蔦木宿の奥に見える緑の山の鞍部へ向かってちょっとキツい登り坂を登っていくことになります。
その坂道の途中に10個ほどの石塔石仏群が1箇所に集められて祀っているところがあります。そこに「応安の古碑」と刻まれた石碑があります。その「応安の石碑」の実物が奥にあるこの四角い石碑です。石に刻まれた年代によると、応安5(1372)の建立されたものだそうです。応安といえば1368年から1374年までの期間を指し、日本は南北朝時代、ざっと650年近く前の時代です。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は第3代将軍の足利義満でした。当時からの石碑が野ざらしのまま今も健在であるとは驚きです。
甲子塔をはじめとした石塔石仏群を見ながら、蔦木宿に向けて坂道を下っていきます。
坂を下りきったところに蔦木宿があります。「甲州街道 蔦木宿」と書かれた案内板が立っています。でも、まだここは蔦木宿の江戸方(東の出入口)ではありません。
石塔石仏群が1箇所に集められて祀られています。その中に常夜燈もあります。
道祖神です。道祖神が立っているということは、この場所は宿場の入口のすぐ手前ということを意味します。
道祖神のすぐ先、このあたりが蔦木宿の江戸方(東の出入口)でした。蔦木宿は江戸の日本橋から43番目の宿場です。江戸時代後期の天保14(1843)の宿村大概帳によると、蔦木宿の宿内人口は508人、宿内総家数は105軒。本陣1軒、脇本陣はなく、旅籠15軒。ここは慶長16(1611)に甲州街道の信濃国最初の宿場として整備された宿場です。山間の小規模な宿場ですが、それまで何もなかった新しい土地に計画的に整備された宿場ですので、稀に見る宿場としての形態を完備した宿場になっていて、江戸方、諏訪方の両方の入口は、宿場特有の枡形構造になっています。前方に見えるのは江戸方の第一の枡形で、ここで直角に左に曲がります。
蔦木宿の宿内に入っていきます。各建物には古くから伝わる各家の屋号が書かれた札が掛けられています。このお宅の屋号は「こく屋」のようです。
宿場らしく歴史を感じる古くて大きな家があります。
江戸方第2の枡形があります。一旦左に直角に曲がり、すぐその後で右に直角に曲がります。
戦国時代、この地は甲斐国の領域にありました。幾度の諏訪勢と甲州勢との戦いの末、天文4(1535)、堺川(JR中央本線 信濃境駅付近)で両者は和睦の会盟を行いました。天文9(1540)、諏訪頼満の孫頼重は、武田信虎の息女祢々を娶り、化粧料として堺方18ヶ村を信虎から頼満へ譲られたと伝えられています。この時、この土地も武田家から諏訪家の領地へと移りました。
また、江戸時代の旅人は、「蔦木日暮れて道三里」と言って、この蔦木宿で日暮れてからも3(12km)は歩いたそうです。甲州街道は江戸から甲府まで開かれた後、中山道の下諏訪まで延びたようであり、その時、この場所に宿場が作られました。道路は500メートルほどの一直線の道で、その両脇に梅と柿の木の並木があり、旅人の心を癒したのだそうです。開宿時から明治の時代に至るまでの宿場の賑わいは相当なもので、商店が建ち並び南諏訪地域の繁栄の中心でもあり、住民の鼻息も荒かったのだそうです。

曹洞宗の寺院、鹿島山三光寺です。この三光寺は、今から遡ること約600余年前(1395年頃)、武田信玄の6代前の武田重信が、父信満のために、現在の三光寺東方に真如山万願寺を開いたのが始まりです。現在も寺紋に武田菱が用いられています。境内、庭園は見事で、訪れる人の心を打つのだそうです。
蔦木簡易郵便局の軒下に妙なものがぶら下がっています。これは甲州街道の終点である下諏訪宿近くにある諏訪大社で7年ごとに行われる御柱祭で、山中から切り出された御柱となる樅(もみ)の大木16(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4)を各宮の社殿まで曳行する「山出し」と「里曳き」という行事で御柱の前後に二本の角の様に取り付けられる「めどでこ」という道具だということです。棒に連なった輪になっている縄が結ばれて、ここに若者たちが乗って山を下る「木落し」と宮川を渡る「川越し」と呼ばれる「山出し」が7年ごとの43日前後に行われます。甲州街道の終点である下諏訪宿が徐々に近づいてきていることを実感します。
前述のように、蔦木宿の宿内は真っ直ぐ一直線に伸びています。
十五社大明神です。由来等は分かりませんが、立派な鳥居が立っています。ここには、7年毎に行われる諏訪大社の上社御柱祭りで、御柱の前後に二本の角の様に取り付けられる「めどでこ」が奉納されるとのことで、先ほど蔦木簡易郵便局の軒下にぶら下がっていた「めどでこ」は、この十五社大明神からの古くなったもののおさがりのようです。
十五社大明神からすぐの「上蔦木交差点」角に蔦木宿の大阪屋源右衛門本陣の跡があります。現在は本陣の建物はなく、現存しているのは門だけです。この大阪屋本陣の規模は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していたと伝えられています。この蔦木宿は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道(現在のJR中央本線)がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第に寂れていったようです。本陣門の左隣には、案内板、「甲州道中 蔦木宿 本陣跡」の石碑、「明治13623日 明治大帝御駐輦跡」の石碑が建っています。
この蔦木宿本陣裏の駐車場が今回【第14回】のゴールでした。今日は約20.3km。約27,574歩、歩きました。昨日切り上げた約4km分が今日に回ったので、予定よりも長くなっちゃいました。1日としてはこれまでで一番長い距離を歩いたかもしれません。しかもこの区間は基本登りでした。なので、結構脹脛(フクラハギ)にきちゃっています。攣りそうになる寸前でした。日頃の鍛錬が足りないことを実感します。ちょっぴり反省……
ただ、天気も良かったし、南アルプスの山々をはじめ沿道の景色も綺麗だったので、充実度はこれまででNo. 1でしたね。これといった有名な名所旧跡はないものの、旧甲州街道の面影が残っているところがいっぱいあって、旧街道歩きマニアとしては大満足です。正直、これまで14回の甲州街道歩きで一番の区間でした。

長かった甲州街道歩き(532420間:約210.8km)も江戸の日本橋から452347(179.3km)を歩いてきて、残りは下諏訪宿までの72925(30.7km)のみ。宿場も金沢宿(長野県茅野市)と上諏訪宿(同諏訪市)、そしてゴールとなる諏訪湖のほとり、中山道との合流地点である下諏訪宿(長野県諏訪郡下諏訪町)3つを残すだけです。次回【第15回】は、今回のゴールだった蔦木宿をスタートし、金沢(かねざわ)宿を経て、上諏訪宿への途中まで歩きます。甲州街道の終着点である諏訪湖の湖面標高は759メートルで蔦木宿とさほど変わらないのですが、蔦木宿と次の金沢宿との間(12.3km)には釜無川(富士川)水系と天竜川水系の分水嶺である富士見峠(標高961メートル)が待ち受けます。またまた標高差250メートル以上の登り道です。

前線を伴った中心気圧984ヘクトパスカル(温帯低気圧とは言え、ちょっとした台風並みの勢力です)の低気圧の接近に伴って、1日目は小雨の中での街道歩きでしたが、低気圧が通過した2日目は爽やかな晴れ。2日間で捉えると、今回も「晴れ男のレジェンド」は健在で、梅雨前線に対して圧勝!と言ってもいいのではないでしょうか。さいたま新都心駅に戻る途中の中央自動車道 初狩パーキングエリアからは、雄大な富士山の姿が望めました。


――――――――〔完結〕――――――――



2019年8月5日月曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その15)

山口関所跡を過ぎると田圃の中の1本道を進みます。
国道20号線と合流し、右手に見える新国界橋で釜無川を渡ります。新国界橋は昭和41(1966)に竣工した橋で、それ以前はこの道を少し行った先にある旧国界橋で釜無川を渡っていました。旧甲州街道もその旧国界橋経由のルートで伸びていました。しかし新国界橋が出来て以降、旧国界橋橋は通行禁止になっているので、仕方なく新国界橋を渡ります。
釜無川です。これまでも何度も登場してきましたが、釜無川は一級河川 富士川の支流で、全長約68km。南アルプス(赤石山脈)の北端部に源を発し、釜無山の東麓を北流。西の赤石山脈(南アルプス)、東の秩父山地の間を流れて甲府盆地に入り、笛吹川と合流して富士川となります。富士川はそのまま富士山の西側を南流し、途中、早川、常葉川、波木井川など、さらに下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぎます。
国界橋の“国界”とは国境のこと。新国界橋で釜無川を渡りきると、いよいよ信濃国 長野県に入ります。長かった甲斐路も終わり、この先は信濃路の旅となります。
信濃国 長野県に入ると急に山が迫ってきます。振り返って甲斐国 山梨県方向を見ると明るく開けた感じがします。その違いに、あぁ、関東地方から中部地方に入ってきたのだなと実感します。
長野県側にもこうした手作りの道標が立っていて、ここが甲斐国と信濃国の国境であることをアピールしています。
国道20号線から中央自動車道の小渕沢インターチェンジに向かう道路が分岐する下蔦木交差点です。
その下蔦木交差点のところに左側から合流してくる細い道があります。この道が旧国界橋で釜無川を渡ってくる道で、この道が本当の旧甲州街道です。ここからは旧甲州街道に戻ります。
下蔦木交差点の先で国道20号線と分かれ、右側の坂道を登って行きます。
坂道をちょっと登ると公民館の裏に「日蓮上人高座石」といわれる石があります。説明板によると、文永11(1274)3月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったのですが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになりました。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫していました。下蔦木(当時は甲斐領蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時で、伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は33晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたといわれています。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したのだそうです。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられています。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたのだそうです。
その日蓮上人高座石の先に甲子塔や庚申塔といった石塔石仏群が集められて祀られているのですが、その一番前に可愛らしい「夫婦道祖神」があります。
少し急な坂道を登っていきます。
進行方向右手に「古道(逸見路)追分道標」が立っています。傍に立つ説明板によると、この道は釜無川の氾濫により甲州街道が不通になった折の迂回路であり、七里岩の上方に沿って台ヶ原宿、韮崎宿へ通じていた古道なのだそうです。この道標の立っている場所はその信州側からの入口にあたります。石の上部が毀損しているため文字の一部が読み取れませんが、台ヶ原宿にある同じ道標からして、「はらぢみち」と刻まれていたと推定されるのだそうです。また、「にらさきまでむしょく」という文字も刻まれているのだそうです。ちなみに、近隣ではこの道のことを「へみみち(逸見路)」と称していたのだそうです。
下蔦木集落の登り坂を黙々と登っていくと、下蔦木集会センターの前に出るのですが、そこに「731メートル」という標高板が立っています。この地点が今回の【第14回】のコースの最高地点です。ここまで約370メートルの標高差を黙々と登ってきました。
日蓮上人高座石のところで書かせていただきましたが、もともと真言宗の寺でしたが、日蓮上人に感応して日蓮宗に改宗したといわれる真福寺です。鐘楼造りの山門が特徴的です。達筆の「南無妙法蓮華経」の題目碑が幾つもあることから、帰依の深さが伺えます。
「おびんずる様(浄行菩薩)」です。その謂れが説明板に書かれていますが、私は仏教の知識に乏しいので、ちょっと理解できていません。


……(その16)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...