山口関所跡を過ぎると田圃の中の1本道を進みます。
国道20号線と合流し、右手に見える新国界橋で釜無川を渡ります。新国界橋は昭和41年(1966年)に竣工した橋で、それ以前はこの道を少し行った先にある旧国界橋で釜無川を渡っていました。旧甲州街道もその旧国界橋経由のルートで伸びていました。しかし新国界橋が出来て以降、旧国界橋橋は通行禁止になっているので、仕方なく新国界橋を渡ります。
釜無川です。これまでも何度も登場してきましたが、釜無川は一級河川
富士川の支流で、全長約68km。南アルプス(赤石山脈)の北端部に源を発し、釜無山の東麓を北流。西の赤石山脈(南アルプス)、東の秩父山地の間を流れて甲府盆地に入り、笛吹川と合流して富士川となります。富士川はそのまま富士山の西側を南流し、途中、早川、常葉川、波木井川など、さらに下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぎます。
国界橋の“国界”とは国境のこと。新国界橋で釜無川を渡りきると、いよいよ信濃国
長野県に入ります。長かった甲斐路も終わり、この先は信濃路の旅となります。
信濃国 長野県に入ると急に山が迫ってきます。振り返って甲斐国
山梨県方向を見ると明るく開けた感じがします。その違いに、あぁ、関東地方から中部地方に入ってきたのだな…と実感します。
長野県側にもこうした手作りの道標が立っていて、ここが甲斐国と信濃国の国境であることをアピールしています。
国道20号線から中央自動車道の小渕沢インターチェンジに向かう道路が分岐する下蔦木交差点です。
その下蔦木交差点のところに左側から合流してくる細い道があります。この道が旧国界橋で釜無川を渡ってくる道で、この道が本当の旧甲州街道です。ここからは旧甲州街道に戻ります。
下蔦木交差点の先で国道20号線と分かれ、右側の坂道を登って行きます。
坂道をちょっと登ると公民館の裏に「日蓮上人高座石」といわれる石があります。説明板によると、文永11年(1274年)3月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったのですが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになりました。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫していました。下蔦木(当時は甲斐領蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時で、伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は3日3晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたといわれています。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したのだそうです。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられています。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたのだそうです。
その日蓮上人高座石の先に甲子塔や庚申塔といった石塔石仏群が集められて祀られているのですが、その一番前に可愛らしい「夫婦道祖神」があります。
少し急な坂道を登っていきます。
進行方向右手に「古道(逸見路)追分道標」が立っています。傍に立つ説明板によると、この道は釜無川の氾濫により甲州街道が不通になった折の迂回路であり、七里岩の上方に沿って台ヶ原宿、韮崎宿へ通じていた古道なのだそうです。この道標の立っている場所はその信州側からの入口にあたります。石の上部が毀損しているため文字の一部が読み取れませんが、台ヶ原宿にある同じ道標からして、「はらぢみち」と刻まれていたと推定されるのだそうです。また、「にらさきまでむしょく」という文字も刻まれているのだそうです。ちなみに、近隣ではこの道のことを「へみみち(逸見路)」と称していたのだそうです。
下蔦木集落の登り坂を黙々と登っていくと、下蔦木集会センターの前に出るのですが、そこに「731メートル」という標高板が立っています。この地点が今回の【第14回】のコースの最高地点です。ここまで約370メートルの標高差を黙々と登ってきました。
日蓮上人高座石のところで書かせていただきましたが、もともと真言宗の寺でしたが、日蓮上人に感応して日蓮宗に改宗したといわれる真福寺です。鐘楼造りの山門が特徴的です。達筆の「南無妙法蓮華経」の題目碑が幾つもあることから、帰依の深さが伺えます。
「おびんずる様(浄行菩薩)」です。その謂れが説明板に書かれていますが、私は仏教の知識に乏しいので、ちょっと理解できていません。
……(その16)に続きます。
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