2019年8月13日火曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その2)

枡形道趾の石碑が立っています。蔦木宿は慶長16(1611)に甲州街道の信濃国最初の宿場として整備された宿場で、それまで何もなかった新しい土地に計画的に整備された宿場ですので、稀に見る宿場としての形態を完備した宿場になっていて、江戸方、諏訪方の両方の入口は、宿場特有の枡形構造になっているということを書かせていただきましたが、その諏訪方(西の出入口)の枡形がここです。
その枡形のところで国道20号線を直角に左折し、次に道なりに直角に右折します。
この道路が旧街道であった証しの石塔石仏群があります。二十三夜塔が目立ちます。
さらに枡形が続き、道なりに右に直角に曲がります。そこにも石塔石仏群が集められて祀られています。その石塔石仏群の後方にはおびただしい数の馬頭観音が集められて祀られています。甲州街道では馬による物資の運搬が盛んに行われていて、その馬の供養のために立てられたものですね。
サイカチの巨木の横に「川除(かわよけ)古木」という案内板が立っています。説明板によると、釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口(諏訪方)付近に作られた信玄堤と呼ばれる堤防があります。川除古木はこの信玄堤とともに水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ1株、サイカチ2株、ケヤキ1株だけなのだそうです。明治31(1898)の大水の際には、洪水の際は、ここにあった大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の流れの向きを変えて、蔦木宿の集落を水害から守ったのだそうです。なかなか立派なサイカチの古木です。
旧甲州街道は川除古木のすぐ先で、今度はほぼ直角に左に曲がります。現在の甲州街道である国道20号線は、さきの枡形道趾の石碑が立っているところからほぼ真っ直ぐに伸びているのですが、旧甲州街道は次々と枡形を鉤の手のように左右にほぼ直角に曲がりながら進みます。鉤の手のように曲がる枡形の数は5箇所(確か)でしょうか。蔦木宿が新しい土地に計画的に整備された宿場であることから、稀に見る宿場としての形態を完備した宿場の構造をしていると言っても、この枡形の連続はいくらなんでもやり過ぎと違うかとも思えてきます。
旧甲州街道が国道20号線と合流するところに松尾芭蕉の句碑が立っています。
「川上と この川下や 月の友  はせを(芭蕉)
と刻まれています。元禄5(1692)に詠まれた句のようですが、この句は実際にこの場所で詠まれた句ではなく、江戸の隅田川に東方から合流する小名木川に舟を浮かべて詠まれた句なのだそうです。
旧甲州街道は国道20号線のガードレールの外側の側道のような道を進みます。
その側道のような道も少し歩くと国道20号線に合流し、今度は国道20号線の歩道を進みます。「国道20号線 東京から175km」の道標が立っています。ついに175km歩いてきたのですね。
国道20号線は緩く右にカーブします。旧甲州街道はここから左手に入っていくのですが(真っ直ぐに伸びているのですが)、この先には石材店の砂利を作る大きなプラントがあって、進むことができません。なので、そのプラントを迂回するようにプラント横の小径を進みます。
ここで旧甲州街道に戻ります。作業用の道路のようですが、この道が旧甲州街道です。さらに砂利を作るプラントの横を歩きます。すっかり雨(霧雨)もあがって、皆さん、雨具(レインコート)を脱ぎました。やはりレインコートを着ていると中が蒸すので、極力着ないで歩きたいですからね。
道路がネットで遮断されていて、そのネットを外して先に進みます。何のためのネットだろうと不思議に思っていると、「危険 さわるな!」の文字が。どうも感電ネット(電気柵)のようです。害獣侵入防止用なのでしょうか。砂利を作るプラントの周囲を取り囲んでいるようです。砂利を作るプラントなので害獣侵入防止用とは思えないのですが、はて、何のための感電ネット(電気柵)なんでしょうか?
いずれにせよ感電ネット(電気柵)の横をしばらく歩きます。少し距離はあるとは言え、横を高圧の電流が流れていると思うと、あまり気分のいいものではありませんね。
感電ネット(電気柵)が途切れたあたりで国道20号線に合流するのですが、その手前で左に折れ、田圃の畦道のような小径を進みます。この旅行会社の街道歩きツアーは、あくまでも旧街道を忠実にがコンセプトのようなので、こういうのもアリです。
国道20号線と合流するところの、国道20号線の向こう側奥に、アララギ派の歌人 森山汀川(ていせん)生誕地の碑が立っています。森山汀川は地元で小学校の教師を務めながら、同じく長野県で教師をしていた歌人 島木赤彦に師事し、短歌に傾倒。歌誌『アララギ』の編集に携わり、後年には選者も務めました。歌誌『アララギ』は、明治36(1903)に伊藤左千夫をはじめとした正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を源流とし、写実的、生活密着的な歌風を特徴としていました。アララギ派の歌人としては伊藤左千夫や島木赤彦のほか、斎藤茂吉や長塚節らがいて、そういう歌人との交流もあったようです。このあたりは森山汀川だらけです。
石塔石仏群が並んで立っています。
しばらく国道20号線の脇の歩道を進むのですが、ここで一度左の道にそれ、すぐに右に曲がり、田圃の間の農道のような道を進みます。おそらく、旧甲州街道はこの農道のような道が国道20号線に沿って手前にも伸びていたのでしょうが、現在は田圃の中に消滅してしまっていて、ここからが旧甲州街道に戻るようです。
道の両側の田圃はイネ()が順調に生育しています。このあたりも七里岩から湧き出したミネラルたっぷりの水が豊富にあるので、さぞや良質のコメ()が獲れるのではないかと推察されます。
その田圃の向こう側に江戸の日本橋を出てから46里目の「平岡一里塚」があります。現在は北塚のみが現存しています。ただし、この一里塚は耕地整理の際に10メートルほど国道沿いに移設されたもののようで、旧甲州街道は正しくはこの農道ではなく、私達が歩いている農道と国道20号線の間のこの田圃の中を通っていたようです。ここは元々片方の1つ、諏訪に向かって左側にしか塚がなかったといわれています。
「明治天皇巡幸御野立所跡」の碑が立っています。明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際、明治天皇はここで野立てを楽しまれ、次の休憩地である富士見峠を越えた先にある原之茶屋へ向かわれたのだそうです。そして、説明書きによると、ここまでは二頭立ての馬車で来られたのですが、ここから先、富士見峠に向かう瀬沢坂、芓ノ木坂が急勾配の難路のため、ここで4人担ぎの板輿にお乗り換えになられたのだそうです。


……(その3)に続きます。

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