2019年8月1日木曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その11)

ここで右側の道に入っていきます。ここは台ケ原宿の諏訪方(西の出入口)の枡形になっていたのでしょう。この緩やかなカーブが、この右側の道のほうが元々の旧甲州街道であったことを物語っています。
ここから白須集落(白州町白須)に入ります。
この白須集落も歴史を感じさせる古くて立派な建物が幾つも建ち並んでいます。
中でもひときわ立派なのがこのお宅。このあたりの名主だったお宅のようです。
ここでちょっと右手にそれて寄り道。

曹洞宗の寺院、白砂山自元寺です。寺院の門前に三界萬霊塔が立っています。三界とは輪廻転生する領域を3つに大別する概念のことで、無色界、色界、欲界の3つを指します。なので、三界萬霊とはこの3つの世界、すなわち、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。寺院では時々この三界萬霊塔を見掛けます。
この自元寺には武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達のうち猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられた馬場美濃守信房(信春)の墓があります。

自元寺の総門は、現在の白州町白須にあった馬場美濃守信房(信春)の屋敷(通称:梨子の木屋敷)から移してきたもので、四脚門流造り、屋根は今は鉄板葺きになっていますが元は茅葺きであったと思われます。棟の前後に奥方の家の家紋である紋笹竜胆が付けられています。この総門が造られたのは信房(信春)が生涯何度か改名した中の、教来石景政から馬場民部少輔信房に改名した天文15(1546)あたりと推定されています。戦国武将の屋敷の構えが偲ばれる貴重な遺構です。
自元寺の開基は馬場美濃守信房(信春)。元亀元年(1570)、この近くの白須坊田に寺を建立したのですが、天保年間の初期に火災で焼失し、天保14(1843)、現在の地に再建されました。馬場美濃守信房(信春)は、あの織田・徳川連合軍との長篠の戦いで壮絶な最後を遂げたのですが、その墓所はこの自元寺にあり、位牌も安置されています。
戦国時代、この釜無川右岸のいわゆる武川筋は、甲斐武田家を支える家臣団の中でも精鋭部隊として「武川衆」と呼ばれた土豪集団(地域的武士集団)の本拠でした。武川衆は武田氏の支流である甲斐一条氏に連なる一族で、台ヶ原宿の南、北を尾白川、南を大武川というともに釜無川の支流に挟まれた独立丘陵である中山(標高887メートル)の山頂に中山砦という拠点を築き、甲斐国北西部(現・山梨県北杜市域)の釜無川以西、御勅使川以北地域を領地として分拠し、甲斐国と信濃国の国境防衛の任を担っていました。また、川中島の戦い等で様々な武功をあげ、戦国時代最強と言われた武田軍団の中にあって、最精鋭部隊の1つでもありました。

武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達の中でもひときわ猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられ、「一国の太守の器量人」「智恵の武将」と高く評価された武将・馬場美濃守信房(信春)はこの武川衆の一族である教来石(きょうらいし)氏を出自とし、はじめは教来石景政と名乗っていました。武田信虎(信玄の父)の時代から武田氏に仕え、武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれています。天文10(1541)の信玄による父・信虎追放計画にも参加していたといわれています。

信玄が武田氏の当主となり、その直後から信濃国の諏訪・伊那攻めが始まると、これに参加して武功を挙げました。この武功により信玄にその才能を見出され、天文15(1546)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを命じられ、名を馬場民部少輔信房と改めました。その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2(1559)には譜代家老衆の一人として列せられました。永禄4(1561)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われています。永禄5(1562)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名し、周囲から鬼美濃と恐れられることになりました。

永禄11(1568)の駿河攻めにも参加。永禄12(1569)の三増峠の戦いでは、先鋒として後北条氏軍と戦い、目覚ましい武功を挙げました。さらに、元亀3(1572)の武田信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略しました。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという華々しい武功も挙げました。

元亀4(1573)に信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐することになったのですが、山県昌景と同じく、主君・勝頼からは疎まれたといわれています。天正3(1575)5月の長篠の戦いでは山県昌景と共に何度も撤退を進言したのですが勝頼に受け容れられず、代わりに出した策も勝頼の寵臣であった長坂長閑、跡部勝資ら側近達に退けられてしまいました。

521日の設楽原における織田・徳川連合軍との決戦では武田軍の右翼の中核に兵約700人で配され、武川衆を中核とした馬場隊は丸山に陣を張った織田方主力の佐久間信盛隊6,000人と対峙。馬場隊は兵を二手に分け佐久間隊に攻撃を仕掛け、ついには10倍近い兵力で守る丸山を奪取することに成功しました。しかし元々、数で劣る味方の攻勢が長続きすることはなく、次第に崩れだした武田軍は、三枝守友(三枝昌貞)、真田信綱、土屋昌次(土屋昌続)、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景といった武田二十四将に名を連ねる名だたる有能な人材(武将)を次々と失い、戦線は崩壊し始め、勝頼は退却の決断に至りました。最後まで戦線を保った馬場隊は武田軍の殿(しんがり)を務めるべく、勝頼が退却を始めると、退路にある山あいの急峻な地形を利用してそこに陣取り、残った兵数百で迫りくる織田・徳川連合軍の大軍の追撃をよく阻みました。勝頼の姿が見えなくなり、無事に退却できたことを見届けると、この時点でも馬場信春はまだ無傷であったのですが、反転して追撃してくる織田・徳川連合軍の主力に正面から総攻撃を仕掛け、壮絶な討ち死にをしたと伝えられています。馬場信春と彼に率いられた武川衆が如何に勇猛であったかが窺える逸話です。

馬場信春は享年61歳。当時としてはかなりの高齢です。この長篠の戦いで大敗北を喫した後、戦国時代最強と言われたさしもの甲斐武田軍団も離反や裏切りが相次ぎ、弱体化し、そしてついには滅亡していくのですが、その原因としてはこの馬場信春の事例からもカリスマ武田信玄の後を継いだ武田勝頼とその側近達の血気盛んな若気が経験豊富な長老達の意見を聞かず、軍団内部に大きな溝が生まれていったことが挙げられるのではないかと容易に想像できます。

これが武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣達の中でもひときわ猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられ、「一国の太守の器量人」「智恵の武将」と高く評価された武将・馬場美濃守信房(信春)の墓です。
私は還暦を過ぎて以降、この馬場信春(信房)の生き様に共感を覚えるところが大きいのですが、やっぱ、私は司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』に登場する郷里松山が生んだ偉人、秋山好古陸軍大将が憧れ……かな?

ちなみに、「武田四天王」とは馬場信春(信房)のほかに内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(弾正:春日虎綱)4人のことです。このうち、前述のように馬場信春、山県昌景、内藤昌豊の3人が長篠の戦いにおいて討ち死にし、高坂昌信だけが勝頼期後期の天正6(1578)まで存命(51歳で病死)。近世初頭に編纂された『甲陽軍鑑』はこの高坂昌信の口述が原本になっているといわれています。なお、武田氏の滅亡後、武川衆は徳川氏に帰属し、天正10(1582)の天正壬午の乱においては中山砦を警固し、後北条氏方を相手に活躍しました。

甲州街道歩きに戻ります。甲斐駒ケ岳の山頂付近はなかなか姿を現してくれません。雲がなければ甲斐駒ケ岳の姿を間近に見られて、絶景のはずです。
旧甲州街道は緩い坂道をドンドン登っていくのですが……
台ヶ原の台地を抜け、この先にある前沢の集落へ向けて一度下って行きます。ここで低気圧の通過の影響か、帽子が飛ばされそうなくらいの強風が前方から吹いてきて、皆さん、帽子を抑えています。
坂を下り終えたところに、道祖神や題目碑といった石塔石仏群が1箇所に集められて祀られています。信濃国が近づいてきたので、道祖神も甲斐国でよく見られた球体道祖神ではなく、信濃国で数多く見られる男女の双体道祖神に替わります。
目の前に七里岩。ほぼ垂直に切り立った高い侵食崖があります。その侵食崖の際まで民家が建っています。さすがに、防災上、大丈夫なのか…と心配になります。この等高線に沿うように微妙にS字を描いて伸びる道。いかにも旧街道らしい道です。渋いです!!
ここからはまた緩い登り坂の道となります。田植えが終わった田圃を左右に見ながら、さらに進みます。やはり甲斐駒ケ岳の山頂付近は見えません。
畑の中にある武田神社です。
ここにも道祖神です。


……(その12)に続きます。

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