公開予定日2021/07/01
[晴れ時々ちょっと横道]第82回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その2)
【5.河野氏と応仁の乱について】
当時、伊予国の守護職を務めていた河野氏も、細川氏と大内氏の勢力争いに翻弄されていた一族でした。伊予国の有力豪族である河野氏は、古代越智氏族の越智玉澄(河野玉澄)を家祖とする一族です。天智天皇2年(663年)に起こった日本古代史上最大の対外戦争と言われる「白村江の戦い」の時、水軍大将として伊予水軍を率いて出陣し、手痛い敗戦を喫した後に新羅の捕虜になり、長い間新羅(朝鮮半島)に抑留された後に脱走して帰還したとされる越智守興。その越智守興は抑留中に唐の武将の娘との間にできた2人の兄弟を帰還時に一緒に連れ帰ってきたそうなのですが、そのうちの弟のほうが越智玉澄。その後、越智玉澄は伊予国温泉郡(風早郡)河野郷(現在の松山市北条付近)に移り住んで河野姓を名乗り、河野氏の家祖になったとされています (兄の越智玉守は矢野氏・伊予橘氏の家祖とされています)。“河野”の読み方は今では“こうの”が一般的になっていますが、元々の“河野郷”の地名の読み方は“かわの”。なので“かわの”という読み方が正しいのではないか…とも言われています。
この河野氏は長らく大三島の大山祇神社の宮司家・大祝家を頂点とした古代越智氏族の中で今治にあったと考えられる国衙(こくが)の役人(水軍大将?)を務めていたようなのですが、この河野氏が一躍有名になるのが平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱」、いわゆる源平合戦です。この「治承・寿永の乱」においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝の求めに応じて源氏に味方し、平氏打倒に大いに貢献したことで鎌倉幕府の御家人となり、東国の武将中心の鎌倉幕府の中で西国の武将でありながら大きな力をつけていきました。その後の元寇、中でも2度目の「弘安の役」(1281年)の時には勇将・河野通有が「河野の後築地(うしろついじ)」として名が残るほどの大活躍をしてその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げました。
南北朝時代には、河野通盛は足利尊氏に従い北朝側につき、四国へ進出し伊予へ侵攻した南朝側の細川氏と争いました。河野通盛はそれが認められて、建武3年(1336年)、ついに伊予国守護職を手にし、その後、室町期に松山市道後に湯築城(ゆづきじょう)を築き、そこに本拠を移しました。湯築城に本拠を移したことで道後平野での稲作による豊富な食料確保が可能となり、一時的に河野氏の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれました。ここが島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな違いでした。
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松山市道後公園内にある湯築城跡です。湯築城は建武3年(1336年)に伊予国守護職に任じられた河野通盛によって築城された平山城で、250年近く河野氏の居城でした。日本100名城の1つで、国の史跡にも指定されています。松山市の城というと加藤嘉明が築城した松山城があまりにも有名ですが、湯築城は江戸時代に入ってから築城された松山城よりも約300年も前に築城された城です。なんと、日本100名城に選定されている城のうち松山市内には 2城、愛媛県内には5城があります。城好きにはたまりません。 |
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道後公園の濠は、湯築城があった時代からの濠です。
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湯築城の本丸跡は展望台になっていて、そこからは松山城が見えます。実は松山城を築城する際に、湯築城から石垣の石をあらかた持っていったのだそうです。 |
伊予国の守護職を手にした河野氏ですが、阿波国、讃岐国、土佐国の守護を兼任し、残る伊予国を手中に入れて管領として四国を支配しようとした細川頼之の術中に嵌ってすぐに伊予国の守護職を奪われ、南北朝の混乱の中で翻弄され急激に衰退していきます。途中から南朝方について衰退していった河野氏ですが、天授5年/康暦元年(1379年)、室町幕府内で「康暦の政変」が発生し細川頼之が管領を罷免されて失脚すると、河野通盛の孫である河野通直は新たに四国管領となった斯波義将から伊予国守護職に補任されて北朝方に寝返り、細川頼之討伐を命じられ進軍したのですが、伊予国周敷郡(周桑郡)で細川頼之の奇襲に遭い討死してしまいました。しかし、河野通直の子の河野通義は細川頼之と和睦して伊予国守護に任じられ、以後、伊予国守護職は河野氏の世襲となりました (細川頼之の阿波国、讃岐国、土佐国の守護職は継続)。
その後も度重なる細川氏の侵攻や河野氏の庶流である予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされ続けたようです。特に予州家との間の家督相続争いは管領職が代わるたびに幕府の対応が変わるなど、情勢が混迷を極めたようです。その予州家との家督相続争いが頂点に達したのが、河野氏本家・河野教通と予州家の河野通春の争い。河野氏本家の河野教通(のち通直に改名)は永享7年(1435年)、大友持直征伐のさなかに父・河野通久が戦死したため、家督と伊予守護職を継承しました。河野教通(通直)は永享11年(1439年)、将軍・足利義教の命を受け関東で起きた永享の乱や大和永享の乱に出陣するなど伊予国守護として室町幕府に貢献したのですが、文安3年(1449年)に伊予国守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に突如交替させられるという事態が発生しました。この時は幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返し、河野教通(通直)は伊予国守護に返り咲きました。河野教通を伊予国守護から解任した幕府が、次には河野教通の再起を助けると言う矛盾した方針は、河野氏本家本流の河野教通を支持する足利義政・畠山持国と、庶流である予州家の河野通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立が幕府内であったことが原因とみられています。
さらにその後も伊予国守護職を巡る河野教通(通直)と河野通春の間で互いに奪還を繰り返すドタバタ事態が続いたのですが、ここで何故か細川勝元と河野通春の間で対立が発生して、寛正3年(1462年)には細川勝元が一族の細川賢氏を伊予国守護に任命するという信じがたい事態が発生しました。伊予国を細川氏に奪われた予州家の河野通春は周防国・長門国・豊前国の守護を務めていた大内教弘・政弘父子を頼り、それにより寛正5年(1464年)には細川・大内両軍が伊予国に侵攻してきて衝突する事態にまで陥りました。この時、どちらにも与し得ない河野氏本家本流の河野教通(通直)は蚊帳の外に置かれる形になっていました。ちなみに大内氏第13代当主である大内教弘は大内氏の伊予国侵攻の最中の寛正6年(1465年)9月に興居島で死去し(享年46歳)、死後、大内氏の家督は長男の大内政弘が継ぎました。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友関係を結んでいた予州家の河野通春は西軍の一員として上洛しました。河野氏本家本流の河野教通(通直)は当初は静観していたものの、西軍が予州家の河野通春を伊予国守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍に参戦し、河野通春に対抗する形になりました。もうグダグダです。このグダグダが「応仁の乱」と言えば「応仁の乱」らしいところなのですが、日本全国の守護大名家でこのようなグダグダが起きて小競り合いを繰り返したのがこの時期でした。
この時、大内氏というかつてない強敵を相手にするため河野氏本家本流の河野教通(通直)が思いついたのが、それまで大内氏と幾多の武力衝突を繰り返していた安芸武田氏との連携だったのではないでしょうか。しかし、文明3年(1471年)6月に若狭武田氏(安芸武田氏)頭領の武田信賢が病死し、新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田元綱が大内氏側に転向したことで、安芸武田氏との連携自体は断念。代わりに武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなった武田信繁の弟の武田信友を客将としてヘッドハンティングしたのではないでしょうか。武田国信が継承した嫡流である若狭武田氏は東軍のまま残っていたので、若狭武田氏頭領となった武田国信の意向もあって、にっくき宿敵の大内氏を抑えるために武田信友を瀬戸内海を渡って伊予国に入らせたという解釈もできようかと思います。また、地方豪族に過ぎない古代越智氏族を出自とする河野氏は「源平藤橘」(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のように天皇家との血筋の繋がりが明白な名門の家系ではなかったため、清和源氏系の河内源氏の血筋を汲む武門として名門の安芸武田氏との連携は大変に魅力的なものだったはずです。いずれにせよ、応仁の乱のグダグダぶりが伊予武田氏を生むことになったと言えようかと思います。
【6.伊予武田氏の興り】
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このようにして、武田信友は文明3年(1471年)に河野氏本家本流の当主
河野教通(通直)に招かれ、嫡男の武田信保をはじめとする旧安芸武田氏の多数の一族を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(りゅうおかむら:現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興すことになったのですが、河野氏内では客将としてそれなりの扱いをされていたようです。武田信友自身は既に高齢になっていたため竜岡村に屋敷を与えられてそこで余生を送ったようなのですが、代わりに嫡男(伊予武田氏第2代当主)の武田信保は朝倉郷太ノ原(現在の今治市朝倉太ノ原)にあった重地呂城(ちょうじろうじょう)の城主となり、朝倉郷の太ノ原周辺を領地にしています。
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玉川ダム湖畔にある今治市玉川町龍岡(りゅうおか)です。安芸国(広島県)の佐東銀山城城主であった武田信友は、文明3年(1471年)、河野氏の河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興しました。また、この龍岡には河野氏一門の正岡氏の居城・幸門城がありました。 |
応仁の乱のグダグダの中で、予州家との家督相続争い、さらには中国地方の一大勢力である大内氏の脅威に備えるために安芸武田氏の先代当主
武田信繁の弟である佐東銀山城城主 武田信友をヘッドハンティングしてきた河野氏本家本流の河野教通(通直)ですが、文明5年(1473年)に細川勝元が亡くなった後に伊予国守護に任命されています。このあたりが応仁の乱らしいところで、あまりにグダグダ過ぎて、よく分かりません。延べ数十万人の兵士が京の都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたその応仁の乱は西軍が消滅したことで一応文明9年(1477年)に終結したことになっているのですが、それは単に京の都での戦闘が終結したということに過ぎず、一度崩壊した幕府の権力は弱まり、世の中は戦国時代という大動乱の時代に突入していくことになります。文明11年(1479年)には阿波国守護・細川成之の次男・細川義春が伊予国に攻め寄せてきたのですが、この時はどういうわけか予州家の河野通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退しました。その予州家当主の河野通春が文明14年(1482年)に没すると、河野氏本家本流の河野教通(通直)は伊予国守護職の座を河野道春の子の河野通篤と争うことも起こったのですが、その頃には伊予国の主導権を河野氏本家本流側がほぼ掌握しており、予州家を圧倒。その後、予州家は急速に没落していきました。
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重地呂山の麓から見た伊予武田氏の領地であった越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉太ノ原)の風景です。当時も今と同じように頓田川に沿って田園地帯が広がっていたと思われます。 |
そうしたゴタゴタの中で、伊予武田氏は河野氏の客将として大いに活躍したのでしょう、河野氏家臣団において河野十八将の1人に数えられるほどの重要な一翼を為していったようで、第3代・武田信高の時代になると同じく朝倉郷にある龍門山城の城主となり、朝倉郷の広い範囲を領地にしています。その後、第4代・武田信俊、第5代・武田信充、第6代・武田信重、第7代・武田信勝と伊予武田氏は継承されます。
【7.龍門山城】
この龍門山城は今治市(旧越智郡朝倉村)と西条市(旧東予市。それ以前は周桑郡三好町)の境に跨がる標高439メートルの竜門山(龍門山)の山頂に築かれた山城です。竜門山は尖って見える山頂部が特徴的な山で、山の上部は豊かな自然林、下部は水資源林として保護されています。麓には朝倉ダム、大明神池など、竜門山や周囲の山々が満たす湖水があり、頓田川や黒谷川、スミヤ川(北川)など、今治平野や周桑平野を潤す河川もこの竜門山付近の山々から発しています。龍門山城があったとされる竜門山の山頂に立ってみると、眼下に今治平野が一望でき、城を築城するには最適な場所のように思えます。この竜門山の山頂に龍門山城が築かれた時期は定かではありませんが、一説によると鎌倉時代に長井斎藤景忠によって築かれたとも言われています。この長井景忠は当時の伊予国守護・佐々木三郎盛綱の重臣で、守護代を務めていた人物であるとも言われています。龍門山城の建物等はいっさい現存しておりませんが、今も山頂付近に石積みや井戸の跡の一部等が遺構として残っているのだそうです。
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朝倉ダムの向こう側に聳えているのが今治市(旧朝倉村)と西条市(旧東予市)の境に跨がる竜門山です。この竜門山の山頂付近に伊予武田氏の居城・龍門山城がありました。 |
龍門山城は伊予武田氏第3代・武田信高の時代の一時期、河野氏一門の河野通明が入城していた時代があったようなのですが、大永5年(1525年)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて一度落城。河野通明は高市郷(現在の今治市高市)で討ち死にしたとされており、墓石に刻まれた没年から推察する限り、その際に武田信高も討ち死にしたと思われます。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5年(1562年)、弟の第7代
武田信勝に継承されます。
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龍門山城の登城口です。龍門山城はあくまでも戦闘用のいわゆる「中世山城」です。城郭として馴染みの深い天守を備えた「近世城郭」ではありません。加えて戦闘用の城だけに登城口の位置も分かりづらく、1人で登城することを怯ませる雰囲気があります。私も今回は時間の都合もあり、ここまでにしました。 |
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龍門山城の登城口から東の方角を眺めたところです。眼下に見えるのは西条市壬生川周辺でしょうか。 |
【8.戦国時代の伊予武田氏】
この間、伊予武田氏の主家となった河野氏をはじめ、日本全国で大きな変化がありました。応仁の乱が終わり、日本は15世紀の終わりから16世紀の終わりにかけて約100年間の「戦国時代」と呼ばれる戦乱が頻発した時代に突入します。応仁の乱を経て室町幕府の権威が著しく低下したことに伴って世情は不安定化し、全国各地でそれまでの守護大名に代わって戦国大名が台頭してきて、彼等個々の領国内の土地や人を一元的に支配する傾向を強めるとともに、領土拡大のため隣接する他の大名達と戦闘を繰り広げるようになってきます。伊予国守護職を務める河野氏もその例外ではありませんでした。予州家当主の河野道春が文明14年(1482年)に没したことで予州家との抗争は一応の終息は見たものの、能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆(こくじんしゅう:各地の村落を支配した領主。国衆とも言う)が新たに勢力を台頭させてきます。伊予国ではこの新たに台頭してきた有力国人衆の反乱や抗争、河野氏内部での家督争い等が相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることをとてもできる状態ではなかったようです。特に河野氏宗家の当主が河野通直(弾正少弼:河野教通の孫)だった時代の天文9年(1540年)、家臣団や有力国人の村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こります。この争いは河野晴通の死と河野通直自身の失脚により収束はしたのですが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになりました。この隙を突いて、周防国の大内氏の侵攻が激化し、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなります。結果的に、国内的には新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも大内氏に代わって台頭してきた安芸国の戦国武将・毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわず、衰退への道を転げ落ちていくことになります。
ちなみに、国人衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。したがって、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国人衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃を受ければ国人衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国人衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)
こうした時代背景の中で伊予武田氏も居城・重地呂城や龍門山城のある伊予国越智郡朝倉郷を拠点に伊予国の有力国人として勢力を拡大していく道を選んだようです。その勢力拡大の方向は東南方向。周敷(しゅうふ)郡や桑村(くわむら)郡(明治30年に周桑郡に合併。現在の西条市西部地域)といった周辺地域に進出していったようです。例えば、第6代 武田信重は弟の第7代 武田信勝に龍門山城主を譲り、周敷郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になっています。また、それ以外にも伊予武田氏が旧周桑郡地域に勢力を伸ばした痕跡が数多く残っていて、この地方には武田家の子孫や家臣達が多く住み着いたためなのか、今治市朝倉と同様、今も武田姓の家が異様に多く残っています。
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一面のレンゲの花の向こうに見えるのは朝倉村の象徴とも言える笠松山。笠松山の名前に相応しくアカマツで覆われた美しい山で瀬戸内海国立公園の中でも景勝地の1つだったのですが、2008年に大規模な山火事が起きてハゲ山になってしまいました。植林はされているそうなのですが、まだまだ元の美しい姿に戻るには時間がかかりそうです。かつてはこの笠松山にも城があり、城主の岡氏と伊予武田氏は深い姻戚関係を持っていたようです。 |
永禄5年(1562年)に兄の武田信重から家督と龍門山城を譲られた第7代・武田信勝ですが、永禄11年(1568年)、大洲城を拠点に伊予国の喜多郡地方で勢力を築いていた伊予宇都宮氏の宇都宮豊綱が土佐国西部を支配する土佐国守護であった土佐一条氏の一条兼定の支援を受けて宇都宮氏と対立関係にあった有力国人の宇和郡の西園寺氏の領内に侵入するという事態が発生。瞬く間に西園寺公広率いる西園寺氏を従属させ、その軍勢を加えて河野氏の支配地域に対して侵入を開始しました。この伊予国の覇権を巡る戦いにまで発展しそうな事態を受けて、河野氏の来島村上氏の村上通康(河野氏当主・河野通宣が病気療養中だったため、政権代行中)は同盟関係を結んでいた安芸国の毛利元就に支援を要請。鳥坂峠(とさかとうげ:国道56号線の大洲市と西予市の市境にある標高470メートルの峠)の東にある高島(現在の大洲市梅川地区)まで進んできた宇都宮・一条連合軍に対して、村上吉継(来島村上氏の一族。村上通康が陣中で急死したため、指揮を継承)は鳥坂峠に陣を構えて対峙。しばらく膠着状態が続いたのですが、毛利氏の援軍(小早川隆景)が合流するや一気に反転攻勢に出て、撃退に成功し、一条軍も土佐に撤退ました。この「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」と呼ばれる戦いにも武田信勝は河野氏の一員として一族を率いて参戦し、大いに活躍したというが記録に残っています。
余談ですが、この戦いの大敗後、宇都宮豊綱は毛利方に捕らえられ、8代続いた宇都宮氏による喜多郡支配は終焉を迎えます。また、土佐国内でも守護家である一条氏の勢力が急激に弱体化し、それとともに長宗我部元親が急速に台頭してきて、天正元年(1573年)、一条兼定は土佐を追われ、土佐国は長宗我部元親の支配と移ります。そして“運命の”天正10年(1582年)を迎えます。
……(その3)に続きます。(その3)は第83回として掲載します。