2021年6月24日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 公開日2021/09/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 

【11.もう一つの伊予武田氏】

 

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(その2)の最後に、伊予武田氏第6代・武田信重は弟の第7代・武田信勝に龍門山城主を譲り、周敷郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になったということを書きました。正確に読むと、武田信重は龍門山城を弟の武田信勝に譲ったとは書いていますが、家督まで譲ったとは記録に残っていないわけです。えらくあっさりと記録に残されているのがかえって謎めいていて、実際には家督までは譲ってなくて、伊予武田氏は第6代の武田信重の代に周敷郡志川にあった文台城に拠点を移し、もともとの居城・龍門山城を弟の武田信勝に任せたと解釈したほうが正しいのではないかと、私には思えてきました。


西条市丹原町志川(旧周敷郡志川)にある文台城跡です。文台城は松山自動車道の高架のすぐ南側、志河川ダムとの間にある山塊(標高約180メートル)の山頂にあり、現在は登城道が整備されています。

文台城のある山塊は竹林に覆われていて、登城道は竹林の中を登っていきます

竹林が途切れると、鬱蒼とした木々の間をひたすら登っていきます。登城道というよりも“登山道”です。途中、道の幅が狭くなっているところもあり、ちょっとワイルドです。

山塊の山頂に文台城の主郭がありました。伊予武田氏の家督と居城・龍門山城を弟の武田信勝に譲った伊予武田氏第6代の武田信重は、息子の信戻・信明とともにこの文台城に移りました。


私の興味を引いたのがその文台城のあった周敷郡志川という“場所”です。ここは現在の西条市丹原町志川(旧周桑郡丹原町志川)。国道11号線で松山市から新居浜市方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。ここは私の母方の祖父母が晩年暮らしていた西条市丹原町湯谷口のすぐ隣の集落で、母方の祖母の実家があったところ。私にとっては子供の頃からの馴染みの場所の1つでもあります。私の父の生家で本籍地である今治市朝倉太ノ原が伊予武田氏の拠点の1つ重地呂城のあったところで、我が家の代々の菩提寺が伊予武田氏の菩提寺でもある今治市朝倉水ノ上の無量寺だということはこれまでも書かせていただきましたが、伊予武田氏第6の武田信重が移っていった先が母方の祖母の生家がある西条市丹原町志川。この偶然は私になにかを暗示しているとしか思えませんでした。もしかしたら、遠い先祖が「この謎を解けるのはオマエしかいない。解いてみよ」と言っているのかもしれません。私が伊予武田氏第6代武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったという記録を目にした時の衝撃たるや、鳥肌が立つくらいでした。

 なぜ伊予武田氏第6代の武田信重の移っていった先が周敷郡志川の文台城なのか? 一族の家督を継承している“長(おさ)”が一族の主だった者達を率いて移り住むためにはそれなりの明確、かつ納得できる理由、言ってみれば必然のようなものがないといけません。その理由とは何か? その謎を探るために、まず当時の周敷郡周辺の状況から調べてみました。当時の伊予国は守護職を務める河野氏の勢力が急速に衰退していって、国内は能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆が新たに勢力を台頭させてきて、その国人衆同士の勢力争いの抗争が絶えなかったということは(その2)で書かせていただきました。その伊予国内の国人衆同士の抗争の中で、周桑平野で急激に台頭してきた一族がいました。それが黒川氏です。

 

11.1 戦国時代末期の周桑平野の状況…黒川氏の台頭]

黒川氏は元々は西条市から加茂川に沿って愛媛県道142号石鎚小松停車場線をドンドン遡り、黒瀬ダムの先で愛媛県道12号西条久万線(かつての有料道路:石鎚スカイライン)が分岐したさらに先の黒川郷(現在の西条市小松町石鎚字黒川)にあった千足山・坦ノ城(標高450500メートル)を居城とする国人でした。この黒川郷ですが、かつてはここが西日本最高峰・石鎚山(1,982メートル)への一番有名な登山口で、最盛期には毎年数万人もの登山客がこの黒川郷から石鎚山に登っていくなど大層賑わったところでした。昭和41(1966)に黒川郷から愛媛県道12号西条久万線(旧石鎚スカイライン)を少し奥に入ったところに石鎚登山ロープウェイが開通し、石鎚山登山のロープウェイ利用が一般的になると急激に過疎化が進み、現在は廃村になっています。 


西条市小松町石鎚の黒川集落跡です。標高約500メートルの山深いこの黒川郷の国人衆であった黒川氏の婿養子になったのが土佐国出身の長宗我部元春。その黒川元春は石鎚山の山奥から平地に出てきて、瞬く間に周敷郡の旗頭へと台頭していきました。千足山・坦ノ城がどこにあったのかは判りませんでした。
加茂川の支流であるこの黒川渓谷を黒川口と呼ばれる登山道で黙々と登っていった先が石鎚登山ロープウェイの山頂成就駅になります。

愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐し、黒川郷までの道は渓谷に沿ってこんな感じのところが続きます。

また、この黒川郷は四国八十八ヶ所霊場巡りの第60番札所・横峰寺の近くにあります。この横峰寺は西日本最高峰・石鎚山の中腹の標高750メートルの地点にあり、急勾配の坂道を息を切らして登って行った先にあります。この横峰寺へ向かうワイルドな遍路道は伊予国(愛媛県)で唯一「遍路ころがし」と呼ばれているような難所中の難所です。横峰寺や石鎚登山ロープウェイに訪れたことがある方なら、黒川郷がどういうところかイメージできようかと思います。


登山届を出すポストです。かつてこの黒川郷が西日本最高峰・石鎚山登山で一番賑わった登山口であったことの名残です。

石鎚小学校と中学校の跡です。学校があるということは、それなりにまとまった数の人達が暮らしていたことを物語っています。

その石鎚山の山奥にいた黒川氏が台頭してくるのが黒川家14代総領の黒川元春(通尭)の時代です。黒川元春(通尭)に率いられた黒川氏一族は山から平野に降りると享禄年間(1528年〜1532)に現在の松山自動車道・小松JCTのすぐ南側にある標高245メートルの山塊の上に剣山城(つるぎやまじょう:鶴来山城とも)を築き、そこを居城に無類の強さで次々と周辺の国人(豪族)衆を滅亡もしくは臣従させ、瞬く間に周敷郡全域の旗頭となり、黒川氏を繁栄に導きました。この石鎚山中から突如出現した黒川元春(通尭)ですが、明治27年に刊行された『伊予温故録』によると、土佐国の長宗我部元秀(兼序)の次男で、長宗我部氏嫡流の長宗我部元国の弟にあたり、あの長宗我部元親の叔父にあたる人物なのだそうです。享禄年間の初めに兄の長宗我部元国と不和になったため長宗我部氏の本拠である土佐国長岡郡(現在の南国市岡豊町)を出奔して、伊予国周敷郡千足村黒川郷の国人(豪族)黒川通矩の妹婿になり、長宗我部の名を捨てて黒川姓を名乗り、黒川元春(後に通尭と改名)と称したといわれています。この時、黒川通矩は長宗我部元春の面構え・眼光を見てこの乱世に必要な人物と見て、兄弟の契りを結び、妹の婿に迎えて黒川姓を名乗らせたうえ、義弟となった元春にそれまでの居城である千足山の坦ノ城を譲り、自らは明河(西条市丹原町明河:中山川の上流)の赤滝城に移ったとされています。そして加茂川と中山川という石鎚山系から周桑平野に流れ込む2つの河川に沿って黒川通矩・元春の義兄弟が同時に2つの方向から下っていき、無類の強さを発揮して周桑平野を瞬く間に平定していったと言われています。 


西条市小松町妙口にある剣山城跡です。剣山城は黒川元春が築いた城で、黒川氏はこの剣山城を居城として周敷郡の国人衆の旗頭を務めました。

松山自動車道の石鎚山SAのすぐ南側の山塊の上に幻城(まぼろしじょう)の下城がありました。上城は下城の約1km南側の同じ山塊の頂上(標高488メートル)にありました。幻城は南北朝時代からある古城で、黒川元春はこの古城を改修して、剣山城の支城として新居郡の旗頭・高峠城の石川氏と対抗しました。

こんな石鎚山系の山深いところに土佐国の長宗我部元親の叔父が?…と疑問に思われるかと思いますが、その疑問は、私がそうだったように、四国の道路地図をご覧いただければすぐに解けると思います。愛媛県(伊予国)と高知県(土佐国)の県境に沿っては西日本最高峰である石鎚山(標高1,982メートル)をはじめとして、笹ヶ峰(1,860メートル)、瓶ヶ森(1,897メートル)、伊予富士(1,756メートル)、寒風山(1,763メートル)、堂ヶ森(1,689メートル)…と、石鎚山系と呼ばれる標高1,700メートル以上の山々が十数座、東西50km以上にも渡って屏風のように立ち並んでいます。その高い山々に遮られているため、愛媛県、特に東予地方と高知県との直接的なヒトやモノの移動は行われていなかったと考えがちですが、実際はそうした高い山々の山と山の間の鞍部を峠で越えるようにして、何本かの道があり、ヒトやモノの行き来がなされていました。例えば国道194号線。この道路は石鎚山系の高い山々の下を寒風山トンネルで抜けて西条市の加茂川橋交差点と高知市の県庁前交差点を結ぶ道路で、愛媛県東予地方と高知県中央部を直結する最短ルートになっています。寒風山トンネルは平成11(1999)に開通したのですが、それ以前は、寒風山横の鞍部にある峠を曲がりくねった細い道で越えていました。そして、この国道194号線の愛媛県内区間は加茂川の支流である谷川に沿って延びていて、その石鎚山系の山深いところには八ノ川城や高明神城、西後城といった城(砦?)が築かれ、明らかに土佐国からの敵の侵入に備えていたように推察されます。当時、新居郡の旗頭であった石川氏の居城は高峠城(西条市洲之内)。この高峠城の位置も大変に興味深いものがあります。新居郡の旗頭であったにも関わらず、高峠城は新居郡の中心部ではなく、隣接する周敷郡との郡境に非常に近い新居郡の中では著しく偏った場所にあります。現在の国道や県道の多くは旧来からあった街道を自動車が走行できるように整備したものがほとんどです。おそらくこの国道194号線ルートは昔から東予地方と土佐国との間の直接的なヒトやモノの移動の主要ルートの1つであったのではないかと考えられます。そして、おそらく石川氏は土佐国との交易を主目的としてこの場所に居城を構えたのではないか…と推察されます。

 そして、前述の愛媛県道12号西条久万線。この道路は西条市からは加茂川の本流を遡るように延びていて、石鎚山の東側の瓶ヶ森との鞍部を峠で越えると、今度は面河川(高知県内での呼び名は仁淀川)に沿って下り、久万高原町で国道494号線、さらには国道33号線、国道194号線と合流して高知市に至ります。そして、この愛媛県道12号西条久万線が愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐する地点付近に黒川氏の居城であった坦ノ城がありました。

 実はこれらのルートを使うと、東予地方と土佐国との間の距離は現代人が思っているほど遠くはありません。国道194号線に限ると総延長は76.0km(愛媛県側18.2㎞、高知県側57.8)。長宗我部氏の居城は土佐国府のあった土佐国長岡郡岡豊(現在の南国市)。地図でご覧いただくと、意外と近いことに驚かれると思います。また、山また山が続く険しい山道を進んでいく登山道のようなイメージを持たれるかもしれませんが、それほどでもないと私は推察しています。確かに日本最大の断層帯である中央構造線で形成された四国山地の石鎚山系は中央構造線の北側である愛媛県側は山がスパッとナイフで切ったように断崖絶壁が東西に長く続いているのでそういうイメージを持たれるかと思いますが、峠はその山々の鞍部を通っているため、歩いて通るぶんにはさほどの難路でもありません。さらに、石鎚山系を越えてしまえば高知県側の地形はなだらかな低い山々ばかりなので、距離は長いものの比較的歩きやすいコースであるとも言えます。陸路の主な移動手段が徒歩に限られていた時代の人達は驚くほど健脚で、1日の行程はおよそ8里から10里強(3240km)だったと言われています。それからすると、昔の人なら徒歩で2日間の距離です。私は旧街道歩きを趣味としているのですが、その私の感覚からしてもその程度で十分に移動可能な距離だと思います。このように、あの長宗我部元親の叔父である長宗我部元春が伊予国周敷郡の黒川郷にやってくる下地は元々からあったわけで、特に驚くことでも疑問に思うことでもないということです。

 

11.2 伊予武田氏第6代・武田信重の文台城入城]

その黒川氏と伊予武田氏との接点も時間軸で考えると、ちょうど黒川氏が台頭してきたそのあたりの時期ではないか…と推定されます。(その2)で書かせていただきましたが、大永5(1525)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて居城の龍門山城が落城し、伊予武田氏第3代の武田信高も討ち死にしたとされています。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。支城の重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5(1562)、弟の第7代 武田信勝に継承されます。第3代の武田信高が討ち死にして伊予武田氏が存続に関わる最大のピンチに見舞われた時、庇護の手を差し伸べたのが、もしかすると隣接する周敷郡で台頭してきた国人・黒川氏だったのかもしれません。

 その黒川氏ですが、黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊は、天文22(1553)、「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしてしまいます。そのため、黒川氏は河野氏の侍大将十八将の一人で幸門城(さいかどじょう:現在の今治市玉川町龍岡)城主であった正岡通澄の次男・通博を養子に迎え、黒川通博として家督を継がせました。その幸門城のある越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)は伊予武田氏の初代・武田信友が安芸国から伊予国に移ってきた時に屋敷を与えられたところで、伊予武田氏と正岡氏の間に少なからず関係があったことが推察されます。また、伊予武田氏の居城である龍門山城のある今治市朝倉は幸門城のある今治市玉川町と黒川氏の居城・剣山城のある西条市小松町の途中にあり、その時点では、おそらく黒川氏は伊予武田氏や正岡氏と強い同盟関係を築いていて、このあたり一帯はその同盟の中にあったのではないか…と推察されます。伊予武田氏第6代の武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったのが永禄5(1562)。黒川通博が正岡氏から養子に入り、黒川氏の家督を継いだすぐ後のことと推察されます。おそらく、正岡氏からの強い依頼があって、黒川通博を補佐するために移ったのではないかと思われます。

 そのことは文台城の位置から十分に推察されます。前述のように、文台城のあった周敷郡志川は現在の西条市丹原町志川、国道11号線で松山から新居浜方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。周桑平野(別名:道前平野)は、西日本の最高峰である石鎚山系の堂ヶ森などを源流部とする中山川とその支流が形成した傾斜の急な扇状地で、西は高縄山地に、南は四国山地に囲まれ、東を燧灘に接しています。その扇状地の扇の要(かなめ)にあたるところが文台城のあった周敷郡志川です。文台城は松山自動車道の高架と志河川ダムに挟まれた小高い丘陵(標高約180メートル)の東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれており、現在は登山道が整備されています。文台城の築城年代は定かではありませんが、平安時代末期に築かれたものではないかといわれています。治承4(1180)に河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官がこの文台城に籠って抵抗したとされていますが、その時は落城しています。そして、享禄年間(1528年〜1532)には剣山城城主・黒川元春(通尭)の持ち城となったとされています。その黒川氏の居城であった小松の剣山城との距離は約10km。主城である剣山城を守る支城としてはちょうどいいくらいの距離にあります。

 

文台城跡から見た周桑平野の風景です。ここがかつての周敷郡一帯です。

しかも、文台城のある志川は交通の要衝でもあります。現在でもすぐ近くを国道11号線が東西に走っていますが、この国道11号線はかつての讃岐街道で、西に向かうと河野氏宗家の居城であった道後湯築城へ、東に向かうと黒川氏の居城・剣山城のあった小松、さらには東予地方の有力国人衆・石川氏や金子氏の領地である宇摩郡・新居郡を経て讃岐国、さらには阿波国まで繋がっていました。北に向かっては愛媛県道48号壬生川丹原線が伸びています。この愛媛県道48号壬生川丹原線の丹原からは愛媛県道155号今治丹原線が分岐していて、伊予武田氏の居城・龍門山城のある今治市朝倉に行くのもさほどの距離ではありません。また、その先には今治市近辺にあったとされる伊予国の国府とも繋がっていました。

 そして注目すべきは南方向。志川から国道11号線を松山方向に約2.5kmほど行った西条市丹原町鞍瀬から愛媛県道153号落合久万線が伸びています。この道路は西条市と上浮穴郡久万高原町を結ぶ県道で、久万高原町で前述の愛媛県道12号西条久万線と同様に国道494号線と合流して、高知県須崎市に至ります。久万高原町直前の標高が高いところで未開通区間が残っているため県道としては全線で繋がっておらず、県道ではなく険道とも揶揄されるほどの道幅の細い道路ですが、かつてはこのルートが四国山地を越えて伊予国と土佐国とを結ぶ重要な交通路の1つだったようなのです。その証拠として、国道11号線と分岐する丹原町鞍瀬には鞍瀬大熊城、楠窪砦、立烏帽子城、そして県道が途切れる最奥部付近の明河集落には赤滝城が築かれており、その赤滝城には黒川元春(通堯)に家督とそれまでの居城・坦ノ城を譲った義兄の黒川通矩が入城したという記録が残っているのだそうです。


西条市丹原町明河・保井野集落から西方向を見たところです。このあたりに黒川氏の支城であった赤滝城趾があります。こんな山奥に城があるということは、この道が久万地方や土佐国(高知県)と繋がっていたということを意味します。

しかも、この赤滝城は前述の文台城同様、治承4(1180)河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官が最後まで立て籠もって徹底抗戦の末に落城したという記録が残る古城なのです。加えて、天文22(1553)に黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊が「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしたということを書かせていただきましたが、この時、黒川氏が同盟を結んでいたのが浮穴郡大除城(おおよけじょう:上浮穴郡久万高原町菅生)の城主・大野利直。大除城はまさに愛媛県道153号落合久万線の終点付近にあります。なんでこんな四国山地石鎚山系の奥深くに城郭が?って思えるのですが、このルートがかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ重要な交通路の1つだったとしたら、それも納得します。


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ちなみに、赤滝城に近い愛媛県道153号落合久万線が途切れる明河(みょうが)保井野(ほいの)集落には堂ヶ森(標高1,689メートル)を経由して石鎚山山頂(標高1,982メートル)に至る縦走路の保井野登山口があります。また、愛媛県道153号落合久万線の久万高原町側で途切れている地点のほど近くには梅ヶ市登山口があり、その2つの登山口からの登山路は堂ヶ森の手前の標高約1,450メートルの地点で合流し、そこから堂ヶ森の山頂を経て石鎚山の山頂に繋がる縦走路が延びています。おそらくこの合流点までの2つの登山路を直通するコースが周敷郡と浮穴郡を結ぶ街道だったのでしょう。私は旧街道歩きを趣味にしているので分かるのですが、標高1,450メートルの峠越えは実は大したことではありません。例えば、昨年私が歩いた五街道最高地点である中山道の和田峠(長野県小県郡長和町〜諏訪郡下諏訪町間)は標高1,531メートルもあり、五街道以外ではその和田峠を越える標高の峠も少なくありません。石鎚山の登山マップを見ると、保井野登山口と梅ヶ市登山口の間は2時間半から3時間で歩くことができそうです。最大の難所はこの区間で、登山路を下って久万高原町に入り、面河ダムの付近で国道494号線に合流すると、あとは面河川、そして仁淀川(仁淀川上流域のうち愛媛県側を面河川と呼びます)に沿って、緩やかに下っていけば、高知市、そして太平洋に至ります。この国道494号線は黒森街道と呼ばれ、かつては黒森峠(標高985メートル)を越えて松山方面と面河地方を結ぶ重要な交通ルートでした。私達現代人はどうしても現在の鉄道網や道路網の上で物事を考えがちですが、それらのインフラは明治時代以降に整備されたもの。わずか150年前までは、陸路の移動は専ら自らの足を使った徒歩によるものでした。それから推察すると、この愛媛県道153号落合久万線のルートはかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ最短、かつ最重要な交通路の1つだったと言えようかと思います。


西条市丹原町明河の保井野集落です。石鎚山系の堂ヶ森に向かう大変な山間にあるのですが、意外と大きな民家が建ち並んでいることに驚かされます。写真は久万高原町方向を撮影したものです。道路は愛媛県道153号落合久万線で、蛇行を繰り返しながら徐々に高度を上げていっています。現在県道はこの先の保井野登山口で行き止まりになっています。

西条市丹原町明河は、西日本最高峰である石鎚山系の堂ヶ森を源流とする二級河川・中山川支流の鞍瀬川を、源流に向かって遡っていった先にあります。このあたりは日本最大の断層帯である中央構造線のすぐ北側の領家変成帯にあたり、緑色結晶片岩や緑泥岩片岩といった緑色をした岩で構成される渓谷美が美しいところです。

愛媛県道153号落合久万線は未開通のままで、この保井野が西条市側の行き止まり箇所です。そしてここが堂ヶ森経由で石鎚山山頂に至る保井野登山口です。そしてこの登山道を行くと久万高原町側の梅ヶ市登山口に出て、愛媛県道153号落合久万線に戻ります。

その後の武田信重、子の信戻、信明に関する記録は現時点で私はまだ見つけておりませんが、黒川氏の記録からある程度は推察することができます。黒川通博は、元亀3(1572)、阿波国の戦国大名・三好長治が高峠城(西条市洲之内)城主・石川道清を案内人として伊予国に侵攻してきた際には、これを事前に察知して高峠城に攻め寄せ、三好長治勢を阿波国に撃退するという戦功をあげています(高峠城の戦い)。また天正3 (1575)は新居郡金子城(新居浜市滝の宮町)の城主・金子元宅(もといえ)と結び、鷺ノ森城(西条市壬生川)を攻めて落城させ、城主の壬生川通国を討ち取る戦功を挙げたとされています(鷺ノ森城の戦い)。さらに天正4(1576)の「備中松山城の戦い」では、家臣団の桑村郡象ヶ森城(ぞうがもりじょう:西条市上市)城主・櫛部兼久、周敷郡獅子ヶ鼻城(西条市小松町大頭)城主・宇野家綱らを率い安芸国の毛利輝元から援軍要請を受けた河野氏の一員として毛利氏から離反し織田信長に寝返った備中松山城(岡山県高梁市)城主・三村元親勢と戦い、戦功を挙げたとされています。これらの戦いに武田信重と子の信戻、信明が参戦したのかどうかは不明ですが、留守居役を含め、大いに活躍したのではないかと期待も含め推定しています。

 

……(その5)に続きます。(その5)は第85回として掲載します。




2021年6月17日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その3)

 公開日2021/08/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第83回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その3

 

【9.伊予武田氏の終焉】

 

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(その1)で述べたように、天正10311日、織田信長・徳川家康連合軍の怒涛の侵攻を受けた武田勝頼・信勝父子は笹子峠の手前の甲斐国都留郡の田野において滝川一益率いる織田軍に追われて自刃。ここに「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡しました。甲斐武田氏宗家を滅亡させた織田信長ですが、いまだ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国征伐の出兵準備のため安土城から京に上洛し本能寺に逗留していたところ、明智光秀の謀反に遭って燃え盛る炎の中で自害して果てました。享年49歳でした。これが甲斐武田氏宗家滅亡から3ヶ月も経っていない62日のことです。

この時期、河野氏でも大きな動きがありました。当時の河野氏は毛利氏と深い同盟関係・姻戚関係を構築していたのですが、前述の鳥坂峠の戦いの最中に急死した村上道康の家督を継いだ来島村上氏当主の村上(来島)通総が、天正10(1582)、中国攻めをしていた織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返るという重大な事態が発生しました。この村上(来島)通総の謀反は織田信長が本能寺で自刃し、羽柴秀吉が主君の仇明智光秀を討つべく全軍をもって中国路を京に向けて取って返すため毛利氏と和睦したことで、一時的に終息に向かいます。それまで村上(来島)通総は毛利氏や河野氏に攻められて本拠地・来島を追われ、一時は羽柴秀吉の元に身を寄せていたのですが、この和睦によって旧領の来島城に復帰しました。これにより、河野氏内で起きていた重大な事態もめでたく収まったかのように見えたのですが……

128日、理由は定かではありませんが、その村上(来島)通総が伊予武田氏の居城である龍門山城を奇襲しました。村上(来島)通総の軍勢450騎が夜陰に乗じて龍門山城へ攻め登り、城に火を放ちました。完全に不意をつかれた城主武田信勝は「敵は誰か、名を名乗れ」と叫びながら奮闘するも多勢に無勢。龍門山城は落城し、武田信勝は深手を負いながらも城を出て落ち延びを図るも、鮎返の滝(あいがりのたき:現在の朝倉ダム付近)にて討ち死にしたと伝えられています。これで武門としての伊予武田氏宗家は応仁の乱のグダグダの中で伊予国朝倉郷に移り住んできてから約110年で終焉を迎えます。

 

【10.伊予武田氏のその後】

討ち死にした武田信勝には5人の男子がいて、次男の清若丸は幼くして亡くなったものの、この時、4人が龍門山城で暮らしていました。この4人のうち三男の彦三郎信則(のぶのり:彦八郎信行とも。幼名不明)は落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にしたものの、長男の真三郎信吉(幼名:富若丸)、四男の政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)、五男の源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)は落ち延びることに成功します。

 

伊予武田氏の菩提寺であると同時に我が家の菩提寺でもある龍門山無量寺(今治市朝倉 水之上)です。


このうち長男の武田真三郎信吉
(幼名:富若丸。当時16)は伊予武田氏の菩提寺である朝倉 水之上の無量寺が匿って隠棲。10年間養育の後、当時の伊予国今治領113千余石の領主であった福島正則に召し出され、福島正則の推挙で水之上郷の代官(大庄屋役)を勤めました。ちなみに、大庄屋役は通常の庄屋・名主と異なり、数か村から10数か村の範囲を管轄する役職で、身分としては農民ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、3人扶持、長く在籍すると5人扶持が与えられ、格式も武士並みに苗字帯刀が許されていたのだそうです。その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることもでき、着衣や履物にも特例が許されていました。江戸時代に入ってからも彼の子孫が代々大庄屋職を継いだのですが、明治の時代に入ってこの直系の家系(嫡系)は途切れているとのことです。ちなみに、水之上一帯は江戸時代には幕府直轄の天領であり、そのため、水之上郷の大庄屋役の家は「天領」という屋号で呼ばれていました。


この龍門保育園のあるところに、越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の屋敷がありました。その『天領』家の初代が、伊予武田氏第7代・武田信勝の長男の武田真三郎信吉です。

越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の庭園は景観優美なところで、江戸時代、今治藩主もたびたび訪れたのだそうです。現在は龍門保育園の園庭の中にあり、見ることができません。

現在、武田信勝が討ち死にした鮎帰(あいがり)の滝近くに建てられている武田信勝の墓碑は、宝暦年間(1750年)に水之上大庄屋らによって建てられたものです(この墓碑はもともとは朝倉ダムのところにあったのですが、朝倉ダムを建設する際に現在のところに移設されたのだそうです)。この武田真三郎信吉から始まる「天領」の屋号で呼ばれる水之上郷の代官(大庄屋)の家系を含め伊予武田氏代々の墓所は無量寺の境内にあり、広大だった屋敷の跡の一部は無量寺が運営する龍門保育園になっており、園庭を少し上がった高台の上に神を祀る小さな社殿が残されています。また、木陰に見え隠れする屋敷内の滝は「木がくれの滝」と呼ばれる景観優美な滝で、江戸時代、今治藩主が度々訪れ、「里山の山滝」と誉め讃えたと伝わっています。


朝倉ダムの近くにある伊予武田氏宗家最後の当主第7代・武田信勝の墓です。もともとは武田信勝が討ち死にした鮎帰の滝近くに建てられていたのですが、朝倉ダム建築時にこの地に移されました。墓碑は、宝暦年間(1750年頃)に水之上大庄屋ら伊予武田氏の子孫によって建てられたものです。


武田信勝の墓碑には討ち死にした「天正十歳()十二月八日」の日付が刻まれています。


ちなみに、この無量寺は我が家の菩提寺でもあります。無量寺の正式名称は龍門山無量寺。この寺は第
37代の斉明天皇(在位:655年〜661)が朝倉の地に僥倖なさった時にお伴の僧侶として随伴した無量上人により、現在のところよりもう少し奥に入った(龍門山城にほど近い)浅地の車無寺 (くるまんじ)というところ開創されました。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で、聖徳太子による一刀三礼の御作と伝えられています。開創当時は三論宗で、後に真言宗醍醐派に改め今に至っています。無量上人の後を継いだ第二世の宥量上人は当時伊予国の領主であった越智玉輿の子供(すなわち、河野氏の祖とされる河野玉澄とは兄弟)で、その縁により、 以来この無量寺は長く河野家の祈願寺を務めていました。天正年間(1573年〜1593)のはじめ、当時の住職・宥実上人はこのあたりを治めていた龍門山城城主・武田信勝の外護を得て、寺を現在の場所に移転しました。また、前述のように、宥実上人は天正10(1582)に龍門山城が落城し、城主武田信勝が討ち死にしたおり、その子、富若丸(当時16)を無量寺に隠潜させ、約10年間養育し、ついに天領の大庄屋職に就かせました。この「天領」の屋号で呼ばれる大庄屋の代々の記録は『無量寺文書』、または『武田家文書』とも呼ばれ、今治市朝倉の歴史の謎を紐解く貴重な古文書として、現在もこの無量寺に残されています。私は無量寺を訪れた際、住職から『武田家文書』の話を聞き、そこで初めて伊予武田氏の存在を知り、伊予武田氏について調べてみようと思った経緯があります。


無量寺は“枝垂れ桜”が有名です。私が取材に訪れた日は枝垂れ桜が見頃を迎えていて、多くの人が見学に訪れていました。


無量寺の隣はJFAアカデミー今治になっています。このJFAアカデミー今治は、日本サッカー協会(JFA)が愛媛県今治市と連携して推進する中学校3年間を対象としたサッカーエリート教育機関で、全国4校目。中四国地方初の施設です。20143月に廃校となった今治市立上朝小学校跡地を寮として開校しました。現在は女子のみを受け入れています。


武田真三郎信吉から始まる“天領”水之上郷の大庄屋役としての武田氏ですが、当然のこととして時代を経るにつれ分家が幾つも枝分かれしていきます。その分家筋の中に私の好奇心を大いにくすぐる面白い人物がいたので、ご紹介します。その面白い人物とは武田徳右衛門。

 武田徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれとされています。現在も今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場というものがあって、根強い信者を擁しているといわれていますが、この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門です。この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に四国八十八ヶ所霊場の遍路行をする人達のための遍路道の整備、すなわち、丁石(道標)の建立があります。彼は僧侶ではなく、また格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民でした。その彼の身に不幸が次々と降りかかりました。天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政4(1792)までの11年間に、愛児一男四女を次々と失ったのです。その相次いだ不幸による悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国八十八ヶ所霊場遍路の旅だったようです。

 そして、武田徳右衛門は、寛政6(1794)に「四国八十八ヶ所丁石建立」を発願し、農繁期を除いては、ほとんどを寄付勧募と丁石建立に専念し、13年間を要して文化4(1807)に大願成就したと言われています。丁石は本来の意味では1丁目(109メートル)ごとに建てられる道標の石のことですが、武田徳右衛門の建立した丁石は1丁目ごとではなく、ほぼ1(4km)ごとに遍路道の主たる地点に建立されていました。そして、弘法大師の尊像を刻み、◯◯寺まで里と次の札所までの距離を明記していたという特徴がありました。そこには「里数がわかれば目的地(次の札所)への到着時間が予測できるし、それはまた宿の確保にも役立つだろう」という当時としては画期的なアイデアが盛り込められており、遍路道の途中の至るところにこの丁石(道標)を建立することで、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたものであったのであろうと推定されます。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのでしょうね、きっと。武田徳右衛門の手によって建立された丁石(道標)は、現在でも四国内で130基ほど現存しているのが確認されているのだそうです。その武田徳右衛門の墓も水之上の無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓の中にあります。


無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓です。

武田徳右衛門の墓もこの伊予武田氏一門の墓の中にあります。

討ち死にした武田信勝の3人の遺児のその後に話を戻します。四男の武田政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)も、おそらくどこかで匿われて隠棲したようで、成人後帰農し、龍門山城にほど近い今治市朝倉の浅地に水之上郷の代官(大庄屋役)に就いた武田真三郎信吉家の分家となっています。武田政五郎信鳳から始まる天領(屋号)”家の分家は代々今治市朝倉南(矢矧神社の近く)にある正善寺を菩提寺にしているので、もしかすると政五郎信鳳は龍門山城から落ち延びた後、この正善寺に匿われて隠棲したのかもしれません。ちなみに、この武田政五郎信鳳の直系の家系は今でも浅地にお住まいのようです。


このあたりが浅地。武田信勝の四男・武田政五郎信鳳はこの浅地で帰農し、水之上郷の大庄屋役に就いた武田真三郎信吉家の分家となりました。向こうに見える山は龍門山です。



武田信勝の四男・武田政五郎信鳳から始まる“天領”家分家代々が菩提寺にしている正善寺です。


五男の武田源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)はまだ幼かったため、残った家族や家臣とともに周敷郡石田村(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びました。武田源三郎信猶はこの地で成人して帰農し、農家として暮らしていたようです。武田源三郎信猶の墓所は西条市石田の大智寺にあり、そこには武田信猶に始まる武田一門の墓所があります。


西条市石田の大智寺に武田信猶に始まる武田一門の墓所があります

武田源三郎信猶の墓所は大智寺のすぐ北東の場所にあります

その武田信猶の直系の孫にあたるのが武田彦左衛門信盛。武田信盛は万治元年(1658)、桑村郡古田新出(現在の西条市丹原町古田)に移り、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けて(松山藩は中予だけでなく越智郡や周桑郡地域にも飛び地のように幾つかの領地を持っていました)この地を開拓しました。現在、武田信盛が新田開拓した丹原町古田新出には「武田信盛頌徳碑」が建てられています。ちなみに、周桑平野の地図を眺めていると、新田新出などの地名が随所に見られます。これらはいずれも江戸時代に入った以降の近世に水田として開拓された新田集落です。


武田信盛が新田開拓した西条市丹原町古田新出にある「武田信盛頌徳碑」です。武田彦左衛門信盛は武田信勝の五男・信猶の孫で、万治元年(1658)、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けてこの地を開拓しました。


周桑平野は四国山地(中央構造線)、特に西日本最高峰の石鎚山(標高1,982メートル)から続く石鎚山脈と、四国山地(中央構造線)の北側に突き出した高縄山地が形成する狭隘部の西条市丹原町湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜して二級河川の中山川によって形成された沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅の海岸が広がっています。ここは古来よりの穀倉地帯で、平野部の少ない伊予国においては米や麦の一大供給地でした。そのため江戸時代には、桑村郡26村と周敷郡24村が松山藩領で、残る周敷郡11村が西条藩領を経て小松藩領と領地が複雑に入り組んでいました。これは伊予武田氏が治めていた越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)にも当てはまり、こちらは松山藩と今治藩の領地に加えて幕府直轄地である天領が複雑に入り組んで存在していました。これはそこがこうやって奪い合いをしたくなるほど米が収穫できる魅力的なところであったことにほかなりません。そのため、松山藩主としては周敷郡・桑村郡の自藩領内における米の収穫量を少しでも増やすべく、高縄山地の山麓部に広がる大明神川、新川、関屋川が形成する砂礫質土壌の扇状地の新田開拓を積極的に進めたようです。そのうち新川流域の扇状地を開拓したのが、武田信盛が開拓した古田新出ということのようです。この古田新出には今も武田信盛の末裔一族がお住まいとのことです。

この周桑郡(周敷郡・桑村郡)に残る伊予武田氏の形跡は武田信勝の五男の源三郎信猶だけではありません。龍門山城が落城した際、落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓石が、西条市西部の壬生川(旧周桑郡)の本源寺にあります。その墓石に刻まれた碑文によると、建立したのは「龍門山城主 武田近江守信勝 室 河野左馬助 息女」。龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母が五男の源三郎信猶と一緒に周敷郡石田郷まで落ち延び、途中で討ち死にした三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓をこの本源寺に建てたのではないかと推察されます。そこから言えることは、当時の周桑郡には落ち延びてきた伊予武田氏一門を温かく迎え入れるための下地が既にできあがっていたということのようです。このあたりの考察は、この後で書きたいと思っています。

龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓が西条市壬生川の本源寺にあります。建立したのは武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母です。


愛媛県全体で見た場合、「武田」はさして多い苗字であるとは言えないのですが、伊予武田氏の居城・龍門山城のあった今治市朝倉と西条市西部の旧周桑郡地域に限っては異様と思えるくらいに多く見かける苗字です。文明3(1471)に安芸武田氏の武田信友が河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村に移り住んで伊予武田氏を興してから550年。1代を平均25年として計算すると、その間22代です。なので、一門や武田姓を名乗ることを許された家臣団の末裔を合わせると、現在ではかなりの数になると思われます。その多くが今治市朝倉と西条市の旧周桑郡地域に集中して住んでおられるというところに歴史の“物語”を感じます。清和源氏を祖とし、あの戦国最強と言われた武田信玄を輩出した武門の名族・武田氏の名称と、『武田菱』や『割り菱』と呼ばれるシンプルながら特徴的な形の家紋を使う誇り高き一族がこの愛媛県内にも固まって暮らしていらっしゃるということを、是非知っていただきたいと思っています。

  

……(その4)に続きます。(その4)は第84回として掲載します。






2021年6月9日水曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その2)

 

公開予定日2021/07/01

 [晴れ時々ちょっと横道]第82回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その2)

 

【5.河野氏と応仁の乱について】

当時、伊予国の守護職を務めていた河野氏も、細川氏と大内氏の勢力争いに翻弄されていた一族でした。伊予国の有力豪族である河野氏は、古代越智氏族の越智玉澄(河野玉澄)を家祖とする一族です。天智天皇2(663)に起こった日本古代史上最大の対外戦争と言われる「白村江の戦い」の時、水軍大将として伊予水軍を率いて出陣し、手痛い敗戦を喫した後に新羅の捕虜になり、長い間新羅(朝鮮半島)に抑留された後に脱走して帰還したとされる越智守興。その越智守興は抑留中に唐の武将の娘との間にできた2人の兄弟を帰還時に一緒に連れ帰ってきたそうなのですが、そのうちの弟のほうが越智玉澄。その後、越智玉澄は伊予国温泉郡(風早郡)河野郷(現在の松山市北条付近)に移り住んで河野姓を名乗り、河野氏の家祖になったとされています (兄の越智玉守は矢野氏・伊予橘氏の家祖とされています)河野の読み方は今ではこうのが一般的になっていますが、元々の河野郷の地名の読み方はかわの。なのでかわのという読み方が正しいのではないかとも言われています。

 この河野氏は長らく大三島の大山祇神社の宮司家・大祝家を頂点とした古代越智氏族の中で今治にあったと考えられる国衙(こくが)の役人(水軍大将?)を務めていたようなのですが、この河野氏が一躍有名になるのが平安時代末期の治承4(1180)から元暦2(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱」、いわゆる源平合戦です。この「治承・寿永の乱」においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝の求めに応じて源氏に味方し、平氏打倒に大いに貢献したことで鎌倉幕府の御家人となり、東国の武将中心の鎌倉幕府の中で西国の武将でありながら大きな力をつけていきました。その後の元寇、中でも2度目の「弘安の役」(1281)の時には勇将・河野通有が「河野の後築地(うしろついじ)」として名が残るほどの大活躍をしてその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げました。

 南北朝時代には、河野通盛は足利尊氏に従い北朝側につき、四国へ進出し伊予へ侵攻した南朝側の細川氏と争いました。河野通盛はそれが認められて、建武3年(1336)、ついに伊予国守護職を手にし、その後、室町期に松山市道後に湯築城(ゆづきじょう)を築き、そこに本拠を移しました。湯築城に本拠を移したことで道後平野での稲作による豊富な食料確保が可能となり、一時的に河野氏の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれました。ここが島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな違いでした。


松山市道後公園内にある湯築城跡です。湯築城は建武3(1336)に伊予国守護職に任じられた河野通盛によって築城された平山城で、250年近く河野氏の居城でした。日本100名城の1つで、国の史跡にも指定されています。松山市の城というと加藤嘉明が築城した松山城があまりにも有名ですが、湯築城は江戸時代に入ってから築城された松山城よりも約300年も前に築城された城です。なんと、日本100名城に選定されている城のうち松山市内には 2城、愛媛県内には5城があります。城好きにはたまりません。

道後公園の濠は、湯築城があった時代からの濠です。

湯築城の本丸跡は展望台になっていて、そこからは松山城が見えます。実は松山城を築城する際に、湯築城から石垣の石をあらかた持っていったのだそうです。

伊予国の守護職を手にした河野氏ですが、阿波国、讃岐国、土佐国の守護を兼任し、残る伊予国を手中に入れて管領として四国を支配しようとした細川頼之の術中に嵌ってすぐに伊予国の守護職を奪われ、南北朝の混乱の中で翻弄され急激に衰退していきます。途中から南朝方について衰退していった河野氏ですが、天授5/康暦元年(1379)、室町幕府内で「康暦の政変」が発生し細川頼之が管領を罷免されて失脚すると、河野通盛の孫である河野通直は新たに四国管領となった斯波義将から伊予国守護職に補任されて北朝方に寝返り、細川頼之討伐を命じられ進軍したのですが、伊予国周敷郡(周桑郡)で細川頼之の奇襲に遭い討死してしまいました。しかし、河野通直の子の河野通義は細川頼之と和睦して伊予国守護に任じられ、以後、伊予国守護職は河野氏の世襲となりました (細川頼之の阿波国、讃岐国、土佐国の守護職は継続)

その後も度重なる細川氏の侵攻や河野氏の庶流である予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされ続けたようです。特に予州家との間の家督相続争いは管領職が代わるたびに幕府の対応が変わるなど、情勢が混迷を極めたようです。その予州家との家督相続争いが頂点に達したのが、河野氏本家・河野教通と予州家の河野通春の争い。河野氏本家の河野教通(のち通直に改名)は永享7(1435)、大友持直征伐のさなかに父・河野通久が戦死したため、家督と伊予守護職を継承しました。河野教通(通直)は永享11(1439)、将軍・足利義教の命を受け関東で起きた永享の乱や大和永享の乱に出陣するなど伊予国守護として室町幕府に貢献したのですが、文安3(1449)に伊予国守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に突如交替させられるという事態が発生しました。この時は幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返し、河野教通(通直)は伊予国守護に返り咲きました。河野教通を伊予国守護から解任した幕府が、次には河野教通の再起を助けると言う矛盾した方針は、河野氏本家本流の河野教通を支持する足利義政・畠山持国と、庶流である予州家の河野通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立が幕府内であったことが原因とみられています。

さらにその後も伊予国守護職を巡る河野教通(通直)と河野通春の間で互いに奪還を繰り返すドタバタ事態が続いたのですが、ここで何故か細川勝元と河野通春の間で対立が発生して、寛正3(1462)には細川勝元が一族の細川賢氏を伊予国守護に任命するという信じがたい事態が発生しました。伊予国を細川氏に奪われた予州家の河野通春は周防国・長門国・豊前国の守護を務めていた大内教弘・政弘父子を頼り、それにより寛正5(1464)には細川・大内両軍が伊予国に侵攻してきて衝突する事態にまで陥りました。この時、どちらにも与し得ない河野氏本家本流の河野教通(通直)は蚊帳の外に置かれる形になっていました。ちなみに大内氏第13代当主である大内教弘は大内氏の伊予国侵攻の最中の寛正6(1465)9月に興居島で死去し(享年46)、死後、大内氏の家督は長男の大内政弘が継ぎました。

 応仁元年(1467)に応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友関係を結んでいた予州家の河野通春は西軍の一員として上洛しました。河野氏本家本流の河野教通(通直)は当初は静観していたものの、西軍が予州家の河野通春を伊予国守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍に参戦し、河野通春に対抗する形になりました。もうグダグダです。このグダグダが「応仁の乱」と言えば「応仁の乱」らしいところなのですが、日本全国の守護大名家でこのようなグダグダが起きて小競り合いを繰り返したのがこの時期でした。

 この時、大内氏というかつてない強敵を相手にするため河野氏本家本流の河野教通(通直)が思いついたのが、それまで大内氏と幾多の武力衝突を繰り返していた安芸武田氏との連携だったのではないでしょうか。しかし、文明3(1471)6月に若狭武田氏(安芸武田氏)頭領の武田信賢が病死し、新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田元綱が大内氏側に転向したことで、安芸武田氏との連携自体は断念。代わりに武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなった武田信繁の弟の武田信友を客将としてヘッドハンティングしたのではないでしょうか。武田国信が継承した嫡流である若狭武田氏は東軍のまま残っていたので、若狭武田氏頭領となった武田国信の意向もあって、にっくき宿敵の大内氏を抑えるために武田信友を瀬戸内海を渡って伊予国に入らせたという解釈もできようかと思います。また、地方豪族に過ぎない古代越智氏族を出自とする河野氏は「源平藤橘」(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のように天皇家との血筋の繋がりが明白な名門の家系ではなかったため、清和源氏系の河内源氏の血筋を汲む武門として名門の安芸武田氏との連携は大変に魅力的なものだったはずです。いずれにせよ、応仁の乱のグダグダぶりが伊予武田氏を生むことになったと言えようかと思います。

 

【6.伊予武田氏の興り】

 

地図はクリックすると拡大されます

このようにして、武田信友は文明3(1471)に河野氏本家本流の当主 河野教通(通直)に招かれ、嫡男の武田信保をはじめとする旧安芸武田氏の多数の一族を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(りゅうおかむら:現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興すことになったのですが、河野氏内では客将としてそれなりの扱いをされていたようです。武田信友自身は既に高齢になっていたため竜岡村に屋敷を与えられてそこで余生を送ったようなのですが、代わりに嫡男(伊予武田氏第2代当主)の武田信保は朝倉郷太ノ原(現在の今治市朝倉太ノ原)にあった重地呂城(ちょうじろうじょう)の城主となり、朝倉郷の太ノ原周辺を領地にしています。

 

玉川ダム湖畔にある今治市玉川町龍岡(りゅうおか)です。安芸国(広島県)の佐東銀山城城主であった武田信友は、文明3(1471)、河野氏の河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興しました。また、この龍岡には河野氏一門の正岡氏の居城・幸門城がありました。

携帯電話の電波塔が立っている山が今治市朝倉の太ノ原にある重地呂(ちょうじろう)です。伊予武田氏第2代当主の武田信保はこの重地呂山の山頂にあった重地呂城の城主となり、龍門山城と並んでここが伊予武田氏の拠点となりました。


応仁の乱のグダグダの中で、予州家との家督相続争い、さらには中国地方の一大勢力である大内氏の脅威に備えるために安芸武田氏の先代当主 武田信繁の弟である佐東銀山城城主 武田信友をヘッドハンティングしてきた河野氏本家本流の河野教通(通直)ですが、文明5(1473)に細川勝元が亡くなった後に伊予国守護に任命されています。このあたりが応仁の乱らしいところで、あまりにグダグダ過ぎて、よく分かりません。延べ数十万人の兵士が京の都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたその応仁の乱は西軍が消滅したことで一応文明9(1477)に終結したことになっているのですが、それは単に京の都での戦闘が終結したということに過ぎず、一度崩壊した幕府の権力は弱まり、世の中は戦国時代という大動乱の時代に突入していくことになります。文明11(1479)には阿波国守護・細川成之の次男・細川義春が伊予国に攻め寄せてきたのですが、この時はどういうわけか予州家の河野通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退しました。その予州家当主の河野通春が文明14(1482)に没すると、河野氏本家本流の河野教通(通直)は伊予国守護職の座を河野道春の子の河野通篤と争うことも起こったのですが、その頃には伊予国の主導権を河野氏本家本流側がほぼ掌握しており、予州家を圧倒。その後、予州家は急速に没落していきました。

 

重地呂山の麓から見た伊予武田氏の領地であった越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉太ノ原)の風景です。当時も今と同じように頓田川に沿って田園地帯が広がっていたと思われます。

そうしたゴタゴタの中で、伊予武田氏は河野氏の客将として大いに活躍したのでしょう、河野氏家臣団において河野十八将の1人に数えられるほどの重要な一翼を為していったようで、第3代・武田信高の時代になると同じく朝倉郷にある龍門山城の城主となり、朝倉郷の広い範囲を領地にしています。その後、第4代・武田信俊、第5代・武田信充、第6代・武田信重、第7代・武田信勝と伊予武田氏は継承されます。




【7.龍門山城】

この龍門山城は今治市(旧越智郡朝倉村)と西条市(旧東予市。それ以前は周桑郡三好町)の境に跨がる標高439メートルの竜門山(龍門山)の山頂に築かれた山城です。竜門山は尖って見える山頂部が特徴的な山で、山の上部は豊かな自然林、下部は水資源林として保護されています。麓には朝倉ダム、大明神池など、竜門山や周囲の山々が満たす湖水があり、頓田川や黒谷川、スミヤ川(北川)など、今治平野や周桑平野を潤す河川もこの竜門山付近の山々から発しています。龍門山城があったとされる竜門山の山頂に立ってみると、眼下に今治平野が一望でき、城を築城するには最適な場所のように思えます。この竜門山の山頂に龍門山城が築かれた時期は定かではありませんが、一説によると鎌倉時代に長井斎藤景忠によって築かれたとも言われています。この長井景忠は当時の伊予国守護・佐々木三郎盛綱の重臣で、守護代を務めていた人物であるとも言われています。龍門山城の建物等はいっさい現存しておりませんが、今も山頂付近に石積みや井戸の跡の一部等が遺構として残っているのだそうです。

 

朝倉ダムの向こう側に聳えているのが今治市(旧朝倉村)と西条市(旧東予市)の境に跨がる竜門山です。この竜門山の山頂付近に伊予武田氏の居城・龍門山城がありました。


別の角度から見た竜門山です。手前に重地呂山も見えます。


龍門山城は伊予武田氏第3代・武田信高の時代の一時期、河野氏一門の河野通明が入城していた時代があったようなのですが、大永5(1525)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて一度落城。河野通明は高市郷(現在の今治市高市)で討ち死にしたとされており、墓石に刻まれた没年から推察する限り、その際に武田信高も討ち死にしたと思われます。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5(1562)、弟の第7代 武田信勝に継承されます。

龍門山城の登城口です。龍門山城はあくまでも戦闘用のいわゆる「中世山城」です。城郭として馴染みの深い天守を備えた「近世城郭」ではありません。加えて戦闘用の城だけに登城口の位置も分かりづらく、1人で登城することを怯ませる雰囲気があります。私も今回は時間の都合もあり、ここまでにしました。


龍門山城の登城口から東の方角を眺めたところです。眼下に見えるのは西条市壬生川周辺でしょうか。



【8.戦国時代の伊予武田氏】

この間、伊予武田氏の主家となった河野氏をはじめ、日本全国で大きな変化がありました。応仁の乱が終わり、日本は15世紀の終わりから16世紀の終わりにかけて約100年間の「戦国時代」と呼ばれる戦乱が頻発した時代に突入します。応仁の乱を経て室町幕府の権威が著しく低下したことに伴って世情は不安定化し、全国各地でそれまでの守護大名に代わって戦国大名が台頭してきて、彼等個々の領国内の土地や人を一元的に支配する傾向を強めるとともに、領土拡大のため隣接する他の大名達と戦闘を繰り広げるようになってきます。伊予国守護職を務める河野氏もその例外ではありませんでした。予州家当主の河野道春が文明14(1482)に没したことで予州家との抗争は一応の終息は見たものの、能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆(こくじんしゅう:各地の村落を支配した領主。国衆とも言う)が新たに勢力を台頭させてきます。伊予国ではこの新たに台頭してきた有力国人衆の反乱や抗争、河野氏内部での家督争い等が相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることをとてもできる状態ではなかったようです。特に河野氏宗家の当主が河野通直(弾正少弼:河野教通の孫)だった時代の天文9(1540)、家臣団や有力国人の村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こります。この争いは河野晴通の死と河野通直自身の失脚により収束はしたのですが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになりました。この隙を突いて、周防国の大内氏の侵攻が激化し、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなります。結果的に、国内的には新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも大内氏に代わって台頭してきた安芸国の戦国武将・毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわず、衰退への道を転げ落ちていくことになります。

 ちなみに、国人衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。したがって、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国人衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃を受ければ国人衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国人衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)

 こうした時代背景の中で伊予武田氏も居城・重地呂城や龍門山城のある伊予国越智郡朝倉郷を拠点に伊予国の有力国人として勢力を拡大していく道を選んだようです。その勢力拡大の方向は東南方向。周敷(しゅうふ)郡や桑村(くわむら)(明治30年に周桑郡に合併。現在の西条市西部地域)といった周辺地域に進出していったようです。例えば、第6代 武田信重は弟の第7代 武田信勝に龍門山城主を譲り、周敷郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になっています。また、それ以外にも伊予武田氏が旧周桑郡地域に勢力を伸ばした痕跡が数多く残っていて、この地方には武田家の子孫や家臣達が多く住み着いたためなのか、今治市朝倉と同様、今も武田姓の家が異様に多く残っています。 


一面のレンゲの花の向こうに見えるのは朝倉村の象徴とも言える笠松山。笠松山の名前に相応しくアカマツで覆われた美しい山で瀬戸内海国立公園の中でも景勝地の1つだったのですが、2008年に大規模な山火事が起きてハゲ山になってしまいました。植林はされているそうなのですが、まだまだ元の美しい姿に戻るには時間がかかりそうです。かつてはこの笠松山にも城があり、城主の岡氏と伊予武田氏は深い姻戚関係を持っていたようです。

永禄5(1562)に兄の武田信重から家督と龍門山城を譲られた第7代・武田信勝ですが、永禄11(1568)、大洲城を拠点に伊予国の喜多郡地方で勢力を築いていた伊予宇都宮氏の宇都宮豊綱が土佐国西部を支配する土佐国守護であった土佐一条氏の一条兼定の支援を受けて宇都宮氏と対立関係にあった有力国人の宇和郡の西園寺氏の領内に侵入するという事態が発生。瞬く間に西園寺公広率いる西園寺氏を従属させ、その軍勢を加えて河野氏の支配地域に対して侵入を開始しました。この伊予国の覇権を巡る戦いにまで発展しそうな事態を受けて、河野氏の来島村上氏の村上通康(河野氏当主・河野通宣が病気療養中だったため、政権代行中)は同盟関係を結んでいた安芸国の毛利元就に支援を要請。鳥坂峠(とさかとうげ:国道56号線の大洲市と西予市の市境にある標高470メートルの峠)の東にある高島(現在の大洲市梅川地区)まで進んできた宇都宮・一条連合軍に対して、村上吉継(来島村上氏の一族。村上通康が陣中で急死したため、指揮を継承)は鳥坂峠に陣を構えて対峙。しばらく膠着状態が続いたのですが、毛利氏の援軍(小早川隆景)が合流するや一気に反転攻勢に出て、撃退に成功し、一条軍も土佐に撤退ました。この「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」と呼ばれる戦いにも武田信勝は河野氏の一員として一族を率いて参戦し、大いに活躍したというが記録に残っています。

 余談ですが、この戦いの大敗後、宇都宮豊綱は毛利方に捕らえられ、8代続いた宇都宮氏による喜多郡支配は終焉を迎えます。また、土佐国内でも守護家である一条氏の勢力が急激に弱体化し、それとともに長宗我部元親が急速に台頭してきて、天正元年(1573)、一条兼定は土佐を追われ、土佐国は長宗我部元親の支配と移ります。そして運命の天正10(1582)を迎えます。

 

……(その3)に続きます。(その3)は第83回として掲載します。