2021年6月24日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 公開日2021/09/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 

【11.もう一つの伊予武田氏】

 

地図はクリックすると拡大されます


(その2)の最後に、伊予武田氏第6代・武田信重は弟の第7代・武田信勝に龍門山城主を譲り、周敷郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になったということを書きました。正確に読むと、武田信重は龍門山城を弟の武田信勝に譲ったとは書いていますが、家督まで譲ったとは記録に残っていないわけです。えらくあっさりと記録に残されているのがかえって謎めいていて、実際には家督までは譲ってなくて、伊予武田氏は第6代の武田信重の代に周敷郡志川にあった文台城に拠点を移し、もともとの居城・龍門山城を弟の武田信勝に任せたと解釈したほうが正しいのではないかと、私には思えてきました。


西条市丹原町志川(旧周敷郡志川)にある文台城跡です。文台城は松山自動車道の高架のすぐ南側、志河川ダムとの間にある山塊(標高約180メートル)の山頂にあり、現在は登城道が整備されています。

文台城のある山塊は竹林に覆われていて、登城道は竹林の中を登っていきます

竹林が途切れると、鬱蒼とした木々の間をひたすら登っていきます。登城道というよりも“登山道”です。途中、道の幅が狭くなっているところもあり、ちょっとワイルドです。

山塊の山頂に文台城の主郭がありました。伊予武田氏の家督と居城・龍門山城を弟の武田信勝に譲った伊予武田氏第6代の武田信重は、息子の信戻・信明とともにこの文台城に移りました。


私の興味を引いたのがその文台城のあった周敷郡志川という“場所”です。ここは現在の西条市丹原町志川(旧周桑郡丹原町志川)。国道11号線で松山市から新居浜市方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。ここは私の母方の祖父母が晩年暮らしていた西条市丹原町湯谷口のすぐ隣の集落で、母方の祖母の実家があったところ。私にとっては子供の頃からの馴染みの場所の1つでもあります。私の父の生家で本籍地である今治市朝倉太ノ原が伊予武田氏の拠点の1つ重地呂城のあったところで、我が家の代々の菩提寺が伊予武田氏の菩提寺でもある今治市朝倉水ノ上の無量寺だということはこれまでも書かせていただきましたが、伊予武田氏第6の武田信重が移っていった先が母方の祖母の生家がある西条市丹原町志川。この偶然は私になにかを暗示しているとしか思えませんでした。もしかしたら、遠い先祖が「この謎を解けるのはオマエしかいない。解いてみよ」と言っているのかもしれません。私が伊予武田氏第6代武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったという記録を目にした時の衝撃たるや、鳥肌が立つくらいでした。

 なぜ伊予武田氏第6代の武田信重の移っていった先が周敷郡志川の文台城なのか? 一族の家督を継承している“長(おさ)”が一族の主だった者達を率いて移り住むためにはそれなりの明確、かつ納得できる理由、言ってみれば必然のようなものがないといけません。その理由とは何か? その謎を探るために、まず当時の周敷郡周辺の状況から調べてみました。当時の伊予国は守護職を務める河野氏の勢力が急速に衰退していって、国内は能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆が新たに勢力を台頭させてきて、その国人衆同士の勢力争いの抗争が絶えなかったということは(その2)で書かせていただきました。その伊予国内の国人衆同士の抗争の中で、周桑平野で急激に台頭してきた一族がいました。それが黒川氏です。

 

11.1 戦国時代末期の周桑平野の状況…黒川氏の台頭]

黒川氏は元々は西条市から加茂川に沿って愛媛県道142号石鎚小松停車場線をドンドン遡り、黒瀬ダムの先で愛媛県道12号西条久万線(かつての有料道路:石鎚スカイライン)が分岐したさらに先の黒川郷(現在の西条市小松町石鎚字黒川)にあった千足山・坦ノ城(標高450500メートル)を居城とする国人でした。この黒川郷ですが、かつてはここが西日本最高峰・石鎚山(1,982メートル)への一番有名な登山口で、最盛期には毎年数万人もの登山客がこの黒川郷から石鎚山に登っていくなど大層賑わったところでした。昭和41(1966)に黒川郷から愛媛県道12号西条久万線(旧石鎚スカイライン)を少し奥に入ったところに石鎚登山ロープウェイが開通し、石鎚山登山のロープウェイ利用が一般的になると急激に過疎化が進み、現在は廃村になっています。 


西条市小松町石鎚の黒川集落跡です。標高約500メートルの山深いこの黒川郷の国人衆であった黒川氏の婿養子になったのが土佐国出身の長宗我部元春。その黒川元春は石鎚山の山奥から平地に出てきて、瞬く間に周敷郡の旗頭へと台頭していきました。千足山・坦ノ城がどこにあったのかは判りませんでした。
加茂川の支流であるこの黒川渓谷を黒川口と呼ばれる登山道で黙々と登っていった先が石鎚登山ロープウェイの山頂成就駅になります。

愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐し、黒川郷までの道は渓谷に沿ってこんな感じのところが続きます。

また、この黒川郷は四国八十八ヶ所霊場巡りの第60番札所・横峰寺の近くにあります。この横峰寺は西日本最高峰・石鎚山の中腹の標高750メートルの地点にあり、急勾配の坂道を息を切らして登って行った先にあります。この横峰寺へ向かうワイルドな遍路道は伊予国(愛媛県)で唯一「遍路ころがし」と呼ばれているような難所中の難所です。横峰寺や石鎚登山ロープウェイに訪れたことがある方なら、黒川郷がどういうところかイメージできようかと思います。


登山届を出すポストです。かつてこの黒川郷が西日本最高峰・石鎚山登山で一番賑わった登山口であったことの名残です。

石鎚小学校と中学校の跡です。学校があるということは、それなりにまとまった数の人達が暮らしていたことを物語っています。

その石鎚山の山奥にいた黒川氏が台頭してくるのが黒川家14代総領の黒川元春(通尭)の時代です。黒川元春(通尭)に率いられた黒川氏一族は山から平野に降りると享禄年間(1528年〜1532)に現在の松山自動車道・小松JCTのすぐ南側にある標高245メートルの山塊の上に剣山城(つるぎやまじょう:鶴来山城とも)を築き、そこを居城に無類の強さで次々と周辺の国人(豪族)衆を滅亡もしくは臣従させ、瞬く間に周敷郡全域の旗頭となり、黒川氏を繁栄に導きました。この石鎚山中から突如出現した黒川元春(通尭)ですが、明治27年に刊行された『伊予温故録』によると、土佐国の長宗我部元秀(兼序)の次男で、長宗我部氏嫡流の長宗我部元国の弟にあたり、あの長宗我部元親の叔父にあたる人物なのだそうです。享禄年間の初めに兄の長宗我部元国と不和になったため長宗我部氏の本拠である土佐国長岡郡(現在の南国市岡豊町)を出奔して、伊予国周敷郡千足村黒川郷の国人(豪族)黒川通矩の妹婿になり、長宗我部の名を捨てて黒川姓を名乗り、黒川元春(後に通尭と改名)と称したといわれています。この時、黒川通矩は長宗我部元春の面構え・眼光を見てこの乱世に必要な人物と見て、兄弟の契りを結び、妹の婿に迎えて黒川姓を名乗らせたうえ、義弟となった元春にそれまでの居城である千足山の坦ノ城を譲り、自らは明河(西条市丹原町明河:中山川の上流)の赤滝城に移ったとされています。そして加茂川と中山川という石鎚山系から周桑平野に流れ込む2つの河川に沿って黒川通矩・元春の義兄弟が同時に2つの方向から下っていき、無類の強さを発揮して周桑平野を瞬く間に平定していったと言われています。 


西条市小松町妙口にある剣山城跡です。剣山城は黒川元春が築いた城で、黒川氏はこの剣山城を居城として周敷郡の国人衆の旗頭を務めました。

松山自動車道の石鎚山SAのすぐ南側の山塊の上に幻城(まぼろしじょう)の下城がありました。上城は下城の約1km南側の同じ山塊の頂上(標高488メートル)にありました。幻城は南北朝時代からある古城で、黒川元春はこの古城を改修して、剣山城の支城として新居郡の旗頭・高峠城の石川氏と対抗しました。

こんな石鎚山系の山深いところに土佐国の長宗我部元親の叔父が?…と疑問に思われるかと思いますが、その疑問は、私がそうだったように、四国の道路地図をご覧いただければすぐに解けると思います。愛媛県(伊予国)と高知県(土佐国)の県境に沿っては西日本最高峰である石鎚山(標高1,982メートル)をはじめとして、笹ヶ峰(1,860メートル)、瓶ヶ森(1,897メートル)、伊予富士(1,756メートル)、寒風山(1,763メートル)、堂ヶ森(1,689メートル)…と、石鎚山系と呼ばれる標高1,700メートル以上の山々が十数座、東西50km以上にも渡って屏風のように立ち並んでいます。その高い山々に遮られているため、愛媛県、特に東予地方と高知県との直接的なヒトやモノの移動は行われていなかったと考えがちですが、実際はそうした高い山々の山と山の間の鞍部を峠で越えるようにして、何本かの道があり、ヒトやモノの行き来がなされていました。例えば国道194号線。この道路は石鎚山系の高い山々の下を寒風山トンネルで抜けて西条市の加茂川橋交差点と高知市の県庁前交差点を結ぶ道路で、愛媛県東予地方と高知県中央部を直結する最短ルートになっています。寒風山トンネルは平成11(1999)に開通したのですが、それ以前は、寒風山横の鞍部にある峠を曲がりくねった細い道で越えていました。そして、この国道194号線の愛媛県内区間は加茂川の支流である谷川に沿って延びていて、その石鎚山系の山深いところには八ノ川城や高明神城、西後城といった城(砦?)が築かれ、明らかに土佐国からの敵の侵入に備えていたように推察されます。当時、新居郡の旗頭であった石川氏の居城は高峠城(西条市洲之内)。この高峠城の位置も大変に興味深いものがあります。新居郡の旗頭であったにも関わらず、高峠城は新居郡の中心部ではなく、隣接する周敷郡との郡境に非常に近い新居郡の中では著しく偏った場所にあります。現在の国道や県道の多くは旧来からあった街道を自動車が走行できるように整備したものがほとんどです。おそらくこの国道194号線ルートは昔から東予地方と土佐国との間の直接的なヒトやモノの移動の主要ルートの1つであったのではないかと考えられます。そして、おそらく石川氏は土佐国との交易を主目的としてこの場所に居城を構えたのではないか…と推察されます。

 そして、前述の愛媛県道12号西条久万線。この道路は西条市からは加茂川の本流を遡るように延びていて、石鎚山の東側の瓶ヶ森との鞍部を峠で越えると、今度は面河川(高知県内での呼び名は仁淀川)に沿って下り、久万高原町で国道494号線、さらには国道33号線、国道194号線と合流して高知市に至ります。そして、この愛媛県道12号西条久万線が愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐する地点付近に黒川氏の居城であった坦ノ城がありました。

 実はこれらのルートを使うと、東予地方と土佐国との間の距離は現代人が思っているほど遠くはありません。国道194号線に限ると総延長は76.0km(愛媛県側18.2㎞、高知県側57.8)。長宗我部氏の居城は土佐国府のあった土佐国長岡郡岡豊(現在の南国市)。地図でご覧いただくと、意外と近いことに驚かれると思います。また、山また山が続く険しい山道を進んでいく登山道のようなイメージを持たれるかもしれませんが、それほどでもないと私は推察しています。確かに日本最大の断層帯である中央構造線で形成された四国山地の石鎚山系は中央構造線の北側である愛媛県側は山がスパッとナイフで切ったように断崖絶壁が東西に長く続いているのでそういうイメージを持たれるかと思いますが、峠はその山々の鞍部を通っているため、歩いて通るぶんにはさほどの難路でもありません。さらに、石鎚山系を越えてしまえば高知県側の地形はなだらかな低い山々ばかりなので、距離は長いものの比較的歩きやすいコースであるとも言えます。陸路の主な移動手段が徒歩に限られていた時代の人達は驚くほど健脚で、1日の行程はおよそ8里から10里強(3240km)だったと言われています。それからすると、昔の人なら徒歩で2日間の距離です。私は旧街道歩きを趣味としているのですが、その私の感覚からしてもその程度で十分に移動可能な距離だと思います。このように、あの長宗我部元親の叔父である長宗我部元春が伊予国周敷郡の黒川郷にやってくる下地は元々からあったわけで、特に驚くことでも疑問に思うことでもないということです。

 

11.2 伊予武田氏第6代・武田信重の文台城入城]

その黒川氏と伊予武田氏との接点も時間軸で考えると、ちょうど黒川氏が台頭してきたそのあたりの時期ではないか…と推定されます。(その2)で書かせていただきましたが、大永5(1525)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて居城の龍門山城が落城し、伊予武田氏第3代の武田信高も討ち死にしたとされています。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。支城の重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5(1562)、弟の第7代 武田信勝に継承されます。第3代の武田信高が討ち死にして伊予武田氏が存続に関わる最大のピンチに見舞われた時、庇護の手を差し伸べたのが、もしかすると隣接する周敷郡で台頭してきた国人・黒川氏だったのかもしれません。

 その黒川氏ですが、黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊は、天文22(1553)、「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしてしまいます。そのため、黒川氏は河野氏の侍大将十八将の一人で幸門城(さいかどじょう:現在の今治市玉川町龍岡)城主であった正岡通澄の次男・通博を養子に迎え、黒川通博として家督を継がせました。その幸門城のある越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)は伊予武田氏の初代・武田信友が安芸国から伊予国に移ってきた時に屋敷を与えられたところで、伊予武田氏と正岡氏の間に少なからず関係があったことが推察されます。また、伊予武田氏の居城である龍門山城のある今治市朝倉は幸門城のある今治市玉川町と黒川氏の居城・剣山城のある西条市小松町の途中にあり、その時点では、おそらく黒川氏は伊予武田氏や正岡氏と強い同盟関係を築いていて、このあたり一帯はその同盟の中にあったのではないか…と推察されます。伊予武田氏第6代の武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったのが永禄5(1562)。黒川通博が正岡氏から養子に入り、黒川氏の家督を継いだすぐ後のことと推察されます。おそらく、正岡氏からの強い依頼があって、黒川通博を補佐するために移ったのではないかと思われます。

 そのことは文台城の位置から十分に推察されます。前述のように、文台城のあった周敷郡志川は現在の西条市丹原町志川、国道11号線で松山から新居浜方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。周桑平野(別名:道前平野)は、西日本の最高峰である石鎚山系の堂ヶ森などを源流部とする中山川とその支流が形成した傾斜の急な扇状地で、西は高縄山地に、南は四国山地に囲まれ、東を燧灘に接しています。その扇状地の扇の要(かなめ)にあたるところが文台城のあった周敷郡志川です。文台城は松山自動車道の高架と志河川ダムに挟まれた小高い丘陵(標高約180メートル)の東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれており、現在は登山道が整備されています。文台城の築城年代は定かではありませんが、平安時代末期に築かれたものではないかといわれています。治承4(1180)に河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官がこの文台城に籠って抵抗したとされていますが、その時は落城しています。そして、享禄年間(1528年〜1532)には剣山城城主・黒川元春(通尭)の持ち城となったとされています。その黒川氏の居城であった小松の剣山城との距離は約10km。主城である剣山城を守る支城としてはちょうどいいくらいの距離にあります。

 

文台城跡から見た周桑平野の風景です。ここがかつての周敷郡一帯です。

しかも、文台城のある志川は交通の要衝でもあります。現在でもすぐ近くを国道11号線が東西に走っていますが、この国道11号線はかつての讃岐街道で、西に向かうと河野氏宗家の居城であった道後湯築城へ、東に向かうと黒川氏の居城・剣山城のあった小松、さらには東予地方の有力国人衆・石川氏や金子氏の領地である宇摩郡・新居郡を経て讃岐国、さらには阿波国まで繋がっていました。北に向かっては愛媛県道48号壬生川丹原線が伸びています。この愛媛県道48号壬生川丹原線の丹原からは愛媛県道155号今治丹原線が分岐していて、伊予武田氏の居城・龍門山城のある今治市朝倉に行くのもさほどの距離ではありません。また、その先には今治市近辺にあったとされる伊予国の国府とも繋がっていました。

 そして注目すべきは南方向。志川から国道11号線を松山方向に約2.5kmほど行った西条市丹原町鞍瀬から愛媛県道153号落合久万線が伸びています。この道路は西条市と上浮穴郡久万高原町を結ぶ県道で、久万高原町で前述の愛媛県道12号西条久万線と同様に国道494号線と合流して、高知県須崎市に至ります。久万高原町直前の標高が高いところで未開通区間が残っているため県道としては全線で繋がっておらず、県道ではなく険道とも揶揄されるほどの道幅の細い道路ですが、かつてはこのルートが四国山地を越えて伊予国と土佐国とを結ぶ重要な交通路の1つだったようなのです。その証拠として、国道11号線と分岐する丹原町鞍瀬には鞍瀬大熊城、楠窪砦、立烏帽子城、そして県道が途切れる最奥部付近の明河集落には赤滝城が築かれており、その赤滝城には黒川元春(通堯)に家督とそれまでの居城・坦ノ城を譲った義兄の黒川通矩が入城したという記録が残っているのだそうです。


西条市丹原町明河・保井野集落から西方向を見たところです。このあたりに黒川氏の支城であった赤滝城趾があります。こんな山奥に城があるということは、この道が久万地方や土佐国(高知県)と繋がっていたということを意味します。

しかも、この赤滝城は前述の文台城同様、治承4(1180)河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官が最後まで立て籠もって徹底抗戦の末に落城したという記録が残る古城なのです。加えて、天文22(1553)に黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊が「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしたということを書かせていただきましたが、この時、黒川氏が同盟を結んでいたのが浮穴郡大除城(おおよけじょう:上浮穴郡久万高原町菅生)の城主・大野利直。大除城はまさに愛媛県道153号落合久万線の終点付近にあります。なんでこんな四国山地石鎚山系の奥深くに城郭が?って思えるのですが、このルートがかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ重要な交通路の1つだったとしたら、それも納得します。


地図はクリックすると拡大されます

ちなみに、赤滝城に近い愛媛県道153号落合久万線が途切れる明河(みょうが)保井野(ほいの)集落には堂ヶ森(標高1,689メートル)を経由して石鎚山山頂(標高1,982メートル)に至る縦走路の保井野登山口があります。また、愛媛県道153号落合久万線の久万高原町側で途切れている地点のほど近くには梅ヶ市登山口があり、その2つの登山口からの登山路は堂ヶ森の手前の標高約1,450メートルの地点で合流し、そこから堂ヶ森の山頂を経て石鎚山の山頂に繋がる縦走路が延びています。おそらくこの合流点までの2つの登山路を直通するコースが周敷郡と浮穴郡を結ぶ街道だったのでしょう。私は旧街道歩きを趣味にしているので分かるのですが、標高1,450メートルの峠越えは実は大したことではありません。例えば、昨年私が歩いた五街道最高地点である中山道の和田峠(長野県小県郡長和町〜諏訪郡下諏訪町間)は標高1,531メートルもあり、五街道以外ではその和田峠を越える標高の峠も少なくありません。石鎚山の登山マップを見ると、保井野登山口と梅ヶ市登山口の間は2時間半から3時間で歩くことができそうです。最大の難所はこの区間で、登山路を下って久万高原町に入り、面河ダムの付近で国道494号線に合流すると、あとは面河川、そして仁淀川(仁淀川上流域のうち愛媛県側を面河川と呼びます)に沿って、緩やかに下っていけば、高知市、そして太平洋に至ります。この国道494号線は黒森街道と呼ばれ、かつては黒森峠(標高985メートル)を越えて松山方面と面河地方を結ぶ重要な交通ルートでした。私達現代人はどうしても現在の鉄道網や道路網の上で物事を考えがちですが、それらのインフラは明治時代以降に整備されたもの。わずか150年前までは、陸路の移動は専ら自らの足を使った徒歩によるものでした。それから推察すると、この愛媛県道153号落合久万線のルートはかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ最短、かつ最重要な交通路の1つだったと言えようかと思います。


西条市丹原町明河の保井野集落です。石鎚山系の堂ヶ森に向かう大変な山間にあるのですが、意外と大きな民家が建ち並んでいることに驚かされます。写真は久万高原町方向を撮影したものです。道路は愛媛県道153号落合久万線で、蛇行を繰り返しながら徐々に高度を上げていっています。現在県道はこの先の保井野登山口で行き止まりになっています。

西条市丹原町明河は、西日本最高峰である石鎚山系の堂ヶ森を源流とする二級河川・中山川支流の鞍瀬川を、源流に向かって遡っていった先にあります。このあたりは日本最大の断層帯である中央構造線のすぐ北側の領家変成帯にあたり、緑色結晶片岩や緑泥岩片岩といった緑色をした岩で構成される渓谷美が美しいところです。

愛媛県道153号落合久万線は未開通のままで、この保井野が西条市側の行き止まり箇所です。そしてここが堂ヶ森経由で石鎚山山頂に至る保井野登山口です。そしてこの登山道を行くと久万高原町側の梅ヶ市登山口に出て、愛媛県道153号落合久万線に戻ります。

その後の武田信重、子の信戻、信明に関する記録は現時点で私はまだ見つけておりませんが、黒川氏の記録からある程度は推察することができます。黒川通博は、元亀3(1572)、阿波国の戦国大名・三好長治が高峠城(西条市洲之内)城主・石川道清を案内人として伊予国に侵攻してきた際には、これを事前に察知して高峠城に攻め寄せ、三好長治勢を阿波国に撃退するという戦功をあげています(高峠城の戦い)。また天正3 (1575)は新居郡金子城(新居浜市滝の宮町)の城主・金子元宅(もといえ)と結び、鷺ノ森城(西条市壬生川)を攻めて落城させ、城主の壬生川通国を討ち取る戦功を挙げたとされています(鷺ノ森城の戦い)。さらに天正4(1576)の「備中松山城の戦い」では、家臣団の桑村郡象ヶ森城(ぞうがもりじょう:西条市上市)城主・櫛部兼久、周敷郡獅子ヶ鼻城(西条市小松町大頭)城主・宇野家綱らを率い安芸国の毛利輝元から援軍要請を受けた河野氏の一員として毛利氏から離反し織田信長に寝返った備中松山城(岡山県高梁市)城主・三村元親勢と戦い、戦功を挙げたとされています。これらの戦いに武田信重と子の信戻、信明が参戦したのかどうかは不明ですが、留守居役を含め、大いに活躍したのではないかと期待も含め推定しています。

 

……(その5)に続きます。(その5)は第85回として掲載します。




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