2022年5月8日日曜日

鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線②

 公開日2022/09/02

 晴れ時々ちょっと横道]第96回 鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線②


【松前駅】

そして、線路は愛媛県道326号松山松前伊予線に沿って住宅街の中を進み、鎌田駅の先で重信川を渡ります。重信川を渡った先が伊予郡松前(まさき)町です。松前町は近年松山市のベッドタウンとして宅地開発が進み、また臨海部には工場も立地するなど、人々の生活スタイルや産業構造は大きく変貌を遂げていますが、かつては漁村で、鮮魚や海産加工品の行商が盛んでした。また松前町は平坦な土地が多く、有史以前から何度も氾濫を繰り返してきた重信川がもたらした肥沃な土壌のおかげもあって、農業も盛んです。愛媛県は全国生産量の約40%を占める日本一のハダカ麦の生産地で、なかでも松山平野(道後平野)はその土壌の特徴からハダカ麦の栽培が盛んなところです。その中心地がこの松前町と横河原線が通る東温市です。松前町に入ると車窓は住宅街と田圃が半々といった風情に変わります。

松山城を築城したことで知られる戦国武将の加藤嘉明ですが、前述のように、加藤嘉明が松山城を築城したのは関ヶ原の戦い以降の慶長8(1603)のことで、豊臣秀吉から文禄・慶長の役(朝鮮征伐)での軍功により伊予国のうち6万石を与えられて移封された文禄4(1595)に入城したのは、この松前町にあった伊予松前城(正木城)でした。この愛媛県伊予郡松前町一帯には平安時代初期の大同3(808)に河野氏によって開創された定善寺(性尋寺;現在の金蓮寺)という寺院があり、当時から交通の要衝でした。松前城の築城時期は不明ですが、南北朝時代の城主として大森彦七や、南朝方の会田定遠などの名前が文献等に見られ、松前城を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとの記録も残っています。別名は正木城。文献によると、同じ読みでも真崎城、松崎城と書かれているものもあります。松前城は、重信川(当時の名称は伊予川)の河口左岸にある三角州の中に築かれていた平城で、最高地点の標高は僅かに4メートル。それでも重信川の河口付近の砂丘と湿地帯を利用した天然の要害で、瀬戸内海(伊予灘)に面した海城でもありました。

戦国時代後期には、伊予国守護大名であった河野氏一門の栗上通宗・宗閑が松前城主となっていたのですが、天正13(1585)、豊臣秀吉に命じられた小早川隆景率いる四国征伐軍に河野氏当主・河野通直が敗れ、同時に松前城も落城しました。天正16(1588)には伊予松前城主10万石となった粟野秀用(あわのひでもち)の居城となりました。この粟野秀用は、もともと伊達政宗の家臣であったのですが、なにかの罪を犯して京都に逃亡し、そこで豊臣秀吉の家臣となり、先述の四国征伐で大きな戦功を挙げた武将です。その後、粟野秀用は関白・豊臣秀次の付家老として13万石、天正18(1590)には合計16万石と出世したのですが、文禄4(1595)の豊臣秀次切腹事件に連座し、京の三条河原にて斬首して果てました(自害したという説もあります)

粟野秀用亡きあと、石高6万石で当地に入ったのが加藤嘉明で、加藤嘉明はこの松前城を本拠地として城下町の整備を行いました。家老の足立重信らに命じて、伊予川(現在の重信川)の流路を改修し、松前港を大拡張したり、金蓮寺を現在の場所に移転させたりして城下町を拡張させました。慶長5(1600)、関ヶ原の戦いにて加藤嘉明は徳川家康に味方して関ヶ原本戦でも陣を構えたため、留守となった松前城には西軍に属していた毛利水軍や村上水軍が大挙して押し寄せました。多勢に無勢で、家臣の佃十成らは降伏すると見せかけて毛利勢を油断させると、夜陰にまぎれて約200人の精鋭で毛利勢が陣を構える三津浜を襲撃。この夜襲が成功して、毛利勢に加わっていた村上水軍の頭領・村上元吉など将官クラスの武将数名が討死しています(三津浜夜襲)。その直後、関ヶ原の戦いでの西軍敗北の報が入り、毛利勢は風早の浦から船で撤退していきました。

この関ヶ原の戦いでの功績により加藤嘉明の石高は20万石に加増となり、慶長6(1601)、勝山城(その後、松山城と改称)の築城許可を徳川幕府から得ると、慶長7(1602)から松山城の築城を開始しました。この時、松前城の石垣などはほとんど全てが松山城の築城のための建築資材として運ばれていったと言われています。そして、慶長8(1603)に本拠地をまだ完成途中だった松山城に移したため、松前城は廃城となりました。その際に松前の商人達を移住させた先が、現在の松山市の西堀端にある松前町です。松山市の松前町は本町通りから1本入ったお濠に近い城下の非常にいいロケーションにあります。加藤嘉明が松前の人達を重用した名残りですね。

その松前城の現在の状況ですが、城跡と言っても、ちょっとこんもりとした丘部分が、小さな公園となっているだけって感じです。いちおう説明版と石碑が設置されてはいますが、特に遺構などが残っていると言う訳ではありません。松前城跡の前は東レ()の愛媛工場の広大な敷地が広がっています。ちなみに松山城の本丸にある筒井門は、松前城にあった城門を移築したものであるといわれています。

松前城跡です。城跡と言っても、ちょっとこんもりとした丘部分が、小さな公園となっているだけって感じです。

松前城跡の目の前には東レ()の愛媛工場の広大な敷地が広がっています。

この松前町の玄関駅が伊予鉄道の松前駅です。松前駅では古色蒼然とした駅舎が目を惹きます。この駅舎は南予鉄道開業時の明治29(1896)に建てられたものという話もありますが、記録が残っていないため証明はできないとされています。対向式23線のホームを持つ有人駅で、うち1線は、貨物列車が運転されていた頃に貨車への積込み用の側線として使われていたホームです(現在は使われていません)。前述のようにかつては松前町は漁村で、「おたたさん」と呼ばれる行商の女性達がこの伊予鉄道の松前駅から魚介類を天秤棒に担いで列車に乗車し、城下(松山市中心部)へ売りに行っていました。

松前駅です。歴史を感じますが、地方私鉄の途中駅としては立派な駅です。

松前駅は対向式23線のホームを持つ有人駅で、うち写真一番左に見える1線は、貨物列車が運転されていた頃に貨車への積込み用の側線として使われていた線路です(現在は使われていません)。歴史を感じさせます。

駅舎の内部です。松前駅は有人駅です。

松前駅では古色蒼然とした駅舎が目を惹きます。

この駅舎は南予鉄道開業時の明治29(1896)に建てられたものという話もありますが、記録が残っていないため証明はできないとされています。

また、松前町と言えば義農作兵衛ですね。後世に“義農作兵衛”と称された作兵衛は、松山藩筒井村(現在の松前町筒井)の貧しい農家に生まれました。当時は、儒教思想に基づく家族制度と、士農工商という厳しい身分制度が確立された封建時代で、作兵衛は、幼い頃から農業に励みました。享保17(1732)の享保の大飢饉の際、人々は食べる物もなく、餓死者が続出しました。こうした中で、作兵衛は、毎日休むことなく耕作に精励していましたが、遂に飢えのため、田圃に昏倒してしまいました。家の中に麦俵が残されていたため、近隣の者が「命に代えられぬでの、その麦種を食べてはどうか」と勧めましたが、作兵衛は「農は国の基、種子は農の本です。一粒の種子が来年には百粒にも千粒にもなります。僅かの日を生きる自分が食してしまって、どうして来年の種子ができるでしょうか。自分の身を犠牲にして幾百人の命を救うことができたら、私の本望です」と言い、残していた麦種を一粒も食することなく、後世に残し、大義に死にました。享年44歳でした。……泣けます。この義農作兵衛の話は、小学生の頃、道徳か社会科(郷土史)の授業で習った記憶があります。今も教えているのでしょうか?

ちなみに、“愛媛の味”として知られる麦味噌のギノーみそ(義農味噌)の社名義農はこの義農作兵衛に因んで付けられたもので、本社は松前駅のすぐ近くにあります。


義農公園内にある義農作兵衛の墓所です。安永6年(1777)、尊い彼の死に対し、松山藩主松平定静は、この墓碑を建立しました。

大正2年(1913)に建立された頌徳碑です。

義農作兵衛の銅像です。餓死寸前の様子を再現したもので、肋骨(あばら骨)が浮き出している痛々しい姿です。

おおっ! 私が崇拝する健さん(俳優の高倉健さん)の名前が義農作兵衛の銅像の横にあります。健さんは義農作兵衛の気持ちに打たれ、この場所に桜の木の苗を植樹されたのだそうです。

明治14 (1881)に建立された義農神社です。義農作兵衛の精神は「義農精神」として、今日も脈々と松前の地に受け継がれています。御祭神は瑞穂建功命(みずほたていさおのみこと、作兵衛命)です。

義農公園には、裸一貫から来島ドックグループを一代で築き、佐世保重工業の再建でも名を馳せて「四国の大将」とも称された実業家・坪内寿夫翁の顕彰碑も建っています。坪内寿夫翁もこの松前町のご出身です。

義農作兵衛の菩提寺である金蓮寺です。もとは定善寺や性尋寺と呼ばれていた寺院ですが、加藤嘉明が松前城の城下町を拡張させた際に、この地に移されました。

“愛媛の味”としてお馴染みの麦味噌のギノーみそ(義農味噌)の本社は松前駅のすぐ近くにあります。

松前町はかつては漁村で、「おたたさん」と呼ばれる行商の女性達が伊予鉄道の松前駅から魚介類を天秤棒に担いで列車に乗車し、城下(松山市中心部)へ売りに行っていました。

郡中港行きの電車が入線してきました。

【郡中港駅】

郡中線の電車は新川駅を過ぎ、大谷川という細い川を鉄橋で渡ると伊予市に入っていきます。伊予市は昭和30(1955)にそれまでの伊予郡郡中町・北山崎村・南伊予村・南山崎村が合併して発足。平成17(2005)に伊予郡中山町・双海町と合併し、比較的大きな現在の形になりました。現在は伊予鉄道郡中線のほかJR予讃線も通り松山市のベッドタウンとして松山市の都市圏に組み込まれ、ほとんど松山ナイズ化されていますが、江戸時代、現在の伊予市一帯は松山藩領ではなく、大洲藩領でした。

江戸時代、愛媛には8つの藩があり、通称「伊予八藩」と呼ばれるということは、過去に『晴れ時々ちょっと横道』の第65で取り上げさせていただきました。大洲藩6万石もその「伊予八藩」の1つです。大洲藩は、関ヶ原の戦いの途中で西軍から東軍に寝返り、当時最強と言われた島津義弘率いる島津軍と戦ったことで名を馳せた加藤貞泰が、元和3(1617)、伯耆国米子藩より6万石の石高で入府してできた藩です。(大洲藩に関しては『晴れ時々ちょっと横道』の第66回と第67回に「伊予八藩紀行【大洲藩】」と題して取り上げさせていただいております。)

先述の松山城及び松山の城下町の歴史の中で加藤嘉明が会津藩に移封された後に松山藩主になった蒲生忠知が、寛永11(1634)8月に参勤交代の途中で急死したので蒲生家が断絶し、翌寛永12(1635)7月に久松(松平)定行が15万石の石高で伊勢国桑名藩から新たな松山藩主として入府してきたということを書かせていただきました。実はこの寛永11(1634)8月から寛永12(1635)7月までの約1年間は、大洲藩第2代藩主であった加藤泰興(加藤貞泰の嫡男)が松山城在番として松山城を預かっていました。この松山城在番中に加藤泰興は幕府に対して替地の申し出を行い、それが認められたことで、それまで大洲藩の飛び地だった風早郡の北条一帯との交換で、大洲藩は土地が肥沃なこの伊予郡 17 ヶ村を手に入れたわけです。したがって、大洲藩内ではそれまでの領地であった藩の中心となる喜多郡83ヶ村と浮穴郡55ヶ村を郡内(ぐんない)”と呼び、松山藩との交換で新たに領地に組み入れられた米湊(こみなと)村や本郡(ほんぐ)村などの伊予郡 17ヶ村を御替地(おんかえち)”、のちに郡中(ぐんちゅう)”と呼び、怒和島(ぬわじま) や睦月島(むづきじま)、中島本島の半分(大洲藩領は忽那島、松山藩領は風早島と呼んでいました)など忽那諸島の島々を島方(しまかた)”と呼ぶようになりました。これが郡中という名前の由来になっています。ちなみに、郡中は松山藩との交換で新たに領地に組み入れられた伊予郡 17ヶ村全体を指す呼び名なので、現在、伊予市郡中という住宅地表記のところはありません。親藩(松平家)であった松山藩と外様(加藤家)だった大洲藩なので、伊予市に入ると地元の人が話す言葉をはじめ文化が微妙に松山市とは異なります。ちなみに、現在も伊予郡として残っている2町のうち、松前町の大半は松山藩領、砥部町は大洲藩領でした。

かつて伊予市は、郡中港や郡中三町(灘町、湊町、三島町)を中心とした中継交易地として発展しました。現在は農業と製造業が地域産業の中核となっています。製造業では食料品の製造、中でも水産加工食品(削り節、調味料、チルド加工食品、煮干など)の製造が盛んで、削り節(花かつお)ではヤマキやマルトモといった全国ブランドの有力企業の本社・工場が立地しており、国内に出荷される削り節のシェアの約6割を伊予市の郡中港周辺に立地する企業が占めています。埼玉の我が家でも削り節と出汁醤油は、ずっとヤマキかマルトモの製品を使っています。

ほどなく伊予鉄道郡中線の終点、郡中港駅に到着します。郡中港駅は片側11線のホームを持つ有人駅です。駅の立地上、待避線が設けられておらず、到着した電車は数分の待ち時間の後、すぐに上りの松山市駅行きとなって折り返して行きます。ただ、郡中線も貨物輸送目的で敷設された路線なので、郡中港駅にも松前駅同様、貨車への貨物積込み用の側線が駅の西側(海側)にかつてはあったと推察されるのですが、現在そこは住宅地になっていて、その名残りは少しも残っておりません。

 

伊予鉄道郡中線の終点・郡中港駅に到着しました。郡中港駅は片側11線のホームを持つ有人駅です。

到着した電車は数分の待ち時間の後、すぐに上りの松山市駅行きとなって折り返して行きます。

郡中港駅の駅舎です。

ヤマキやマルトモといった削り節メーカーの本社や工場を左手に見ながら駅から少し歩くと、駅名になっている郡中港に出ます。現在は貨物船専用の港になっていますが、かつてはこの郡中港と九州大分県の別府観光港・大分港を1時間45分で結ぶダイヤモンド・フェリーの高速船「SPEEDER」が運航されていました。この高速船「SPEEDER」、最高速力42.5ノット(79km/)を誇り、「海の新幹線」と称され華々しくデビューしたのですが、うまく採算に乗ることが出来ず、平成7(1995)の運航開始から僅か3年で運航を休止し、現在に至っています。その高速船「SPEEDER」の乗り場は、現在、伊予市シルバー人材センターの事務所になっています。

郡中周辺は、郡中港や郡中三町(灘町、湊町、三島町)を中心とした中継交易地として発展していました。郡中港駅から郡中港までの通りには、その繁栄の名残りがまだ残っています。

郡中港です。郡中港駅の周辺にはヤマキやマルトモといった削り節(花かつお)の全国ブランドの有力企業の本社・工場が立地しています。

郡中港は貨物船専用の港になっています。

かつてはこの郡中港と九州大分県の別府観光港・大分港を1時間45分で結ぶダイヤモンド・フェリーの高速船「SPEEDER」が運航されていました。その乗り場は現在は伊予市シルバー人材センターの事務所になっています。
郡中港にある五色濱神社です。「折敷に三文字」の社紋が気になったので調べてみると、この郡中も越智氏族に関係の深いところでした。神社の裏は海水浴場になっているようです。

【おまけ1:おさんぽなんよ号】

伊予鉄道の郡中港駅と国道378号線を挟んで反対側にJR予讃線の伊予市駅があります。郡中港伊予市という時代的にかなり違うものを意味する駅名の2駅なので、距離が離れているイメージがありますが、実際は道路を挟んで向かい合う位置関係にあります。JR予讃線は高松駅からこの伊予市駅までが電化されています。そのため松山駅方面からJR四国の7000系電車による普通列車が伊予市駅まで運行されていますが、伊予市駅から西の八幡浜駅・宇和島駅方面は非電化なので、普通列車にはキハ32形やキハ54形といったディーゼルカーが1両の単行あるいは2両編成の短い編成で運行されています。


伊予鉄道の郡中港駅から国道を挟んで反対側に位置するJR予讃線の伊予市駅です。郡中港駅よ伊予市駅はほとんど隣接していると言っていいでしょう。

伊予市駅は単式ホーム・島式ホーム混合23線の構造ですが、よく見ると駅舎のある単式ホームの反対側に側線が見えます。貨車積込み用の側線の跡で、かつてはここから全国に向けて削り節を貨車に積んで運んでいったのだと推察されます。

伊予市駅の改札口です。すべての特急が停車する駅ですが、Theローカル駅って感じです。駅舎は前面などを現代的に改装して大切に使っていますが、木造の相当年代物のようです。

ホーム側から見たJR伊予市駅の駅舎です。

松山行きの普通列車が1両の単行で八幡浜方向から入線してきました。カラフルなラッピング車両の「おさんぽなんよ号」です。

私が伊予市駅の駅舎内に入るのと同時に上り松山行きの普通列車が1両の単行で八幡浜方向から入線してきました。おおっ‼️ おさんぽなんよ号」です。「おさんぽなんよ号」は、JR予讃線の松山駅~宇和島駅間の愛媛県南部の南予地域で運行されているディーゼルカーで、キハ54形が使用され、たいていは1両編成の単行で運行されています。車両は、有名な愛媛県のイメージアップキャラクターの「みきゃん」をはじめ、南予地域のゆるキャラが、多数描かれています。観光列車ではなく地元住民の足である普通列車として運転されていますから、観光客はあまり乗車していません。しかし、目立つカラフルなラッピング車両で、注目を浴びています。

偶然その「おさんぽなんよ号」がやって来たので、帰りはJR予讃線を使って松山駅まで戻ることにしました。並行する競合路線の乗り比べということになりました。JR予讃線のほうは特急列車も走るような高規格の線路なので直線区間ではかなりの速度が出ることに加えて、停車駅数も伊予鉄道郡中線の半分以下なので所要時間は遥かに短いのですが、松山市街中心部から少し離れたJR松山駅と、松山市街中心部にある伊予鉄道の松山市駅の立地の違い、さらには運行頻度の圧倒的な違いから、勝敗は明らかでした。


「おさんぽなんよ号」です。宇和島駅側の正面は愛媛県のイメージアップキャラクターの「みきゃん」が描かれています。

JR松山駅に到着しました。松山駅側の正面に描かれているのは南予観光PRキャラバンマスコットキャラクター「にゃんよ」です。

【おまけ2:私の鉄道模型コレクション】

『晴れ時々ちょっと横道』の連載を始めて以来、郷土愛が人一倍強くなったと自認している私ですので、収集している鉄道模型(Nゲージ)のコレクションの中にも、もちろん伊予鉄道の車両が幾つかあります。それらをご紹介しますね。


伊予鉄道700系電車。元京王帝都電鉄の5000系電車です。オレンジ色一色の現行塗装の編成と、塗装更新前の編成を並べてみました。

高浜線が電化された昭和6(1931)に製造され、昭和59(1984)まで在籍した伊予鉄道100系電車のモハ106。私が子供の頃は吊り掛け駆動方式のこの電車が伊予鉄の主力でした。

伊予鉄道の「坊っちゃん列車」もどきのチビロコ。雰囲気は、まぁ〜こんな感じだったのでしょう。


JR四国のキハ54形ディーゼルカー。標準塗装車と「おさんぽなんよ号」ラッピング車を並べてみました。

 

いかがでしたでしょうか。“乗り鉄”“降り鉄”の世界を少しでもご理解いただけたら、嬉しいです。伊予鉄道の郊外線から始めたこの「鉄分補給シリーズ」、“乗り鉄”“降り鉄”といった私の趣味にピッタリ合致しているので、今後も気が向いたら続けていきたいと思っています。さぁ~て、次はどこに乗りに行こうかな?

私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』も今回が第96回。毎月1回の掲載ですので、第96回ということは、今回で連載開始から丸々8年が経過したということになります。連載を始めた当初は、こんなに長く連載を続けられるとは思ってもみませんでした。これはひとえにお読みいただいている読者の皆様と、このような素晴らしい場をご提供いただいている愛媛新聞社様のおかげと思っております。心より感謝を申し上げます。次回第97回からは連載9年目に突入します。今後も私らしい視点で、主に郷里愛媛県に関するコラムをお届けしていきたいと考えておりますので、引き続きお付き合い願えれば幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。

 

 


2022年5月6日金曜日

鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線①

 公開日2022/09/01

 

[晴れ時々ちょっと横道]第96回 鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線①

 

愛媛県の県都・松山市の中心部にある松山市駅を拠点に郊外電車や市内電車を運行する伊予鉄道。このうち郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びており、(その1)(その2)ではこのうちの高浜線と横河原線について書かせていただきました。今回は残った郡中線について書かせていただきます。


【伊予鉄道郡中線】

郡中線(ぐんちゅうせん)は松山市街の中心部に位置する松山市駅を起点に、松山市に隣接する伊予市の郡中港駅までを結ぶ総延長約11.3kmの鉄道路線です。この郡中線の歴史も古く、開業したのは明治29(1896)のことです。ただ、この郡中線、開業させたのは伊予鉄道ではなく、南予鉄道という別の会社でした。明治29(1896)に藤原駅(現在の松山市駅)〜郡中駅間を一気に開業。この時、車両及び線路などの設備は伊予鉄道と共通規格になっていました。

この南予鉄道はさらに西の八幡浜方面への意欲的な延伸構想もあったのですが、資金難から郡中駅までの開業にとどまり、開業から4年後の明治33(1900)に早くも伊予鉄道に吸収統合され、伊予鉄道郡中線となりました。その際、起点の藤原駅も外側駅(現在の松山市駅)に統合されています。その後、国鉄(現在のJR四国)の予讃線が昭和5(1930)に南郡中駅(現在の伊予市駅)まで延伸されると、それに対抗して郡中線も郡中港駅まで延伸を行い、現在の形になっています。昭和12(1937)に線路幅が軽便鉄道規格の762mmから他路線と共通の1,067mmへと改軌され、昭和25(1950)には電化が完了しています。

郡中線は高浜線とともに、伊予鉄道の経営を支えてきた主力路線ですが、当初のその輸送の主体は旅客輸送というよりも、むしろ貨物輸送でした。高浜線の途中の三津駅近くに三津浜港、終点の高浜駅の近くに高浜港があるように、郡中線の終点・郡中港駅には同名の港・郡中港があります。どちらも松山市の玄関港ですが、かつては高浜港が主として京阪神方面の海の玄関、郡中港が主として九州方面との海の玄関といった使い分けがなされていたようです。で、郡中港に陸揚げされた貨物を松山市街に運ぶために敷設された鉄道が郡中線ということでした。

郡中線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

 【松山市駅】

郡中線で最初にご紹介するのは松山市駅です。この松山市駅は郡中線だけでなく、高浜線、横河原線という伊予鉄道の郊外電車3線の起点駅であり、駅前広場には、道後温泉方面へ向かう伊予鉄道の市内電車線(軌道)の松山市駅停留場、バスターミナル、タクシープールなどがあります。愛媛県の県都・松山市の実質的な中心駅であり、1日平均の乗降人員数は約27,000(2015年調査)JRを含め、四国地方で最多の乗降人員数を誇る駅です。また、駅ビルには四国最大の百貨店であるいよてつ高島屋が入居しており、周辺には繁華街やオフィス街が広がっています。また、駅ビル(いよてつ高島屋)の屋上には「大観覧車くるりん」が乗っていて、松山市街のどこからもその姿が分かるランドマークになっています。

開業は高浜線が開通した明治21(1888)、三津駅、古町駅とともに、四国最初の鉄道駅として開業しました。松山市に国鉄(現在のJR四国)の松山駅が開業する前からほぼ現在の場所にあり、開業当時は単純に松山駅という駅名でしたが、その翌年にいったん外側(とがわ)駅と改称しました。明治29(1896)にその外側駅に隣接して南予鉄道(現在の郡中線)の藤原駅が開業しましたが、明治33(1900)の伊予鉄道による南予鉄道の吸収合併により外側駅に統合され、明治35(1902)、再び松山駅と改称されました。

現在の“松山市駅”に改称したのは昭和2(1927)。香川県の高松駅から西進してきた国鉄の予讃線(当時の呼称は讃予線)が松山にも到達し、松山駅を開業したことによる措置でした。もともと松山駅を名乗っていた伊予鉄道は当初強く反発していたのですが、最終的には国(日本国有鉄道)の圧力に負けて松山市駅に改称しました。全国の県庁所在地の都市にある駅で“◯◯市駅と名乗っている駅はこの伊予鉄道の松山市駅と和歌山県和歌山市にある南海電鉄の和歌山市駅のみです。現存する日本の私鉄で最も古い歴史を有するのは南海電鉄、2番目は伊予鉄道。国鉄の線路がその都市まで延びてくる以前からあった鉄道路線ならではの名誉ある呼称と言えます。地元ではJR四国の松山駅と区別するため「市駅(しえき)」と略して呼ばれ、道路標識にもその表記が見られるなど、市駅の呼称は松山市民の間で広く使われています。

 

伊予鉄道の松山市駅です。駅前広場には、道後温泉方面へ向かう伊予鉄道の市内電車線(軌道)の松山市駅停留場、バスターミナル、タクシープールなどがあります。

駅ビルには四国最大の百貨店であるいよてつ高島屋が入居しており、周辺には繁華街やオフィス街が広がっています。駅ビル(いよてつ高島屋)の屋上には「大観覧車くるりん」が乗っていて、松山市街のどこからもその姿が分かるランドマークになっています。

松山市駅前にある坊っちゃん広場に伊予鉄道の創設者で初代社長を務めた小林信近翁の銅像が建っています。建立されたのは平成28(2016)10月のことで、松山市で一番新しい銅像なのだそうです。

松山市駅の所在地は湊町5丁目。すぐ近くには千舟町という地名の町があります。市内中心部の街中に湊()や舟の字のつく地名があることを不思議の思われた人も多いかと思います。実は伊予鉄道が開業するまでここに港があり、ここから中ノ川という水路を利用し、三津まで商品や米を小船で輸送していました。これが地名の由来であり、ここに伊予鉄道の起点駅である松山市駅が設けられた最大の理由であるとも考えられます。千舟町周辺にはその名の通り中ノ川の水運を担っていた運送業者が数多く集まっていましたから。おそらく、そのような運送業者が創立当初の伊予鉄道の主要な株主だったと容易に推定されます。そういう運送業者が集まって、輸送手段を水運から鉄道に切り替えたのが、伊予鉄道創設の主たる目的だったのでしょう。現在、中ノ川は一部暗渠を残して、ほとんどの区間で埋め立てられて、中ノ川通りに生まれ変わっています。

ちなみに、愛媛県の県都である松山市の都市としての歴史はさほど古いものではありません。前回第95回伊予鉄道横河原線の項で述べたように、松山市の都市としての歴史は関ヶ原の戦いにおける功績により20万石の石高に加増された伊予松前(正木)城城主の加藤嘉明が、松山平野にポツンと立つ勝山の山頂に新しい城を築城したことに始まります。加藤嘉明はまだ築城途中の慶長8(1603)に本拠地をこの勝山山頂の新しい城に移し、この城を松山城と呼ぶこととしたので、「松山」という地名が公式に誕生しました。

加藤嘉明は松山城の築城と並行して城下町の整備を進めていきました。彼は前任地の伊予郡松前町から豪商達を呼び寄せて西堀端の1箇所に住わせ、そこを松前町としました。次に道後湯月城周辺の商人を移動させ、そこに道後町、今市町、一万町を作りました。また文禄・慶長の役(朝鮮征伐)で連れ帰った捕虜を1箇所に住まわせ唐人町としました。今の三番町1丁目、2丁目にあたります。

ところが、松山城の築城完成を目前とした寛永4(1627)、会津藩主だった蒲生忠郷が嫡子がいない状態で亡くなったことで蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで加藤嘉明が会津藩へ移封され、同時に435500石に大幅加増されました。石高2倍以上という破格の条件ではあったものの、四半世紀の時をかけて築城していた松山城とその城下町の完成を目前にして移封を命じられた加藤嘉明はさぞや無念の思いで松山を後にしました。

続いて松山藩24万石の藩主として松山城に入った蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)ですが、寛永11(1634)8月、参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶しました。翌寛永12(1635)7月、徳川家康の異母弟の久松定勝の子で伊勢国桑名藩主だった久松定行が藩主となり、15万石の石高で松山城に入城しました。この時、久松家は徳川一門として松平の姓を名乗ることを将軍家より許され、同時に中・四国の探題として勤めることを求められました。徳川家康は外様大名の配置に苦慮しながら、将来徳川家の脅威は薩摩など西国大名であると見切っており、瀬戸内沿岸に睨みを利かせることに腐心していました。そのため、松山藩松平家は徳川幕府にとって最も西に位置する親藩大名となりました。

松山市中心部の地図(国土地理院ウェブサイトの地図を引用) ところどころに城下町時代の地名が残されています。城山を中心に都市が計画的に整備されたのが、よくわかります。

49歳で松山藩主となった松平定行は、城を中心にして城下町の整備や道後温泉の整備、拡張に精力的に取り組みました。もともと氾濫を繰り返す伊予川(現在の重信川)と湯山川(現在の石手川)が作り出した何もない荒地だったところなので、都市計画は城下町として理想的なものを追い求めた感じがします。城の北郭には1万石の蒲生家、東郭(現在の松山東雲中学校・高校のあるあたり)には4,200石の稲田家、南郭の県庁のあたりには4,500石の本山家という家老の屋敷を配置し、武家屋敷は主に城の西側・北側・東側に配置しました。1,0002,000石の重臣は主として堀の内の二の丸や三の丸に居住させていました。現在二の丸跡は日本庭園として整備され、三の丸跡は県立図書館や美術館、市民会館など市民憩いの場となっています。

1,000石未満の中堅家臣は城の東南側に代官町を設け、そこに集めて住まわせました。この代官町の町名は武家組織である大番組からとり、一番町(500石以上)、二番町(300400)、三・四番町(100)と命名しました。100石以下の下級家臣は、徒士(かち)を歩行町に、足軽・中間を八坂町・唐人町周辺に住まわせました。また、城の北側に伊予鉄道の松山市内線(城北線)の鉄砲町電停があり、この現在愛媛大学城北キャンパスや松山大学、松山赤十字病院、松山北高校のあるあたりの町名が鉄砲町です。この「鉄砲町」という地名は、城下町の地名として全国各地に見られますが、鉄砲鍛冶などの職人を集めた町の意味と、城下の家中屋敷町として鉄砲足軽が居住した城下地名としての二つの意味があります。松山の場合、明治時代以降、ここに大日本帝国陸軍の大規模な城北練兵場が置かれたことから、おそらく後者だったのではないかと推察されます。いずれにしろ、江戸時代初期から大名が鉄砲を進歩した武器として重んじていた有様が今に伝わってくる歴史的な地名なのです。ちなみに、日露戦争時にはここに城北バラックといわれるロシア兵の捕虜収容所が設置されていました。城の北側の市内中心部に広大な土地があったことから、現在は大学や高校が立地する文教地区に生まれ変わっています。

さらに配下の武士の生活を支えるため、前任地・伊勢国桑名から腕のいい商人や職人を呼んで城の西側に集めて住まわせ古町(こまち)をつくり、地租免除の特権を与えました。ここには呉服町、萱町(茅屋町)、魚屋町、米屋町、紙屋町などの商人街と、鍛冶屋町、畳屋町、紺屋町、桧物屋町、研屋町、傘屋町などの職人町が幾つもでき、「古町三十町」と呼ばれました。現在ではその多くは本町や平和通りなどと町名が変更されていますが、萱町や木屋町等、今も当時の地名が残っているところもあります。

これに対し、城の南側は城主からさほど注目されていなかった地域だったようです。ここは免税の特権がない代わりに大きな規制もなく、たまたま中級~下級家臣の屋敷がそばにあったことと、松山城下と松山藩の外港である三津浜港を結ぶ水路である中ノ川の港があったため、予想外の発展を遂げました。これが今に至る県下随一の商店街、大街道と銀天街誕生の由来です。大街道の周辺はかつて、加藤嘉明が文禄・慶長の役(朝鮮征伐)で捕虜として連れ帰ってきた人々が住んだことから小唐人町(ことうじんまち)と呼ばれていました。そこへ古町から呉服商が移って来て、賑やかな町に変わっていきました。その後相次いで商店や旅館などが軒を連ね、大正時代には通りに沿って流れる用水路を埋め立てて、文字どおり大街道となりました。商店街の東の一帯は中国人が住んだところから北京町(きたきょうまち)と呼ばれ、現在は松山市で最も賑やかな飲食街となっています。銀天街は昭和29(1954)にアーケードができ、ジュラルミン製の天井が銀色に光って見えるところから銀天街と命名されましたが、それまでは湊町、それ以前は港町と呼ばれていました。また、四番町には中ノ川水運の運送業者が数多く集まっていたことから、千舟町と呼ばれるようになりました。前述のように、松山市の市内中心部に港や舟の名付く町があるのは、松山の城下町の商業が活性化した結果、ここから中ノ川という水路を利用し、三津まで商品や米を小船で輸送したことが命名の由来となっています。

ちなみにこの中ノ川、近くを流れる人工の河川・石手川から分岐するこれまた人工の河川(水路)でした。そうそう、大街道商店街の路上に昔の松山の中心市街地の様子を描いたタイル絵が敷かれているのですが、その1つに西予市の愛媛県歴史文化博物館に所蔵されている松山城下町図屏風の原寸大の写真を印刷したものがあります。そこには江戸時代の松山の城下町の様子が描かれていて、その絵の中に現在の松山市駅の南側付近を流れる中ノ川と湊町や千舟町の町並みも描かれています。

このように町名を意識しながら松山市の市街地を歩いてみると、松山がいかに計画的に整備された城下町であったのかがよく判り、楽しいです(最近は町名が変更になっているところが多いので、昔の町名を探る必要がありますが…)

大街道商店街の路上に昔の松山の中心市街地の様子を描いたタイル絵が敷かれているのですが、その1つに松山城下町図屏風の原寸大の写真があります。そこには江戸時代の松山の城下町の様子が描かれていて、その中の現在の松山市駅の南側を流れる中ノ川と湊町や千舟町の町並みも描かれています。

横河原線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“市駅南踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。かつてこの中ノ川通りは中ノ川と呼ばれる水路になっていて、この水路を利用して港のある三津まで商品や米を小船で輸送していました。

線路の両側は軽便鉄道時代の細い線路を活用した鉄柵がズラァ~っと並んでいます。

伊予鉄道の郊外電車は各線日中15分間隔で運行されていて、毎時00分、15分、30分、45分には郡中線の電車と高浜線の電車の同時発車が見られます。高浜線と横河原線が直通運転するようになる前は、ここで3線同時発車という賑やかなシーンが見られました。


横河原線の改札口です。松山市駅は四国初の自動改札機設置駅で、2014年からはICい~カードの普及に伴って、タッチセンサー式の簡易改札機に置き換わっています。

こちらは高浜線と郡中線用の改札口。高浜線と郡中線の改札口は地下にあります。

松山市駅は高浜線、横河原線、郡中線という伊予鉄道の郊外電車3線の起点駅です。写真右手に延びているのが高浜線の線路で、右手奥にカーブして延びているのが郡中線の線路です。横河原線は写真左手に向かって延びています。郡中線の電車が入線してきました。ホームは23線の構造で、一番手前の1番線ホームが横河原線用。真ん中の2番線ホームが高浜線用、一番奥の3番線ホームが郡中線用のホームになっています。

2番線ホーム(写真左側)に高浜行きの電車が、3番線ホームに郡中港行きの電車が停車中で、出発時間を待っています。伊予鉄道の郊外電車は各線日中15分間隔で運行されていて、毎時00分、15分、30分、45分には郡中線の電車と高浜線の電車の同時発車が見られます。

郡中線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“中の川踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。この“中の川踏切”では高浜線と郡中線の同時発車の様子が見えます。駅ビルの建物の中から出てくる電車の光景はちょっと都会的なのですが、すぐに車窓は住宅街の中を走る光景に変わります。

郡中線の電車は起点の松山市駅を出るとすぐに“中の川踏切”で中ノ川通りを斜めに横切ります。当然のこととして郡中線開業当初はここに橋が架かっていました。。

次の土橋駅を過ぎると、JR予讃線の線路が高架で郡中線の線路の上を跨いでいきます。JRの線路が上を跨ぐということは、JR(国鉄)よりも先にこの伊予鉄道のほうが開通していたということを意味しています。ちなみに、伊予鉄道では高浜線でも西衣山駅と山西駅の間でJR予讃線の線路が高浜線の線路の上を高架で跨いでいきます。鉄道ファンとしては、こういうところに伊予鉄道の歴史の古さを感じます。


郡中線の土橋駅~土居田駅間で、JR予讃線の線路が高架で上を跨いでいきます。


続いて、鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線②を掲載します。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...