2022年5月4日水曜日

鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②

 公開予定日2022/08/05

[晴れ時々ちょっと横道]第95回 鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②


【廃止された森松線】

松山市の出身者で、私と同世代以上の方と伊予鉄道の話をすると、必ずと言っていいくらいに話題に登場してくるのが、昭和40(1965)に廃止された横河原線の支線・森松線です。50年近く前に廃線になったとは言え、今も森松線のことを懐かしむ松山市民、松山市関係者が大勢いらっしゃることを実感しておりますので、ここで触れないわけにはいきません。

森松線は横河原線で松山市駅を出て2つ目の「いよ立花駅」を起点に終点の森松駅までの総延長約4.4kmの短い路線でした。途中駅は「石井駅」ただ1駅。この石井駅は「椿神社(お椿さん)」の最寄り駅でした。全線の開業は明治29(1896)。横河原線が外側(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間で開業した明治26(1893)3年後のことで、終点の横河原駅まで延伸した明治32(1899)3年前のことでした。開業当初は軌間(線路幅)762mmの軽便鉄道規格でしたが、昭和6(1931)1,067mmに改軌。昭和40(1965)に廃止されるまで全線で単線非電化の路線でした。

横河原線と同様、小型の蒸気機関車(坊っちゃん列車)L字型の車体を持つ小型のディーゼル機関車が34両の小型の客車を連結して1時間に1本程度がトコトコ走る路線で、普段は乗客も少ない影の薄い路線だったのですが、沿線の椿神社の例大祭の時には臨時列車が出るなどしてデッキから溢れそうな乗客を乗せて大活躍しました。まさに椿神社の参拝客や例大祭のためにあったような路線で、私と同世代以前の松山市民にとっては「お椿さんに行く時に乗った列車」として深く思い出に刻まれているのではないでしょうか。

第二次世界大戦後、併走する国道33号線が拡張整備されるとバス路線に乗客を奪われることになります。1時間に45本運行されるバスに対し、1時間1本の鉄道では勝負にならず、乗客の数は半減しました。結局乗客数を挽回する方策は見つからず、森松線は昭和40(1965)に廃止となりました。しかし、皮肉な事に廃止後は森松線沿線の宅地化が急速に進んで住民が増大。重信川を挟んで森松の南に隣接する伊予郡砥部町も大きく発展した結果、あまりのモータリゼーションの進み具合に国道33号線の渋滞が日常慢性化する事態となります。ここで定時輸送のできる鉄道(森松線)が残っていれば十分に乗客の受け皿になったと思われ、伊予鉄道さんには申し訳ないけど、この森松線の廃止は大きな経営判断ミスだったのではないかと、私は思っています。ただ、森松線と並行して走っていた国道33号線が、森松線の軌道敷跡を利用して早期に拡幅工事を行い、道路交通量を増やしたことがこの森松線沿線や砥部町の宅地化が急速に進んだ一因とも考えることができ、今となってはどっちがよかったのかの評価は分かれるところではあります。

横河原線いよ立花駅を起点に、その伊予鉄道森松線の跡を探ってみました。

 

【いよ立花駅】

横河原線で松山市駅から2つ目の「いよ立花駅」です。かつてこの駅から支線の森松線が分岐していました。いよ立花駅は明治26(1893)に伊予鉄道が横河原線を開業した際に設置された駅で、開設当初は漢字で「伊予立花駅」という駅名でした。このいよ立花駅、その気になって眺めてみると、森松線が走っていた頃の名残りがいたるところに残されています。その名残りにつきましては、以下の写真をご覧ください。

いよ立花駅です。現在の駅舎とホームは森松線が廃止された後の昭和42(1967)に全面的に大規模改修されたものです。

いよ立花駅付近の踏切から横河原方向の線路を撮影したものです。横河原線は比較的直線の区間が多いと書きましたが、中でも一番長い直線区間はいよ立花駅と2つ先の北久米駅間で、約2.5kmの直線区間が続きます。遠くを見ると線路が上り勾配になっていることが分かります。横河原線は13.2kmで約100メートルの標高差を登ります。

森松線廃止後の大規模改修においては横河原線の線路の位置を大きくずらしたようで、現在の1番線の線路(写真左手)がかつての森松線の線路があったところのようです。いよ立花駅の横河原線の線路は不自然に南側(写真左手)に湾曲しているようにも見えるのですが、それはこの大規模改修の名残りなのでしょうね。

元々の伊予立花駅は単式の1番線ホームと、島式の23番線ホームの23線の構造をしており、対面している島式の12番線が横河原線ホーム、単式の3番線が森松線ホームでした。現在は島式の12番線ホームだけになっていますが、地方鉄道の途中駅にしては無駄に広い構造になっています。

駅の北側です。かつてここには道後鉄道の道後駅だった建物を移築した駅舎が建っていました。現在は駅前広場、というか路線バスの停留所になっています。

駅前の歩道橋の上から東側を眺めたところです。現在は横河原線の線路になっている1番線ホームからの線路は、ここから緩やかに右にカーブし、現在のバス停や駐車場の中を突っ切るように森松の方向へ分岐していたことが見て取れます。現在、駐車場となっているあたりは、かつて留置線が設けられていたところで、横河原線や森松線で運行されていた蒸気機関車やディーゼル機関車、客車の車庫になっていたと思われます。バス停の前の道路が旧の国道33号線です。

いよ立花駅の東側の駐車場(かつての車庫?)の裏から、旧の国道33号線のすぐ東側を細い1本の道路が走っています。ほぼ直線に延びる道路なのですが、微妙に道路の両側がクネクネしています。おそらく森松線の線路跡なのではないでしょうか。この道路はすぐに旧の国道33号線と合流します。

 

【石井駅跡】

森松線はいよ立花駅を出るとほぼ国道33号線の東端を沿うように延びていたのですが、国道の拡幅工事で線路は完全に国道に飲み込まれてしまい、線路の跡らしきものはいっさい残っていません。

森松線唯一の途中駅であった石井駅は国道33号線の椿神社入口交差点の北東付近にあったとされています。残念ながら、現在は遺構は全く残されていません。椿神社入口交差点は、名前のとおり、椿神社と通称される伊豫豆比古命神社の参道入口でもあります。赤い“一の鳥居”が建っているのが見えます

 

国道33号線の椿神社入口交差点です。かつて石井駅はこのあたりにありました。ここは椿神社(伊豫豆比古命神社)の参道入口で、赤い“一の鳥居”が建っているのが見えます。

松山市民から「椿神社」や「お椿さん」と呼ばれて親しまれている『伊豫豆比古命神社』です。「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としていますが、「いよづひこ」と読んでいる例も多いようです。祭神は、

・伊豫豆比古命(いよずひこのみこと・男神)

・伊豫豆比売命(いよずひめのみこと・女神)

・伊与主命(いよぬしのみこと・男神)

・愛比売命(えひめのみこと・女神)

伊与主命(伊予主命とも)は久味国(くみこく:現在の愛媛県松山市東部から東温市、久万高原町周辺に相当)の初代国造で、伊豫豆比古命は伊与主命の祖神。伊豫豆比売命は伊豫豆比古命の、愛比売命は伊与主命の奥方神とされています。ちなみに、愛媛県の県名はこの4体の神のうちの1体「愛比売命」から名づけられており、都道府県名で神様の名前を使用しているのは愛媛県のみです。

社伝によると、この神社は孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37(1962)には御鎮座2250年祭が、平成24(2012)には御鎮座2300年祭が行われたほどの古い歴史を持つ神社です。その昔、この神社一帯は海で、海を意味するの脇にある神社、すなわち「つわき神社」が時が経るにおいて「つばき神社」に変化したと言われています。また、神社の周りに藪椿をはじめとした各種の椿が自生していたことからも、「椿神社」と呼ばれるようになったという説もあるようです。この椿神社一帯の現在の標高は約3040メートル。そこが2300年前までは海だったとは俄かには信じがたいのですが、南海トラフ付近で発生した超巨大地震の影響で中央構造線の北側が隆起した痕跡がこの近くの伊予郡砥部町にあるので(砥部衝上断層:国の天然記念物)、そういうことも、さもありなんとも思えます。

毎年、旧暦17日〜9日に行われる伊豫豆比古命神社の春季例大祭は「椿まつり」あるいは「お椿さん」と呼ばれ、「伊予路に春を呼ぶ祭り」とされています。3日間の祭りの期間中、毎年数十万人が参拝し、参拝者の数では四国一の大祭と言われています。私も子供の頃、両親に連れられて毎年のように「椿まつり」に来ていました。昔、この近くを走っていた伊予鉄道森松線の石井駅から神社までの参道は出店で溢れ、綿菓子や飴を買って貰うのが楽しみでした。ただ、あまりの参拝客の多さに迷子にならないように、父か母にしっかり手を握られていたので、それが痛かった思い出もあります。

 

松山市民から「椿神社」や「お椿さん」と呼ばれて親しまれている『伊豫豆比古命神社』です。

【森松駅跡】

かつて森松線の終点だった森松駅の跡です。森松線はこの手前で国道33号線(新道)から分岐し、旧の国道33号線に沿って延びていました。森松駅の跡は、現在は伊予鉄バスの森松営業所になっています。この建物は廃線の翌年の昭和41(1966)に森松バスターミナルとして整備されたもので、元の駅舎は廃線時に取り壊され、駅舎のあった場所に森松出張所の建物が建てられました。

現在、国道33号線沿いに伊予鉄バスの森松・砥部線が走っています。鉄道の森松線営業当時から走っていたバスの並行路線で、松山市駅から森松までほぼ廃線跡をそのまま路線バスが走ってくれています。この森松・砥部線、日中は15分間隔、終バスは23時近くと、地方の路線バスとしては異例とも思える高頻度運行のバスで、それだけ需要が多い路線だということです。時刻表や次から次へとやってくる路線バスを眺めていると、(鉄道の)森松線が廃止されずに残っていたらと、鉄道マニアとしてはどうしても思ってしまいます。


森松駅の跡は、現在は伊予鉄バスの森松営業所になっています。

伊予鉄バス森松営業所の中の様子です。バスの停留所ながら出札窓口が作られており、ベンチの置かれた待合室は鉄道駅を意識した作りとなっています。

砥部方面の乗り場です。伊予鉄バス森松・砥部線は日中は15分間隔、終バスは23時近くと、地方の路線バスとしては異例とも思える高頻度運行のバスで、それだけ需要が多い路線だということが分かります。

旧の国道33号線に面したバス停は砥部方面行きのバス停です。

建物の裏手にも乗降の乗り場があり、乗客用のベンチが置かれています。建物裏手のバス停は松山市駅方面行きの乗り場で。す。12線式の電車のホームのようです。

営業所の裏手の敷地です。現在は車庫としてバスが何台か駐車していますが、森松線の営業当時にはこちら側に単式ホーム1面があり、またその外側には機関車や客車が留置できる引き上げ線もありました。

建物裏手のバス停から松山市駅行きのバスが出てきました。

JR四国バスの久万高原線の路線バスがやって来ました。このバスは森松の隣りの伊予郡砥部町を経て、上浮穴郡久万高原町まで運行されているのですが、この路線はかつての国鉄バスの松山・高知急行線で、JR四国の栄光のドル箱路線でした。松山〜高知間が高速道路経由になったので、現在はJR松山駅と久万高原駅を一般型の路線バスで結んでいます。

森松駅のすぐ傍を一級河川の重信川が流れています。旧の国道33号線はここで重信橋(通称:森松橋)で重信川を渡り、伊予郡砥部町に入っていきます。松山市森松町~伊予郡砥部町の境を流れる重信川に架かる重信橋は明治38(1905)に完成しました。明治時代の重信橋は木鉄混合の下路トラス橋であったそうなのですが、昭和23(1948)に洪水によって一部が流失してしまったため、旧日本海軍が所有していた鋼材等を用いて昭和25(1950)に現在の鉄橋に架け替えられました。昭和57(1982)には下流側に国道33号バイパスの重信大橋が開通したので、今は旧の国道として県道になっています。

この重信橋が架かっているところは、かつては重信川の渡しがあり、砥部や久万、さらには高知県方面から陸路運ばれてきた物資は、ここで渡し船に乗せられて松山市側に運ばれてきていました。その物資を松山市街中心部に運ぶために敷設された鉄道が伊予鉄道森松線ということだったようです。なので、森松線も横河原線同様、貨物輸送主体の路線だったようです。

 

重信川に架かる旧国道33号線の重信橋です。
重信橋から見た重信川の上流側です。

 

次回(その3)は今回の鉄分補給シリーズの最終回。(その3)では松山市駅から南西方向に延びる郡中線を取り上げます。


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