公開予定日2021/10/07
[晴れ時々ちょっと横道]第85回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)
[11.3 黒川氏と伊予武田氏の終焉]
そうした黒川氏と伊予武田氏(武田信重・信戻・信明)にも武家としての終焉の時がやって来ます。伊予武田氏の居城である朝倉龍門山城が落城して武田信勝が討ち死にした2年後の天正12年(1584年)、黒川通博が亡くなったのですが、黒川通博には男子がいなかったため、家督は先代・黒川元春(通尭)の義弟(正室の弟)である黒川通貫が周敷郡の旗頭とともに継承します。おそらくこの頃には伊予武田氏も第6代の武田信繁から子の信戻・信明の代に移っていたのではないでしょうか。この時代になると四国では土佐国の長宗我部元親がほぼ支配権を握るようになります。それまで安芸国の毛利氏と同盟関係を結んでいた河野氏ですが、毛利氏の対織田信長戦の戦況がしだいに不利になり、それに加えて河野氏の権勢の後退が続くなかで、河野氏麾下の国人衆の中では毛利離れが加速し、黒川氏や金子氏といった東予地方の有力国人衆は長宗我部元親と同盟関係を結ぶところが増えていました。特に黒川氏はおそらく黒川通博の先代の黒川元春(通尭)の時代から長宗我部氏と極めて密な関係を築いていたのではないか…と推察されます。なんと言っても黒川元春(通尭)は黒川通矩の妹婿になり黒川姓を名乗る前の名前は長宗我部元春。あの長宗我部元親の叔父にあたる人物ですから。
天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉がその後の織田家内部の勢力争いにも勝ち、織田信長の後継としての地位を得ました。羽柴秀吉は、全国統一事業が順調に進むなかで、毛利氏との和睦ができあがると、次に四国平定事業に着手しました。羽柴秀吉・長宗我部元親とも当初は交渉による和解を模索したようなのですが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂。天正13年(1585年)6月、羽柴秀吉は四国への出陣を決定し、淡路国から阿波国、備前国から讃岐国、安芸国から伊予国の三方向から四国への進軍を命じました。伊予国へ進軍して来たのは毛利輝元配下の中国地方8ヶ国の軍勢で、その数は3万人から4万人にも達したと言われています。6月27日に小早川隆景率いる第一軍が今治浦に上陸。続いて7月5日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦と新間(現在の愛媛県新居浜市)に上陸しました。その最初の攻撃目標は宇摩郡・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である新居郡の金子元宅(もといえ)。金子元宅は当時東予地域の国人衆の実質的な指導者であり、前述のように長宗我部氏とは同盟関係にありました。このどう考えてみても勝ち目の見えない状況においてどう対処するべきかを討議した軍議の場において、圧倒的戦力で攻め込んでくる小早川隆景率いる四国討伐軍を前にして動揺する家臣や他の国人衆からは降伏すべし、とか和睦すべしとの声が多く出されたようなのですが、そういう中、金子元宅は「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて、他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。勝負は時の運なり、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れて矢尽きるまで身命を賭して戦うべし」と激しい檄を飛ばし、敵に臆することなく戦うことの決意を表明。その檄を受けて東予の国人衆約2千人は決戦に向けて一致団結したと言われています。これで始まるのが「天正の陣」と呼ばれる戦国時代における四国最大の決戦です。
金子氏にとって主家にあたる石川氏の当主であった高峠城城主の石川虎竹丸はまだ8歳と幼く、金子元宅は後見人として高尾城に籠もり、居城である金子城(新居浜市滝の宮町)には実弟の金子元春を置きました。この体勢で地元勢力約2千人とともに小早川隆景率いる四国討伐軍を迎え撃ったのですが、7月14日、金子城はあえなく落城(金子城の戦い)。金子城落城後、金子元宅は高尾城(西条市氷見)に拠ってなおも抵抗を続けたのですが、その時残っていた戦力は総勢600人程度であったとされています。圧倒的な兵力で怒涛のように攻めかかる小早川軍に対し、高尾城も多勢に無勢で、7月17日に落城(高尾城の戦い)。最期を悟った総大将の金子元宅は翌7月18日に石川虎竹丸を自身の嫡男の毘沙寿丸ともども土佐国の長宗我部元親のもとに逃がした後(おそらくこの逃走には現在の国道194号線ルートが使われたと推定されます)、自ら高峠城に火を放ち、残った100人ほどで野々市ヶ原(西条市野々市)に打って出て奮戦。その生涯を終えました。金子軍は決して降伏する事はなく、最後は13人になるまで戦ったとされています(野々市ヶ原の戦い)。軍事用語に“全滅”・“壊滅”・“殲滅”という言葉があります。いずれも一つの部隊が大きな損害を受け組織戦闘力を喪失した状態を指す言葉です。これによると、“全滅”とは部隊の約3割(戦闘兵の約6割)を喪失した状態のこと。“壊滅”とは部隊の約5割(戦闘兵の約10割)を喪失した状態のこと。“殲滅”とは部隊の10割を喪失(全部隊消滅)した状態のことを意味します(諸説あります)。この区分から言うと、天正の陣における金子元宅率いる新居郡・宇摩郡の国人衆の最後は、“全滅”や“壊滅”どころではなく“殲滅”状態、類義語で言うと、“玉砕”状態だったと言えようかと思います。戦国時代の伊予国(愛媛県)を語る上において、絶対に忘れてはならない壮絶な戦いでした。
西条市洲之内にある高峠城跡です。高峠城は松山自動車道の中野トンネルがある山塊(標高233メートル)の上にあります。高峠城は新居郡・宇摩郡の旗頭であった石川氏の居城で、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻してきた際には金子元宅が総大将として高峠城に入り、東予軍の指揮を執りました。 |
西条市氷見にある山塊(標高240メートル)の上に高尾城がありました。この高尾城は高峠城城主で新居郡・宇摩郡の旗頭であった石川通清が、周敷郡の旗頭として台頭してきた新興勢力の剣山城城主・黒川元春に対する備えとして築いた城とされています。 |
小早川隆景は金子元宅らの見事な散り様を称え、将兵たちの亡骸に向かって合掌し、鎧の上に法衣を置いて、死者の霊を供養するため「討つ者も、討たれる者も、夢なれや、早くも醒めた、汝等が夢」と謡い、自ら“弔いの舞”を舞ったと言われています。居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、今でも壬生川を中心とした西条市西部に残る「トンカカさん」という盆踊りが生まれたとされています。また、小早川隆景は、この戦闘で戦死した1千人に余る死者の亡骸を1ヶ所に集め、野々市の「千人塚」に手厚く葬ったのだそうです。ちなみに、金子元宅の実弟の金子元春は金子城落城後、落ち延びて自害しようとしたのですが、逃げ込んだ先の寺院の和尚に諭されて出家し、僧となり、その後、金子元宅らの供養のために金子山麓の金子氏館跡に元和4年(1618年)頃に慈眼寺を建立したのだそうです。
西条市野々市にある千人塚です。この千人塚は小早川隆景が野々市ヶ原の戦いで戦死した金子元宅方の軍勢を弔うために建てたものだとされています。 |
千人塚の横に建つ総大将・金子元宅の供養塔です。 |
こちらは松木三河守安村の供養碑です。松木安村は新居郡生子山城(新居浜市角野新田)城主で、「高尾城の戦い」では金子山城主・金子元宅に従って高尾城へ入り、籠城ののち野々市ヶ原の合戦で討死しました。 |
野々市ヶ原古戦場の碑です。小早川隆景に率いられた四国征伐軍の2万人とも3万人とも伝えられる大軍勢による怒涛のような攻撃に対し、金子元宅は総勢600人程度の戦力とともに高尾城に籠って防戦したのですが、多勢に無勢で落城し、最後は100人ほどで野々市ヶ原に打って出て、決して降伏することなく全滅しました。 |
野々市ヶ原の戦い後、残る新居郡・宇摩郡の諸城もことごとく陥落し、両郡での伊予国勢の抵抗は終息しました。この東予二郡の制圧後、小早川隆景率いる四国討伐軍は進路を西へ、そしてすぐに北西に転じます。まずは周敷郡の旗頭である黒川通貫が籠る剣山城に襲いかかります。黒川勢は大いに奮戦したものの圧倒的な兵力で襲いかかってくる四国討伐軍の勢いを止められず、剣山城は落城。黒川通貫をはじめとする黒川勢は河野氏宗家・河野通直が立て籠る道後湯築城に向けて桜三里を越え讃岐街道を西に敗走しました。その際、伊予武田氏も同行したと思われます。勢いに乗った小早川隆景率いる四国討伐軍は周敷・桑村・越智・野間・風早の各郡を次々と制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直が籠る湯築城が攻囲されます。その間の8月6日に長宗我部元親が四国討伐軍の総大将・羽柴秀長に降伏したこともあって、小早川隆景の薦めにより湯築城は開城。河野氏宗家当主の河野通直は大名として残る道を絶たれ、新たな伊予国35万石の支配者となった小早川隆景の元に庇護されました。そして天正15年(1587年)、河野通直が安芸国竹原で嗣子がないまま没したため、大名としての名門河野氏は57代をもって滅亡しました。
新居浜市滝の宮町にある金子城跡です。新居郡と宇摩郡の国人衆の実質的な指導者であった金子元宅の居城で、小早川隆景に率いられた四国征伐軍の侵攻を受けた際には弟の金子元春が入って守ったのですが、多勢に無勢であえなく落城しています。現在は滝の宮公園として整備されています。 |
金子城への登城口は現在は展望台への遊歩道として整備されています。とは言っても、そこはかつての“中世山城”の登城道。遊歩道と呼ぶには結構キツイ山道です。 |
金子城の主郭は第一展望台(標高80メートル)のところにありました。写真は第二展望台から見た新居浜市街の風景です。 |
黒川氏もその後は小早川隆景麾下に組み込まれたらしく、天正の陣の翌年の天正14年(1586年)、小早川隆景が九州征伐に向かった際には黒川通貫も小早川隆景に促されて出陣したという記録が残っているので、伊予武田氏の武田信戻(のぶより)も信明も天正の陣で生き残っていたとすると、それに従ったのではないか…と推定されます。江戸時代に入り、黒川氏の一族は小松藩一柳家の家臣や、帰農して各集落の庄屋等になったとされていて、伊予武田氏もおそらく帰農して地域の庄屋等になったのではないかと推察されます。ちなみに、天正10年(1582年)に龍門山城が落城した際に、討ち死にした城主武田信勝の五男・源三郎信猶が家族とともに周敷郡石田(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びた…と(その3)で書きましたが、もしかすると、当時はここに武田信戻か信明、あるいはその有力家臣が住んでいたのかもしれません。このあたりを領地とする城は鷺ノ森城。その鷺ノ森城は天正3年 (1575年)に金子氏と黒川氏に攻められて落城し、その後は天正15年(1585年)に小早川隆景率いる四国討伐軍により落城するまで金子氏の支配下に置かれていたとされていますが、もしかしたら、武田信戻か信明が城代等として入城していたのかもしれません。加えて、壬生川を中心とした西条市の旧周桑郡一帯に今でも武田姓の家が多いのは、江戸時代に入って武田信戻や信明といった伊予武田氏一門が刀を捨て帰農して、ここで暮らしていた証拠なのかもしれません。
そうそう、(その3)で西条市石田にある武田信勝の五男・武田源三郎信猶の墓所を訪ねたことを書かせていただきましたが、その際、その武田信猶の墓の隣に非常に興味深い人物の墓が立っていることを知り、少し驚きました。それが、剣山城の最後の城主で周敷郡の国人衆の旗頭であった黒川通貫の墓です。そして、その墓所の隣には「黒川」の表札と家紋が掲げられたお屋敷のような大きな家が…。黒川通貫の墓を守っているということは、おそらく黒川通貫から続く黒川氏の本家筋のお宅なのでしょう。こういうことからも、当時、伊予武田氏と黒川氏の間に深い関係があったことが窺えます。
剣山城の最後の城主で周敷郡の国人衆の旗頭であった黒川通貫の墓碑です。 |
武田信猶と黒川通貫の墓の位置関係です。右が武田信猶、左が黒川通貫の墓碑です。 |
[11.4 龍門山城落城の真相]
ここまで書いてきて、天正10年(1582年) 12月8日、伊予武田氏の居城である龍門山城が村上(来島)通総の奇襲を受け落城し、伊予武田氏第7代の武田信勝が討ち死にした真相が朧げながらではありますが、少し見えてきた感じがします。実はこの時、村上(来島)通総勢の奇襲攻撃を受けたのは龍門山城だけではありませんでした。私が調べた限りにおいては他にも2城が攻撃を受けています。霊仙山城(今治市宮ヶ崎)では河野十八家の1人だった城主・中川親武が討ち死にしています。また正岡氏(幸門城)の分家・正岡経長の守る鷹取山城(今治市古谷)も攻められ、正岡経長は降伏しています。先ほど、この時期、河野氏麾下の国人衆の中では毛利離れが加速し、黒川氏や金子氏といった東予地方の有力国人衆は長宗我部元親と同盟関係を結ぶところが増えきていたと書きましたが、おそらく原因はこれでしょうね。当時の黒川氏の当主は正岡氏から養子に入った黒川通博。そして、それを客将として補佐していたのは武田信勝の兄の武田信繁。そりゃあ誰がどう見たって黒川氏、正岡氏、伊予武田氏は長宗我部派ですわね。
それを快く思っていなかったのが彼等の主家にあたる伊予国守護の河野氏と、その河野氏と同盟関係にあった毛利氏の毛利輝元。当時、毛利氏は安芸国から中国地方8ケ国(安芸国、備中国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、因幡国)を支配する総石高112万石の西国の最大勢力とも言える大大名にまで成長しており、次の領土拡大のターゲットは間違いなく四国だったはずです。それで安芸国とは瀬戸内海を挟んだ対岸にある伊予国の河野氏と同盟関係を築き、四国侵略の足掛かり、橋頭堡にしようと思っていたのでしょうが、河野氏の権力があまりに衰退していたので伊予国を1つにまとめきれず、結果、四国侵攻計画が進まず、相当イライラが募っていたのではないか…と思われます。それと、この状況を自らの野望を実現するために利用しようとした真の黒幕がもう一人いました。それが羽柴(豊臣)秀吉。前述のように、織田信長が本能寺で自刃し、主君の仇明智光秀を討つため、速やかに毛利氏との講和交渉を取りまとめ、交戦中だった備前高松城から中国路を京に向けて全軍をもって取って返したいわゆる「中国大返し」に成功し、その後の織田家臣団の中での権力抗争にも打ち勝って、天下統一に向けて動き出した羽柴秀吉にとって次のターゲットは四国と九州。特に四国では一代で土佐国の一国人から四国を代表する戦国大名に成長し、阿波国・讃岐国の三好氏、伊予国宇和郡の西園寺氏らと戦って四国中に勢力を拡大しつつあった長宗我部元親の存在が大いに目障りになっていたのだと思います。そこで羽柴秀吉と毛利輝元が協議し、東予の長宗我部派の国人衆に長宗我部元親と手を切れ!と脅迫に近い警鐘を鳴らすべく村上(来島)通総に命じて行わせたのが龍門山城をはじめとした長宗我部派の国人衆の城への奇襲攻撃だったのではないでしょうか。おそらく毛利氏の兵もその奇襲に加わっていたのではないか…と推察します。歴史の教科書や歴史小説に決して取り上げられることはないのですが、こうやって、四国の片田舎でも時代の大きな流れの中で、それに関連する様々な事件が起こっていたということですね。
それにしても、この東予地方の有力国人衆は、武力で平定された南予(宇和郡、喜多郡)の国人衆と異なり、特にドンパチをすることもなく長宗我部元親と同盟を結んでいます。そこには「四国の覇権を四国人以外に渡すわけにはいかない」…という強い意志、伊予国の国人衆としての矜持のようなものを感じます。当然そのような脅迫に屈することもなく、2年半後の天正13年(1585年)6月には羽柴秀吉に命じられた小早川隆景に率いられた四国討伐軍との戦いに臨むことになるのですが、この戦いでも圧倒的な戦力差を前にしても決して降伏することはありませんでした。最後に野々市ヶ原で壮絶な討ち死にをした東予軍の総大将・金子元宅に関わる逸話から判断するに、東予地方の有力国人衆は決して長宗我部元親に隷属していたわけではなく、前述の「四国の覇権を四国人以外に渡すわけにはいかない」という強い意志から来る強い同盟関係があったのではないか…と感じてしまいます。
まったくの余談ですが、私の母の旧姓は“佐伯”。母方の祖父は文台城のあった西条市丹原町志川から愛媛県道153号落合久万線で中山川に沿って久万高原町や高知県方向に入っていった山深い山中の西条市丹原町明河の保井野集落の出身で、元々は多くの山林を所有して和紙の原料となるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのですが、若い頃に新居浜市に出てきて別子銅山に勤めていた人でした。母は新居浜市の生まれですが、祖父の生家に何度か訪れたことがあり、そこは深い山中にあるとは思えない古くて大きな家で、愛媛県の方が文化財調査にも来たことがあるような立派な古民家だったそうです(祖父はそこの長男です)。で、その丹原町明河の保井野集落の近くにあるのが赤滝城趾。この赤滝城は妹婿の黒川元春(長宗我部元春)に家督を譲った義兄の黒川通矩が入城したとされる城です。戦国時代末期の黒川通博の時代、赤滝城や鞍瀬大熊城といった愛媛県道153号落合久万線沿いの城の城主を務めたのが黒川氏の重臣(総大官)だった佐伯雄之。佐伯雄之は天正13年(1585年)の天正の陣で小早川隆景率いる四国討伐軍により剣山城が落城し、主君黒川氏による周敷郡支配が終わったことで帰農し、この明河周辺の集落の長(おさ)として、和紙の原料となるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのではないかと推定されます(江戸時代、小松藩は製紙業が盛んで、和紙は藩の財政を支える重要な産品だったようです)。もしそうであれば、このあたりで佐伯姓の家はさほど多くないので、母方の祖父の家系はおそらくその黒川氏の重臣の佐伯氏だったのではないか…と考えられます。
また、母方の祖母の旧姓は越智。生家のあった西条市丹原町志川は、まさに伊予武田氏が入った文台城のあったところです。その志川で祖母の生家は今でも屋号で呼ばれるくらいの大きな農家です。この丹原町志川周辺で越智姓の家はさほど多いとは思えないので、いつの時代かに越智郡からやって来た家だと思われます。私の想像では、おそらく伊予武田氏第6代の武田信繁が子の信戻・信明を連れて龍門山城のあった越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)から周敷郡志川の文台城に移ってきた時に、重臣の一人として従って移り住んできた家ではないか…と思われます。ちなみに、母方の祖母の姉は黒川家に嫁いでいます。
私の父方の祖父の家(すなわち私の本籍地)があるのは今治市朝倉の太ノ原。まさに伊予武田氏の居城の1つである重地呂城のあったところです。祖父は次男で父が生まれた家は分家でしたが(父は分家の四男)、祖父の兄が継承した越智本家は武田家菩提寺である無量寺の檀家総代を勤めるような旧家でした。そういうことから、先祖は重地呂城・龍門山城城主の伊予武田氏に使える有力な家臣の1人だったのではないか…と推察されます。また、父方の祖母の実家は今治市孫兵衛作(湯ノ浦温泉のあたり)の長井家。この長井家は孫兵衛作という地名の興りとなった新田開拓者の長野孫兵衛通永が、親交のあった周桑郡黒谷村(くろのたにむら:現在の西条市黒谷)の長井甚之丞の次男・又四郎実能を婿養子として迎え、旧姓の長井姓のまま自身が興した事業を継がせた家で、その長井家が代々孫兵衛作村の庄屋を務めてきました。長野孫兵衛通永は河野十八将の一人である幸門城(今治市玉川町龍岡)城主・正岡経政の旗本衆・長野通秀の三男に生まれた…と長野家の系図には書かれています(この長井家の家系が一番はっきりしています)。ちなみに、戦国時代末期に養子に入って黒川氏を継承した黒川通博はこの幸門城城主の正岡氏の出です。また、長井甚之丞のいた周桑郡黒谷村は伊予武田氏の居城であった龍門山城のすぐ南西の麓(現在の朝倉ダムを挟んだ対岸)に位置しています。(その2)でも書きましたが、龍門山城は鎌倉時代に伊予国守護・佐々木三郎盛綱の重臣であった長井斎藤景忠によって築かれたと言われています。その後も長井斎藤一族は龍門山城を守るかのように黒谷の地に暮らし、現在も黒谷の住人のほとんどが長井姓であるとも言われています。したがって、戦国時代、伊予武田氏が龍門山城の城主だった時、長井家も伊予武田氏の重臣だった可能性が極めて高いと思われます。
このように、伊予武田氏について興味を持って調べていくうちに、父方の祖父母と母方の祖父母という4つ家系が、伊予武田氏をキーワードとして朧げながらではありますが見えてきた感じがします。そしてそれぞれが伊予武田氏を軸に微妙に関係し合っている感じさえします。共通しているのは、私の祖先に繋がる父方母方双方の祖父母という4つの家系が、どれも天正13年(1585年)の天正の陣で小早川隆景率いる四国討伐軍により主家である河野氏、伊予武田氏、黒川氏、正岡氏が滅亡したことで刀を捨て、帰農して農家になった家だということ。これは伊予武田氏所縁の越智郡朝倉郷と周敷郡志川の両方に深い関係のある私でしか気づかなかったことで、おそらく私が伊予武田氏に興味を持った時点で、先祖が私に「オマエのDNAに刻まれているこの面白い関係性の謎を解いてみろ!」…と与えた謎解きの問題だったのかもしれません。この謎解きの途中で、越智郡や周桑郡をはじめとした郷里伊予国(愛媛県)の歴史をいろいろと調べてみたのですが、歴史の教科書や歴史小説等で決して語られることのないこうした郷土史の面白さにドンドンはまっていくのを感じます。なにより身近なことですので、リアル感がありますから。
いずれにせよ、戦国時代の荒波、というか激動の中でご先祖様がしぶとく生き延びていただいたおかげで今の私がいるわけで、ご先祖様には深く感謝しないといけません。
【12.さらにもう一つの伊予武田氏】
江戸時代以降も消息が分かっている伊予武田氏一族は、調べてみると実はほかにもいました。それが伊予武田氏第3代 武田信高の第3子・信光の子の信治。すなわち武田信重・信勝兄弟の父・信充の従弟にあたります。武田信治は河野通直直属の家臣として湯築城に詰めていたようなのですが、天正13年(1585年)8月に小早川隆景率いる四国討伐軍の攻撃を受けて、さしたる抵抗もせぬまま開城。河野氏滅亡に伴い、新たに讃岐国の領主となった仙石秀久のもとに身を寄せ、翌天正14年(1586年)の九州征伐には仙石軍の一員として参戦。豊後国戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫した後、高野山へ逃れたのですが、のちに許されて織田信雄に仕え、京都で亡くなったとされています。
その武田信治の嫡男が武田信重(徳丸・道安・法眼・法印)。この武田信重は同族の若狭武田氏出身の建仁寺永雄長老(英甫永雄)に学び、医を業いとして京都に住み、紀伊和歌山藩初代藩主である浅野幸長に仕えたとされています。元和9年(1623年)、後水尾天皇を診察し、法眼(医師の位)に就き、寛永8年(1631年)には江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠を、翌寛永9年(1632年)には第3代将軍の徳川家光を診察したとされています。寛永21年(1644年)、紀州藩主徳川頼宣(徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖)の病気を治し、法印(医師の最高位)に叙せられ、尾張藩主徳川義直(徳川家康の九男で、尾張徳川家の祖)にも投薬を施したとされています。この武田信重の弟の武田信勝(龍門山城最後の城主・信勝とは別人です)
【13.安芸武田氏と若狭武田氏の終焉】
最後に、安芸武田氏と若狭武田氏のその後についても軽く触れておきます。
応仁の乱の最中の文明3年(1471年)6月に若狭武田氏の当主であった武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家は2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は同じく武田信賢の弟で武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになった…ということは(その1)で書かせていただきました。
安芸武田氏と西軍の主力である周防国・長門国・豊前国の守護・大内氏とはもともと対立関係にあり、応仁の乱でも若狭武田氏・安芸武田氏は東軍方について参戦したのですが、武田元綱は大内氏の圧力に屈し西軍に転じました。その後、若狭武田氏と和解し、安芸分郡の経営を守護代として任されたものの、分郡守護職は兄の武田国信が掌握することになりました。応仁の乱に関しても武田元綱も若狭武田氏と同じく東軍に味方し、再び大内氏と敵対することになったのですが、武田元綱の子の武田元繁が、足利義材を奉じた永正5年(1508年)の大内義興の上洛に際してこれに属したことで、第11代将軍足利義澄方であった若狭武田氏と再度決別することになりました。しかし、永正12年(1515年)、大内義興が武田元繁を帰国させると、武田元繁は出雲国守護代の尼子氏らと組んで大内氏に対抗するようになりました。
その抗争の中で安芸武田氏は徐々に衰退していき、そして安芸武田氏第9代・武田信実の時代の天文10年(1541年)に、大内氏の命を受けた毛利元就によって200年以上も安芸武田氏の居城として守り通してきた佐東銀山城は落城し、安芸武田氏も滅亡しました。ちなみに、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、安芸武田氏最後の当主である武田信実の従兄弟である武田信重の子にあたるとされ、安芸武田氏の中で唯一後世に名を残した人物です。
次に若狭武田氏についてです。文明3年(1471年)6月に若狭武田氏の当主を継承した武田国信は若狭国、丹後国加佐郡を中心に領国経営を行う一方で、室町幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵していたようです。武田国信の子・武田元信と孫・武田元光の代に若狭武田氏は最盛期を迎えます。武田元光は大永2年(1522年)、小浜に後瀬山城を築き、大永7年(1527年)には管領・細川高国に頼られ室町幕府第12代将軍・足利義晴を奉じて上洛もしたのですが、細川晴元方の三好氏と波多野氏に敗北しています。その敗戦後、他の守護大名と同様、周辺諸国からの圧力や有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を急速に弱めていくことになりました。
武田元光の孫・武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行。武田義統の死去に伴い子の武田元明が家督を継いだ永禄11年(1568年)には、越前国の戦国大名・朝倉義景の若狭侵攻によって120年間守護職を続けた領国を失ってしまいました。武田元明は、朝倉氏によって身柄を保護され、朝倉氏の居城・一乗谷城での居住を強いられていたのですが、天正元年(1573年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国しました。とは言え、織田信長より若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、武田元明は大飯郡南部の石山3,000石のみの領有を許されただけでした。天正10年(1582年)の6月に起きた本能寺の変では、旧領回復を狙って丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させ、織田信長を討った明智光秀に加担したのですが、山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、ここに若狭武田氏は滅亡しました。
このように天文10年(1541年)に安芸武田氏が、そして天正10年(1582年)には3月に甲斐武田氏が、6月に若狭武田氏が、そして12月に伊予武田氏が相次いで滅亡し、武門の名門としての武田氏各家は完全に歴史の表舞台から姿を消しました。
【14.あとがき】
ここまで5回にわたり、伊予武田氏を中心に今治市南部の朝倉や西条市西部の旧周桑郡地域の戦国時代の国人衆と呼ばれる地方の弱小豪族達の歴史について、書かせていただきました。決して歴史の教科書や歴史小説、映画やTVドラマ等で取り上げられることのない地方の弱小豪族達の歴史ですが、調べてみるとメチャメチャ面白いです。記録が断片的にしか残っていないので、背景となる伊予国、さらには全国的な社会情勢や動向、領地や居城とした城郭の地政学的分析、近隣の国人衆とのパワーバランス、繰り広げられた戦闘の記録等と組み合わせながら独自の解釈で読み解くしかないのですが、その過程で当主を中心に一族の生き残りを賭けた様々な人間ドラマが見えてくる感じです。それも、歴史小説等で描かれる天下の覇権を狙うような壮大なドラマというわけではなく、大きな時代の流れの中で揉みくちゃに翻弄されながらも、あくまでも一族と領民の生き残りだけを賭けた生活感溢れる家族の物語と言ったほうがいいかもしれません。私も社員数100人にも満たない気象情報会社の経営を15年間務めさせていただきましたが、その経験から読み解ける部分もあり、中小企業の経営にも似ています。加えて、私自身の郷里で400年〜500年前に実際に繰り広げられたであろうドラマだけに、非常に親近感が湧き、現地に出掛けてそこからの風景を眺めていると、当時の様子が頭の中に鮮明に浮かんでくる感じです。皆さんもご自身の郷里を戦国時代に治めていた国人衆にフォーカスして、郷里の歴史を紐解いてみられたらいかがでしょう。謎解きのようでメチャメチャ面白く、すぐにハマってしまうと思います。
歴史には諸説あります。私が今回書かせていただいたのは、私がこれまで調べたことをベースとして立てた一つの仮説や推論に過ぎません。さらに調査を進めることで新たな情報が加わると、その仮説や推論はすぐに変わっていくと思っています。また、私のほかにもこのあたりの郷土史を調べておられる方もいっぱいいらっしゃると思いますので、そういう方々とも意見交換をさせていただきながら、過去の真実に少しでも近づきたいと思っています。400年以上も前のことなので、真実がどうであったのかは、残念ながら誰にも分かりません。
……「伊予武田氏ってご存知ですか?」完結