公開日2024/02/07
[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回 長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました
2014年10月2日に「第1回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて9年と5カ月。毎月E4に連載させていただいた私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』も、今回の第113回を持ちまして最終回とさせていただきます。
コラムの連載をさせていただいたきっかけは、私が愛媛県経済労働部様からのご依頼で、松山市でITソリューションビジネスに関する講演をさせていただいたこと。その講演を取材に来られた愛媛新聞の記者さんが、当時立ち上がったばかりの会員制経済サイトE4の担当もされておられて、取材後に「E4にコラムの連載をお願いできませんか」とのご依頼をいただいたのが最初でした。その記者さんは私が何者であるのかを事前に知るために、当時私が代表取締役社長を務めていた気象情報会社の公式ホームページに掲載していた社長ブログ『おちゃめ日記』をお読みになっておられての依頼でした。連載を開始した当初は、「まぁ、1年も続ければいいかな」くらいの極々軽~い気持ちでいたのですが、それが9年5カ月、113回も連載が続くことになろうとは…、当の私が一番ビックリしています。私のコラムは1回あたりの文字数が多いので、これまで少なくとも150万字は書いてきたのではないか…と、思っています。それもこれも、長くお付き合いいただいた読者の皆さまのおかげです。本当にありがとうございました。
初回の「はじめまして、覚醒愛媛県人です」には、次のような一文を書かせていただいています。「“覚醒愛媛県人”にとって、改めて故郷愛媛を外からの目線でじっくりと眺めてみると、ここはなんて魅力的なところなんだろう…と思えてきます。気候は温暖で住みやすいし、景色も海・山と変化に富んでいて実に美しい。古くからの歴史が眠り、大好きな温泉は幾つもあって、食べ物も海の幸・山の幸が実に豊富。第一次産業が中心の南予、第二次産業が中心の東予、第三次産業が中心の中予と経済的にもバランスよくメリハリが利いていて、実に魅力的で、将来西日本の中核地域となれる可能性も十分に秘めていると思っています。そんな私にとって誇れる故郷・愛媛県を元気にするため、少しでもお役に立てれば…との思いで、これからコラムを連載させていただきます。」
この思い、コンセプトは、連載を続けさせていただいた9年5カ月の間、1ミリもブレることなく続けさせていただいたつもりです。私は15年間務めさせていただいた気象情報会社の代表取締役社長を6年前に退任し、ご縁があって郷里愛媛県内の6つの大学で教壇に立たせていただくことになり、現在は自宅のある埼玉県さいたま市と実家のある愛媛県松山市の間を毎月のように行ったり来たりする、二拠点生活を送っています。今は愛媛にいる時間が長くなったこともあって、取材と称して愛媛県内の各地を訪ねることを趣味のようにしています。そうすると、それまで知らなかった愛媛の魅力が次から次へと出てきて、楽しくて仕方なくなってきました。その魅力を地元に住む友人や知人に話してみても、知らない人があまりにも多くて、今度はそのことに驚きました。これが“外からの目線による発見”ということなのでしょうね。ならば…ということで書き始めたのが、一連の「鉄分(塩分)補給シリーズ」や「伊予八藩紀行」です。「鉄分(塩分)補給シリーズ」にしても「伊予八藩紀行」にしてもまだまだ取り上げたいところはいっぱい残っているのですが、続きは私の個人ブログ「新・おちゃめ日記」のほうに書いて、発信を続けていきたいと思っています。それくらい、郷里愛媛県は魅力的で面白いところです。
今治市朝倉支所さんからも我が家の菩提寺である龍門山無量寺経由で依頼があり、現在、今治市朝倉で始まっている第37代 斉明天皇にまつわる数々の伝承をもとにした「町おこしプロジェクト」に、アドバイザーとして参加させていただいています。これも第9回(2015年6月4日、5日)に書いた「私の本籍地、今治市朝倉の謎(@_@)」と、第10回(2015年7月2日〜4日)に書いた「熟田津に舟乗りせむと月待てば…」を過去に読んでいただいていた今治市役所の方が、ありがたいことに思い出してくれたのがきっかけでした。
また、第86回(2021年11月4日)〜第93回(2022年6月2日)に長期連載した「武田勝頼は落ち延びていた!?」では、遠く山梨県大月市の小山田信茂公顕彰会の方からご連絡をいただき、お会いして熱い意見交換をさせていただきました。この長編では、あの戦国時代最強とも言われた甲斐武田氏と伊予国との意外な関係を発見して、書いています。一般的には、小山田信茂は最後の最後に甲斐武田家に離反・反逆し、武田勝頼を天目山の戦い(山梨県)で自刃に追い込んだ最悪の裏切り者ということになっていますが、私は小山田信茂が実は甲斐武田家再興のため、主君・武田勝頼を伊予国に向けて逃がした忠臣であると推察しました(残念ながら、武田勝頼は伊予国に辿=たど=り着くことはできませんでしたが…)。それで小山田信茂公顕彰会様からご連絡をいただいたわけです。私の中では、この「武田勝頼は落ち延びていた!?」は『晴れ時々ちょっと横道』の最高傑作だ…と思っています。
さらに、第108回(2023年9月6日、7日)と第109回(2023年10月4日、5日)に書かせていただいた「四国遍路を世界遺産に」に関しては、四国遍路世界遺産登録推進協議会の佐伯勇人会長(四国経済連合会会長、四国電力会長)から直々のご連絡をいただき、すぐにお会いして、四国遍路の世界遺産登録に向けての意見交換をさせていただきました。このようなことから、四国遍路の世界遺産登録にも、今後、もしかしたら関係させていただくことになるかもしれません。
これらはいずれも地形や地質、気象といった自然環境の側面から歴史の謎を紐解(ひもと)いていこうという私独自の「理系の歴史学」とも呼べるアプローチによるものなのですが、これもコラム『晴れ時々ちょっと横道』の執筆の中で編み出したものです。その最初が、前述の第9回「私の本籍地、今治市朝倉の謎(@_@)」でした。これまで誰もこのアプローチで歴史の謎に迫った人はいなかったようで、書いた私の想像以上にインパクトがあったようです。まぁ、地形や地質、気象といった自然環境は誰も疑いようのない“真実”ですので、説得力、というか、腑(ふ)に落ちる感があるのでしょうね。それでいろいろなところから次々とお声がかかるようです。これもコラム『晴れ時々ちょっと横道』の副産物だと思い、こういう素晴らしい“場”をご提供いただいた愛媛新聞社様には、心より感謝いたしております。
松山東雲女子大学・同短期大学共通カリキュラムの特別講義で、「ジモト学」を講義中の私。これは久米官衙遺跡について説明しているところです。久米官衙は7世紀末に忽然と姿を消した当時国内最大級規模の巨大な官衙(役所)。松山市に眠る古代史の謎です。 |
今から約5,000年前の縄文海進時の、松山市周辺の推定される地形を解説中。青く色を付けているところは海でした。また、高縄山は火山でした。国土地理院が提供している地図データを用いて、グラデーションと陰影を付けることで、綺麗な円形のカルデラが確認できます。 |
約50名の学生さんに交じって聴いていただいた松山東雲女子大学の教授からは、「膨大なデジタルデータをもとにした内容は、今までの“平面”的な考え方とは異なる“立体”的なものの見方と、“なぜ?”を追求する姿勢を、お教えいただいたように思います。愛媛県で見られる石の色の違いから始まって、自然環境と地球の変化、さらにはそれが地元の歴史と文化にどのように影響を与えたのか…等々、文理融合型のダイナミックな教え、極めて刺激的でした。目からウロコが何枚も落ちました。ありがとうございました」という感想をいただいています。1月1日に北陸の能登半島で大きな地震が発生し、甚大な被害が出たばかりなので、中央構造線をはじめ愛媛県内を東西に走る断層帯の話や、過去に愛媛県内で発生した大きな地震の話には、受講した学生さんは皆一様に食い入るような目で真剣に話を聞いていただきました。また、愛媛県で雪が降るメカニズムについても少し話をさせていただいたのですが、タイムリーなことに講義の2日後の1月24日に雪が降り、中予から東予にかけての山間部と、南予の平野部などで積雪になったので、皆さん、私が説明した愛媛県で雪が降るメカニズムのことが、少しは腑に落ちたのではないでしょうか。この「ジモト学」ですが、受講していただいた学生さんからの反応が予想以上に良く、地域防災を考えるうえでも大いに役立つという感想もいただいていることもあり、今後、県内の他の大学への展開や、市民向けの講演会などへの展開を計画していきたいと思っております。
今回でコラム『晴れ時々ちょっと横道』は終了させていただきますが、私が『晴れ時々ちょっと横道』に込めた思いやコンセプトは、「ジモト学」の講義・講演や私の個人ブログ「新・おちゃめ日記」で、引き続き発信を続けていきたいと思っています。またどこかでお目にかかる機会もあろうかと思います。その際には、よろしくお願いいたします。
これまで長い間、本当にありがとうございました。皆様の今後ますますのご発展を、心よりお祈りいたしております。
【追記】
この9年5カ月で、“覚醒愛媛県人”も“ガチ愛媛県人”に成長できたかな?(笑)
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