公開予定日2023/09/09
[晴れ時々ちょっと横道]第108回 四国遍路を世界遺産に(その3)
四国遍路は、キリスト教やイスラム教の巡礼、さらには熊野古道にみられるような最終目的地を目指す「往復型」の巡礼路と異なり、四国一円に展開する「回遊型」の長距離巡礼路であるという特徴も無視できません。すなわち、明確に“聖地”と呼べるある特定の場所を目指している道ではなくて、歩いて巡礼する四国全体が“修行の場”、“聖地(霊場)”であるという解釈もできようかと思います。ならば、この他に例をほとんど見ない『回遊型長距離巡礼路』という角度からアピールするアプローチが、世界遺産登録に向けての近道のような気がします。
【四国の地形の特徴】
四国の地形です。地形図を3D加工して少し斜め上から眺めてみると、四国のいろいろなことが見えてくる感じです。国土地理院が公開している「電子国土Web」の地図を加工してみました。 |
この四国の地形ですが、これは四国という島の成り立ちと大きく関係しています。産業技術総合研究所(産総研)が、国内の地質情報をWebで閲覧できるサイト「地質図Navi」を公開しています。それを見ると、四国を東西に横切る4本の並行する大きな断層帯の間の地質がまったく異なる性質を持ったものであるということが分かります。並行する4本の大きな断層帯のうち、中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた地質帯を三波川変成帯と呼び、 御荷鉾構造線と仏像構造線に挟まれた地質帯を秩父帯、仏像構造線の南側の地質帯を四万十帯と呼びます。この四万十帯はその付加体の形成時期から北側の白亜紀付加コンプレックスと、南側の古第三紀付加コンプレックスとに分かれ、その境界に安芸宿毛構造線という大規模な断層帯(構造線)が走っています。また中央構造線の北側の地質帯を領家変成帯と呼びます。
(注:地殻変動の原因になる大きな力の向きや大きさが変わると、断層のずれ方も変わります。そのため、中央構造線をはじめとした断層帯(構造線)は、何回もずれ方を変えてきました。したがって、“地質境界”としての構造線と、“活断層”としての構造線は必ずしも一致しません。)
四国の地質図です。産業技術総合研究所(産総研)が公開している「地質図Navi」の図を加工しました。 |
地球の表面は10数枚の“プレート”と呼ばれる、固い岩盤(地殻)で覆われています。それらが動くことで、その上にある大陸も動き続けてきました(これを“プレートテクトニクス”と言います)。日本列島周辺は陸地を形成する大陸プレートであるユーラシアプレートと北アメリカプレート、海底を形成する海洋プレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートという4枚のプレートの上にあり、四国はユーラシアプレートと呼ばれる大陸プレートの上にあります。このユーラシアプレートの端に「南海トラフ」という深い海溝があり、その南海トラフにおいて陸側の大陸プレートであるユーラシアプレートの下に海側の海洋プレートであるフィリピン海プレートが沈み込んでいます。この時、「付加体」と言って海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の砂や泥といった堆積物が剥ぎ取られ、陸側プレートの中に付加していきます。そして、異なる生成時期や性質を持つ堆積物から成る付加体が1億年を超える長い時間の経過の中で地球の表面を覆うプレートが動くプレートテクトニクスによる強大な力によって圧縮され、上昇して、互いに接するようになります。その接している部分が断層帯(構造線)を形成しているというわけです。日本列島の多くの部分はこの付加体によって形成されたものであると地質学者の間では言われていますが、その付加体が最も顕著に現れているところが四国というわけなんです。三波川変成帯や秩父帯、四万十帯といった地質帯はその付加体が地表面まで露呈したもののことで、それぞれ形成された時代と形成された過程が異なるので、同じ四国と言ってもまったく異なる地質なんです。
プレートテクトニクス(気象庁HP 地震発生のしくみより) |
日本付近のプレートの模式図(気象庁HP 地震発生のしくみより) |
日本列島は海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むことによって成長してきた生い立ちを持っており、そのため、過去から現在まで、幾つもの時代の付加体が集積し、その一部が再配置されたつくりになっています。日本列島の基盤は一般に大陸側ほど古く、太平洋側ほど新しい構造となっています。そこに地中深くのマグマの活動があり、さまざまな時代の火成岩が残されています。また、特に堆積岩・変成岩では、ある程度まとまった時代に形成された岩石が帯状に連続して分布する特徴があります。それぞれの境界は断層で接することが多く、その一部は断層帯(構造線)と呼ばれています。そんな日本列島の中でも、四国はすぐ南側に南海トラフと呼ばれるフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む海溝があることから、中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの構造線が東西にほぼ平行に走り、北から領家変成帯、三波川変成帯、秩父帯、四万十帯という異なる時代の付加体により形成された地質帯が縞状に存在するという極めて特徴的な地質構造を持っており、それが四国の素晴らしい景観を形作ってきました。それもさほど大きくない島の中で。こういう特徴を持ったところは日本列島に他にはなく、おそらく世界中探してもほとんどないのではないか…と思われます。
日本列島の構造区分。産業技術総合研究所(産総研)地質調査総合センターHPより |
四国の真ん中を東西に走る御荷鉾構造線と仏像構造線の間の高地に分布する秩父帯は四国で最も古い地質帯で、古生代の石炭紀(約3億6千万年前〜3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年前~1億5千万年前頃)にかけて形成されたものです。秩父帯は古生代の岩石が中心ですが、地質構造は非常に複雑であり、珪岩(けいがん:チャートや珪質砂岩が熱による変成を受けた変成岩)や砂岩のほか、石灰岩やチャート、蛇紋岩、頁岩(けつがん:水中で水平に堆積したものが脱水・固結してできた岩石。シェールとも言います)など種々の岩石からなっています。秩父帯の代表的な岩石は石灰岩とチャートです。石灰岩もチャートも炭酸カルシウムを主成分とする堆積岩の一種で、主として方解石からなり、一般的に細粒・塊状の岩石で、化石をよく含んでいます。石灰岩とチャートの違いは、石灰岩はサンゴの死骸が固まってできたもの、チャートはホウサンチュウの死骸が固まってできたものです。色は白色または灰色がほとんどですが、含まれる不純物によって黄色、赤褐色、暗灰色などもあります。愛媛県と高知県の県境付近に広がる四国カルスト高原の石灰岩は温かい南の海で形成され、フィリピン海プレートの移動により日本列島まで運ばれてきたもので、1,500メートル近い高地からサンゴや石灰藻などの化石が出てくるのはそのためです。
愛媛県と高知県の県境に沿った標高約1,000~1,400メートルの山地の尾根づたいに東西約25kmにわたって断続的に広がる石灰岩の台地、「四国カルスト高原」です。 |
西予市宇和町と宇和島市吉田町の境にある旧宇和島街道の法華津(ほけつ)峠です。高森山(635メートル)の中腹にある標高436メートルの峠で、足摺宇和海国立公園に指定されています。眼下には、段々畑と紺碧の宇和海が織りなす雄大なパノラマが広がります。ここの地質は秩父帯で、法華津峠の南側には仏像構造線の露出部があります。石碑の下の岩はチャートでしょうか。 |
仏像構造線の南側にある四万十帯は中生代の白亜紀(約1億5千万年前〜約6,500万年前)と新生代の古第三紀(約6,500万年前〜約2,300万年前)にかけて形成された比較的新しい地質帯です。四万十帯は主として堆積岩である砂岩、泥岩、チャート、深成岩である玄武岩、斑糲(れい)岩などが複雑に重なり合った地層からなり、各所に海底地すべりの痕跡を残す地層や変成作用を受けた地層が挟み込まれているという特徴があります。前述のように、付加体の形成時期の違いから北側の白亜紀付加コンプレックスと、南側の古第三紀付加コンプレックスとに分かれ、それぞれに含まれる岩石の割合が違っています。
中央構造線の北側にある領家変成帯は三波川変成帯と同じく中生代のジュラ紀(約2億年前〜約1億5千万年前)から白亜紀(約1億5千万年前〜約6,500万年前)にかけて形成された地質帯ですが、三波川変成帯が海洋プレートの沈み込みによる低温高圧の条件で変成を受けた変成岩主体の地層であるのに対して、領家変成帯はもともとジュラ紀の付加体があったところに、白亜紀に大量のマグマが上昇し、付加体が引きずり込まれた深度が10km~15kmと比較的浅いわりに高い温度で変成作用を受けたことで、高温低圧型の変成岩になっていることが特徴です。領家変成帯の代表的な岩石は白っぽい部分と黒っぽい部分が縞々になった片麻(へんま)岩で、砂岩や泥岩が高温低圧型の広域変成を受けたものです。黒雲母(くろうんも)片岩や黒雲母片麻岩など、黒雲母が多量に含まれており、光が当たるとキラキラと金色に光る特徴があります。また領家変成帯の北側の瀬戸内海沿岸に桃色で示された地質帯がありますが、ここは新期領家(花崗岩)帯と呼ばれ、後期白亜紀(約1億年前~約6,500万年前)にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩が主体の地質帯で、活発な火山活動があった跡です。新規領家(花崗岩)帯の名称のとおり、新規領家(花崗岩)帯を代表する岩石である花崗岩は石英と長石とを主成分とする比較的粒の粗い岩石で、少量の黒雲母や角閃石を含みます。そのために白や淡灰あるいは淡紅の基質に、黒の斑点が散在して見えるという特徴があります。このように、この領家変成帯と新期領家(花崗岩)帯の境界付近ではマグマの働きが大きいことから、愛媛県の道後温泉や奥道後温泉、鷹ノ子温泉(いずれも松山市)や鈍川温泉、湯ノ浦温泉(どちらも今治市)、香川県の塩江温泉(高松市)といった温泉が古くから湧きだしています。このように四国を形成する各断層帯(構造線)の間の地質(岩質)はまるで異なっていて、その気になって眺めてみると、違いはすぐに分かります。
この地質図Naviの画像と国土地理院の地図を3D加工した四国の地形図を見ると、四国という島は様々な時代の地層が中央構造線や御荷鉾構造線、仏像構造線といった断層帯(構造線)の断層活動によって長い年月をかけて折り重なるように形成されたものであるということがよく分かります。このようにして形成された四国の地形は非常に変化に富んだものであり、その地形の中で川が流れ、植生が生まれました。そのため、少し場所を変えただけで様々な表情の景色を見せてくれますし、その景色は四季折々変わります。また、人々の生活にも大きく影響を与え、石積みなど石の文化が生まれたり、土壌と気象の違いから地域ごとに異なる多様な農耕文化が作り出されてきたわけです。言ってみれば四国という島全体が地球科学的な価値を持つ自然遺産、すなわち巨大な“ジオパーク”と言えようかと思います。ちなみに、愛媛県西部の西予市は市のほぼ全域が御荷鉾構造線と仏像構造線に挟まれた秩父帯に位置しており、市の全域が平成25年(2013年)に「四国西予ジオパーク」に認定されています。前述のように、秩父帯は日本列島で見られる最も古い地質帯の1つで、古生代の石炭紀(約3億6千万年前〜3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年前~1億5千万年前頃)にかけて形成されたもので、世界に誇れるほどのとても貴重な自然遺産です。石炭紀に形成された縦縞の地層が観察され、奇岩が立ち並ぶ須崎海岸や、四国カルスト高原の一部である大野ヶ原が有名で、地質の研究者や専門家が数多く訪れています。秩父帯が主体のこの西予市だけでなく、その気になって眺めてみると、四国は異なる時代に形成された地層が露呈しているところが幾つもあり、全島でジオパークと呼んでもいいくらいのところだと私は思っています。
私は15年間気象情報会社の代表取締役社長を務めさせていただいた経験から、「世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象”」という考え方を持っていて、訪れた地方の景色や歴史、文化等をその“地形”と“気象”の観点から分析することを趣味にしているようなところがあります。そういう私の観点から眺めた時、郷里である四国はメチャメチャ面白く魅力的なところであるということに気づきました。こんなにも変化に富んだ魅力的な風景や特色が狭い島の中にギュッと凝縮されているようなところ、私は国内で、いや、世界中で他には知りません。で、この四国という島の地形と地質の特徴に最初に気づいたのが役小角(えんのおづぬ:役行者(えんのぎょうじゃ)とも)をはじめとした山岳信仰の行者や修行者の人達だったのではないでしょうか。
【四国遍路の信仰起源…山岳信仰と海洋信仰】
(その1)で四国遍路の開祖は衛門三郎…という話を書かせていただきましたが、これはあくまでも後世の人が生み出した伝承に過ぎず、四国遍路や弘法大師の研究で知られる宮崎忍勝さんが著書『四国遍路 歴史とこころ』の中で「四国遍路の信仰起源には、山岳信仰と海洋信仰があるといってよい」と指摘しているように、山岳信仰と海洋信仰が四国遍路の信仰起源に何らかの関わりがあった…と私も思っています。
四国八十八ヶ所の霊場を巡る巡礼を「遍路」と言うようになったのは中世末から江戸時代初めのことで、それ以前は「辺路(へじ)」と呼ばれていたようです。この「辺路(へじ)」とは、「辺地(へち)」のことであり、陸路の「縁(ふち)」すなわち海岸線を意味するものと思われるのだそうです。12世紀に書かれた『今昔(こんじゃく)物語集』や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』でも「四国辺路」文字が出てくるのだそうです。この時の四国辺路とは四国の海沿いの路(みち)を指していたようで、今昔物語集には四国の「海辺ノ廻(めぐり)」の修行のことが書かれているのだそうです。この海洋信仰について、宮崎忍勝さんは著書『四国遍路 歴史とこころ』の中で、「祖神を祭るいくつかの神社が海のほとりに立てられていることでもわかるように、遥(はる)か水平線の彼方に、我々日本民族の妣(ひ:母の意味)なる国、そこから来てまた帰ってゆく、憧れの常世(とこよ)の国、根の国があり、海岸の洞窟は山岳の洞窟と同じく、根の国への入口とされ、あるいは妣なる胎内そのものと考えられてきた。これが中世の補陀落(ふだらく)渡海の信仰へと繋がってゆくのである」と述べておられます。この海洋信仰を始めたのは、死者を水葬で見送ったとされる“海の民”であり、水葬などの死者儀礼を行う時や、海の民が「龍神」に海上安全や大漁を祈願する際の指南役であった“行者”と呼ばれる人達ではなかったかと思われます。そんな行者と呼ばれる人達が、自らを拓き、日々修行の道として往来した「海沿いの行者路」のことを「辺路(へじ)」、彼ら行者自身のことを「辺路(へんろ)」と呼ぶようになったという解釈です。
宮崎忍勝著『四国遍路 歴史とこころ』(1985年、朱鷺書房) |
いっぽうの山岳信仰に関しては、民俗学者の谷口廣之さんが「山岳崇拝はかつて日本人が抱いた特有の観念であった。春になると山の神が降り来たって田の神となり、収穫を終えると再び山へ帰って行く。山は神霊のいますところであり、また死霊の行くところでもあった」とその著書『伝承の碑』に書かれておられるように、古来、農耕、特に稲作を生活の基本に据えた日本人の暮らしの中に深くしっかりと根づいた信仰であったと考えられています。山を宗教的な場所として崇拝し、そこを巡る行為は、既に奈良時代以前から始まっていたと言われています。縄文時代に山で暮らす人々が、狩猟の成果と、日々の安全を山神に祈ったであろう行為を想像するならば、山を崇拝する自然宗教は、既に原始の時代から始まっていたとも考えられています。
その中からやがて修験道の開祖とされる役小角によって、険しい山岳に篭って苦修練行(くしゅうれんぎょう)して、特異な霊験を得ることを目的とする修験道が生まれたとされ、奈良時代には、役小角を修験道の祖と仰いだ僧侶などが高い山々に入って修行することが大流行しました。四国における山岳信仰の代表的な霊山としては、古くから多くの人々の信仰を集めてきた石鎚山があります。この石鎚山も古くは俗人の登山を許さず、ただ修行の者のみがそこに登り、そこに住むことが許された神聖な山でした。役小角(役行者)も石鎚山に篭って修行をしたと伝えられていて、その役小角が修行した場所というのが星ヶ森、そして星ヶ森の近くに創建した寺院が第60番札所の石鎚山横峰寺とされています。若き日の弘法大師が著わしたとされる出家宣言書(自伝)『三教指帰(さんごうしいき)』には、「阿国大瀧嶽(あこくたいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州室戸崎(としゅうむろとのさき)に勤念(ごんねん)す。谷響(たにひびき)を惜しまず、明星來影(みょうじょうらいえい)す。…(中略)… 或るときは金巖(きんがん)に登って雪に遇うて坎壈(かんらん)たり。或時(あるとき)は石峯(せきほう)に跨(また)がって粮(かて)を絶つて轗軻(かんか)たり」(原典漢文)…とあり、弘法大師も四国の地で海岸沿いの道を往く辺地修行とともに山岳修行を行っていたことが推測される一文が書かれています。その弘法大師の『三教指帰』の一文の「或時は石峯(石鎚山)に跨って粮を絶ち(断食し) 轗軻(苦行練行)たり」とは、この石鎚山の山中(星ヶ森、横峰寺)で修行した時の様子を記したものです。
空海著『三教指帰』(加藤純隆・加藤精一訳)ビギナーズ日本の思想(2007年、角川ソフィア文庫) |
この弘法大師をはじめ四国における山岳信仰の修行者達は、修行の過程で、ある重大なことに気がついたのではないか…と私は思っています。それは「四国には霊的なパワースポットが幾つもある」ってことです。そのパワースポットというのは四国を東西に横切るように延びる中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの主要な断層帯(構造線)のことだったのではないでしょうか。
前述のように、地球の表面は10数枚のプレート(地殻)と呼ばれる岩盤で覆われています。それらのプレートは地球の誕生以来、何億年、何十億年と動いて、大陸移動や隆起、沈降、火山活動、地震などのあらゆる地質現象(地象)を引き起こしてきました。これが「プレートテクトニクス」という働きです。規模の大きな地震の震源地は、プレートとプレートの境界に集中しています。中でも太平洋を取り巻く地域は「環太平洋地震帯」と呼ばれ、世界有数の地震多発地帯として広く知られています。特に、日本列島周辺には地球の表面を覆う10数枚のプレートのうち、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという4枚のプレートの接合面があり、世界最大の地震国と呼ばれています。日本列島の総面積は、地球表面のわずか1,400分の1に過ぎないのですが、有感/無感を合わせた地震の総数は、世界で起こる地震の10パーセントにも及んでいます。これは、日本列島の周辺で4枚ものプレートが力と力でせめぎ合っているためで、そのプレート間の力のせめぎ合いによりプレート境界地震、断層型地震、火山性地震など、様々なタイプの地震を多発させているためです。
「天災は忘れたころにやってくる」という有名な言葉は、関東大震災の災厄を見た高知県出身の地球物理学者・寺田寅彦先生の言葉です。その寺田寅彦先生が書かれた『寺田寅彦随筆集』の中に「神話と地球物理学」という一文があり、そこで寺田寅彦先生は日本神話や伝説は日本の自然現象を象徴的に描写している…と述べておられます。たとえば、気性の烈しい素戔嗚命(すさのをのみこと)の神話には火山現象を彷彿とさせるものが多く、八岐大蛇(やまたのおろち)の神話も火口から流れだす溶岩流を連想させると書かれています。また、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天岩戸(あまのいわと)にお隠れになって天地が真っ暗になったという神話のくだりは、おそらく火山の噴煙や降灰による天地晦冥(てんちかいめい)の状態のことだろうと説明をなさっています。「世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象”」という考え方を持ち、その“地形”と“気象”から歴史を論理的に読み解こうという「理系の歴史学」を提唱している私は、この寺田寅彦先生の解釈に100%賛同しています。
「プレートテクトニクス」などという地球物理学的な理論が確立されていなかった古代、地震をもたらす原因は地底に潜む超巨大な龍だと考えられていました (巨大なナマズという伝承もあります)。その超巨大な龍が地面の割れ目から這い出し、大暴れすることで起きる事象が地震だと。その地面の割れ目というのが断層帯(構造線)という解釈です。その断層帯の中で、日本列島で最も規模が大きい断層帯が中央構造線です。実際、この中央構造線沿いには神話発祥の地といわれる九州の幣立神宮(へいたてじんぐう:熊本県山都町)、四国を代表する山岳信仰の霊山である石鎚山、弘法大師が開創した高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)、日本国民の総氏神とされる伊勢神宮(三重県伊勢市)、年間500万人が参拝する豊川稲荷(愛知県豊川町)、御柱祭で有名な信濃国一之宮の諏訪大社上社(長野県諏訪市)、東国三社の一社で下野国一之宮の香取神宮(千葉県香取市)、同じく東国三社の一社で常陸国一之宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)など名だたる神社仏閣が、九州から関東にかけて中央構造線をなぞるように並んでいます。そして、それらの神社の幾つかには“要石”と呼ばれる大きな石が置かれ、地震をもたらす原因と考えられた地底に潜む超巨大な龍の頭部と尾部をその要石で押さえて地震の鎮静を祈っています。このあたり、2022年に公開されて大ヒットした新海誠監督のアニメーション映画『すずめの戸締り』のモチーフになっています。この『すずめの戸締り』は日本各地の廃墟に点在する災いの出口である“扉”を閉じていく少女の物語でしたが、その映画の中でも災いは龍の姿をした巨大地震で、扉を閉じる鍵は要石でした。その『すずめの戸締り』のストーリーの前半部分の主要な舞台となったところが愛媛県。そして最初に閉じた災いの出口である“扉”は確か西条市にありました。まさに中央構造線ですね。
前述のように、四国にはその中央構造線だけでなく、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸宿毛構造線という4つの主要な断層帯(構造線)が東西に並行して走っています。まさに、四国は圧倒的破壊力を持つ地球の巨大なパワー(エネルギー)が漏れ出す地面の裂け目、パワースポットの集合体のようなところであると言えますね。しかも断層帯であるということは、斜面が通常の山と比べて急で、しかも断層付近は両側の岩盤から猛烈な力がかかっているので著しく破砕された箇所もあり、山肌は脆くなっていて、豪雨時には地すべり等の地盤災害が発生しやすいところでもありますしね。すなわち自然災害多発地域だと言うことです。おそらく、四国の高い山々の山中に入った山岳信仰の修行者達はそれらのことに気がついたのではないでしょうか。専門的な科学的知識がなくとも、足元の地盤(土壌)や岩盤(岩石)の不連続な違いから、そこに何らかの大地の裂目(地質の境界)があるということは、明確に分かったでしょうからね。
……(その4)に続きます。
『四国遍路を世界遺産に(その4)』
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