2019年5月31日金曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その3)

これは極めて分かりやすい枡形です。旧街道では道がクランク(鉤状)になった枡形によく出くわします。この枡形のあたりが甲府柳町宿の江戸方(東の出入口)でした。
甲府は戦国時代の永正16(1519)に当時の甲斐守護職である武田信虎が躑躅ヶ崎館(武田氏館)を設けその城下町として整備された町です。天正10(1582)に武田家が滅ぶと、その後は豊臣家の家臣浅井長政が入封し、近くに甲府城(鶴舞城)を築城し、近世的な城郭、城下町が形成されました。江戸時代に入ると、甲府城は江戸城の支城として位置付けられ、甲府藩が立藩、徳川家の一族が納める親藩として重要視されました。甲府藩が廃藩になった後は幕府直属(天領)の代官所となり、城下町は今度は甲州街道の宿場町(甲府柳町宿)として賑わいました。前述のように、甲府の市街地は武田信虎(信玄の父)が現在のJR甲府駅の北部に躑躅ヶ崎館を構えたことから始まり、武田滅亡後、徳川家康が現在の「舞鶴城公園」の地に舞鶴城を築城したことから繁栄は南部に移りました。江戸時代にはこの舞鶴城周辺を下府中といい、武田時代の市街地である駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んでいました。

当初はこの甲府柳町が甲州街道の終駅だったのですが、慶長7(1602)に五街道が決定されると、この先、下諏訪まで甲州街道は延伸され、甲府の宿駅はいったんは八日街に変更されるのですが、のちに再び柳町に移転されました。柳町の一丁目に問屋場が設けられ、代々松本弥右衛門家に駅務をとらせました。宿場の正式名称は「甲府柳町宿」。宿場の中程にある柳町に問屋場などの機能が集約されていたことに由来します。甲州街道は慶長9(1604)に中山道の下諏訪宿まで延伸され、完成しました。江戸時代後期の記録によると甲府柳町宿の宿内人口は905人、宿内総家数は209軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒が設けられていました。

宿場町らしく、歴史を感じさせる古い民家が建っています。これは石川家住宅です。石川家は江戸時代から金物屋や繭糸問屋を営み、屋号を河内屋と称した商家でした。敷地は間口が広く、向かって左側は庭園とし、表門を設けるなど、随所に当時の富裕層の住居の造りが見られます。街道沿いに見える蔵屋敷は明治5(1872)に建てられたもので、木造平屋建て、塗屋造、寄棟、桟瓦葺、外壁は黒漆喰で仕上げられています。敷地の間口の割合に対し主屋の間口が狭く庭を広く取っていることからも相当に裕福な商家だったと推測されます。また、敷地内にはこの主屋のほか弘化4(1847)に建てられた文庫蔵も現存しています。この他の建物は明治時代後期から大正時代初期に建てられたと推定されるものですが、江戸時代の形態を偲ばせる貴重な存在になっています。このため、石川家住宅は甲府市内に残る数少ない商家建築の遺構として、昭和54(1979)に甲府市指定文化財に、平成28(2016)に山梨県の指定文化財に指定されています。
その石川家住宅の脇に可愛らしい道祖神が祀られています。
甲府柳町宿の中を進みます。
甲府柳町宿の宿内は甲府が城下町だったこともあり、防御のために枡形が多くあります。
功徳山天尊躰寺です。この天尊躰寺は、大永元年(1521)に武田信玄の父・武田信虎が忠連社弁誉上人に深く帰依し、武田家の古跡に一宇の精舎を建立し、真向三尊を本尊とし、弁誉上人を開山として創建された寺です。天文2(1533)、第105代 後奈良天皇より深草院功徳山天尊躰寺の勅額を賜ったことから現在でも天尊躰寺と号しています。大永元年は信虎夫人(大井夫人)が積翠寺において勝千代、のちの武田信玄を出産した年です。開山当時は古府中の元柳町(現在の武田3丁目)付近にあり、寺内5千余坪を擁し、隆昌を極めていましたが、武田氏滅亡後、代わって甲州を領した徳川氏による甲府城(舞鶴城)築城に伴い、文禄・慶長年間(1592年~1614)に、それまで躑躅ヶ崎館を中心に配置されていた他の寺社とともに現在の地に移転し、甲府浄土5ヶ寺(甲府五山)1つに数えられてきました。
この天尊躰寺には佐渡金山奉行を勤めた大久保長安、甲府学問所教授 冨田武陵、俳人 山口素堂の墓所があります。
このうち、大久保石見守長安は猿楽師大蔵太夫の二男として甲斐国に生まれました。初め武田信玄に猿楽師として仕えたのですが、甲斐武田家滅亡後は徳川家康に用いられ、甲斐国の民政にあたりました。徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、甲州街道の八王子に旧武田家臣団を中心とした八王子千人同心を誕生させたのも大久保長安です。その後、石見、佐渡、伊豆の金山奉行などを務め、慶長6(1601)、甲府代官となり「石見検地」を実施。慶長12(1607)には石見守となり勘定奉行、さらには老中として国政にも参与しました。慶長18(1613)、駿府にて死去。天尊躰寺にある卵塔は慶長19(1614)に建立された大久保長安の供養塔です。

富田武陵は寛保2(1742)、江戸の生まれ。武陵は号で、通称富五郎。祖先は伊賀同心だとされています。儒学に通じ、温恭な人柄で、武道にも達し、江戸で御広敷添番に抜擢されていたのですが、寛政5(1793)、ある事件に連座して甲府勝手小普請に左遷されました。甲府では閑職を利用して勤番子弟らの指導を行っていたのですが、その才を知った時の甲府勤番支配近藤政明と氷見為貞は幕府に建議し寛政8(1796)に甲府学問所を創設し、近藤の役宅に仮学舎を設け、武陵を教授として迎えました。近藤の後任、滝川利雍の尽力により、享和3(1803)、甲府城追手門南方に新しい学問所が落成、林大学頭により「徽典館」と命名されました(現在の山梨大学の前身)。富田武陵は新学舎に移り住み、門人とともに起居し、大いに成果を上げたと言われています。文化9(1812)、甲府で死去しました。

江戸時代前期の俳人・山口素堂は寛永19(1642)、甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれました。20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしました。俳諧は寛文8(1668)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。延宝3(1675)、初めて松尾芭蕉と出逢い、深川芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、以降、門弟ではなく友人として互いに親しく交流しました。元禄8(1695)には甲斐国を旅して、翌元禄9(1696)には甲府代官 櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承が残っています。漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、延宝6(1678)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られています。ちなみに、この句により初夏になると初鰹が飛ぶように売れたとかで、俳人というよりも商品や企業を宣伝するためのコピーライターの走りのような人物でした。

天尊躰寺の前も枡形になっています。
有名な()印傳屋 上原勇七の本店です。印傳屋は天正10(1582)の創業。鹿革と漆の伝統を今に伝える「甲州印伝」の老舗です。印伝(いんでん、印傳)とは、印伝革の略で、羊や鹿の皮をなめしたもののことをいいます。細かいしぼが多くあり、肌合いがよいのが特徴です。なめした革に染色を施し、漆で模様を描いたもので、主に袋物などに用いられます。名称はインド(印度)伝来に因むとされ、印伝の足袋が正倉院宝庫内に見られ、東大寺に文箱が奈良時代の作品として残っているのだそうです。印伝は昔においては馬具、胴巻、武具や甲冑の部材・巾着・銭入れ・胡禄・革羽織・煙草入れ等を作成するのに用いられ、今日においては札入れ・下駄の鼻緒・印鑑入れ・巾着・がま口・ハンドバッグ・ベルト・ブックカバーなどが作られています。
私も頂き物ですがこの印傳屋 上原勇七製の鹿革の名刺入れを25年ほど愛用しています。25年も使っているのでさすがに少し型崩れをしてきてはいますが、使い込んでいるうちに味わいも出てきているので、まだまだこの先も愛用するつもりでいます。ちなみに、山梨県の工芸品として「甲州印伝」が国により、「その他の伝統的工芸品」に指定されています。


()印傳屋 上原勇七の本店の並びに日蓮宗総本山 身延山久遠寺の尼別院があります。
NTT甲府支店の南側、道を隔てて向い側の駐車場脇に「新聞発祥の地」と刻まれた黒御影石の石碑が建っています。明治5(1872)にこの地で「峡中新聞」が創刊されました。当初は木版摺りでほぼ月刊の県庁広報誌でした。しかし、甲州における明治初期の農民一揆のため発行不能に陥り、わずか8号まで発行しただけで終刊となり、翌年「甲府新聞」と名前を変えて発行されるようになりました。明治9(1876)には「甲府日日新聞」と改称され、1822号まで発行されました。一時休刊の後、明治14(1881)から現在の「山梨日日新聞」と名称を変えて日刊となり、現在に至っています。以上の歴史を踏まえて、山梨日日新聞は「現存する我が国最古の新聞」であるとしており、昭和47(1972)に創刊百周年を記念して、この発祥碑が建てられたと刻まれています。
NTT甲府支店西交差点を左折します。ここも枡形になっています。この枡形を曲がった先の道路は現在は「遊亀通り」と呼ばれていますが、かつては「柳町通り」と呼ばれていました。
現在ワシントンホテルプラザが建っているあたりが旧甲州街道の宿場町、甲府柳町宿の中心地でした。ワシントンホテルプラザの向かい側にあるこの「どて焼き」屋さんが建っているあたり一帯に甲府柳町宿の本陣と脇本陣があったと言われていますが、今はその形跡は何も残されておりません。
江戸五街道と言えば参勤交代です。参勤交代とは、全国250以上ある各藩の大名家が2年ごとに交替で江戸に参勤(出仕)させ、1年経ったら国元へ引き上げ交代を行う制度のことで、五街道はそのために整備された道路という意味合いもありました。東海道や中山道と言った大きな街道は多くの大名が参勤交代で利用し、それに伴い参勤交代の行列が道中利用する各宿場は大変に栄えました。いっぽう、甲州街道を参勤交代で利用した藩は諏訪の高島藩諏訪家 3万石、伊那の高遠藩内藤家 33000石、信濃飯田藩脇坂家(のち堀家) 27000石の3藩だけで、いずれも譜代の中規模禄高の大名の藩ばかりでした。これは甲州街道が江戸幕府が整備した軍事用の道路という側面が強く、その堅苦しさが敬遠されたためと言われています。利用した3藩が譜代の中規模藩ばかりだったというのも興味深いところで、これは参勤交代というよりも軍事訓練の意味合いもあったのではないかと推察されます。このため、甲州街道の各宿場の本陣や脇本陣は東海道や中山道の宿場に比べて規模が小さなものが多く、宿場自体も大きく栄えたとまでは言えない規模でした。

甲州街道唯一の大通行は「お茶壷道中」でした。お茶壷道中とは、京の天皇家から江戸幕府に献上される「宇治の茶」を運ぶための行列のことで、京からは中山道を通って途中の下諏訪宿まで運ばれ、下諏訪宿からは今度は甲州街道を通って江戸まで運ばれました。お茶壷道中は1日当たり人足約600人、馬50疋を要し、規模が小さく疲弊していた各宿場にとっては負担を強いられるものでした。このお茶壺道中は将軍の通行と同じ権威を持ち、道中で行き合った大名は乗物のまま道の端に寄って控え、家臣は下乗、共の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待つほどのものでした。庶民は「茶壷に追われて戸をピシャン 抜けたぁ〜らドンドコショ」ってな感じで、行列が近づいてくるとすぐに家に隠れたといわれています。このお茶壷道中は慶長18(1613)から慶応2(1866)まで約250年間続きました。石和宿を出たところを流れていた平等川もそうですが、甲州街道沿線に妙に京都にちなんだ地名が多いのは、このお茶壷道中が影響しているのかもしれません。
問屋街入口の交差点を右折します。問屋街という地名になっていますが、問屋さんは見当たりません。かつてこのあたりに問屋場が置かれていましたが、問屋場と言っても甲州街道の問屋場はどこも規模が小さいものばかりだったので、時代の流れとともに、すぐに衰退していったのでしょう。それは“中馬(ちゅうま)稼ぎと呼ばれる江戸時代の信濃国・甲斐国で発達した陸上運輸手段があったことによります。中馬(ちゅうま)稼ぎとは、江戸時代、主に信州の農民が農閑期の余業として23頭の馬で物資を目的地まで運送した輸送業のことで、農民の駄賃(だちん)稼ぎということから中馬稼ぎと呼ばれていました。中馬は物資を最終目的地まで直送する「付通し」、すなわち今で言うところの長距離トラックのようなものだったので、その隆盛につれ、宿継ぎ送りが基本の宿場の問屋側(既得権益側)とは利害が対立し、しばしば紛糾が起こっていたようです。中馬稼ぎの活動範囲は信濃国や甲斐国の全域に及び、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方、関東地方を結ぶ重要な運送手段となっていました。輸送物資は米、大豆、煙草、塩、味噌、蚕繭、麻などで、庶民の物資を運ぶ上での重要な輸送機関でした。 
問屋街は短く、すぐに突き当たりのT字路を左折します。そしてすぐに右折します。とにかく甲府柳町宿は城下町であることもあり、枡形が幾つもあります。

その最後の枡形を曲がった先のこの甲府商工会議所が建っているあたりが甲府柳町宿の諏訪方(西の出入口)でした。


……(その4)に続きます。

2019年5月29日水曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その2)

甲斐善光寺の駐車場に停車した観光バスの車内で昼食のお弁当をいただきました。昼食後、まずは甲斐善光寺に参拝です。
浄土宗の寺院、甲斐善光寺の山号は定額山。正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざん じょうちいん ぜんこうじ)と称します。長野県長野市にある善光寺(信濃善光寺)をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺とも呼ばれることもあります。この甲斐善光寺は永禄元年(1558)、甲斐国国主であった武田信玄によってこの山梨郡板垣郷の地に創建されました。開山は信濃善光寺大本願37世の鏡空和尚です。
天文10(1541)、武田晴信(のちの信玄)は父親の武田信虎を追放し、甲斐国の国主の家督を相続しました。武田晴信はその直後から信濃国への侵攻を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において5次に渡るいわゆる「川中島の戦い」を繰り広げました。
天文24(改元後の弘治元年:1555)、第3次の川中島の戦いが駿河国・今川義元の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し終結すると、長尾景虎は信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、永禄初年(1558)に直江津(現在の新潟県上越市)に如来堂を建設しました。いっぽう、武田晴信も弘治3(1557)に信濃善光寺北西の水内郡にあった葛山城(長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと、善光寺別当の栗田寛久に命じ信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や数々の寺宝を甲斐国の甲府へ移転させ、翌永禄元年(1558)、この地に甲斐善光寺を創建しました。これは信濃善光寺が戦火にさらされることを恐れ、本尊以下諸仏・寺宝類をこの寺に移したとのことですが、真偽のほどは分かりません。時系列から想像するに、たぶんに長尾景虎への対抗意識があったように思われます。甲斐善光寺の造営は長期に渡り、善光寺如来はしばらく仮堂に収められ、永禄8(1565)に本堂が完成し、入仏供養が行われたといわれています。その後も、元亀年間(1570年〜1573)に至るまで造営は続いたそうです。
天正10(1582)、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が行われ、武田勝頼は駒飼の山中で自害し、甲斐武田家は滅亡したのはこれまで何度も書いてきたことです。信長は戦後に残党狩りを行い、甲府で多くの武田家臣を処刑しました。『甲陽軍鑑』等によれば、この甲斐善光寺では武田勝頼の従兄弟の葛山信貞、郡内領主・小山田氏の当主小山田信茂(最終的に武田勝頼を裏切った岩殿山城城主)、小山田一族の小山田八左衛門尉、山県同心の小菅五郎兵衛らが処刑されたといわれています。甲斐武田家の滅亡後、織田信長の嫡男・織田信忠が善光寺本尊の阿弥陀如来像を美濃国岐阜城城下(岐阜県岐阜市)に移転させたのですが、その直後に起きた本能寺の変により織田信長・信忠親子が討たれると、善光寺の阿弥陀如来は信長の次男・信雄により尾張国清州城城下(愛知県清須市)へ移転、さらに天正11(1583)には徳川家康により三河国吉田・遠江国浜松を経て、甲斐善光寺へ戻されました。京都で文禄5(1596)に発生した慶長伏見地震により京都東山の方広寺の大仏が倒壊したため、慶長2(1597)、豊臣秀吉の要請により、大仏の代わりとして善光寺の阿弥陀如来像が京へもたらされ、大仏殿に安置されました。そして、最終的には慶長3(1598)、信濃善光寺へ戻され、今に至っています。

本堂はなかなか荘厳な作りです。国の重要文化財に指定されています。
甲斐善光寺の山門です。本堂と同じく、国の重要文化財に指定されています。甲斐善光寺では、このほか現在の本尊である銅造阿弥陀如来及両脇侍立像(この像はかつての本尊の前立像であったのですが、本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされたのだそうです)、木造阿弥陀如来及両脇侍像2組が国の重要文化財に指定されています。
私が令和になって最初にいただいた御朱印は、甲斐善光寺の御朱印です。
甲斐善光寺への参拝が終わり、観光バスでJR中央本線の酒折駅に戻り、甲州街道歩きの再開です。
すぐに右に折れ、酒折宮に立ち寄ります。
踏切でJR中央本線の線路を渡ります。酒折駅に珍しい電車が停車していたので、思わずパチリ! JR東日本の215系近郊型電車です。東海道本線の混雑緩和をめざして開発された車両で、在来線初のオール2階建て車両として、座席数を増やしているのが特徴です。215系電車は東海道本線の快速「アクティー」や「湘南ライナー」のイメージが強いのですが、最近では観光シーズンの休日には行楽用の「ホリデー快速ビューやまなし」として中央本線でも運用されています。
酒折宮です。酒折宮は八幡神社と境内を共有しており、『古事記』と『日本書紀』(以下、「記紀」)に記載される日本武尊(ヤマトタケル)の東征の帰途、立ち寄ったとされる古い神社です。
日本武尊の東征は『古事記』では尾張から相模・上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったと記載されています。一方、『日本書紀』では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐酒折宮を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったと記載されています。いずれにせよ、この甲斐国酒折宮は帰路に立ち寄っています。その帰路、甲斐国酒折の地に立ち寄って営んだ行宮がこの酒折宮ということのようです。伝承によると、行在中に日本武尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打ち袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言したため、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したのだそうです。記紀に記される日本武尊の東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっています。また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、酒折宮も「坂」に関係する祭祀を司っていた神社であると考えられているのだそうです。
また、この酒折宮は連歌発祥の地と言われています。連歌とは、2人以上の人が、和歌の、上(かみ)の句と下(しも)の句とを互いに詠み合って、続けて行く形式の歌のことです。
記紀によると、日本武尊が酒折宮に滞在中のある夜、日本武尊が
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」【意味】常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか
と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が
「日々(かが)(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」【意味】指折り数えてみますと九泊十日かかりました
と答歌、日本武尊がこの老人の機知に感嘆したという伝えを載せ、『古事記』にはその老人を東国造に任命したと記載されています。


酒折宮の伝承ではこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥として位置づけられ、そこから連歌発祥の地として多くの学者・文学者が訪れる場所になったとされています。境内には山県大弐や本居宣長の碑が建てられています。
酒折宮から戻り、国道411号線を西に向かいます。
JR身延線の高架下を潜ります。
身延線(みのぶせん)は 静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅の間の88.4kmを結ぶJR東海の鉄道路線で、駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線です。身延線の前身は、私鉄の富士身延鉄道。である。江戸時代まで甲駿(甲斐国〜駿河国)間は富士川沿いの富士川舟運による物流が盛んで、明治中期には最盛期を迎えていました。そのため、中央本線の計画に際しては岩淵から富士川沿いに北上し、市川大門を経て甲府へ至る岩淵線ルートが構想されていたのですが、中央本線は八王子経由のルートが採用され、明治30(1901)に開通しました。中央本線の開通により舟運の相対的地位は低下したのですが、甲駿間を結ぶ鉄道路線の計画は明治28(1895)に東京在住の資本家を中心とする駿甲鉄道敷設計画として存続し、山梨・静岡の支援者を得て着工。この駿甲鉄道計画は資本金不足などにより途中で挫折したのですが、明治44(1911)には小野金六、根津嘉一郎や甲州財閥系の資本家による富士身延鉄道と、身延参詣者の輸送を目的とした身延軽便鉄道(甲駿軽便鉄道)の計画が同時に持ち上がり、東海道線の鈴川駅(現在の吉原駅)から大宮駅(現在の富士宮駅)までの馬車鉄道を運営していた富士鉄道を買収し、大正2(1913)に富士駅〜大宮町駅間が蒸気鉄道として開業。以後、順次延伸され、大正9(1920)に身延駅まで開通し、昭和3(1928)に甲府駅までの全線が開業しました。全線開通の10年後となる昭和13(1938)には路線が鉄道省(のちの国鉄)に借り上げられ、昭和16(1941)には国有化されました。現在はJR東海に移管され、特急「ふじかわ」が甲府駅〜富士駅〜静岡駅間で17往復運転されています。富士川沿いを行くなかなか魅力的なローカル線です。


……(その3)に続きます。

2019年5月27日月曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その1)

518()19()、『甲州街道歩き』の【第13回】に参加してきました。【第13回】では、前回【第12回】のゴールだった石和宿の小林公園を出発して、甲府柳町宿を経て、韮崎宿まで歩きます。初日のこの日は甲府柳町宿まで歩きます。この日の集合場所はさいたま新都心駅前。甲州街道歩きも第13回ともなると、ほぼ見馴れたお顔ばかりです。基本、単独で参加されている方ばかりなのですが、同時に東海道や中山道を歩いていらっしゃる方々もおられて(私は現在甲州街道歩きだけですが…)、もうすっかり仲良くなっていらっしゃるようで、バスの車中は賑やかです。
数日前までは日本列島の南の海上を前線を伴った低気圧が通過する予想で、これから行く山梨県を含む関東地方は「曇りのち雨」の天気予報が出ていたのですが、いい方に外れたようで、朝から初夏のような陽射しが照りつけています。雲が多く、標高が高く山に近いほうに行くので、いちおう雨具の用意はしていますが、まっ、この2日間、雨の心配はしなくて良さそうです。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在のようです (ちなみに、宮崎県や鹿児島県といった九州南部では前日から断続的に激しい雨が降り、大雨により地盤が緩んで土砂災害の危険性が高まり、「土砂災害警戒情報」が発表されている地域が出ていました)。このような行楽日和の週末なので、中央自動車道はさぞや渋滞が起こるのではと心配されたのですが、最大10連休という大型のGWが終わった後だけに、中央自動車道も意外なほど空いていて、さいたま新都心駅前を出発して約2時間半後の午前10時半にはこの日の甲州街道歩きのスタートポイントである石和の小林公園に到着しました。1ヶ月前の【第12回】の時はサクランボの花の淡いピンクとモモ()の花の濃いピンクで華やかに彩られていた甲府盆地も、眩いばかりの新緑に変わっています。
いつものようにストレッチ体操を済ませて、この日の甲州街道歩きのスタートです。
石和は甲州街道と鎌倉街道が通過する交通の要衝で、石和宿や石和陣屋(代官所)が置かれていました。ちなみに、この日のスタートポイントとなった小林公園の奥にある笛吹市立石和南小学校の一帯がかつて石和陣屋敷があったところです。石和陣屋は寛文元年(1661)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男で、「甲府宰相」と呼ばれた徳川綱重が甲斐甲府藩15万石の藩主となった際に、家臣の平岡勘三郎良辰によって築かれました。徳川綱重は甲府藩主であったものの将軍家の一員として江戸城桜田邸や甲府浜屋敷(後の浜離宮)に居住したため、この陣屋は代官所として使用され、平岡勘三郎良辰が初代の代官となりました。甲府藩は徳川綱重の後、長男の綱豊が2代目の藩主となったのですが、第5代将軍徳川綱吉(徳川綱重の弟)に子供がいなかったため、その綱豊が綱吉の養子となり、徳川家宣と改名して第6代将軍となりました。その後は譜代の柳沢吉保が藩主を勤めました。享保9(1724)、柳沢吉保の嫡男・柳沢吉里が大和国郡山に国替えになった後、甲斐国は天領となったのですが、この石和陣屋は幕末の慶応3(1867)まで甲府・上飯田とともに三分代官所の1つとして使用されました。現在、石和陣屋跡には案内標柱が1本立っているだけで、遺構は残されておりません。明治7(1874)、表門が八田家に払い下げられ、移築され現存しているそうです。という説明をウォーキングリーダーさんから聞いただけで、訪れるのはパスしました。ちなみに、甲府宰相徳川綱重ですが、前述のように第3代将軍・徳川家光の三男で、徳川家光の死後、兄(長男)の家綱が第4代将軍に、弟(四男)の綱吉が第5代将軍になりました (兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳で死去したため)
小林公園を出発してすぐ、進行方向右手に石和八幡宮があります。この石和八幡宮は日本武尊(ヤマトタケル)の父である第12代景行天皇の時代に創社されたとされる古い神社です。中世となり、「武運の神(弓矢八幡)」である八幡信仰の篤い源頼朝が鎌倉幕府を開くと同時に八幡神を鶴岡八幡宮に迎え、頼朝に仕える御家人に対しても自らの領土へ勧請するよう推進しました。幕府創建の功績を認められ、甲斐国守護職に任ぜられた武田信光(石和五郎信光)もこれに応じて八幡神を鶴岡八幡宮から勧請し、従来祀っていた神と合祀し、同時に名称も国衙八幡宮と改め、のち石和八幡神社(別称:石和八幡宮)と称しました。甲斐国ではこの石和のほかに、韮崎市神山町北宮地の武田八幡宮や山梨市北の大井俣窪八幡神社がこの時に創建されました。また、戦国期には永正16(1519)、武田信虎(信玄の父)が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を構えて甲府に開府したのにあわせて、大永5(1525)、この石和八幡宮から八幡神を勧請し、甲府に府中八幡宮を建立しました。『社記』によれば、永禄4(1561)には甲斐国内の諸社に対し府中八幡宮への参勤が命じられているが、一宮浅間神社をはじめこの石和八幡宮を含む10社だけは勤番を免除されていたのだそうです。
このように、この石和八幡宮は、武田信虎が躑躅ヶ崎館に居館を移すまで320年間、武田家を宗家とする甲斐源氏より厚く崇敬され、射法相伝の儀式はこの石和八幡宮ですべて執り行われたと伝えられています。また、『社記』によると、天正10(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長により諸堂や宝物が焼き討ちされ、社領も没収され衰微したといわれています。近世には天正壬午の乱を経て甲斐国を領有した徳川家康により、新たに社領を安堵されており、歴代甲府藩主による尊崇を受け、今に至っているのだそうです。
石和からは国道411号線に沿って歩きます。国道411号線は、東京都八王子市から東京都西多摩郡奥多摩町を経て山梨県甲府市に至る一般国道で、昭和57(1982)に主要地方道八王子青梅線、主要地方道甲府青梅線を一般国道化した道路です。同じ八王子〜甲府間を通る国道20号線(現在の甲州街道)に対し、途中の青梅市からになりますが、青梅街道をほぼ踏襲するルートを辿ります。ただ、このあたりではこの国道411号線が旧甲州街道です。
甲運橋で第2平等川を渡ります。この第2平等川とその先を流れる平等川は元々は笛吹川の本流が流れていて、水量の多い夏期は舟渡しで渡っていました。明治7(1874)長さ45丈約136メートル)、幅2(6メートル)の甲運橋が完成したのですが、明治40(1907)に発生した大水害で橋は流され、笛吹川も石和の東側を流れる現在の流路に変わりました。平等川の平等は京都府宇治市にある平等院から取られたのだそうです。甲運橋を渡った先からが甲府市です。いよいよ甲府市に入ります。
甲運橋を渡ったところに「川田の道標」が立っています。正面には「左 甲府 甲運橋 身延道」、左面には「右 富士山 大山 東京道(江戸道)」、裏面には「左 三峰山 大嶽山」と刻まれています。この道標が建てられたのは万延元年(1860)。江戸時代に東京などあるはずがなく、後世、江戸と刻まれた部分を東京と刻み直したもののようです。確かにそれぞれの文字の刻み方も違います。
平等橋で平等川を渡ります。かつてはこの平等川と第2平等川が笛吹川の本流だったようなのですが、今は石和の東側を流れる現在の笛吹川の流路と比べるとはるかに細い川になっています。
このあたりは川田町という地名です。その川田町の由来について書かれた標注が立っていますが、表面が風化していて文字を読み取ることができません。川と田圃だけの土地だったので“川田町”……、なぁ〜んて安易なことが書かれているわけはありませんよね ()
この山梨県立青少年センターの向こう側の今は一面のブドウ畑になっているところが川田館跡です。この川田館は甲斐国守護の武田氏の居館だったところです。甲斐国守護の武田信昌(信玄の曾祖父)が、小田野城(山梨市、旧東山梨郡牧丘町)の跡部景家を攻めてこれを破った後、それまでの小石和(笛吹市、旧東八代郡石和町)にあったそれまでの居館を廃して、新たに築いた城館です。信昌の孫の武田信虎(信玄の父)はこの川田館を本拠に、武田一族の油川信恵や大井信達を攻めて勝利し、郡内地域(今日の都留市・大月市周辺)を領有していた小山田氏を服属させて甲斐を統一した後、永正16(1519)に古府中に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:甲府市)を築いて、居館をそこに移しました。その後、川田館は破却されたと考えられています。信虎が新たな居館として躑躅ヶ崎館を築いたのは、古府中が甲斐の中心に位置していたことから甲斐の統治に適していたことと、この川田館が水害に悩まされることが多かったことが理由ともいわれていますが、詳しいことはわかっていません。現在、この山梨県立青少年センターの奥にある二宮神社の東側のブドウ畑のある一帯が館跡とされており、かつての水堀と推定される水路や、御所曲輪(ごしょぐるわ)があったとされる付近には土塁の一部の痕跡が残っているのだそうですが、明瞭な遺構としては現存していません。
和戸町の由来が書かれた標柱が立っています。それによると、このあたりの現在の地名は川田町ですが、古くは和戸町と呼ばれていました。和戸町は、平安期、この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺称です(最初のを省略したわとの郷)。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られています。地内には在原塚や琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在しているのだそうです。

出ました、「郷」。上述の通り、50戸をもって編成された行政村落の単位のことで、奈良時代の日本の人口を推測するために、当時の全国の郷の数を数えるという手法が採られることがあるという話を聞いたことがあります。なるほどなるほど。このあたりは奈良時代から栄えていたってことですね。
この和戸町由来の標柱の横には道祖神をはじめとした石塔石仏群が集められて祀られています。もちろん道祖神は甲州街道独特の丸い球体をした石の道祖神です。この球体道祖神はかなり新しいもので、最近祀られたものですね。
歴史を感じさせる立派な門構えのお宅があります。かつてこのあたりの庄屋を勤めた農家だったのでしょうか。甲斐国守護の武田氏の居館だった川田館跡のすぐ近くなので、旧武田氏の家臣だった人物の屋敷だったのかもしれません。こういうお宅がところどころにあります。
国道411号線を甲府市中心部に向けて歩きます。
これは…。長屋門を構えたお宅があります。長屋門は江戸時代に多く建てられた日本の伝統的な門形式の1つで、上級武士の住宅(武家屋敷)の表門の形式として広く利用されました。武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用されました。上級武士以外にも、下級武士()や郷村武士の家格をもつ家、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られましたが、基本的な構成はほぼ同じですが、その規模は武家屋敷のものより小規模なものでした。このような長屋門では、門の両側部分は使用人の住居・納屋・作業所などに利用されたようです。規模から推定するに、この長屋門を構えるお宅はこのあたりの富裕な農家・庄屋だったお宅と思われます。
1kmほど国道411号線を黙々と歩きます。

十郎大橋で十郎川を渡ります。十郎大橋と“大橋”の呼称が付けられていますが、十郎川の川幅は大したことはありません。向こうに南アルプスの山々が見えますが、前線の接近で雲が垂れ込めているので、その雄大な山容までは今日は見ることができません。明日はもっと近ずくので、南アルプスの雄大な山容が楽しめるでしょうか?
十郎大橋で十郎川を渡った先の右側に可愛らしい六地蔵尊が立っています。
このあたりから酒折に入ります。

山崎三差路です。この山崎三差路は追分になっていて、ここで旧甲州街道と旧青梅街道が合流します。勝沼宿を出たところにあった等々力交差点からここまで歩いてきた国道411号線も青梅街道と呼ばれていますが、これは現代の青梅街道。江戸時代の旧青梅街道はこちらでした。江戸の内藤新宿で別れた甲州街道と青梅街道がここで合流するわけです。内藤新宿での追分を見てきているだけに、感慨深いものがあります。江戸時代、青梅街道は武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州街道の裏街道として使われてきました。途中、大菩薩峠(標高1,897メートル)という険しい峠を越えねばならないような大変な難路でしたが、甲州街道よりも幾分距離が短いので、多くの旅人が利用したのだそうです。
またこの山崎三差路で合流する道路は「雁坂みち」とも呼ばれ、かつては日本三大峠の1つ雁坂峠(標高2,082メートル)で奥秩父の山域の主脈を越え、武蔵国の秩父盆地と甲斐国とを結ぶ街道でした (ちなみに、日本三大峠の他の2つは飛騨山脈越えの針ノ木峠2,541メートル、赤石山脈越えの三伏峠2,580メートル)。「雁坂みち」は秩父往還道とも呼ばれ、「萩原みち」と呼ばれた青梅街道とともに武田信玄によって整備された甲斐国から他国に通じる9本の軍事用道路「甲斐九筋」の1つで、江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』には、「本州九筋ヨリ他州ヘ達する道路九条アリ 皆路首ヲ酒折ニ起ス」と記述されています。酒折とはまさにこのあたりのことです。酒折は『甲斐九筋』のすべての起点とされていました。「雁坂みち」は現在の国道140号線に相当し、塩山のあたりで「萩原みち」(青梅街道)と分岐していました。ちなみに甲州街道は江戸時代になって整備された道なので、この『甲斐九筋』には含まれておりません。それ以前はこの「雁坂みち(秩父往還)」と「萩原みち(青梅街道)」が甲斐国と武蔵国を結ぶ重要な道路でした。したがって、あの日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰りに通った道もこの「雁坂みち」でした。このようにここ酒折はかつては甲斐国の交通の要衝だったところです。なお、ここから西方、信州方向に延びる道は「穂坂みち」と呼ばれ、しばらく甲州街道と並行するものの、別の経路の道でした。

この山崎三差路の追分の脇に山崎刑場跡があります。この山崎刑場の設置年代は明らかではありませんが、300年ほど前からここに罪人の断首場が設けられていました。断首場には切り捨て場2ヶ所と首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸1ヶ所があったとされています。この山崎刑場は明治5(1872)の大小切事件の処罰を最後に跡形もなくなり、現在は供養塔のみが残っているだけです。
ちなみに、大小切事件とは、明治5(1872)に山梨県で起こった一揆で、山梨県農民一揆とも呼ばれています。江戸時代の享保年間に甲斐国一円は幕府直轄領化されたのですが、甲府盆地の山梨郡、八代郡、巨摩郡の国中三郡では近世以前の金納税制である大小切税法(甲州三法のひとつ)という特殊な年貢徴収法が甲州枡、甲州金とともに独自の制度として適用されていました。この大小切税法とは、米納を基本とする江戸時代において、この国中三郡に限っては原則米納は9分の4で、納税米額の9分の3は小切と呼ばれる米414升を金1両で換算でした代金納で9月に納められ、9分の2は「大切」と呼ばれ、享保9(1724)以降は浅草蔵前冬張紙値段(100=35両前後)で換算した代金納で納められていました。このため、国中三郡では米麦芝居のほか、現金収入を得るため養蚕や織物、煙草栽培など商品作物栽培や、山間地での林業などを組み合わせる形態の生業が確立し、貨幣経済が浸透していました。明治維新により明治2(1869)に甲斐国は「甲府県」と改められ、三郡の代官所は廃止とされ山梨県一円は甲府県知事の統治下となりました。明治4(1871)に明治政府は全国的な廃藩置県を断行し、甲府県は「山梨県」と改められました。それと同時に、明治政府はそれまで旧諸藩が独自に行っていた特殊な税の徴収法を認めず全国一元化を断行し、明治5(1872)、大蔵省は山梨県における大小切税法の廃止を命じ、ただちにその旨が県下に布告されました。国中三郡ではこれに対する反対運動が起こり、旧田安領である栗原筋・万力筋の97か村と大石和筋・小石和筋では武装蜂起に至りました。6,000人とも言われる一揆勢は甲府へ迫ると、県庁では一揆勢を抑え込む兵力がなかったため、当時の山梨県令・土肥謙蔵は陸軍省へ出兵を要請し、これを武力により鎮圧しました。この大小切事件の逮捕者は160人以上に及び、山梨県庁内に山梨裁判所(後の甲府地方裁判所)が開設され、審理の結果、首謀者とされる山梨郡小屋敷村(現在の甲州市塩山)の長百姓・小沢留兵衛、同郡松本村(現在の笛吹市石和町)の名主・島田富十郎には絞刑の判決が下されました。また、同郡隼村(現在の山梨市牧丘町)の長百姓・倉田利作は懲役10年となり、ほか徒刑3年が4名、罰金3,772名が課せられました。決して学校の日本史の授業では習わないことですが、明治維新期にはこういう社会の大混乱がこの山梨県に限らず全国各地で起きていたことも歴史の偽らざる真実です。

国道411号線を西に進みます。ここに酒折宮への参道を示す道標が立っています。ここで右へ分岐する細い道を進むと日本武尊(ヤマトタケル)ゆかりの酒折宮に行くのですが、酒折宮には後で行きます。
おおっ!! ここは。箱根駅伝の強豪校の1つ、山梨学院大学の本部キャンパスです。
JR中央本線の酒折駅です。ここから観光バスに乗って、昼食会場に向かいます。この日の昼食会場はここからほど近い甲斐善光寺の駐車場です。


……(その2)に続きます。