2019年5月2日木曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その2)

笹子・天野記念公園駐車場を出発して約5分ほど歩き、富士急バスの「新田下」バス停のところで山梨県道212号日影笹子線から分かれ、ここから旧甲州街道は往時の面影を色濃く残す本格的な山道に入っていきます。
山道の横を新田沢と呼ばれる川()があります。この時期は雪融け水でさぞや水量が多いのではないかと思ったのですが、実際は流れている水量はごく僅かです。
その理由がこれ。「新田沢荒廃砂防ダム」の文字が読めます。この砂防ダムはこの先も何箇所もありました。
不自然に石積みが並んでいるのは、かつてここになんらかの建物があった名残りではないでしょうか。旧街道沿いにはこういう名残りが幾つも残っているので、それを見つけながら歩くのも楽しみの1つです。
途中、小さな沢が幾つか山道(旧甲州街道)を横切って流れているのですが、そうした小さな沢は橋も架かっていないところもあるので、そうした沢はそのまま歩いて渡ります。この日は水がまったく流れていないので、沢(の底)を歩いて渡ったのですが、雨上がりなどでもしも水が流れていると、飛んで向こうに渡るかどうするか微妙な沢の幅です。このような山道を横切って流れる沢はたいていは人工のもので、山に降った雨で街道が水に浸かったり、流されたりしないようにするために作られたものです。こういうところにも、この山道が旧甲州街道だったことの面影が残っています。
旧甲州街道の右側は深い谷になっていて、笹子川の支流(源流)1つ新田沢川が流れています。
鬱蒼と繁る杉林の中を進みます。
その新田沢川の深い谷を美久保橋で渡ります。
前述のように山梨県道212号日影笹子線はクルマが走行できるように道路の傾斜を緩くするためにS字のヘアピンカーブを何度も繰り返しながら伸びています。旧甲州街道は基本ヒトや馬、牛が歩いて通る道なので多少の急傾斜はおかまいなく、その山梨県道212号日影笹子線のS字のヘアピンカーブを突っ切るようにほぼ真っ直ぐに伸びています。ただ、ここはガードレールに邪魔されているので旧甲州街道は消滅(うっすらとその痕跡は残っていますが…)。仕方ないので山梨県道212号日影笹子線のS字のヘアピンカーブを登ります。
山梨県道212号日影笹子線のS字のヘアピンカーブを登ると、「笹子峠自然遊歩道」の案内標識が立っています。この笹子峠自然遊歩道の細い山道が旧甲州街道です。
鬱蒼と繁る杉林の中をさらに進みます。
幾つかの沢を渡ります。
徐々に高度が上がり、先ほど美久保橋で渡った新田沢川が深い谷底を流れるようになりました。
ちょっと大き目の沢を丸木橋(2本の丸太の上に板を渡した板橋)で渡ります。ただ、この丸木橋、架けられてから少し年数が経っているのでところどころ朽ち果てていて、安全のため1人ずつ順に渡ります。朽ち果てているところがあることに加え、渡ろうとすると橋がギシギシと音を立ててしなるので、かなりワイルドでいい感じです。この先もこういう橋が幾つかあります。
その丸木橋を渡ったところにあるのが三軒茶屋と呼ばれていた「中野茶屋跡」です。かつてこの中野茶屋で売られていた蕎麦飯は笹子峠の名物だったのだそうです。また、この三軒茶屋では峠を越える(糖分補給のための)力餅として「笹子餅」と呼ばれる餅も販売されていました。この「笹子餅」の販売は、明治36(1903)、国鉄中央本線の開通によりこの峠道の通行も途切れてしまったため一旦休止されましたが、明治38(1905)より今度は国鉄の笹子駅でその「笹子餅」の販売が再開され、現在もなお中央自動車道の近隣のサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)で販売されています。
この中野茶屋跡に「明治天皇御野立所跡」の大きな石碑が立っています。その碑は「明治13(1880)619日、明治天皇は山梨・三重・京都に御巡幸の際に、この地で休まれ、天野治兵衛家で御野立あらせられた」ことを記念するものだと、石碑の脇に立つ説明板に書かれています。

先を進みます。再びちょっと幅の広い沢を丸太橋(板橋)で渡ります。この丸太橋も架けられてから年数が経っているので、ところどころ朽ち果てていて、危険回避のため1人ずつ順に渡ります。で、この丸太橋を渡ったこのあたりに江戸の日本橋を出てから27里目の「矢立の一里塚」があった筈なのですが、その痕跡はどこにも残っておりません。旧甲州街道の長さは江戸の日本橋から(中山道と合流する)下諏訪宿まで53223(208.5km)だったと言われていますから、27(108km)目の一里塚ということは、ここまでで約半分の距離を歩いてきたということになります。「やっと半分までやってきた」、「まだ半分かよ」……あい反する2つの思いが錯綜するというのが正直なところです。きっとこれは昔の旅人も同じだったのではないでしょうか。このように、笹子峠は甲州街道の最大の難所であると同時に、ほぼ半分という節目の地点でもありました。
その矢立の一里塚の先に、山梨県の天然記念物に指定されている大きな杉の古木があります。
「甲斐叢記」によると、その昔、甲斐武田氏をはじめ合戦に出陣する武士達が戦勝を祈願してこの杉に矢を射立てて、山の神(富士浅間神社)に手向けたと伝えられていることから「矢立の杉」と呼ばれています。あの源頼朝もここを通った際に矢を射たと言われています。この杉を描いた安藤広重(歌川広重)や葛飾北斎、十返舎一九による浮世絵の名画も残っていることから、江戸時代から有名な巨木だったようです。根廻り幹囲14.80メートル、目通り幹囲9.00メートル、樹高約26.50メートルで、幹は地上21.50メートルのところで折れ、樹幹中は空洞になっていると説明板には書かれ、樹齢1,000年を越すと言われています。山梨県の天然記念物に指定されているだけに、確かに存在感のある巨木です。
その「矢立の杉」のところはちょっとした休憩施設として整備されています。その休憩施設で昼食のお弁当をいただきました。
おやっ!?、この矢立の杉の休憩施設のところに「矢立の杉」の歌碑が立っています。歌手で俳優の杉良太郎さんが作詞・作曲し(作詞・作曲時のペンネームは大地 良)、自らが歌った演歌「矢立の杉」の歌碑です。歌碑の横にあるハンドルをグルグル回して発電すると、その演歌「矢立の杉」が流れてきます (私は演歌「矢立の杉」は初めて聴きましたが…)。また、この演歌「矢立の杉」をテーマにして杉良太郎さんがプロデュースしたお芝居「闇の身代わり地蔵」の舞台ともなった場所で、杉良太郎さんが大月市に寄贈した芝居の中に出てくる「身代り両面地蔵菩薩」も建立されています。よく見ると、この「身代り両面地蔵菩薩」のお顔は、杉良太郎さんにそっくりです (反対側の面は優しい女性のお顔ですが、はて、どなたでしょう? 奥様の歌手・伍代夏子さんでなさそうではありますが…)。説明板によると、杉良太郎さんはこの地を「運命の地」と定め、また、福祉活動に長き時間と力を注いだ杉良太郎さんらしく、人々の安全と平和のシンボルとして、この「身代り両面地蔵菩薩」を建立したのだそうです。


……(その3)に続きます。




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