2018年11月30日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その5)


大手御門です。大手御門は正確には「三の丸大手御門」あるいは「本丸大手御門」と言い、江戸城の正門で、諸大名はここから登城し、三の丸に入りました。勅使の参向、将軍の出入りなどもこの大手御門から行うのが正式だったのだそうです。高麗門前の桔梗濠には大橋が架かっていました。ちなみに、この大手御門から先の濠は大手濠と呼ばれています。大手御門は現在も皇居東御苑のメインゲートとなっています。



大手御門は高麗門と渡櫓型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、櫓門は桁行22(40メートル)、梁間42(7.9メートル)という大きさです。



この大手御門は慶長12(1607)に、当時、伊予国今治藩初代藩主であった藤堂高虎によって13ヶ月ほどかけて作られました。ちなみにこの藤堂高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに城造りの名人として知られていました。江戸城を近世の城郭として整備する総指揮を執ったのも藤堂高虎でした。藤堂高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比されて語られることがあります。ちなみに藤堂高虎が初代藩主であった四国今治は、私の本籍地です。なぁ〜んか誇らしい思いになります。藤堂高虎が築城した今治城は日本三大水城の1つに数えられる名城です。お濠に海水を取り入れているのが特徴で、クロダイやフグが泳ぐ姿が見えます。このように、藤堂高虎はその場所の地形を活かした築城を得意としていました。


最初の大手御門は藤堂高虎によって築かれたのですが、その後何度も焼失し、再建されています。現在のような枡形門になったのは元和6(1620)の江戸城修復に際に伊達政宗(陸奥国仙台藩初代藩主)や相馬利胤(陸奥国相馬中村藩初代藩主)といった陸奥国の大名達によって再建された時です。その伊達政宗や相馬利胤といった陸奥国の大名達によって築かれた大手御門も明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、現存している大手御門は、その後、万治2(1659)に再建された時のものと考えられています。



徳川家の居城の正門で、将軍も出入りする門だけあって、ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代大名諸侯が、24時間365日、その守衛にあたるなど、江戸城にあるすべての城門のうちでセキュリティーレベルは最高位にありました。番侍10(うち番頭1人、物頭1)が常に肩衣を着て、平士は羽織袴で控え、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組を備えて警戒にあたっていたそうです。現在も大手御門を通るにはセキュリティーチェックを受けないといかず、厳重に警備されています。ちなみに、大手御門の開閉時間は、享保6(1721)の定めによると「卯の刻(午前6時頃)から酉の刻(午後6時頃)まで」と決められていました。



高麗門を潜ると枡形になっていて、右に折れると大きな渡櫓門が構えています。この大手御門に限らず、枡形門はどこも中で右折して進む構造になっています(左折する枡形門はありません)。これは防御上の理由からです。と言うのも、武士は必ず右側に刀を差していました。左利きの武士もいたでしょうが、左利きの武士でも刀を差すのは右側と決まっていました。高麗門を潜って侵入してきた敵はそこで右側に直角に曲がる必要があるのですが、その際に刀を抜こうとすると、実は2アクションになってしまい、戦闘態勢になるのに一瞬遅れが出るのです(試しにそういう状況をイメージしてやっていただけると、お分りいただけると思います)。いっぽう、待ち受ける防御側はすぐに刀を抜いて戦闘態勢に移れるという特徴があります。これが枡形が常に右折構造になっている理由なのだそうです。

城を眺める時は、常に攻める人の立場になって眺めてみると面白い…、これは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんの言葉です。まさにその通りだと思います。なぜ、ここにこういうものがあるのかの謎は、攻める者の立場になって眺めてみるとよく分かります。江戸城は軍事的な要塞としても、当時としては鉄壁の防御態勢を敷いた城でした。


枡形の角のスペースに、かつて渡櫓門の屋根を飾っていた鯱が展示されています。この鯱には「明暦三丁酉」という刻印が施されています。このことから、この鯱は明暦3(1657)の明暦の大火で渡櫓門が焼失した際に、地上に降ろして、ここに鎮座させたものとされています。

ちなみに鯱は、姿は魚で頭は虎、尾ヒレは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いトゲを持っているという想像上の動物のことです。また、それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種のことを鯱と言います。通常、大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされました。特に建物が火事の際には水を噴き出して火を消すということから、火除けの“まじない”にしたと言われています。


渡櫓門は、その後、第二次世界大戦の戦災で再度焼失しました。現在の渡櫓門は、昭和43(1968)の皇居東御苑の開園に合わせて木造復元により再建されました。残されていた江戸時代の図面に基づき、忠実に復元したのだそうです。復元したものといっても、見事な門です。使われている木材は昔と同じくケヤキ()です。節が1つもないので、相当のケヤキの大木が使われたものと思われます。



11月中旬だと言うのに、大手御門の渡櫓門を抜けたところに桜の花が咲いています。ジュウガツザクラ(十月桜)です。白いジュウガツザクラの向こうには黄色いツワブキと赤いボケの花も咲いていて、綺麗です。当時の江戸城もこのように一年を通して楽しめる様々な植物が植えられていたのだそうです。この先は日本庭園になっています。



「三の丸尚蔵館」です。日本の皇室は、京都御所で儀式の際に用いる屏風や刀剣、歴代天皇の宸筆などの伝来品のほか、近代化以降は東京の皇居宮殿、御所で用いた調度品、近代以降に華族、財界人、海外の賓客などから献納された美術品、院展などの展覧会で買い上げた美術品など、多くの美術品や文化財を所有していました。こうした皇室所有品は「御物(ぎょぶつ)」と称されます。第二次世界大戦直後、正倉院と正倉院宝物、京都御所、桂離宮、修学院離宮、陵墓出土品や古文書・典籍などかつての皇室財産は相当数が国有財産に移されました。さらに、昭和64(1989)17日、昭和天皇が御崩御なされたことに伴い、残された美術品類を国有財産と皇室の私有財産に区分けする必要が生じました。そして、「三種の神器」を始め、歴代天皇の肖像・宸筆、皇室の儀式に用いる屏風や刀剣類など、皇室にゆかりの深い品々は皇室経済法第7条により、引き続き「御物」として皇室の私有財産とみなされたのですが、それ以外の絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180(6,000)は平成元年(1989)6月、皇室より国に寄贈されました。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境で保存研究し、一般に公開する目的で平成5(1993)11月に皇居東御苑内に開館した施設が、この「三の丸尚蔵館」です。


皇宮警察の武道場です。天皇陛下の座られる御椅子も用意されていて、今上天皇陛下も時々稽古の様子をご覧になられるのだそうです。


……(その6)に続きます。

2018年11月29日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その4)


坂下御門です。坂下御門は西の丸の北側入口にあたる門です。手前にある橋は坂下門橋といいます。西の丸の坂下にあったので、この名がついたといわれています。坂下御門はもともとは高麗門とその左の渡櫓門からなる枡形形式の城門でした。江戸時代には、坂下門橋を渡り、枡形門を抜けて、左の坂を登ったところに西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。明治の時代に入り、西の丸に皇居が移るとその重要な入口のひとつとして使われ、明治18(1885)に高麗門が撤去され、明治20(1887)に渡櫓門のみが角度を90度変えて建て直され、今の形になりました。


また、ここは「坂下門外の変」の現場となった場所でもあります。知らない人のために、「坂下門外の変」とは、文久2115(1862213)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派(勤皇派)の水戸藩浪士6人が登城途中の老中・安藤対馬守信正(事件当時は信行)を襲撃し、負傷させた事件のことです。安藤対馬守信正は、その2年前に起きた大老・井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」以降、幕府の権威が失墜する中、尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために、京都の朝廷と江戸幕府との公武合体政策をとり、皇女和宮の第14代将軍・徳川家茂への降嫁を推進していました。そのことが原因で尊皇攘夷の志がことのほか強かった水戸藩浪士に襲われることとなり、一命は取り留めたもの、老中は罷免されます。なお、襲撃者の水戸浪士は全員その場で刺殺されました。

それにしても、幕末期の水戸藩浪士には過激な武闘派が多かったようですね。「桜田門外の変」で大老・井伊直弼を殺害した首謀者も水戸藩浪士。「坂下門外の変」で老中・安藤信正を襲ったのも水戸藩浪士。さらには、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した尊王攘夷派(天狗党)によって引き起こされた「天狗党の乱」と呼ばれる一連の争乱を主導したのも水戸藩浪士でした。徳川御三家の1つと言っても、水戸藩は特別なようです。


坂下御門は現在も宮内庁の出入口(通用門)として利用されていますので、警備が厳重です。新年と天皇誕生日の皇居一般参賀の際の出口の1つとして指定されているので、一般人が通れるのはこの機会以外にはありません。


 坂下御門の右手にある濠を蛤濠(はまぐりぼり)といいます。


内桜田御門です。枡形城郭門と白壁の美しさを、お濠の水面に映していて綺麗です。正式には、外桜田御門に対し内桜田御門と呼ばれていますが、太田道灌が最初に江戸城を築いた時代、この門が大手正門であり、この門の瓦に太田道灌の家紋である「桔梗」の刻印が施されていたことにちなんで、桔梗御門とも呼ばれています。内桜田御門から濠は桔梗濠に変わります。


ちなみに、内桜田御門の向こう側に見える三角屋根の建物が枢密院の建物です。枢密院は、明治21(1888)に憲法草案審議を行うため、枢密院官制及枢密院事務規程に基づいて創設され、翌明治22(1889)に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた組織です。憲法問題も扱ったため「憲法の番人」とも呼ばれました。枢密顧問により組織され、初代議長は、伊藤博文でした。国政に隠然たる権勢を誇り、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなしていたのですが、昭和6(1931)の満州事変以後、軍部の台頭とともにその影響力は低下。日本国憲法施行により、昭和22(1947)に廃止されました。建物は大正10(1921)に建てられたもので、戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用された後、大改修され、現在は皇宮警察本部庁舎として使用されています。


桜田巽櫓です。東京駅丸の内口から行幸通りを日比谷通りまで出てきた時、まず最初に目に飛び込んでくるのがこの桜田巽櫓です。桜田巽櫓は本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名づけられました。この桜田巽櫓も伏見櫓や富士見櫓と同じように、関東大震災で損壊したのちに解体して復元されたものです。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」で、「桜田二重櫓」ともいわれます。「石落し」(石垣よりはみ出した出窓部)や鉄砲、矢用の「狭間」を戦略的目的で備えているのが特徴で、実戦的な櫓として作られました。白い壁が桔梗濠の水面に映り、優美な姿を見せる櫓です。


桜田巽櫓の向こうに内桜田御門(桔梗御門)、さらにその向こうに富士見櫓が見えます。桔梗濠の水面にそれらの白壁が映り、見事な光景です。私的には江戸城で一番美しい景色は、この場所からの景色ではないかと思います。


この場所から内堀通りを挟んで反対側に、この日のスタートポイントであった和田倉噴水公園があります。と言うことは、信任状捧呈式に出席するためJR東京駅丸の内口貴賓玄関から行幸通りを馬車に乗ってやって来た各国大使が、馬車の中から最初に目にする皇居(江戸城)の風景がこの風景だと言うことです。歴史を感じさせるこの美しい光景に、間違いなく息を飲まれることでしょうね。

ここから内堀通りの桔梗濠沿いを大手御門に向かって歩きます。


現在は内堀通りで分断されていますが、かつてはこの場所で桔梗濠は和田倉濠と繋がっていました。内堀通りができて、ここで桔梗濠と和田倉濠が分断されて以来、皇居を取り巻く内濠は外部からの水の流入がいっさいなくなり、すべての内濠の水は雨水と湧き水だけで賄われるようになりました。それでも内濠は常に水が湛えられ、美しい光景を醸し出しています。



大手御門の門前には、現在、パレスホテル東京が建っていますが、ここには、江戸時代、大手御門の下馬先がありました。この大手御門の門前には、江戸時代には「下馬(げば)」という札が立てられていました。

大名や旗本が江戸城へ登城する時には、本丸に登城する場合には家格や禄高に応じて大手御門あるいは内桜田御門(桔梗御門)、西の丸に登城するには西の丸大手御門を利用しました。これらの門前は「下馬」と呼ばれ、特に大手御門の門前は「大下馬」と呼ばれました。このパレスホテル東京が建っているところは大手御門の門前で、まさに「大下馬」のあったところです。ここ場所には腰掛がズラァ〜と並び、御畳蔵と呼ばれる各藩の老臣達の休憩施設が建っていました。

「下馬」、これは文字通り、ここで馬を下りることを意味していました。ここから先は、大名や禄高500石以上の直参旗本の役人(老中、大目付、奉行等)・高家・交代寄合など「乗輿(じょうよ)以上」の格をもつ者以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。また、下馬から先に連れていける共連れの人数は、徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名や国持大名の嫡子は13人、1万石から10万石のその他大勢の大名は10人~11人に制限されていました。立て札に書かれた「下馬」という文字は足利将軍以来の伝統筆法で記されたもので、はじめは曾我尚佑が任じられました。そして、この筆法の伝法には時の将軍の認可が必要だったのだそうです。

ちなみに、大手御門から登城できるのは前述の徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名に限られ、1万石から10万石のその他大勢の大名や直参旗本は大手御門ではなく内桜田御門(桔梗御門)から登城しました。したがって、内桜田御門(桔梗御門)の門前にも「下馬」が設けられ、腰掛がズラァ〜と並んでいました。

また、通常の時は大手御門、内桜田御門(桔梗御門)、西の丸大手御門が下馬でしたが、登城人数が多くなる式日には、大手御門より外側の和田倉御門、馬場先御門、外桜田御門、さらには鍛冶橋御門、呉服橋御門、常磐橋御門が下馬となることもありました。

「下馬評」という言葉があります。これはこの「下馬」にちなむ言葉です。多くの大名は、下馬までは多数の家臣と共に登城しますが、家臣の多くは下馬先で待たざるをえませんでした。ここで、家臣達は、主君の大名が下城してくるまでの時間を幕府内での出世話や人の評判・噂話をしてつぶすことが多くなりました。このことから「第三者が興味本位にする噂や評判」を意味する『下馬評』という言葉が生まれました。大手御門や内桜田御門(桔梗御門)の門前には、大名が下城するのを待つ家臣達や大名の登城風景の見物客が大勢集まってきていたので、自然と彼らを相手にした商売が行われたとも言われています。いなり寿司や蕎麦や甘酒などの飲食物を売る屋台が多く出たという話もあります。


……(その5)に続きます。

2018年11月28日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その3)


この日も皇居前広場には大勢の観光客がやって来ていました。そのほとんどは外国人観光客。日本人観光客の姿はほとんど見かけません。これだけ大勢の外国人観光客がやって来ていただいていることは大変にありがたいことではありますが、正直、なぁ〜んかねぇ〜…って気持ちもなくはありません。


ご存知、二重橋です。皇居前広場の一番人気のスポットは、なんといっても伏見櫓を背景とした「二重橋」ではないでしょうか。この皇居正門前にある二重橋は、皇居と言うよりも帝都東京のシンボルと言ってもいい橋で、学校の修学旅行や東京観光の定番のスポットでもあります。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀の時に必ず目にする橋で、手に日の丸の国旗を持ってこの二重橋を渡る多くの人の姿がテレビのニュースなどでも流されるため、日本人なら知らない人はいないと言えるほど有名な橋です。



皇居正門は江戸時代には「西の丸大手門」と呼ばれていました。明治21(1888)の明治宮殿造営の際、高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めました。皇居正門(かつての江戸城の「西の丸大手門」)はふだんは閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外には使われません。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀の時には正門が開放されます。



皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋(いしばし)」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋(てつばし)」という二重橋濠に架かる2つの橋があります。位置関係は、外から宮殿に向かう際には、皇居前広場正門外石橋正門正門内鉄橋中門宮殿東庭(新宮殿前広場)→宮殿(長和殿)というルートをたどることになります。2つの橋は、明治17(1885)から明治22(1890)にかけての皇居御造営(明治宮殿造営)に際して掛け替えられたものです。



この2つの橋のうち、ふだん目にしている石造りの橋「正門石橋」が二重橋と思われている人が大多数ではないかと思われますが、それは間違いで、実はその奥にある橋「正門鉄橋」が正しい意味での二重橋なのです。

奥の鉄橋が架かっているところには、かつては慶長19(1614)に建造された江戸城「西の丸下乗橋」という橋が架かっていました。下乗橋(別名;月見橋)は、青銅製の擬宝珠の欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋桁を渡してその上に橋を架けるという、上下2段に架けられた二重構造であったことから、通称で「二重橋」と呼ばれていました。現在の鉄橋は、明治21(1889)、明治宮殿造営にあたり、錬鉄製の橋に架け替えられ、更に昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43)に先立ち、意匠など大幅な変更をせずに昭和39(1964)に架け替えられたものです。現在の橋の橋桁は二重構造ではないのですが、前の通称である「二重橋」が引き続きそのまま用いられています。よく見ると、鉄橋の両側にある石垣には、かつて木造橋であった時代に上下2段の二重構造だったことを示す長方形の穴が今も残っています。

手前の石橋は、もともと江戸城の「西の丸大手橋」があった位置に架かっていて、現在の石橋は明治宮殿が竣工する前年の明治20(1888)12月に建造されたものです。石造りの二重アーチ橋で、花崗岩が使用され、照明灯や高欄を含め、西洋建築の意匠が採用されています。二重アーチ構造であることから俗称で「眼鏡橋」とも言い、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いのですが、前述のようにそれは間違いです。「西の丸大手橋」はこの日もガイドを務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示して頂いている写真のような木造の橋で、もとはアーチ橋ではありませんでした。

このように「二重橋」とは正しくは奥の「正門鉄橋」の呼称のことではあるのですが、「二重橋」の解釈としては、それとは別に「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって架かる橋だから二重橋」(すなわち、重架しているように見える)というものもあります。必ずしも正確な解釈ではないのですが、戦前の書籍にも二重橋に正門石橋の写真を用いるものが多く、一般には正門外石橋と正門内鉄橋の2つを併せて「二重橋」とする総称が用いられてきました。また同様に、皇居前広場のことを二重橋前広場と言われてきたりもしました。そもそも「二重橋」という名称は正式なものではなく、一般に用いられてきた俗称・通称に過ぎないので、正門鉄橋、正門石橋の2つの橋の総称として「二重橋」を用いるのも現在では間違ってはいないと私は思います。

なお、正門には皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊が常時警護を行っており、通常一般人は二重橋を渡ることはできません。ただし、事前に手続きをして皇居の参観をする場合は、正門鉄橋だけは渡ることができるようです。


正門石橋、正門鉄橋の2つの橋の向こう側にあるのが伏見櫓(伏見二重櫓)です。現在の伏見櫓は関東大震災の際に一度倒壊したため、解体して復元されたものです。この伏見櫓は皇居でもっとも美しい櫓であり、手前にある「正門石橋」とともに皇居の代表的な見所になっています。学校の修学旅行ではここを背景に記念写真を撮ることが多いので、ご存知の方も多いと思います。二重櫓の両袖に多聞櫓(防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物)を備えておりますが、このような形の櫓は、江戸城ではここだけしか残っていません。

伏見櫓の名前の由来としては、第3代将軍・徳川家光が豊臣秀吉が京都伏見に築いた伏見城の櫓を移築したからだという説があります。その説によると、伏見城は慶長3(1603)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けたところで、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行ったという徳川将軍家に大変にゆかりの深い城で、慶長20(1615)に江戸幕府が制定した一国一城令により伏見城と二条城の2つの城があった山城国では二条城を残し伏見城を廃城することが決まったのですが、そうした徳川将軍家にゆかりの深い城の一部、櫓だけでも残そうと、江戸城に移築したとのだそうです。非常にもっともらしい説ではあるのですが、残念ながら憶測の域を出ないのだそうです

また、伏見櫓に付随する多聞櫓は、永禄元年(1559)に、戦国武将の松永久秀が築いた大和国(奈良県)の多聞城の櫓が始まりとされています。江戸城には、かつては19もの櫓が存在しましたが、現在では、この伏見櫓とこの後で行く桜田巽櫓、富士見櫓の3基を残すだけです。


皇居前広場には玉砂利が敷き詰められています。これは江戸時代、ここが江戸城と呼ばれていた頃からのもので、お清めの意味があるのだそうです。また、皇居前広場は皇居正門、二重橋のほうから見ると、東に向かって緩やかに下っています。これはもともとのこの辺りの地形で、日比谷入江という海に向かって下っていたからです。



皇居前広場、皇居外苑の先、内堀通りを挟んだ反対側は現在は高層ビルが建ち並んでいるのですが、こういう景色が見られるようになったのは実は平成の時代に入ってからです。それまでは皇居宮殿を見下ろすことは不敬にあたるということで、このあたりは高いビルの建築ができませんでした。今では高層ビルが建ち並んでいるのですが、昔の建物を一部でも残そうという建て方をしているビルが多く、意識して眺めてみると、昭和の時代のこのあたりの風景をイメージすることも可能です。ちなみに、昭和の時代、このあたりのビルの高さの基準となったのが和田倉御門前にある東京海上ビルで、この東京海上ビルよりも高い建物は建てられませんでした。皇居の宮殿は日比谷入江よりも幾分標高の高いところに建っているので、皇居宮殿を見下ろさないとなると、だいたい9階建てが高さ限界の目安でした。

そう言えば、私が入社した日本電信電話公社(電電公社)の本社ビル(日比谷電電ビル。現在のNTT日比谷ビル)は日比谷公園の先にあったのですが、広い敷地面積のわりには9階建ての低層ビルで、長い廊下が特徴でした。これもこれ以上高いビルにすると、皇居宮殿を見下ろすことになるので不敬にあたるからだと教えられたことがあります。

平成の世になり、今上天皇陛下が「そういうことは気にしなくていい」と、ありがたくもおっしゃられたことで、現在のように高層ビルが建ち並ぶようになったのだそうです。


……(その4)に続きます。

2018年11月27日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その2)


このあたり一帯が皇居前広場、いわゆる皇居外苑です。江戸時代以前、このあたりは漁業が盛んな日比谷入江に面していましたが、江戸時代には埋め立てられ、老中や若年寄りなどの屋敷が立ち並び、「西の丸下」と呼ばれるようになりました。明治維新後、これらの屋敷が官庁の庁舎や兵舎などに使用されたりもしましたが、やがてそれらも撤去され広場化されました。その後、明治21(1888)からは「皇居御造営」完成後の事業として、皇居前広場にクロマツなどを植える植栽整備が行われました。第二次世界大戦後は国民公園として整備され、現在に至っています。



現在、皇居前広場は、内堀通りから皇居側の玉砂利広場(41,600平方メートル)と内堀通りと外濠の間にある芝生緑地(68,300平方メートル)で構成されています。明治21(1888)からの植栽整備で植えられたクロマツは約2,000本。これは、かつての日比谷入江の海岸線にはクロマツが群生していたことをイメージして植えられたもので、クロマツがこれほど多く植えられた公園というのは、世界中探してもこの皇居前広場だけなのだそうです。

中にはこのような見事な枝ぶりのクロマツがあったりもします。


馬場先御門から皇居側を見たところです。ここをまっすぐ直進すると二重橋なのですが、ここでちょっとだけ寄り道。楠木正成の銅像を見学します。



馬場先御門の内側にある「楠公(なんこう)レストハウス」です。楠公レストハウスは一般財団法人日本公園協会が運営する施設で、昭和42(1967)に全国から皇居参観に来られる方々や公園を利用する方々の休憩所として建てられ、平成14(2002)にリニューアルされて、現在の建物になりました。その楠公レストハウスの駐車場は東京の観光地では一二を争うほどの広さがあり、多くの観光バスを停めることができます。皇居二重橋に近いこともあり、外国人向けの観光コースでは必ず盛り込まれる定番の観光地になっていて、この日も多くの外国人観光客が訪れていました。



「楠公レストハウス」の楠公(なんこう)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、楠木正成のこと。その楠木正成の銅像が楠公レストハウスのすぐ近くにあります。楠木正成は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に大きく貢献し、その後の「建武の新政」では足利尊氏らと共に天皇による政治を補佐するなどの立役者となりました。足利尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担いましたが、湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害しました。後醍醐天皇の討幕運動に最初に呼応した有力武将で、最後は尊皇に殉じたので忠臣と称えられています。



この銅像は明治23(1891)に住友家が開発した別子銅山(愛媛県新居浜市)の開坑200年記念事業として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に製作を依頼したものです。製作には上野公園の西郷隆盛像の作者としても知られる高村光雲が製作主任となり、当時の著名な彫刻家や鋳造師らがあたりました。別子鉱山で採れた銅だけを使って、完成までに10年をかけて献納されたとされています。像のモデルは、流されていた隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた際の楠木正成の姿なのだそうです。この銅像の馬上の楠木正成の目線の先にあるのは皇居二重橋です。


馬の腹には血管が浮かび、全身の筋肉に力が漲っているのが分かります。たてがみの11本にまで動きが感じられます。特に素晴らしいのは臀部。この馬の臀部の筋肉の描き方は凄すぎです。楠木正成のほうも顔の表情にしろ、着衣の上からも分かる腕や足の筋肉の張りにしろ実に詳細に作り込まれていて、今にも駆け出しそうな躍動感溢れる銅像です。おそらく銅像としては日本一、いや世界一といってもいいほどの傑作ではないかと私は思っています。こういう素晴らしい銅像が公園の一角に飾られていて、誰でも自由に見えることに日本という国の素晴らしさを感じます。



楠木正成の銅像の前では多くの人が記念撮影をしているのですが、その大部分は中国からの団体観光客。彼らは楠木正成って、知ってるのかなぁ〜?? それを知らないと、何故、この武将の素晴らし過ぎる銅像がこの皇居に建っているのか理解できないでしょうね。

ん?? でもなんでここに楠木正成の銅像が建っているのでしょう?? 楠木正成は後醍醐天皇を奉じ、最後まで後醍醐天皇に付き従ったので明らかに南朝側の武将。この南朝側の武将の像がここに建っていて、今も今上天皇陛下をお守りするかのように皇居二重橋の方向を見つめているということは、今上天皇陛下は南朝のお血筋ってことなの? 北朝のはずでは? え、え、え!……もしかして……

まったくの余談ですが、楠木正成の出自には諸説あるものの、その中の有力な1つに楠木正成の本姓は橘氏といい、一般に藤原純友の乱の時に伊予国警固使(武将)として水軍を率いて大活躍した伊予橘氏の橘遠保の末裔であるという説があります。この伊予橘氏は平安時代末期から繁栄した伊予国の有力豪族で、当時、瀬戸内海を実質支配していた伊予水軍を統括する越智氏一族の分家でした。と言うことは、もしこれが事実なら、楠木正成も第7代・孝霊天皇の孫(3皇子・彦狭島命の第3)で、小千国(おちのくに:現在の愛媛県今治市周辺)の国造に任命されて着任した乎致命(おちのみこと:小千御子とも)を祖とする越智氏族の1人ということになります。なので、私は楠木正成には妙な親近感を覚えています。


馬場先御門から続く道を二重橋に向かいます。左手に外桜田御門の渡櫓門が見えます。江戸城の南や西に屋敷を構える大名達のほとんどはあの外桜田御門から江戸城に登城してきました。

厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代、将軍に直接仕える者といえば大名でした。大名とは、将軍に拝謁できる禄高1万石以上を持つ者のことをいいます。さらに、大名ではないのですが、禄高1万石以下でも将軍に拝謁できる者がいて、それが将軍家直参の旗本。将軍家直参の中でも将軍に拝謁できない者は御家人と呼ばれていました。

大名は、元旦や五節句などの幕府にとって重要な日や、月次登城といわれる月例の登城日(月に3)に江戸城に登城する必要がありました(年間40回ほど登城)。この登城の際には、身分や城持ちか無城かなどの家格によって、登城する順番も控えの間も厳密に区別されていました。

各大名は江戸城へ登城する際、多くの家来達を従えた大名行列を組んでしずしずと藩邸(上屋敷)から江戸城への登城ルートを進みました。その規模は通常の大名で約50名。尾張、紀州、水戸の徳川御三家や、御三家の次に家格が高い加賀国金沢藩前田家、越前国福井藩松平家、さらには薩摩国鹿児島藩島津家、陸奥国仙台藩伊達家、肥後国熊本藩細川家といった禄高の大きな外様の大大名は約100名の規模でした。2つの大名行列が登城の途中で鉢あった場合には、家格が高かったり、禄高が高い大名に必ず道を譲らねばならず、禄高の低い大多数の大名にとってこの登城は大変に気をつかうものだったようです。

また、この大名行列による登城風景は江戸の町の風物詩のようなところがあり、登城ルートの沿道には江戸の庶民など多くの見物人が武鑑(ガイドブックのようなもの)を片手に出ていました。今でいうと、東京ディズニーランドのエレクトリカルパレードのようなものだったのでしょう。特に多くの大名行列が江戸城に入城する外桜田御門の外は次々と入場してくるので、見物人の数はことのほか多かったと思われます。大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変は、そうした大勢の見学人の前で起こったことです。

この桜田門外の変が起きたのは旧暦の安政733(1860324)の早朝でした。この日はいわゆる雛祭りの節句で、江戸にいる諸侯は祝賀のため総登城することになっていました。なので、桜田門外には多くの見物人が集まり、目の前を通り過ぎる大名行列を見物していたと思われます。ちなみに、外桜田御門の前を通る道は日本橋から続く甲州街道で、前回【第7回】で見て回った幾つもの御門(城郭門)の外までは、一般庶民でも近づくことができました。で、外桜田御門などの城郭門の中は大名行列をはじめとして登城が許された者だけが入ることが許されていました。

映画やテレビドラマなどでは桜田門外の変は雪が降りしきる中、水戸浪士を中心とした暗殺団の一行がピストルの号砲を合図に彦根藩井伊家の大名行列に襲いかかったという風に描かれていますが、実は衆人環視の中での出来事でした。その日、午前8時に登城を告げる太鼓が江戸城中から鳴り響き、それを合図に諸侯が行列をなして外桜田御門を潜っていきました。先頭は徳川御三家の1つ尾張藩徳川家。その尾張藩の行列が見物人らの前を通り過ぎた午前9時頃、三宅坂の彦根藩上屋敷の門が開き、井伊直弼を乗せた駕籠を中心とした行列は門を出たわけです。幕府大老で近江国彦根藩35万石の大大名であった井伊直弼と言えども、家格や禄高の点で徳川御三家に及ぶべくもなく、登城の順番は尾張藩徳川家の次でした。

前回【第7回】で見ましたが、彦根藩上屋敷から外桜田御門までの距離はわずか400メートルほど。行列は総勢約60人ほどでした。その行列が外桜田御門の前に差し掛かった時、駕籠訴の直訴を装って大勢の見物人の中から行列の先頭に飛び出した1人の水戸浪士がいて、それを取り押さえるために行列は停止。護衛の注意も前方に引きつけられたために、井伊直弼が乗った駕籠が襲われたわけです。襲撃開始から井伊直弼暗殺までわずか10分ほどの出来事だったようです。


……(その3)に続きます。