2020年8月19日水曜日

松山市民のソウルフード

公開日2019/7/04

[晴れ時々ちょっと横道]第58回:

松山市民のソウルフード 


このところ松山に帰省するたびに92歳の父が入所させていただいている介護付き老人ホームへ父の様子を見に行くようにしているのですが、その際、お昼にその老人ホームの近くにあるうどん屋さんに立ち寄るのを秘かな楽しみにしています。そのうどん屋さんというのが四国霊場八十八箇所第51番札所・石手寺にほど近い石手川の渓流沿いの松山市石手1丁目にあるうどん屋『水車』です。そこで私が決まって注文するのが「鍋焼きうどん」です。

『水車』の鍋焼きうどんです。具だくさんなところが嬉しいですね。

石手寺にほど近い石手川沿いの松山市石手1丁目にあるうどん屋『水車』です。

この「鍋焼きうどん」、私は勝手に松山市民のソウルフードだと思っています。

「讃岐うどん」で知られる隣県香川県ほどではないものの、愛媛県の特に松山市周辺は香川県に匹敵する美味しいうどん屋さんが多いところなのです。松山平野(道後平野)は基本的に真砂土と呼ばれる花崗岩が風化してできた土壌なので、水捌けが極めて良く、麦の栽培に適したところで、それがために美味しいうどんが食べられるのだと思われます。これは同じく四国の瀬戸内海沿岸の隣県香川県も同じです。ちなみに、この真砂土主体の土壌が、昨年(2018)7月の西日本豪雨において、愛媛に大規模な土砂災害をもたらしました。

 松山のうどんの特徴は、まずコシの強い讃岐うどんとは決定的に異なり、麺が柔らかいこと。箸で持ち上げると切れてしまうぐらいに柔らかい麺で、「コシ抜けうどん」とも呼ばれています。ですが、この麺を「鍋焼きうどん」にすることで、柔らかい麺に肉の甘味が溶け込んだ甘めの味付けの出汁が絡んで実に美味いのです。しかも、すき焼きのような甘い味付けの肉と生卵が乗っていて、野菜もニンジン、玉ねぎ、ネギ、白菜、エノキ茸などがたくさん入っていて嬉しい。実に優しい口当たりのうどんです。ちなみに、松山のうどんはこの「鍋焼きうどん」の流れからか、このすき焼きのような甘い味付けの肉が乗っていることが多いです。

 この「鍋焼きうどん」、グツグツと煮立った状態のままで出てきます。「熱いので、お気をつけて」の言葉とともに。私は“超”の字が付くほどの猫舌なので、出てきてすぐは食べられず、しばしの観察タイム。その間に麺の上にのった生卵がドンドン白く固まっていきます。この変化を眺めているだけで、ちょっと楽しい。

 私は「讃岐うどん」の本場中の本場、香川県丸亀市で中学高校時代を過ごしたので、「うどん」に関しては、ほんのちょっとうるさいのですが、そういう私から見ても松山の「鍋焼きうどん」や「うどん」はビックリするほど美味しいです。だから、間違いない!!d(^_^o)

 一口に“うどん”と言っても、香川県の「讃岐うどん」と松山の「鍋焼きうどん」とは全くの別物です。同じ麦の栽培に適した気候風土を持つ“麦どころ”であっても、文化としての食べ方において別々の(似て非なる)発展を遂げたものと捉えることができようかと思います。なので、そもそも「讃岐うどん」と松山の「鍋焼きうどん」を比較すること自体、ナンセンスなことだと私は思っています。やはり、松山では松山の文化にあった食べ方で食するのが一番美味しいわけで、それが松山の場合は「鍋焼きうどん」ということなのでしょう。

 『水車』では、「鍋焼きうどん」だけでなく、「素うどん」に「おでんの大根」と「炊き込みごはん」を添えた「うどん定食」をいただくこともあるのですが、イリコだけで取った素朴な味の出汁の「素うどん」も実に美味です。くわえて、「炊き込みごはん」も実に美味しい。先ほど、松山平野の土壌は水捌けが極めていいということを書きましたが、それって稲作にはあまり適していないということを意味しています。と言うことは、昔は美味しいコメがなかなか獲れないってことを意味します。そこで「炊き込みごはん」の文化が同時に根づいたのかもしれません。実家の母もよく「炊き込みごはん」を作ってくれますし。なので、この「炊き込みごはん」も松山のソウルフードの1つと言えようかと思います。

 ソウルフードらしく、松山市内には美味しい「鍋焼きうどん」が食べられるお店がたくさんあります。有名なところでは松山市駅から銀天街を歩き、大街道と交わるあたりで1本路地を入ったところにある『ことり』と『アサヒ』。この両店は松山の「鍋焼きうどん」発祥の店ではないかと言われている店です。この両店をはじめ、松山市の「鍋焼きうどん」の特徴として忘れてならないのがアルミ製の鍋とレンゲ(スプーン)です。これです、これ!! これがないと松山の「鍋焼きうどん」とは言えませんわね。この両店とも松山市の地元民だけでなく、観光客からも人気で、常に店の前に行列ができています。

人気店の『アサヒ』です。この日も観光客らしい方々の行列ができていました。

『アサヒ』の鍋焼きうどん(卵入り)です。アルミ製の鍋に入って出てくるのが嬉しいです。

こちらは『ことり』。『ことり』も超が付くような人気店で、売切れ次第販売を終了するので、注意が必要です。この日はなんと1220分の段階で、販売が終了となっていました。ありえない!!(笑)

『ことり』の鍋焼きうどんです。『ことり』も『アサヒ』も比較的シンプルな鍋焼きうどんですが、両店ともとにかく甘めの出汁が絶品です。

この他にも、大街道にある『名代つるちゃん』、大街道から続くロープウェー街にある『車井戸』等があり、それぞれ麺や出汁、のっている具が微妙に異なるので、これからそれらの食べ比べをしてみるのも面白いかな…と思っています。

ロープウェー街にある『車井戸』です。

『車井戸』の鍋焼きうどんです。同じ鍋焼きうどんと言っても、店ごとにそれぞれ麺や出汁、のっている具が微妙に異なります。そこが楽しいですね。

松山市民のソウルフードと言えば、「鍋焼きうどん」以外にも忘れてはならないものが2つあります。それが「日切焼き(ひぎりやき)」と「労研饅頭(ろうけんまんとう)」です。

 「日切焼き」は松山市駅前の澤井本舗が製造販売している小豆の粒餡入りの焼き菓子のことです。他の地域では、大判焼き、今川焼き、太鼓焼き等と呼ばれている菓子ですが、一般的な今川焼きや大判焼きとは異なり、小麦粉、玉子、砂糖を水で溶いた生地に細かい気泡が多く、むしろ“どら焼き”に近い食感の焼き上がりが特徴です。「日切焼き」の名称は「お日切さん」として松山市民に古くから親しまれている、松山市駅前の日切地蔵(浄土宗善勝寺)の境内で売られていたことに由来します。

「日切焼き」がいつ頃から日切地蔵の境内で売られていたのかは定かではないのですが、少なくとも大東亜戦争前には境内の3軒の店で販売されていたのだそうです。戦争中に原材料に統制令が下されたことにより休業し、戦後も区画整理で境内が大幅に縮小されたので休業したままになっていたのですが、その味を懐かしむ大勢の市民の声に応え、昭和24(1949)3軒の店のうちの1軒、澤井本舗だけで復活したのだそうです。以来、地元松山市民の間で根強い人気を誇り、現在も常に店の前に行列ができるほどです。私も子供の頃、母の買い物に付き合わされて銀天街や大街道に連れて来られた際には、この「日切焼き」を食べるのが毎回の楽しみでした。

1100円。今も子供達に大人気のようです。

昔から変わらない味と、柔らかい食感です。粒餡の餡子がぎっしり詰まっています。ちなみに、私は子供の頃から小豆の粒餡よりも白餡(白いんげん豆を茹でたものを潰し、蜜で甘い味をつけた白色の漉し餡)の日切焼きのほうが好きです。

日切焼きの澤井本舗の隣に日切地蔵(善勝寺)があります。松山市駅前のこのあたりが区画整理される前は、この日切地蔵の境内で販売されていました。

もう1つの「労研饅頭」は、大街道の中ほどにある「労研饅頭たけうち」(本店は勝山町)が製造販売している小麦粉を主原料とした蒸し菓子のことです。饅頭と言っても和菓子の饅頭(まんじゅう)とは大きく異なり、蒸しパン、あるいは中華料理の甜饅頭に似ている菓子です。直径10cm前後の小ぶりで甘みのある蒸しパン状の菓子で、小麦粉を捏ねた生地を酵母で発酵させ、蒸し上げたものです。これは大東亜戦争前から続く製法なのだそうですが、最近は生地にヨモギやココアなどを練り込んだものや、豆類や乳製品を入れたもの、中に小豆餡を入れたものもあり、種類は豊富になっています。素朴な味わいが特徴で、「日切焼き」同様、地元松山市民の間で根強い人気を誇っています。私も子供の頃、母の買い物に付き合わされて銀天街や大街道に連れて来られた際には、この「労研饅頭」を食べ(させられ)たものです。ただ、「労研饅頭たけうち」には大変申し訳ないのですが、私は「日切焼き」のほうが圧倒的に好きでした。労研饅頭は素朴な味わいがゆえ、甘いものが大好きな子供の口には合わなかったのでしょう。しかし、還暦を過ぎて久し振りに労研饅頭を食べてみると、その素朴な味わいが病みつきになりそうです。大人好みの味ってことですね。取材に行ったこの日も、私と同世代か、私より年配の方々が次々と立ち寄って、購入されていました。

大街道の中ほどにある「労研饅頭たけうち」です。

労研饅頭です。“まんじゅう”ではなく“まんとう”。素朴な味わいが特徴の蒸しパンです。

ちなみに、「労研饅頭」という不思議な名前、特に頭に付く“労研”という2文字ですが、これには「労研饅頭」の次のような誕生秘話が関係しています。

 昭和の初期、松山市は深刻な不況に襲われ、夜学生が学資を確保することも困難な状況に陥っていました。それを見かねた私立松山夜学校(現在の松山城南高校)の奨学会は、夜学生の学資を調達するための策がないかあれこれと模索を繰り返していました。ちょうどその頃、当時岡山県倉敷市の倉敷紡績(クラボウ)の工場内にあった労働科学研究所が、工場で働く大勢の労働者(ほとんどが女工さん)の栄養状態を改善することを目的に (時代を感じます)、満州(現在の中国東北部)の労働者の主食であった「饅頭(マントウ)」を日本人向けに甘くアレンジした蒸しパンを考案しました。この労働科学研究所が考案した蒸しパンは安価で主食の補助にもなるため次第に注目を集め、岡山県や京阪神の業者が販売を始めました。このことを聞きつけた松山夜学校の奨学会は急ぎ倉敷に行き、労働科学研究所に作りかたの教えを請いました。この小麦粉で作る饅頭なら、安価にかつ容易に製造できるため、これを松山で製造販売し、学資を確保するとともに夜学生の主食にもしようと考えたわけです。こうして昭和6(1931)に、この労働科学研究所が開発した蒸しパンを松山で「労研饅頭」の名で製造し、販売することを始めました。なので、「労研」とは考案した労働科学研究所の略です。また、饅頭を「まんじゅう」ではなく「まんとう」と読むのは、中国東北部の労働者の主食「マントウ」が起源だからです。

 上記のように、「鍋焼きうどん」、「日切焼き」、「労研饅頭」…、私はこの3つを勝手に松山市民のソウルフードだと思っているのですが、これには皆さん、異論もおありかと思います。また、松山市だけでなく、県内ほかの市町でも、それぞれソウルフードと呼べる食べ物があろうかと思います。皆さんの中でのソウルフードを是非教えていただければ…と願っています。すぐに味わいに行きます!!

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