10月13日(土)、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の第7回に参加してきました。今回はこの竹橋を出発して、竹橋御門→清水御門→田安御門→半蔵御門→外桜田御門→日比谷御門→馬場先御門を経て、和田倉御門…と、内濠に沿って8つの御門(見附)跡を観て歩きます。両国をスタートして、これまでずっと「の」の字になった江戸城の外濠を反時計回りに歩いてきましたが、外濠が終わり、いよいよ「の」の字の中心の内濠に入ってきました。この日はこれまでの『江戸城外濠内濠全周ウォーク』シリーズで一番長い約10kmの距離を歩きます。
この日のスタートポイントは前回【第6回】のゴールだった東京メトロ東西線竹橋駅の1a 出口(竹橋方面出口)を上がったところです。竹橋はその内濠に架かり、一ツ橋1丁目から代官町通りに向かう橋です。現在では、皇居の内堀と神田のオフィス街、首都高速道路の竹橋ジャンクションに囲まれた一画になっています。
この竹橋は元和6年(1620年)に築かれた江戸城の城郭の1つ「竹橋御門」のあったところですが、御門は撤去され石垣の一部と橋だけが残っています。現在の橋は、平成5年(1993年)3月に補修された橋で、長さ51.05メートル、幅22.8メートルのコンクリ-ト橋です。
この竹橋は徳川家康の関東入国以前に既に存在していた橋で、「竹橋」の名称は、当時、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われています。「別本慶長江戸図」という江戸時代初期に描かれた絵地図には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路として用いられた橋でした。明治時代には、橋の西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊が置かれていて、明治11年(1878年)に西南戦争後の処遇を巡って、同部隊の兵士らが武装蜂起する騒乱「竹橋事件」が起きたことでも知られています。
この竹橋の周辺で日本橋川(外濠)と江戸城(皇居)の内濠(清水濠)は最も近いところで約30メートルの距離まで接近します。
竹橋の左手は内濠の1つ平川濠です。遠くに見える橋は平川橋、そしてその平川橋を渡ったところにあるのが平川御門です。平川御門は江戸城の裏門。大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり
、御三卿(清水家・一橋家・田安家)の登城口でもあったようです。太田道灌が最初に江戸城を築いた頃からここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門や橋の名前の由来になったのだそうです。この平川橋は次回【第8回】で訪れるようなので、今回はここまでの紹介に留めます。
平川御門の枡形内の帯曲輪門と竹橋御門との間の濠の中に細長い廊下のような帯曲輪(おびくるわ:土堤)が築かれていて、両御門は連結された構造になっていました。この帯曲輪の向こう側にも濠(平川濠)があります。帯曲輪は城郭において本丸に近く、最も防備を必要とする地点に設けられるもので、江戸城においてはこの帯曲輪により平川濠を二重に分断し、両門が帯曲輪の走路で通じ合うようになっていました。それは有事の際に相互の番兵が火急な城門の応援に駆けつけるためです。さらに隣接して外濠(日本橋川)に架かる一ツ橋御門橋と雉子橋御門橋を置き、わずかな距離の間に三重(平川濠・内濠・外濠)に濠を廻らせていました。ここまで厳重に防御を固めているのは、江戸城ではこの地点のみです。よっぽど北(おそらく仙台藩伊達家)からの脅威に対して敏感だったのではないでしょうか。そして平川御門を入ったところに、あの大奥がありました。
竹橋門と平川門に面したパレスサイドビル(毎日新聞社)の一帯には、かつて江戸城内で消費する幕府蔵米の精米や餅を搗く「御春屋(おつきや)」がありました。“春”とは「臼で米を搗く」の意味を持ち、籾を脱穀したあとの玄米を精白するのが御春屋で、ここは江戸城内で使われる食材や燃料などを集荷管理する施設でした。明治維新後、この「御春屋」の跡地には文部省が置かれ、その文部省は昭和6年(1931年)に虎ノ門の現在の文部科学省の場所に移転しました。そして、昭和41年(1966年)、毎日新聞社が有楽町からこの「御春屋」の跡地に建てられたパレスサイドビルに移転してきました。
竹橋は立派な橋で、近くにあの大奥があったにも関わらず、この橋を使って登城・下城する武士はほとんどいませんでした。大奥の女性達ですら使う人はほとんどいませんでした。実は、この橋は主として江戸城内でなんらかの罪を犯した罪人や亡くなった人を城外に運び出す時に使われた橋だったのだそうです。人の肉体、特に死体は全て不浄なものという考え方で、その不浄なもの専用の出口が設けられたようです。 この竹橋御門から城外に出された罪人としては、高遠に流された大奥女中の絵島、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭がいます。
不浄のものと言えば、この竹橋を使って江戸城内から毎日のように運び出されていたある“貴重な資源(もの)”がありました。それが、江戸城内で毎日排泄される大量の糞尿でした。
現代では処分のために大きなコストをかけている糞尿ですが、かつては有効に再利用され、売買さえされていた時代がありました。現代のように化学肥料などなかった時代において、人が毎日排泄する糞尿は農業における貴重な肥料でした。この人糞を肥料として用いるのは、世界的に見ると一般的なものではなく、多くの国や民族において、人糞を人間の食料を生産する畑に投下することは忌避されてきました。唯一の例外が我が国日本で、記録によると、鎌倉時代から人糞を肥料として用いたことが確認されています。室町時代に日本を訪れた朝鮮通信使も「日本では人糞を肥料とし、農作物の生産高が非常に高い」と報告書に記しているほどです。
江戸時代、多くの町民は“長屋”と呼ばれる集合住宅に暮らしていたのですが、長屋に併設された共同便所は、これらの肥料の原料を効率良く収集するために設置されたという側面もありました。この共同便所とそこに堆積する糞尿を処理する(売買する)仕組みが整備されていたからこそ、江戸をはじめとした日本の各都市は当時世界に稀に見る清潔で美しい都市だったとも言えます。また、その共同便所から得られた肥料により城下町周辺部の農地は大いに肥え、町民に食糧を供給し続けたわけです。
当時、人口が100万人を超え、世界一の人口を誇った江戸の町は、当然のこととして排泄物(糞尿)の量も世界一でした。現代のように下水道が完備されていない当時の江戸の町では汲み取りで糞尿を処理しなければならなかったわけで、この糞尿売買の仕組みを整備したことが江戸の町の繁栄を下支えしたと言っても過言ではありません。言ってみれば、究極の「還元社会」「リサイクル社会」が当時既に実現されていたわけです。
江戸時代、糞尿にはランク分けやブランドまでありました。その人糞を排泄階層により、その価値が違い、栄養状態のよい階層(最上層は江戸城)から出された人糞は、それより下の階層(最下層は罪人)が排泄する物より高い値段で引き取られました。
江戸時代の糞尿のランクは概ね以下の通りです。
特上にあたる「きんばん」と呼ばれる糞尿は、幕府や大名屋敷の勤番者のものです。勤番者の糞尿なので「きんばん」と呼ばれたのでしょうが、身分の高さが糞尿の値段にまで反映されるとは驚きです。
上等にあたる「辻肥」は、街角にある辻便所と呼ばれる、いわゆる公衆便所から汲み取った糞尿です。
中等にあたる「町肥」は、一般の長屋などの町民が使う便所から汲み取られた糞尿です。
下等にあたるのが「たれこみ」と呼ばれるもので、糞の量が少なく尿が多く混じっているため肥料としての価値の低くなります。
また、同じく下等にあたる糞尿に「お屋敷」と呼ばれるものもありました。これは牢獄や留置所から汲み取られたもので、罪を犯した人の糞尿は価値が低いとされました。
このように、同じ人間の体からでた糞尿なのに、さまざまな理由によりランク分けされていたというのはとても興味深いところです。おそらく、それぞれの身分による食べ物の違いから、肥料としての効き具合も違っていたのかも知れません。
ちなみに、糞尿はどれくらいの値段で売買されたのかが興味深いところですが、記録によると、中等の「町肥」で、樽一杯あたり25文、船1艘あたり1両というのが相場だったようです。現代の貨幣価値に換算すると1文が20円、1両を10万円程度なので、樽一杯の糞尿の値段が500円ほどで、船一艘分が10万円程ということになります。これを高いとみるか安いとみるかは価値観によりますが、それにしても糞尿がこのような金額で売買されていたということに驚きます。
「きんばん」と呼ばれる特上の糞尿の中でも最も高く売れたのが江戸城から排泄される糞尿でした。例えば、江戸城には大奥と呼ばれるところだけでも2,000名を超える女性達が暮らしていて、それにそれ以上の数の男性達が勤務していたわけですから、そこから毎日排出される糞尿の量も半端な量ではありませんでした。しかも、庶民よりもいいものを食べて排出される糞尿なわけですから良質とされ、高く売れたわけです。
その江戸城の便所の汲み取りと糞尿の処理をする権利を独占的に持って膨大な財を築いたのが、葛飾郡葛西領(東京都江戸川区)の葛西権四郎という人物でした。葛西氏は、鎌倉時代からの名門でしたが、家康の江戸入国の時に葛飾郡葛西領で土着の農民となりました。この時に幕府より汲み取りの権利と糞尿売買の権利を与えられたようです。
糞尿の汲み取りに限り葛西の百姓は江戸城内すべてフリーパス、将軍以外の男性立ち入り禁止地区、大奥まで堂々と入り込み汲み取りを行っていました。江戸城で汲み取った糞尿は内濠や外濠を使い、船で葛西まで運搬しました。糞尿を満載した船で堂々と堀を往来する、これも葛西の百姓だけの特権で、糞尿を運ぶ船は特別に「葛西舟」と呼ばれました。この船が来ると、あたりの船は岸に漕ぎ寄せて、道を譲ったのだそうです。まかり間違ってぶつかろうものなら、「畏れ多くも上様の……」と、将軍様の糞尿であることを盾にとって啖呵を切られたと言われています。ただ船の扱いが乱暴で、この船が通ると川が黄色く濁ったと言われています。それを「志留古保志(しるこぼし)」と呼びました。
ちなみに、江戸城内で汲み取られた糞尿を内濠を使って一箇所に集め、運び出していたのがこの竹橋で、ここから雉子橋から神田橋にかけて存在した河岸(荷積み・荷卸し場)から船に積み込まれ、日本橋川をはじめとした外濠を使って葛西まで運ばれていました。
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