2018年10月25日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その4)

田安橋を渡り内堀通り(靖国通り)の反対側は九段坂と呼ばれるところで、ここは現在靖国神社になっています。その手前の内堀通りに出たところにちょっとモダンなスタイルの高燈籠(常燈明台)が建っています。この高燈籠は靖国神社正面の常夜灯として明治4(1871)に建設されたものです。靖国神社(当時は東京招魂社)に祀られた英霊のために建てられたものだと言われています。正式には高燈籠と言いますが、常燈明台とも呼ばれています。当時、九段坂の上からは遠く筑波山や房総半島の山々まで見渡すことができ、品川沖を行き交う船にとっては大変良い目印として、灯台の役目も果たしました。当初は靖国通りを挟んで反対側に建てられていましたが、道路の改修に伴い、昭和5(1930)に現在の地に移設されました。


その高燈籠の隣に幕末から明治期にかけて活躍した2人の人物の銅像が建っています。

手前に建っているのが品川弥二郎の銅像です。前面に「子爵品川弥二郎像」、背面には元帥海軍大将侯爵西郷従道(西郷隆盛の実弟)を発起人として2,845人の人達がお金を出し合ってこの銅像を建てたことが刻まれています。そしてこの銅像の製作監督は、上野恩賜公園にある西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の製作監督も務めたあの近代日本を代表する著名な彫刻家・高村光雲です。


品川弥二郎は天保14(1843)、長州藩の足軽・品川弥市衛門の長男として生まれました。15歳で松下村塾に入門。安政6(1859)に安政の大獄で吉田松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行しました。元治元年(1864)の禁門の変では八幡隊長として参戦。慶応元年(1865)、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力しました。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。明治維新後の明治3(1870)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学。帰国後、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔(次官)、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任しました。明治17(1884)、維新の功により子爵を授けられ、明治24(1891)に第1次松方内閣の内務大臣に就任しました。しかし、松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ、京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。また、ドイツで学んだことをベースに産業組合や信用組合の普及にも貢献。さらには、獨協学園(獨協大学)や京華学園の創立にも携わり、教育のためにも尽力しました。明治33(1900)、インフルエンザに肺炎を併発したことが死因で亡くなりました。享年58歳でした。

ここに品川弥二郎の銅像が建っているのは、明治10(1877)から亡くなる明治33(1900)まで、現在の九段下病院のあたりに屋敷を構えていたからだそうです。この間、明治19(1886)から明治22(1889)にかけてはこの品川弥二郎に屋敷の管理を任された柔道家の嘉納治五郎が道場をこの地に開いたこともあったのだそうです。

この品川弥二郎、幕末の志士の1人で、明治政府でも要職にも就きましたが、伊藤博文、板垣退助、大隈重信という明治時代に活躍した他の有名政治家と違い、歴史の教科書にはほとんど取り上げられることもないほとんど無名の人物ではあるのですが、あの西郷従道(西郷隆盛の実弟)を発起人として2,845人の人達がお金を出し合ってこの銅像を建てたということは、よっぽどの人格者で、多くの人達から愛された(慕われた)人物だったってことなのでしょう。

その品川像のすぐ隣には騎乗姿の「元帥陸軍大将大山巌公像」という銅像が建っています。


大山巌は天保13(1842)、鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩の下級藩士・大山彦八の次男として誕生しました。幼名は岩次郎。通称は弥助。西郷家は父の実家であり、西郷隆盛・従道とは従兄弟にあたります。妻は吉井友実の長女沢子、後妻は薩摩軍が倒した会津藩士族出身の捨松で、二人の結婚は当時、大きな話題になりました。ちなみに、捨松の兄弟(すなわち会津藩士)には陸軍少将になった山川浩、東京帝国大学の総長になった山川健次郎がいます。

西郷隆盛に弟同様に可愛がられ、その強い庇護もあってか薩摩藩内での昇進が早かったようです。ただ、生家跡に掲げられている説明板に「下加治屋郷中の元気者」という文字が書かれているように、かなりヤンチャ者だったようで、下加治屋町郷中の先輩にあたる有馬新七等に影響されて藩内過激派に属したこともあったようです。文久2(1862)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山巌は帰国謹慎処分を受けています。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属されました。ここで西欧列強の軍事力の強さに衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾に入塾。黒田清隆らとともに砲術を学びました。

戊辰戦争期には西郷隆盛のもとで活躍。ことに砲術面で優れた成績をあげました。戊辰戦争後は「弥助(巌の幼名)砲」と呼ばれる国産改造砲の開発を担当するなどもしました。明治2(1869)、渡欧し、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリに入城するという経験をします。明治4(1871)に再び渡欧。パリ、スイスに住んでフランス語、砲術を学びました。帰国直後33歳で陸軍少将、陸軍少輔兼第1局長に就任します。

西南戦争では新政府に忠節を尽くして田原坂、城山攻防戦での勝利に貢献し、山県有朋に次ぐ陸軍での地位を決定的なものとしました。この西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった従兄の西郷隆盛を最後まで追い詰めて自死に追いやり、大山巌はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかったと言われています。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあったと言われています。

明治13(1880)、陸軍卿となり、以後は山県有朋の跡を追う形で参謀本部長、明治24(1891)には陸軍大将となりました。陸軍卿時代に陸軍省、参謀本部、監軍本部の鼎立体制を樹立し、また陸軍大学校開校、東京湾砲台建設を実現しました。明治17(1884)3度目の外遊をしてドイツとフランスに学び、帰国後陸軍大臣に就任すると、兵制をフランス式からドイツ式に転換を図る一方、鎮守府と要塞から成るフランス式海岸防備体制を採用しました。

砲術家としての大山巌は西欧の各種大砲、装備の積極的な購入採用に努めました。日清戦争(1894年~1895)では山県有朋の第1軍司令官に対する第2軍司令官を務め、日露戦争(1904年~1905)では山県有朋の参謀総長に対する総司令官を務めました。この間、明治31(1898)には山県有朋とともに元帥に列し、明治40(1907)には山県有朋の侯爵よりも高い公爵の位を与えられました。これは宮中方面で大山巌に対する評価が極めて高かったことが窺われるエピソードです。

胆力に富んだ大山巌は、部下の能力を引き出すのが非常に上手かったと言われています。日露戦争では、初め参謀総長として戦争準備を行い、開戦後は満州軍総司令官として最前線での指揮を執りました。 渾名は「ガマ坊」と呼ばれ、茫洋とした風貌から児玉源太郎がつけたと言われています。総司令官親補にあたって明治天皇が「山県有朋との声もあったが、お前の方がのんびりしていて良いのだそうだ」「するとお上、大山はぼんやりしているから良いと言う風に聞こえますが」と大山が笑いながら言うと、「まあ、そんなところだ」と明治天皇は声をあげて笑われたというエピソードも残っています。しかし、出征にあたって「作戦は児玉をはじめ勇猛な指揮官がいるから大丈夫。しかし、負け戦の時は私が指揮をとります」と言い、大軍を統率する理想のタイプとされました。大陸進出後は作戦を児玉源太郎総参謀長以下の幕僚にまかせ、縦横に腕をふるわせました。その一方で、奉天会戦の後、児玉源太郎大将を直ちに内地に送り講和の機会を図るなど、政治的視野も広い人物であったと言われています。

大正5(1916)、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。1210日に内大臣在任のまま死去しました。享年75歳でした。1217日に営まれた国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えられました。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山巌と後の東郷平八郎の二人だけです。遺体は鹿児島ではなく、別荘のあった栃木県の那須に葬られています。

日露戦争時の満州軍総司令官ということは、NHK特別大河ドラマにもなった司馬遼太郎先生の長編歴史小説『坂の上の雲』の3人の主人公の中の1人で、私が最も敬愛する歴史上の人物である秋山好古陸軍大将(日露戦争時は中将)の直属上司ってことですね。大の『坂の上の雲』ファンの私としては、実は西郷隆盛や大久保利通よりも大山巌元帥のほうに、より親近感を感じてしまいます。

ですが、極めて優秀な軍人ではあったものの人間性に問題があったのか世の中的にはいまいち人気がない人物で、この場所に銅像が設置されているのにもその人気のなさが影響しているようです。私の妻はカゴシマーナ(鹿児島県の出身)ですが、「大山巌? 知らない!」って言うくらいです。西南戦争で政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった従兄の西郷隆盛を最後まで追い詰めて自死に追いやったことが郷里の鹿児島県人の不興を買っているようです。

この銅像は、大山巌の没後3年後の大正8(1919)11月に建てられたもので、当初は国会議事堂の向かい(現在は憲政記念館)にあった陸軍省と陸軍参謀本部の北地区洋式庭園に建っていました。ちなみに、同じ元陸軍帥の山県有朋の騎馬像もこの場所にありました。第二次世界大戦の開戦となった昭和16(1941)、陸軍省と陸軍参謀本部は市ヶ谷台(現在の防衛省の場所)に移転します。その時、大山巌と山県有朋の像は、上野の美術館に保管されました。これは同年に公布された「金属類回収令」で銅像を供出するのを避けるためだったとされます。

終戦後、上野の美術館も保管する必要がなくなったので、新たな引き取り手と設置場所を探したのですが、誰もその名乗りをあげず、戦後24年が経過した昭和44(1969)になって、この現在の場所に設置されることになりました。理由は単に置けるだけのスペースがあったからだと言われています。銅像にはなんの文字も刻まれてなく、像から少し離れたところに「元帥陸軍大将大山巌公像」という案内標が立っています。この微妙な距離感がなにかを物語っているように思えます。


なお、同じく陸軍元帥だった山県有朋も昔から国民に人気がなく、銅像のほうも設置したがる団体や自治体がなかったようで、戦後はこの像の作者が井の頭自然文化園のアトリエで預かりました。そして平成4(1990)になって、ついに生まれ故郷である萩市に引き取られ、現在は萩の中央公園に設置されているのだそうです。



……(その5)に続きます。

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