竹橋の右手は内濠の1つ清水濠です。清水濠に沿って江戸城の内濠を巡ります。ここまではしばらく「外堀通り」に沿って歩いてきたのですが、ここからは横を通る道路が「内堀通り」に変わります。内堀通りは皇居北東にある平川門から九段下、半蔵門、桜田門、祝田橋、二重橋前、大手門の各交差点を経由して再び平川門に戻る一周約6kmの両方向環状道路で、皇居を中心とする東京都の環状道路の中では最も内側に位置する道路です。東京という大都会の中心にありながらも歴史と風景の美しさを楽しめることから、昭和61年(1986年)に「城郭と高層ビルの道」として日本の道100選のひとつに選定されています。その美しい江戸城の内濠と城郭(石垣)が右手に広がっています。
この清水濠を挟んだ向かい側が江戸城の北の丸で、特にこのあたりは御蔵地になっていました。この御蔵地とは江戸幕府の年貢米,買上げ米の貯蔵庫のことです。
さすがに江戸城内濠。見事な石垣です。遠くに日本武道館の特徴的な屋根が見えています。
清水御門(清水橋)の門前のこのあたりに、有名な火付盗賊改方長官・長谷川平蔵
宣以(のぶため)の役宅がありました。長谷川平蔵は池波正太郎さんの小説『鬼平犯科帳』、およびそれを原作としたテレビドラマ『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに広く知られています。
長谷川平蔵宣以が火付盗賊改方長官であったのは天明7年(1787年)から寛政7年(1795年)までの8年間。火付盗賊改方長官に就任する直前の天明3年(1783年)には浅間山が大噴火を起こし、加えて折からの大飢饉による農作物の不作により、凄まじいインフレが起きた時代でした。各地で打ち壊しが頻発し、世情は酷く不穏でした。天明6年(1786年)には田沼意次の失脚を受けて、天明7年(1787年)には松平定信が老中に就任し、「寛政の改革」が始まりました。このような経済不安から世情は大いに不安定となり、犯罪が増加し、しかも凶悪化していったようです。長谷川平蔵が火付盗賊改方の長官となったのはそのような時代背景の中ででした。
寛政元年(1789年)、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせました。また、寛政3年(1791年)には、江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首に処しました。そんなこんなで江戸の町の治安回復に大いに功績があったということで、庶民からは非常に人気があったようです。
江戸時代のお奉行としては『大岡越前』として知られる大岡越前守忠相、『遠山の金さん』で知られる遠山金四郎景元の2人がいますが、大岡越前守忠相が亡くなったのが
宝暦元年(1752年)、遠山金四郎景元が誕生したのが寛政5年(1793年)ですので、『鬼平』こと長谷川平蔵宣以が火付盗賊改方長官として活躍したのは『大岡越前』と『遠山の金さん』のちょうど間の時代ってことになります。いつの時代も庶民はヒーローを求めていたってことですね。ちなみに、長谷川平蔵宣以も若い頃は遊郭に通いつめるなど、放蕩を繰り返していたようです。
清水御門に向かう清水御門橋を渡ります。この清水御門橋は土橋、すなわち堰き止めダムになっていて、向かって左側が清水濠、右側が牛ヶ淵です。この濠と淵の違いですが、“淵”はダム工事によってそこを流れていた小河川を堰き止めて造成したもの。言ってみれば、自然の力を利用して作られた池。“濠(堀)”は文字通り人の手によって掘って作られた池ってことです。牛ヶ淵は、現在の日本橋川(旧名平川)の右岸にあった河岸段丘と武蔵野台地東麓部の湧水線との間の低地に水を溜めたものなのだそうです。
清水御門橋は堰き止めダメである土橋なので、よく見ると向かって左側の清水濠と、右側の牛ヶ淵で水面の高さがかなり違います。その差は2~3メートルほどでしょうか。牛ヶ淵のほうがかなり水面が高いのが分かります。そのため、「落とし」と呼ばれる水位の調整用の取水口(水門)が設けられていました。清水橋の場合は、清水御門に近いところにその「落とし」はあります。江戸時代のまま現存する珍しい石垣式の取水口(水門)です。写真の左側が牛ヶ淵側、右側が清水濠側です。牛ヶ淵側がある程度の水位になると、清水濠に水が流れる仕組みになっています。清水濠側では水位の違いから水が流れ落ちる構造になっているので、「落とし」と呼ばれていました。
清水御門です。清水御門は北の丸北東部に位置する門で、創建年代は明らかではないのですが、慶長12年(1607年)に、北の丸の普請が行われていたことから、この時期に建てられたものと考えられています。現在の清水御門が建っているあたりは、中世には清水寺があったといわれ、江戸時代には江戸城の一画に取り込まれ、北の丸への出入口として利用されました。門の名称は清水寺があったことによるようですが、その清水寺の名称はこのあたりに清水が湧出していたことに因むのだそうです。北の丸は、武家地として利用され、江戸時代中期以降は、御三卿のうち田安家(田安徳川家)・清水家(清水徳川家)の屋敷と蔵地に利用されました。
清水御門は、寛永元年(1624年)、備中国足守藩主(後の安芸国広島藩初代藩主)浅野長晟(ながあきら)によって改築され、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」で焼失したため、翌・万治元年(1658年)に修復されたものです。昭和36年(1961年)に「旧江戸城清水門」として国の重要文化財に指定されており、現在は「江戸城跡」として国の特別史跡にも指定されています。(ちなみに、櫓門の上部だけは復元によるものです。)
清水門は典型的な枡形門の構造をしています。枡形門とは、城門の内側にL字形の城壁を設け、開いている辺に城門を構え、曲輪(くるわ)内に入るのに2つの門を通らないといけないような構造にした門のことで、外側に設けられた門のことを高麗門、内側に設けられた門のことを櫓門と言います。枡形の外の濠側には石塁や柵がいっさい設けられていません。それは高麗門の上から攻撃するためで、寄せてくる敵を濠に追い落とすためなのだそうです。
高麗門へ向かう石段は当時のもののままなのですが、整然と並べられた石段ではなく、石段の段差もまちまちで、使われている石の大きさもまちまち。これは敵の進軍の速度を弱まらせるためで、敢えて歩きにくくしているのだそうです。確かに歩きにくいです。
高麗門の中です。欅(ケヤキ)の柱に檜(ヒノキ)の板張り。江戸城が完成する以前に日光東照宮という一大建築物も落成しており、これだけ大きな欅(ケヤキ)の木を用いた建物は、この後、もうどこにもありません。大変に貴重なものです。
扉の釣具は銅製で、「寛永元年 九州豊後住人 御石火矢大工 渡辺石見守康直 作」と作者の名前が刻まれています。“石火矢大工”とは大砲作りの職人のこと。当時の大砲は銅製で、かなり高度な銅の加工技術があったようで、400年近く経った今でも寸分の狂いもなく重い城門の扉を支えています。作者の渡辺康直はその見事な腕前から、職人でありながら渡辺の苗字と石見守という官名を与えられ、大名として取り立てられた人物で、その後代々、渡辺家は江戸幕府の大砲製造の役を担いました。
櫓門を潜って左に曲がると、江戸時代そのままの「雁木坂」が残されています。この雁木坂、石段になっているのですが、この石段が登りにくいことこの上ないのです。ところどころ一段が異常に高くなっているところもあったりして、注意しながら登らないと危険ですらあります。これももちろん敵の進軍の勢いを弱まらせるためで、軍事目的で敢えてそういう風に作られているのだそうです。ところどころ雑草が生えていたりして、「ツワモノどもが夢の跡」的な雰囲気を醸し出していて、情緒たっぷりなところです。
この雁木坂を登った上からは枡形門である清水御門の全貌がよく分かります。
そうそう、この清水御門と次に訪れる田安御門は江戸城の遺構の中でただ2箇所だけ宮内庁所管以外のものです。従って、屋根瓦等に徳川将軍家の家紋である「三つ葉葵」が刻まれています (それ以外は天皇家の御紋章である十六八重表菊のいわゆる「菊の御紋章」が刻まれています)。
菊の御紋章と言えば、文久元年(1861年)、時の孝明天皇の異母妹にあたる皇女和宮が第14代将軍徳川家茂の正室として降嫁なされた時、通常大奥が使用する平川御門ではなく、この清水御門が使用されました。それは、当時、大奥内にまだまだ公武合作に反対する勢力がいて、それを鎮めるまでの一時期、清水徳川家に逗留するためでした。従って、あの皇女和宮もこの歩くのも難しい坂を登ったことになります。その後、大奥の混乱も鎮まったので、清水御門を出て、正式に平川御門から大奥に向かわれました。その時は道の両側には緋と紺の鍛子の幕を張りめぐらし、白昼ながらも灯を点じた台提燈を一間おきに立て並べ、その中を牛に引かせた御所車で進まれたそうです。文久3年(1863年)に江戸城本丸が炎上した際にも、将軍徳川家茂と正室和子(静寛院宮)はこの清水御門から清水徳川家に避難しました。
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