鶴川橋を渡ると、まだ新しい「これより甲州街道
鶴川宿」の石碑、水天宮と刻まれた石仏、史跡案内図などが橋のたもとに置かれています。鶴川を渡る手前で分岐した江戸時代初期の旧甲州街道もここで合流します。このあたりに鶴川宿の江戸方(東の出入口)がありました。
鶴川宿内は緩い登り坂となっていて、現在でも宿場の面影が微かに残っています。川の流れのたもとに開けたこの宿場は旅人の疲れを癒してくれたであろうと想像してしまうほど、のんびりとした風情を感じさせるところです。ほっとさせる町並みが印象的な宿場です。
鶴川宿は正徳3年(1713年)に誕生した宿場で、幕末期の天保14年(1842年)の記録によると戸数57軒、人口295人で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠上3軒、中3軒、下2軒の小さな宿場でした。旅籠に上中下のランクがあったとは初めて知りました。鶴川宿は明治と大正の時代に大火に繰り返し見舞われ、古い家屋はほとんど残っていません。
宿場の真ん中左手の少し小高い場所に鶴川神社があり、牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)の像が祀られています。旧甲州街道をはずれて、鶴川神社を参拝します。少し険しい石段を登り、牛頭天王宮を参拝します。
鶴川神社の裏手には「駒つなぎ石」があります。説明書きによると「この石は江戸時代甲州街道鶴川宿が賑わった頃、小澤家の庭先にあり、旅の人に愛されておりました。往時を偲ぶ文化財として保護するため、平成元年にこの地に移設しました。」とのことです。
秋葉神社が祀られています。秋葉神社は火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された神社で、宿場町ではよく見掛ける神社です。前述のように、鶴川宿は明治と大正の時代に大火に繰り返し見舞われたということなので、さしもの秋葉神社の霊験でも守り切れなかったということなんでしょう。
立派な石碑も立っていますが、なんの石碑かはよく分かりません。
登りは険しい石段でしたが、下りは迂回して脇の坂道を下りていきます。
また甲州街道歩きに戻ります。
昔の屋号が書かれた大きな家が並んでいます。瓦に澤田屋、村田屋…といった屋号が刻まれています。もと旅籠だった家屋と思われます。
ここがかつて脇本陣があったところです。当時、間口24間(約43メートル)、奥行き18間(約32メートル)という大きな家で、上段の間もある立派なお屋敷だったそうなのですが、大正10年(1921年)の大火で焼失したためどのような間取りであったかは不明なのだそうです。
名主の加藤家が営んでいた問屋場「若杦(わかすぎ)屋」の跡です。旧甲州街道はこの若杦屋のところで左に曲がっていました。枡形を形成していたのでしょう。
その若杦屋の隣はかつての富田本陣の跡です。往時の建物は大正10年(1921年)の大火で焼失したため、その後建て直したものらしいのですが、さすがに元の本陣、立派なお屋敷です。現在も住居として使われておられるようです。
この本陣の先が鶴川宿の諏訪方(西の出入口)でした。鶴川の宿場を抜けてすぐ、ヘアピン状に左の急坂の道に入ります。左手眼下に「鶴川宿」の街並みが見えます。
鶴川宿からは坂道を曲りながら上って行きます。
「これより甲州街道 鶴川宿」という案内板が立っていますが、鶴川宿の諏訪方(西の出入口)からは随分と登ってきました。矢印はやって来た方角を示しています。
この案内板を過ぎたあたりから、今度は緩い下り坂となります。
その緩い坂で森の中を少し下っていくと、やがて前方が明るく開けてきます。中央自動車道です。中央自動車道に当たった感じからすると、旧甲州街道は今は中央自動車道になっているところを通っていたようなのですが、今は切り通しとなって山が崩され寸断されてしまっているので、仕方なく中央自動車道の側道を歩きます。
夏の強い陽射しの中、しばらく側道を歩き、鳶ケ崎橋で中央自動車道を渡ります。橋の下を何台もの自動車が猛スピードで通り過ぎていきます。
……(その3)に続きます。
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