2018年10月1日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その7)

JR東京駅八重洲北口の横に遠山の金さんこと、名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」の跡を示す碑が建っています。TVドラマの『遠山の金さん』で、番組の終了間近になって悪人達のほぼ全員が金さん一人の手によって気絶させられ、その気絶した悪人達を同心達が捕縛するため「御用だ!!御用だ!!  北町奉行所だ!!  神妙にせぃ!!」と言いながらその場に駆けつける。後日、その捕縛された悪人達がお白洲に曳き出され、吟味に掛けられるのですが、奉行の遠山金四郎景元が「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の掛け声と太鼓の音と共に登場するところがこの北町奉行所でした。



遠山金四郎景元は寛政5(1793)、長崎奉行を務めた知行500石の旗本・遠山景晋の長男として生まれました。なので、大岡越前守忠相より100年ほど後の時代に活躍した人物です。天保8(1837)に作事奉行、天保9(1838)に勘定奉行(公事方)を経て、天保11(1840)に北町奉行に就任しました。遠山金四郎景元が北町奉行に就任した天保11(1840)に第11代将軍・徳川家斉が亡くなり、翌天保12(1841)からは(享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つと呼ばれた)幕府財政の再興を目的とした「天保の改革」が始まり、遠山金四郎景元も町奉行として老中首座の水野忠邦のもと、江戸市中においても華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止して、風俗取締りを強化していきました。しかし、遠山金四郎景元は町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立するようになりました。このため、南町奉行の矢部定謙は失脚、遠山金四郎景元も天保14(1843)2月、僅か3年で北町奉行を罷免され、大目付になりました。大目付への就任は表向きは栄転であり地位は上がったのですが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職でした。結局「天保の改革」は失敗、遠山金四郎景元が北町奉行を罷免された同天保14(1843)9月に老中水野忠邦が罷免。弘化2(1845)3月、遠山金四郎景元は南町奉行として返り咲きました。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことです。南町奉行は嘉永5(1852)に隠居して家督を嫡男の景纂に譲るまで続けました。遠山金四郎景元と言うと北町奉行のイメージが強いのですが、実は務めたのは南町奉行のほうが長かったのです。

TVドラマの『遠山の金さん』では、北町奉行、遠山金四郎景元が裁きの途中でそれまでの謹厳な口調とはガラリと変わった江戸言葉で、「やかましぃやい! 悪党ども!!  おぅおぅおぅ、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがってこの桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と一喝しながら片肌脱ぐと、そこには桜吹雪の彫り物がってのがお約束の定番になっているのですが、これはあくまでも後世の人が講談や歌舞伎、小説、映画やテレビの時代劇で作り上げられたフィクションに過ぎません。

実際、遠山金四郎景元が北町奉行としてTVドラマで描かれているような名裁きをしたという具体的な記録はほとんど残っていません。そもそも前述のように江戸時代は現代のように三権分立が確立していない時代で、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅していました。南町奉行所のところでも書きましたが、言わば町奉行は東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であって、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかありませんでした。ましてや天保の改革の真っ最中。なので、激務の合間に自ら潜入捜査を行い、事件の真相と黒幕を突き止める…なぁ〜んてこと、とてもじゃあないけど、できるような話ではありませんでした。やったとしたら、大都市江戸の行政が滞ってしまって、大変なことになった筈です。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施に反対し、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する姿は江戸の町民に好感をもって迎え入れられ、江戸の町民の側に立った名奉行として謳われるようになり、数々のエピソードが創作された…と想像できます。また、当時から裁判上手だったという評判は残されており、名裁判官のイメージの元になったエピソードも幾つか存在します。

ただ、遠山金四郎景元は青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたという伝聞が残っています。これが有名な「桜吹雪」に繋がります。大岡越前守忠相は大岡家の四男、遠山金四郎景元は長男ではあったものの遠山家の分家の長男。どちらも平時であれば出自としては偉くなるような人物ではなかったので、若い頃は武家の子息としてはかなりのヤンチャなことをやっていたようです。庶民と交わることで、庶民の暮らしぶりや苦悩を知り、その時の経験が町奉行になってから活かされ、名奉行と呼ばれるまでになったのではないかと想像されます。加えて、大岡越前守忠相は享保の改革、遠山金四郎景元は天保の改革…と、大きな変革を要する時期だったからこそ、この2人が町奉行という江戸幕府にとって重要な役職を託されるに至ったのではないかと思います。そういう意味で、江戸幕府は人材登用において、かなり進んだ組織だったように思えます。

それにしても、そんな限られた人数で、当時世界最大の大都市だった江戸行政・司法全般を担っていたとは。見方を変えると、それだけ当時の江戸って治安が良かったってことなのでしょうね。打ち首獄門の死刑囚に対しても処刑前にその姿を晒す「晒しの刑場」が日本橋のところにあったり、市中引き回しの上…なんて面倒くさいこともやったりしたのも、悪いことをするとこうなるよ…ということを民衆に知らしめるということで、治安の引き締めを行ったということなのでしょう。ある意味合理的で、素晴らしいことだと私は思います。

まったくの余談ですが、TVドラマ『遠山の金さん』で主人公の北町奉行・遠山金四郎景元を演じた俳優さんは中村梅之助さん、市川段四郎さん、橋幸夫さん、杉良太郎さん、高橋秀樹さん、松方弘樹さん、松平健さん、さらには最近ではスペシャル番組でTOKIOの松岡昌宏さんなどがいらっしゃいますが、私は断然松方弘樹さんが好きでした。なんと言っても、遊び人の金さんとして松方弘樹さんが一番粋でしたし。

さらに余談ですが、私が大好きだった藤田まことさん主演のTVドラマ『必殺仕事人』シリーズ。その中で藤田まことさんが演じた中村主水(なかむらもんど)は北町奉行所の定町廻り同心という設定でした (すなわち、ここが勤務先だったのですね)。定町廻り同心とは江戸の町奉行所配下の役人の名称で、同じく江戸市中を巡回して警備と犯人の探索逮捕を行う臨時廻り、隠密廻りとともに「三廻り」と総称された捕り物(警察)の花形でした。通常江戸を4コースに分け、中間(ちゅうげん)1人と23人の岡引(おかっぴ)きを引き連れて歩き、髷(まげ)を小銀杏(こいちょう)に結い、竜紋裏の黒羽織を着流して、腰に大小と朱房(しゅぶさ)の十手を背中に挟んでいました。途中各所の番所(木戸番、自身番)に立ち寄り、事件および懸案事項の有無を尋ね、必要とあれば犯人逮捕に向かいました。

定町廻り同心は江戸では6名で組織し、南北両町奉行所あわせて12人の同心で勤めていました。広い江戸市中の取り締まりをこの少ない人数で行うことは困難なことで、実際の取り締まりは同心の支配下にあった岡っ引や地域におかれた番所(木戸番・自身番)などが担っていたようです。劇中では中村主水は典型的な「昼行灯」として描かれていましたが、まぁ〜、激務このうえない役職だったわけで、“裏稼業”をやってる時間などなかったのではないでしょうか。南北両奉行所が月替りで業務にあたっていたので、裏稼業は非番の月にでもやっていたのでしょうかねぇ〜?

また、中村主水は仲間からは主に「八丁堀」と呼ばれていました。現在、東京メトロ日比谷線とJR京葉線に八丁堀駅がありますが、そのあたりの地名です。当時は現在の八丁堀から日本橋茅場町、日本橋兜町までを含めた広い範囲を通称して八丁堀と呼んでいました。神田と日本橋との境界となっていた堀の長さが約8(873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀の名称に由来して町名がつけられたのだそうです。江戸時代の初期には、この一帯には多くの寺が建立され、寺町を形成していたのですが、寛永12(1635)、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられ、その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったといわれています。中村主水も八丁堀組屋敷に住んでいる設定になっていたということのようです。

『必殺仕事人』シリーズは現在も続いていて、主人公の渡辺小五郎役を、大岡越前同様、俳優の東山紀之さんが演じておられます。この渡辺小五郎は中村主水に似た設定になっていますが、架空の本町奉行所の同心ということになっています。今年(2018)17日に放映されたスペシャルドラマ『必殺仕事人2018』には藤田まことさんも久々に中村主水役でビデオ出演なさっていました。ちなみに、藤田まことさんは2010年に76歳でお亡くなりになっています。

それにしても、主にエレキギターやトランペットが軽快に主旋律を奏でる『必殺仕事人』シリーズのオープニングテーマ曲や劇中曲はどれも実に素晴らしい名曲揃いでした。聴いているだけでテンションが上がってきます。作曲は平尾昌晃さん。さすが、いい“仕事”をなさっておられます。

加えて、『大岡越前』、『木枯らし紋次郎』、『水戸黄門』もそうでしたが、芥川隆行さんの独特の節をつけたナレーションがとにかく秀逸でした。実は私、時代劇って大好きなんです。

北町奉行所の東方には寛永13(1636)に築かれた江戸城の外堀がありました。現在この地域の外堀は常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残るだけですが、JR東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名称などに名残りを留めている程度です。北町奉行所も約2,560坪の広大な敷地があったようで、JR東京駅の東にあり外堀通りに面する丸の内トラストタワーN館にも北町奉行所跡の碑があり、かつて存在した外堀をイメージした石積みが再現されています。その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時のままの形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴が見られます。またその北町奉行所跡には敷地の北東部の溝から発掘された角を削り面取りした石が展示されています。これは風水的に屋敷の鬼門にあたる艮(うしとら:北東)の方角を護る呪術的な意味が込められていると言われています。

この北町奉行所は元々は常盤橋御門内にあったのですが、この呉服橋御門内に移ったのは文化3(1806)のことです。それ以前にこの場所に屋敷を構えていたのは、『忠臣蔵』で赤穂浪士に討ち入りをされた高家旗本の吉良上野介義央でした。『忠臣蔵』で赤穂浪士が討ち入ったのはこの「江戸城外濠内濠ウォーク」の【第1回】のスタートポイントであった両国に近い本所松坂町の吉良邸でした。ですが吉良上野介義央が本所松坂町の屋敷を幕府から拝領して吉良家の上屋敷としたのは、浅野匠頭守による殿中刃傷事件があった半年後後の元禄14(1701)93日のことで、それまでの屋敷はここにありました。この吉良邸の本所松坂町への移転は、江戸幕府によって計画的に行われたという説が有力となっています。時系列で振り返ってみますと……

江戸城松の廊下において播磨国赤穂藩藩主・浅野匠頭守長矩による殿中刃傷事件があったのは元禄14(1701)314日の午前10時過ぎのこと。浅野匠頭守長矩は事件から約3時間後の午後150分頃に奏者番であった陸奥国一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けとなり、午後610分頃、幕府より即日切腹・改易の沙汰が下され、田村邸で切腹しました。この間、浅野匠頭守長矩に申し開きの機会も与えられませんでした。これは第5代将軍・徳川綱吉が朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、加害者である浅野匠頭守長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決したとされています。

その半年後の元禄14(1701)93日に、江戸城に近い呉服橋御門内のこの場所にあった吉良邸を、江戸郊外の本所松坂町に移転させたわけです。これには幕府による謀略の跡が垣間見えます。幕府は赤穂浪士たちの吉良邸討ち入りに関して黙認を決め込んでいたとしか思えません。「どうぞ、吉良邸に討ち入って下さい」といわんばかりの対応です。

外濠の内側、江戸城に近い呉服橋御門内で討ち入り騒動が起きたとなれば、幕府の治安維持の姿勢が疑われますし、権威の失墜にも繋がります。また、浪士たちが討ち入りした場合の火事の発生も心配でした。そのぶん、討ち入りの場所が隅田川を両国橋で渡った先の本所松坂町ならばその心配はありません。遠かったためと言い訳もききます。実際、当時、吉良邸の隣に屋敷を構えていた阿波国富田藩・蜂須賀家は浪士たちが吉良邸に討ち入った時の対処方法を幕府に尋ねているのですが、幕府は「一切かまわずに、自邸を守るように」と答えているのだそうです。

刃傷事件のとき、幕府は吉良に肩入れしたのにもかかわらず、手のひらを返したようなこの吉良に対する薄情とも言える対応を、何故幕府がとったかというと、

①江戸城松の廊下における播磨国赤穂藩藩主・浅野匠頭守長矩による殿中刃傷事件の背景には吉良上野介義央の今で言うところのパワーハラスメントがあったのではないか…ということは広く知られることとなり、刃傷事件に対する幕府の裁定が、あまりにも性急で不公平な裁定であったため、世間の評判が極めて悪かったこと。
②生類憐みの令や貨幣改鋳などの幕政に対する不満、災害の続発により社会不安に拍車をかけていたこと。
③大名取り潰しによってただでさえ江戸の町には行き場を失った浪人が溢れかえっており、不満や不安が渦巻く社会の中で、浪人たちが結集して幕府に歯向かうとも限らないと危惧されたこと。

などが挙げられます。これらのことから幕府はこれ以上の反発を招きたくなかったわけですが、世間の赤穂浪士たちの同情に反比例して、世間の幕府に対する評価は下がる一方でした。これには幕府も焦っており、このまま吉良に肩入れを続ければ、幕府に対する世間の不満はますます増大するのではないかと危惧したのでしょう。ゆえに幕府は吉良を見捨てることに方針転換したと考えられます。吉良は幕府に対する世間の不満を解消するためのスケープゴードにされたのではないでしょうか。

幕府は浪士たちが吉良上野介を襲撃することはうすうす感づいていたようです。家老の大石内蔵助が先頭に立って進めていた浅野内匠頭の弟・浅野大学による浅野家再興の願いが叶わず、その後、浪士たちが続々江戸に集結していることを幕府が事前に察知していない筈はありません。それにもかかわらず、幕府は浪士に対する警戒を特に強めてはいませんでした。そして、運命の元禄151214(西暦では1703130)を迎えることになるわけです。

余談が思いっきり長くなってしまいました。北町奉行所の項、「これにて一件落着!  …です。


……(その8)に続きます。

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