2019年1月9日水曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その3)

121()、さぁ〜て、今日・明日は待ちに待った『大人の修学旅行2018in出雲松江』です。

朝の散歩で米子城址を散策してきました。実は米子に米子城があるのは米子にやって来るまで知りませんでした。しかし、宿泊したANAクラウンプラザホテル米子の部屋の窓から目の前にデェ〜ン!と立派な石垣が見えたので、こりゃあ訪ねてみなきゃあなるまい…との思いに駆られ、朝の散歩で訪ねてみることにしました。


この米子の地は、戦国時代末期には伯耆国西部は出雲の東部とともに毛利氏の家臣・吉川広家が治めていました。慶長5(1601)、徳川家康により、伯耆国175千石の領主として中村一忠が封せられ、翌慶長6(1602)に米子城を築城しました。藩主中村一忠は11歳と幼少だったため、執政家老・横田村詮が新たに米子藩城下町を建設し藩政を治めました。慶長14(1609)、藩主中村一忠が急死し中村家は断絶。翌慶長15(1610)に加藤貞泰が入城しました。



近江国(滋賀県)出身の有名な陽明学者・中江藤樹(近江聖人と呼ばれる)は米子藩主加藤氏の家臣の中江家に養子に入ったため少年期をこの米子で過ごしたのですが、元和3(1617)に加藤氏が伊予国大洲藩へ移封になったことに伴い米子を去っています。その後、米子藩は鳥取藩(325千石)藩主の池田氏が治めることとなり、米子藩は廃藩。寛永9(1632)以後は、池田氏家老の荒尾氏が明治維新に至るまで駐在し、自分手政治(鳥取藩が藩内統治の一環として家老職にある家に藩内の重要な拠点の町を委任統治させたこと)を行いました。


米子城は標高90メートルの湊山と峰続きの丸山、湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と山麓部に曲輪が設けられた、山陰地方で最も古く築かれた近世城郭です。登城口から本丸へは江戸城の清水御門でも見られるような段差がマチマチの非常に登りにくい構造をした雁木石段が続きます。朝の散歩のつもりだったのですが、はっきり言ってこれは登山です。登りはじめてちょっと後悔。


前述のように米子城の本丸は標高90メートルの湊山の頂上にあります。歩きにくい雁木石段の坂道を登り続けること約20分。12月の朝ですので気温は肌寒いくらいなのですが、全身から汗が噴き出してきます。ちょっとメゲかけてきたと思った頃に急に目の前が開けて、本丸の石垣が見えてきました。


「鉄御門(くろがねごもん)跡」の標柱が立っています。ここを上がったところが本丸です。


一汗かいたところで本丸に到着。湊山山頂に位置する本丸からは西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できます。


こちらは中国地方最高峰の大山です。標高1,729メートルの成層火山で、その山容から伯耆富士とも呼ばれています。


本丸には大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれていました。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残っています。米子城の大天守(天守閣)は独立式望楼型45階の天守で、高さが約21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守閣(22)や三階櫓をもしのいでいました。本丸の建物群は明治6(1873)に取り壊されました。


下りは上りとは別の道を通ることにしました。上りは歩きにくい構造をした雁木石段の道だったのですが、下りの道は比較的整備された歩きやすい道でした。勾配も上りの道よりはキツクありません。もしかしたら、こちらの道のほうが正規の登城口なのかもしれません。


城山をかなり下ってきました。目の前の中海では鳥取大学のボート部の学生さんたちでしょうか、ボートの練習をしている様子が見えます。舵手付きフォアや2人乗りのダブルスカル、1人乗りのシングルスカルといった小型艇ばかりですが、結構速いです。中海は内海で波が静かなので、ボートの練習には最適でしょうね。



登る時にはあまりに足元が悪くて路面ばかりを見ていたので気付かなかったのですが、湊山(米子城址)は紅葉が進んでいて綺麗です。時々、散歩で登ってくる地元の人達とすれ違います。こちらが正式な登城ルートのようですね。下りきったところに「湊山公園案内図」と「米子城の沿革」と題した案内看板が立っていました。「湊山公園案内図」には、私が下ってきた登城ルートのことを「登山道コース図」と称して記されています。確かにこの米子城址探訪は、朝の散歩というより、ちょっとした“登山”ではありました。


朝から私のスマホには高校時代のクラスメイトから次々とラインメールが入ってきます。みんなそれぞれの交通手段で『大人の修学旅行2018in出雲松江』の集合場所であるJR出雲市駅に向かっているようです。私と同様、松江市に前泊して朝から松江市内を散策している人もいるようですし、東京から早朝に深夜高速バスで松江市に到着して、同じく早くも松江市内を散策している人もいるようです。それではと私もホテルをチェックアウトして、JR米子駅に向かいます。米子駅からJR西日本の「特急やくも5号」出雲市駅行きに乗ります。この特急やくも5号は岡山駅始発で、岡山駅からは(瀬戸大橋線で瀬戸内海を渡ってやって来た)地元香川県在住組や(山陽新幹線を利用してやって来た)関西地方在住組といった今回の『大人の修学旅行』参加者の主力が乗ってきているので、彼等と米子駅で合流します。さぁ〜て、ここから完全に“エッちゃん(高校時代の私の愛称)モードに切り替えます。

とは言え、米子駅までの途中にどうしても立ち寄りたいところがあるので、そこに立ち寄りました。それがこれ、国内に現存する“最古の四輪木製三等客車”と言われる旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道の「フ50形フ50号付随客車」です。鉄ちゃんはの香りがするところは絶対に見逃しません! と言うことで、米子でも、もちろん鉄ちゃん、やっていました。


旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道は、大正13(1924)に営業が開始され、米子市と南部町間の路線12.4キロメートル(支線を除く)を運行していた地方鉄道です。営業開始から「法勝寺電車」の名前で親しまれ、昭和42(1967)の廃線にいたるまで、地域住民の交通手段として利用されてきました。この法勝寺電車の資料として、米子市には客車「フ50形フ50号付随客車」1両が残っています。また、南部町には電動客車「デハ201203号電動客車」1両のほか、車両の運転関連資料、線路の保守・点検関連資料等が残っており、これらが鳥取県の保護文化財に指定されています。


米子市の元町パティオ広場に残る客車「フ50形フ50号付随客車」は、明治20(1887)にイギリス・バーミンガムの車両工場で製造されたもので、国内に現存する最古の四輪木製三等客車です。この客車の原形は、座席が進行方向に直行する「区分席型」(いわゆるクロスシート)で、のちにロングシート化するための車両改造が施されていますが、現在でも当初の外観を良く留めています。また、室内には屋根のアーチ桁がそのまま残っており、車体構造面からも貴重な産業遺産といえます。最大長さは8.00メートル、最大幅は2.59メートル、最大高さは3.48メートル、重さ7.54トン、定員は50人です。


いいなぁ〜、渋い!!渋すぎです!!

「元町サンロード」と呼ばれる米子元町通り商店街です。「元町サンロード」と明るい響きの愛称がついているわりには道幅の狭い寂れた商店街なのですが、実はここが昔の「出雲街道」だったようで、そのことを示す道標も建っています。歩いていて「ここはもしや…」と雰囲気から察していたのですが、やはりそうでした。このところ旧街道歩きを趣味として、中山道や甲州街道などを歩いてきたので、この道が旧街道かどうかを嗅ぎ分ける嗅覚のようなものは、それなりに鍛えられてきているようです。



……(その4)に続きます。




0 件のコメント:

コメントを投稿

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...