『既存12天守』の1つ、国宝・松江城の天守閣です。
日本の歴史を語る上で外せないものの1つに「城」があります。特に、戦さがそこかしこで行われていた戦国時代(15世紀末〜16世紀末)、城は大名や藩主の政治上の拠点であり、居住の場所であり、攻守の要であり、城下や近隣の人々の命や生活を左右する、まさに命運が決せられる場所でした。城を取り合う、すなわち領地を取り合う戦さで国内の勢力図は書き換わり、歴史の流れが決まってきたようなところがあります。また、城を中心に町が出来、政(まつりごと)が行われ、都市として発展してきました。
かつて日本には25,000以上もの城が存在したと言われています。実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、その数には文書に残っているのみでその存在が証明されたのでもないものも含まれますが、それでも相当数存在していたことは確かです。しかし、数多くの戦さや、江戸時代に入ってからは藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていきました。
日本で最初に本格的な天守閣を備えた城は、織田信長が天正4年(1576年)に琵琶湖東岸の安土山に築城した安土城だと言われています。安土城は地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されています。城郭の規模、容姿は、「天下布武(信長の天下統一事業)」の象徴として、信長の威光を一目にして人々に知らしめるもので、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされています。日本の城の歴史という観点からは、安土城は南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝側の六角氏頼が篭もったとされる六角氏の拠城・観音寺城をモデルに、総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣の上に天守が建てられる構造の城でした。ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭のプロトタイプとなりました。そして、安土城の普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」は、その後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は日本中に広がっていきました。
(日本で最初に天守閣を備えた城としては、松永弾正こと松永久秀が永禄3年(1560年)に築城した多聞山城(奈良県奈良市)の天主(天守閣)や、同じく松永久秀が天文5年(1536年)に築城した信貴山城(奈良県生駒郡平群町)の4層の櫓がこれにあたるという説もあります。)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康が率いる東軍が勝利し、東軍の総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封や改易を行い、慶長8年(1603年)、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開きました。家康は慶長10年(1605年)に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させました。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣秀頼の居城・大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼすと、同年には「一国一城令」を発し、諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じました。これは諸大名、特に外様大名の多い西国の諸大名から軍事的な拠点を奪い、軍事力を削減するためのものであるとされ、数日のうちに約400の城が壊されたと言われています。
家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、諸大名の勢力を徐々に弱めていくことになります。特に、武家諸法度により新たな築城や増改築は基本的に禁止され、また、江戸時代を通じて災害などによる焼失や倒壊によって、その後は再建されなかった天守もあったため(江戸城・大坂城など)、天守閣を有する城の数は減少の一途を辿りました。あわせて、17世紀中期、第3代将軍徳川家光が死去し第4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換して、太平の時代を迎えていくことになります。
この江戸の太平の時代においても、城は様々な意味でその地域を治める藩の中心でした。現在の日本の都道府県庁所在地、47のうち実に30あまりの都市が元々城下町であった都市であり、現在でも(戦後再建されたものも含めて)城が町の中心にある場所も多く、城、特に壮麗な天守は市民達の心の拠り所、シンボルとして、散策や集いの場として愛され、また内外から数多くの観光客を集める場所となっています。
それでも、江戸後期にはおよそ200の城が残っていたとされています(天守を持たない城を含む)。しかし、幕末から明治にかけての戦乱や、さらにその後の明治維新期の明治4年(1871年)に明治新政府が行ったそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革、いわゆる「廃藩置県」と、明治6年(1873年)に出された「廃城令」により、全国のほとんどの城郭陣屋(いわゆる城)の建造物が取り壊され、土地は地方団体や学校敷地等として払い下げられました。中には姫路城や彦根城のように陸軍の兵営地等として保存されたものもあります。
その後も、天災や火災による焼失等でさらに天守を持つ城の数は徐々に減少の一途を辿っていきます。1940年代までは20城の天守が現存し、戦前・敗戦直後までは国宝保存法で国宝などの文化財に指定され『現存天守』と呼ばれていました。これら20の城の天守のうち昭和20年(1945年)に第二次世界大戦(大東亜戦争)でのアメリカ軍による空襲によって水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守が相次いで焼失し、昭和24年(1949年)に失火によって松前城天守が焼失してしまい、現在、文化財として見ることができる天守は残る12城の天守のみとなっており、『現存12天守』と総称されています。それ以外の現在見られる城は戦後新たに再建復興されたものです。天守や城郭が往時のまま現存している『現存12天守』は以下の12城です。
弘前城…青森県弘前市、築城年:慶長16年(1611年)、天守建造年:文化7年(1810年)、独立式層塔型3重3階の天守【重要文化財】
犬山城…愛知県犬山市、築城年:文明元年(1469年)、天守建造年:慶長6年(1601年)、複合式望楼型3重4階地下2階の天守【国宝】
松本城…長野県松本市、築城年:文禄3年(1611年)、天守建造年:慶長20年(1615年)、層塔型5重6階の大天守と3重4階の乾小天守・2重の辰巳附櫓と月見櫓を付属させた複合連結式の天守【国宝】
丸岡城…福井県坂井市、築城年:天正4年(1576年)、天守建造年:不明、独立式望楼型2重3階の天守【重要文化財】
彦根城…滋賀県彦根市、築城年:元和8年(1622年)、天守建造年:慶長11年(1606年)、複合式望楼型3重3階地下1階の天守【国宝】
姫路城…兵庫県姫路市、築城年:正平元年(1346年)、天守建造年:慶長6年(1601年)、望楼型5重6階地下1階の大天守と3重の小天守3基を2重の多聞櫓で連結させた連立式の天守【国宝】
松江城…島根県松江市、築城年:慶長16年(1611年)、天守建造年:慶長12年(1607年)、複合式望楼型5重6階の天守【国宝】
高梁城(備中松山城)…岡山県高梁市、築城年:仁治元年(1611年)、天守建造年:天和元年(1681年)、複合式層塔型2重2階の天守【重要文化財】
丸亀城…香川県丸亀市、築城年:慶長2年(1597年)、天守建造年:万治3年(1660年)、独立式層塔型3重3階の天守【重要文化財】
松山城…愛媛県松山市、築城年:慶長7年(1602年)、天守建造年:嘉永5年(1852年)、層塔型3重3階地下1階の大天守と2重の小天守1基・2重櫓2基を多聞櫓で連結した連立式の天守【重要文化財】
高知城…高知県高知市、築城年:慶長8年(1603年)、天守建造年:延享4年(1747年)、独立式望楼型4重6階の天守【重要文化財】
宇和島城…愛媛県宇和島市、築城年:天慶4年(941年)、天守建造年:寛文6年(1666年)、独立式層塔型3重3階の天守【重要文化財】
松江城はこの『現存12天守』の1つで、平面規模では2番目、高さでは3番目の規模を誇ります。城郭建築最盛期である慶長年間を代表する天守として、平成27年(2015年)7月に国宝に指定されました。明治6年(1873年)に出された「廃城令」により、全国の多くの城が取り壊される中、松江城も櫓や御殿など多くの建物はことごとく壊されたのですが、唯一、天守だけは旧松江藩士・高城権八や豪農・勝部本右衛門親子らの奔走によって取り壊しを免れ、以降も市民の手によって守られ、今日にいたっています。
松江城の天守は本丸中央の東寄りに南に面して建ち、外観は4重、内部構造は5階、地下1階の構造で、天守の南側の入り口には地下1階を持つ平屋の附櫓が付属しています。形式上は望楼型天守に分類され、2重の櫓の上に2重(3階建て)の望楼を載せた複合式望楼型と呼ばれています。2重目と4重目は東西棟の入母屋造で、2重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけています。天守入口の防御を固めるために設置された附櫓も入母屋造になっています。この附櫓は鉄延板貼りの大扉を持ち、中へ入ると2段構えの桝形の小広場が備えられています。
天守の壁面は1重目・2重目は黒塗の下見板張り、3重目・4重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りになっています。南北の出窓部分の壁は漆喰塗です。屋根はすべて本瓦葺きです。随所に矢や鉄砲を射かける“狭間”や、外壁を登ってくる敵に大きな石を落とす“石落とし”、窓などの開口部から城外の敵を攻撃する場合に上に乗って応戦をする台である“石打棚”などの防御装置を配し、実戦を強く意識した構造をしています。さすがは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人に仕えた歴戦の勇士・堀尾吉晴が築いた城郭です。
正面から眺めた時に目立つ天守の2重目と附櫓の入母屋破風は千鳥が羽を広げたような見事な曲線を描く三角形をしていて、天守の美観を構成する重要な要素となっています。この入母屋破風は、その上に載る望楼とともに桃山時代の様式を継承しています。この入母屋破風が千鳥が舞い飛ぶように見える美しいものであることから、松江城は別名「千鳥城」と呼ばれています。
内部構造的には、2つの階にまたがる通し柱を多用している点に特徴があります。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれ繋ぐ「通し柱」があり、側柱など外側部分には1階と2階、3階と4階を繋ぐ通し柱があります。二階分の通し柱を各階に相互かつ均等に配した「互入式通し柱」と呼ばれる構造で、これと上層の荷重を下層の柱が直接受けずに梁を通して横方向にずらしながら伝える2つの工法を併せて用いたもので、望楼型天守の建築においては到達点に位置づけられる高度な構造をしています。
1階・2階の平面は東西12間(約21.8メートル)、南北10間(約18.2メートル)。高さは、本丸地上より約30メートル(天守台上よりは22.4メートル)。前述のように、『現存12天守』の中では、平面規模では姫路城に次いで2番目、高さでは姫路城・松本城に次いで3番目の規模を誇ります。
……(その14)に続きます。
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