甲州街道歩きに戻ります。先ほどは銘酒『真澄』の宮坂醸造がありましたが、ここは銘酒『横笛』の伊東酒造です。
その名も「鍵之手(かぎのて)」という交差点を通ります。「鍵之手」とは“鉤の手”のこと。すなわち、ここに鉤の手の形をした道路、「枡形」があったということです。今でもここで国道20号線は微妙に枡形を描いて伸びています。枡形があったということは、ここが上諏訪宿の江戸方(東の出入口)だったということです。ここから甲州街道44宿目、終着の下諏訪宿の1つ手前の上諏訪宿に入ります。
上諏訪宿は高島藩(諏訪藩)の城下町に形成された宿場で、街道沿いに細長く町が形成されていました。江戸時代後期の天保14年(1843年)の宿村大概帳によると、本陣1軒、旅籠14軒で脇本陣は設置されておらず、総家数232軒、人口973人、宿の長さは5町(約550メートル)でした。清水町・角間町・上町・中町は商人の町、本町・片羽町は武家町とされていました。
「諏訪五蔵」と言って、冷涼乾燥性の気候と水に恵まれた諏訪地方では、古くから良質な酒米を使い醸造技術を培って名産の地酒を作り上げてきました。諏訪2丁目から元町にかけての旧甲州街道(現在の国道20号線)沿いには、杉玉を掲げた5軒の造り酒屋が建ち並んでおり、いずれも長野県を代表する日本酒の醸造所です。ここまで銘酒『真澄』の宮坂醸造、銘酒『横笛』の伊東酒造がありましたが、ここも酒蔵で、ここの銘柄は『麗人』。麗人酒造です。信濃国諏訪地方に多く見られる「スズメオドリ(雀踊り)」と呼ばれる棟飾りが付いた屋根の本棟造りの立派な建物です。創業寛政元年(1789年)と記されています。寛政元年(1789年)といえば、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、アメリカ合衆国では憲法が制定されジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した年です。この麗人酒造は、アメリカ合衆国とほぼ同じ長さの歴史を持つということになります。創業から230年といいますから、老舗中の老舗ですね。
ここは『舞姫』の蔵元、舞姫酒造です。「諏訪五蔵」には、この4つの他に銘酒『本金』の醸造元である「酒ぬのや本金酒造」があります。
宿場の終わりあたりに「丸太田中屋」の表札のかかった往時を偲ばせる出梁造りのいい雰囲気の建物が残っています。なにかの商家だったところでしょうね。
上諏訪宿の中心部に入っていきます。
「上諏訪宿問屋跡」の案内板が立っています。これまでも何度か書いてきましたが、問屋とは荷物の継ぎ立てとそのための人馬を手配するところで、宿場の中心でした。上諏訪宿の問屋は初めここよりも上諏訪駅寄りの本町にあったのですが、承応3年(1654年)にここ中町に移り、貞享2年(1685年)からは代々小平家が問屋を勤めました。上諏訪宿では問屋が本陣も兼ねていました。その上諏訪宿の本陣(問屋場)跡は、現在は駐車場になっています。
この先に手長神社があります。この手長神社に祀られている祭神は手摩乳(てなづち)神。足長神社に祀られている脚摩乳(あしなづち)神の妻にあたる神です。手摩乳神は非常に手の長い神で、手の長さが7メートルもあり、この手を伸ばせばたちどころに魚を捕らえることができるので、湖中を自在に歩き回れる夫で足長神の脚摩乳神と背負い背負われで、共同で漁をしていたと伝えられています。この一帯の桑原郷は漁場の一等地で、かつてはどちらの神社も石段の下まで諏訪湖の湖面が迫っていて、波が打ち寄せられていたと言われています。
「甲州道中 上諏訪宿」の木製の案内道標が立っています。
なかなか面白そうな形をした商店です。現在はブティックとして使われているようです。このあたりは昭和レトロを感じさせる建物が建ち並んでいます。
諏訪1丁目交差点です。ここを左に入り、JR中央本線の線路を渡って少し行った先に高島(諏訪)藩藩主・諏訪家の居城であった高島城址があります。高島城はかつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていたのですが、江戸時代の初めに諏訪湖の干拓が行われ、今は湖からはかなり離れ、水城の面影はすっかり失われてしまいました。しかし、浮城の異名を持っていたことから松江城(島根県松江市)、膳所城(滋賀県大津市)とともに「日本三大湖城」の1つに数えられています。
築城したのは羽柴秀吉の配下で、天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、信濃高島に3万8千石を与えられ初代高島藩主となった日根野高吉。日根野高吉は伏見城築城でも功を挙げた築城の名手で、天正18年(1590年)、近隣の茶臼山にあった旧高島城に入城したものの、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築城しました。城は総石垣造りで8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたのですが、湖の中という軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられました。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があり、加えて7年間という短い期間で築城したため、かなり無理をしての築城だったようです。
日根野高吉は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたのですが、本戦直前の6月26日に急死しました。享年62歳。跡を嫡男の吉明が継いだのですが、慶長6年(1601年)、下野国壬生藩に転封となり、代わって譜代大名の諏訪頼水が領民達の歓呼の声に迎えられて2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり、その後約270年間、明治維新まで諏訪家の居城となりました。
前述のように、諏訪頼水は寛永3年(1626年)には徳川家康の六男の松平忠輝を預かり、この高島城に南の丸を増設し、そこを監禁場所としました。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周
などの流人の監禁場所となりました。ちなみに、吉良義周は赤穂浪士による討ち入りで斬殺された高家筆頭・吉良上野介義央の嫡男で、まるで被害者ではあるのですが、討ち入り当日、主君(父)を守れなかったという対応に際する「仕方不届」を理由に改易のうえ、高島藩第4代藩主・諏訪忠虎へのお預けとなり、ここに吉良家は義周を最後に断絶することになりました。
その後、高島城は明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用されたのですが、明治8年(1875年)に天守以下建造物はことごとく破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌明治9年(1876年)、高島公園として一般に開放され、明治33年(1900年)に諏訪護國神社が建てられました。現在は二の丸、三の丸が宅地となり、昭和45年(1970年)、本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備されています。ちなみに、JR中央本線の線路を渡った先の地名は、城下町らしく“大手町”です。城下町らしく、甲州街道は高島城を避けるようなルートで伸びています。なので、高島城を訪れることはできませんでした。
柳口役所跡です。この柳口役所は高島藩の民政の窓口で、藩内各村の村役人を呼び出して命令を出したり裁判を行なっていた場所です。明治維新後は明治2年に国学校、明治12年に高島学校が建てられ、明治13年の明治天皇巡幸の際には休憩をとられた行在所ともなったところです。その明治天皇行在所跡を示す石碑が立っています。
ちょっと甲州街道をはずれ、JR上諏訪駅にトイレ休憩で立ち寄ります。
駅舎の中に花火の玉の実物が展示されています。毎年8月15日に諏訪湖で行われる諏訪湖祭湖上花火大会は総打ち上げ数は約4万発と、打ち上げ数で国内最大とされています。そのため、約50万人の見物客が押し寄せる諏訪湖の一大イベントになっています。
諏訪1丁目交差点まで戻り左折(甲州街道歩きとしては右折)します。
すぐに左折します。察しの良い方ならお分かりの通り、ここが枡形になっていて、上諏訪宿の諏訪方(西の出入口)になっていました。
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