2019年11月22日金曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その6)

緩い坂道を下るに従って、諏訪湖の湖面が徐々に近づいてきました。
常夜燈です。かなり古い常夜燈のようで、柱(竿)の部分も風化してしまっています。柱だけが残っていて、その上部は崩落してしまったのか、残っていません。
棚田の先に諏訪湖の湖面が見えてきました。
諏訪湖は海抜759メートルのところにあり、面積13.3平方キロメートル、周囲15.9キロメートル、最大深度7.2メートル、面積としては国内23位の湖です。新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)で、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地であることでも知られています。

中世から江戸期にかけて、諏訪湖は高島(諏訪)藩の居城高島城の城下町でもあった上諏訪宿と、対岸にある中山道と甲州街道との合流点で交通の要衝であった下諏訪宿とを結ぶ水上輸送路で、廻船が頻繁に往来していました。かつては毎年のように厚い氷が湖面全体を覆い、戦前には氷上での戦車の走行や航空機の離着陸の訓練まで行われていたそうなのですが、近年は地球規模の温暖化の影響か氷が薄くなって、全面氷結の頻度も減少しているのだそうです。

また、諏訪湖と言えば、氷結した湖面に穴をあけて行うワカサギの穴釣りが有名ですが、氷が薄くなって危険なため、最近は陸釣りや船釣りが主体なのだそうです。 ゴールの下諏訪宿は諏訪湖の右手奥にあります。

なまこ壁の土蔵や本棟造りの立派な民家が建ち並んでいる中を進みます。まさに旧街道歩きらしい区間です。
高島藩主も訪れたという道中茶屋「橋本政屋」です。諏訪湖でとれた湖産物を料亭料理で出していたと言われています。現在の建物は江戸後期に建てられた木造二階建てで、今でも茶会や展示会などに貸しているそうです。建物と蔵の間には廃城になった高島城三の丸門を移築しています。この道中茶屋「橋本政屋」も見事な本棟造りの建物です。
道中茶屋「橋本政屋」の裏手には、「殿様おひねりの松」と呼ばれる見事な赤松の木があります。傍に立つ説明書きによると、この赤松は高島藩主の諏訪家が、高島城中で長い時間をかけて愛育してきた松で、時々この茶屋を訪れて、ここから見る諏訪湖の風景を大変気に入った藩主から石灯籠とともに贈られたものだということです。枝の先々まで美しい“ひねり”が見られます。
その道中茶屋「橋本政屋」の前に面白い郵便ポストがあります。「遊び心を込めた 愛とロマンの元気もりぞうポスト」なのだそうです。「あなたの想いと願いをお届けします」 なるほどねぇ〜。
その郵便ポストの隣に、男女が仲睦まじく寄り添う双体道祖神が祀られています。その前に小さな可愛らしい地蔵尊も祀られています。まさに“想い”と“願い”ですね。説得力、あるわぁ〜。
さらに雰囲気のいい旧甲州街道を進みます。
柿蔭山房(しいんさんぼう)です。ここはアララギ派の代表的歌人であった島木赤彦(本名:久保田俊彦)の住居跡です。島木赤彦は、明治30年、旧高島藩士・久保田家の養子になり死去までこの家で生活をしました。「柿蔭山房」の名前の由来は、古くからこの地には柿の木が多く、歌を発表するとき、赤彦自ら「柿の村人」と号したことからといわれています。島木赤彦はこの柿蔭山房で多くの優れた歌を残しました。
住居は文化・文政年間(1804年〜1829)の建築と推定され、ほぼ当時の高島藩士の住まいの姿を今に伝えています。江戸時代の上級藩士の暮らしを忍ばせる立派な士族の家作りです。庭の立派な赤松は樹齢300年余なのだそうです。
住居の前には、「雪ふれば 山より下る 小鳥多し 障子の外に ひねもす聞ゆ」の歌碑が立っています。
「ある日 わが庭の胡桃に 囀(さえず)りし 小雀来らず 冴えかへりつゝ 赤彦」
ふむふむ。

柿蔭山房から甲州街道に戻ったところで、地元のローカルTV局が取材していたのにたまたま偶然遭遇しました。おそらくこのあたりの秋祭りの取材に来ていたのだと思いますが、私達に興味を持ったようで、アプローチしてきたので、私を含む数人が代表して取材を受けたのですが、果たしてカットされずに放送されるのかな? チョンマゲに三度笠姿のレポーターがいい感じです。
諏訪湖博物館のすぐ上のあたりは、かつては「石投場」といわれ、昔はこの下まで諏訪湖の湖水が迫っていて、ここから湖水をめがけて石を投げたりしていたそうです。今は石を投げたら迷惑だし、JR中央本線の線路や国道20号線などがあり、湖畔まではとても届く距離ではありません。 石碑には「南信八名所石投塲」とあるので、南信州の8つの名所の1つに数えられていたようです。
御巡幸途中の明治天皇もここでしばし足を止め、諏訪湖の風景を楽しまれたようです。
諏訪湖を左手に見ながら、緩い坂道を下っていきます。
石投場から500メートルほど進むと、甲州街道53里目、最後の一里塚である「富部(とんべ)の一里塚」跡の石碑が立っています。甲州街道は532420(210.8km)。いよいよゴールの下諏訪宿の中山道との合流点まで残りは2420(2.5km)です。
「若宮神社」と刻まれた石碑が立っています。この道を入った奥にある若宮神社は諏訪大社の摂社の1社で、7年に1度行われる諏訪大社の御柱祭(大祭)と同じ年に、この小宮でも御柱祭が執り行われるのだそうです。


……(その7)に続きます。

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