2018年9月3日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第4回:赤坂見附→虎ノ門】(その1)


江戸城外濠内濠ウォークの【第4回】に参加してきました。【第4回】は赤坂見附から虎ノ門ということで、距離は短いものの、都心、すなわち江戸城に次第に近くなっていくので、見どころは多そうです。



スタートは前回のゴールだった東京メトロ銀座線丸ノ内線の赤坂見附駅交番前でした。国道246号線と外堀通りの交点となっている赤坂見附交差点を渡り、青山通り(国道246号線)を東に向かって(三宅坂方向に)進みます。


赤坂見附交差点のところに架かっている弁慶橋です。この弁慶橋が弁慶濠の名前の由来になっているのですが、実はこの橋が架けられたのは明治22(1889)のことで、江戸時代には架かっていませんでした。弁慶橋は江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が神田松枝町と岩本町との間にある藍染川下流に架けた橋に始まり、彼の名前から「弁慶橋」と名付けられました(武蔵坊弁慶とは違います)。明治18(1885)に藍染川が下水工事で埋められると弁慶橋も不要となり撤去されたのですが、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、明治22(1889)にこの紀尾井町から元赤坂1丁目に通じる道筋にある溜池(現在の弁慶濠)へ元の弁慶橋の廃材を利用して架橋されました。これが現在の弁慶橋です。



ここは少し勾配が急な坂になっています。その坂を登りきった平河町2丁目の都道府県会館前の交差点一帯にかつての赤坂見附(赤坂御門)の跡があります。


見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされています(江戸城三十六見附)。赤坂見附は江戸城を守る主要な城門「江戸城三十六見附」の1つで、外濠に位置していました。城門は外側に高麗門、内側に渡櫓門を配し、2の門が直角に配置された枡形門で、現存する江戸城の城門では田安門、桜田門などと同じ形状をした門でした。この赤坂見附(赤坂御門)は赤坂側から江戸城への入口で、大山に参拝する大山道(おおやまみち)の玄関門にもなっていた重要な城門でした。ちなみに、大山道は、現在では国道246号線(東京都内の通称は青山通り)になっています。


赤坂見附(赤坂御門)は地盤の軟弱な低地を避けるため高台に置かれていました。赤坂見附(赤坂御門)跡から赤坂見附交差点(赤坂見附駅)方向を見ると相当急激に登っているのが分かります。標高差は約25メートルもあります。ちなみに、現在の赤坂見附交差点(赤坂見附駅)付近は、かつては弁慶濠の池の中でした。また、この赤坂見附(赤坂御門)では南側の溜池と弁慶濠との水位差を保つために堰(ダム)のような構造になっていて、他の見附(御門)と異なり橋は架っておらず、堰(ダム)の上を通る土橋になっていました。

そして、これにより、この赤坂見附(赤坂御門)の堰から虎ノ御門葵坂の堰まで続く広大なダム池が完成しました。これが溜池です。溜池は江戸初期の上水(飲料水)の確保と防衛上の外濠を兼ねて造られた人口の池です。


弁慶濠の東端に小さな園地が設けられ、一部の石垣が残され、往時を偲ぶことができます。赤坂見附(赤坂御門)は外寸約40メートル、内寸約28メートル×22メートル)という江戸城三十六見附の中でも最大規模の城門でした。寛永13(1636)、筑前国福岡藩主・黒田忠之(黒田長政の子、黒田騒動で有名)が枡形の石垣を築造し、寛永16(1639)に御門普請奉行の加藤正直、小川安則の手によって御門が完成しました。赤坂見附(赤坂御門)は明治5(1872)に撤廃され、御門も破壊されたのですが、石垣の一部のみが現存し、江戸城外堀跡として国の史跡になっています。この石垣ですが、東京メトロ南北線の建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見され、地上の石垣だけでなく、実は地下にも石積みが眠っているのが分かっています。それにしても見事な石垣です。この江戸城の石垣は総延長約14kmに渡って張り巡らされていました。完成したのは第3代将軍徳川家光の時代で、寛永13(1636)のことです。


この下を通っているのが首都高速道路4号新宿線で、この首都高速4号新宿線の首都高速都心環状線方向に向かう側の車線はこの赤坂見附(赤坂御門)の直下を三宅坂トンネルで通っています。石垣に中に高速道路が吸い込まれていく珍しい光景のところです。



グランドプリンスホテル赤坂(旧称赤坂プリンスホテル)の跡地の再開発事業によって建設された「東京ガーデンテラス紀尾井町」は元紀州藩徳川家の中屋敷跡で、その広大な敷地は赤坂見附(赤坂御門)に隣接してありました。その東京ガーデンテラス紀尾井町には赤坂見附(赤坂御門)の歴史的遺構を保存しつつデザインに取り込んだ「空の広場」と呼ばれる開放空間があり、そこからは弁慶濠を見下ろして眺めることができます。ここから四谷方向へと続く弁慶濠は、江戸城外濠の中でも往時の姿を今も残す唯一の貴重な場所となっています。


ちなみに、赤坂という地名の由来は、この紀州藩徳川家の中屋敷があった山は古くから染料として利用されたツル性植物の茜(あかね)を産出したことから茜山(あかねやま)と呼ばれていて、その茜山に向かう坂という意味で赤坂と呼ばれていたという説があります(諸説あって定かではありません)。また、見附という地名を現在も残しているところとしては他に四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)などがありますが、駅名に名を残しているのは唯一「赤坂見附」のみです。




青山通り(国道246号線)を歩道橋で渡り、道路を隔てて反対側の歩道に出ます。赤坂見附(赤坂御門)の枡形門の向かいに出雲国松江藩松平家の約1万坪といわれる広大な上屋敷があり、通称:雲州屋敷と呼ばれていました。この出雲国松江藩松平家の初代藩主松平直政は徳川家光の次男である越前国北ノ庄初代藩主・結城秀康の三男で、親藩でした。この出雲国松江藩松平家が赤坂見附(赤坂御門)の水番役を兼ねていたところから、この門前の坂は、水坂ともよばれています。


その出雲国松江藩松平家の上屋敷跡には衆議院議長公邸と参議院議長公邸が立っています。


こちらは衆議院議長公邸です。銅板葺の切妻屋根で、和洋折衷の作りとなっていて、本館、事務棟、居住棟の3棟からなり、日本庭園もあるようです。


この公邸北側の入り口前に東京女学館遺跡碑があります。明治21(1888)、北白川宮能久親王を会長に、伊藤博文を委員長として渋沢栄一や岩崎弥太郎、外山正一東京帝国大学総長といった当時の政財官界の有力者によって設立された女子教育奨励会は「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた知性豊かな気品ある女性の育成」を目指してこの地に日本最初の女学校「東京女学館」を開校しました。その意味で、ここは日本の女子教育発祥の地でもあります。なお、東京女学館はその2年後の明治23(1890)、虎ノ門の旧工部大学校跡地に移転しました。


こちらは参議院議長公邸です。こちらも銅板葺の切妻屋根で、和洋折衷の作りとなっていて、本館、事務棟、居住棟の3棟からなっているようです。



平河町交差点です。この平河町交差点のあたりの標高は約35メートル。このあたりで最も標高の高いところでした。言ってみればこのあたりは山になっていて、その山の頂上が平河町交差点ということになります。確かにこの交差点をピークとして、交差する5本の道路は全て下っています。


……(その2)に続きます。

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