浜大手門橋を渡った先が浜大手門御門です。浜離宮庭園が徳川将軍家の浜御殿だったことから“御門”と呼ばれています。浜大手御門は江戸城の他の御門(見附)と同様の形式の枡形門で、手前が高麗門、奥が渡櫓門となっています。浜大手御門は関東大震災で焼失し、渡櫓門の石垣だけが残されています。徳川将軍家の別邸らしく、浜大手御門の枡形、櫓台は江戸城の御門のどれよりも規模の大きなものでした。
江戸城別邸(徳川将軍家別邸)である浜離宮(濱御殿)は、承応3年(1654年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男で甲斐国甲府藩初代藩藩主となった徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てたのが最初です。当初は甲府藩の下屋敷として使用されており、このため甲府浜屋敷や海手屋敷などと呼ばれていました。綱重を継いで甲府藩主となった徳川綱豊が江戸幕府第6代将軍・徳川家宣となったため、甲府徳川家は絶家となり、この甲府浜屋敷は将軍家の別邸とされました。「濱御殿」と改称して大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園などが整備されました。
特に第11代将軍の徳川家斉と第12代将軍の徳川家慶の頃は将軍の鷹狩り場でした。享保14年(1729年)5月、雄の象(ゾウ)がベトナムから運ばれ、濱御殿の小屋で12年を過ごしたこともありました。幕末には江戸幕府の西洋式海軍訓練学校「海軍伝習屯所」でもありました。大政奉還の前年の慶応2年(1866年)に着工した石造りの洋館が明治2年(1869年)に外国人接待所「延遼館」として竣工し、明治維新後も鹿鳴館が完成するまで迎賓館として使用されました。その後、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の東京大空襲で大手門や複数の茶屋や樹木が焼失し、庭園自体も大きく損傷する被害を受け、今に至っています。
明治維新の後は皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と改称しました。昭和20年(1945年)に東京都に下賜され、翌21年(1946年)4月から「東京都立浜離宮恩賜庭園」として一般公開されました。浜離宮恩賜庭園は、250,215.72平方メートルと広大な土地を有する都内最大の都立庭園です。江戸のウォーターフロント、東京のオアシスと言われて昔も今も愛されています。しかし名前を聞いたことがあっても実際に行ったことがない方も多いのではないでしょうか。実は恥ずかしながら私もその1人でした。
浜大手御門を入ってすぐの左手に「三百年の松」が植えられています。第6代将軍・徳川家宣の頃に植えられたと伝えられています。甲府藩の下屋敷(甲府浜屋敷)から徳川将軍家の別邸(濱御殿)になって間もなくのことです。徳川将軍家の別邸の松らしく、見事な枝ぶりの松です。東京都内最大のクロマツ(黒松)なのだそうです。
濱御殿では「内堀」と呼ばれる堀を引き込み、築地川から水門を通って海水を構内に深く入り込んでいました。これは、濱御殿に必要な物資はもちろんのこと、遠く京・大阪あるいは長崎等から運ばれてきた物資を江戸城へ入れるための港湾施設でもありました。内堀には荷揚げ場の石段が設けられていました。その荷揚げ場の石段が現在も残っています。江戸時代の濠の荷揚げ場の石段が残っているのは極めて珍しく、船で資材や物資の運搬が行われていた当時の様子が偲ばれる貴重な場所となっています。
「絵図でたどる浜離宮恩賜庭園のうつりかわり」と題して、濱御殿の経緯を、歴代将軍のうち濱御殿を特に愛した第6代将軍・徳川家宣の時代、第8代将軍・徳川吉宗の時代、第11代将軍・徳川家斉の時代、さらには明治維新後の122代天皇・明治天皇の時代に分けて説明しています。各年代で濱御殿の用途が微妙に異なり、それに伴って何度も改修が行われてきたことが分かります。
明治維新直後、このあたりに外国人接待所の「延遼館」が建っていました。前述のとおり、「延遼館」は江戸幕府の西洋式海軍訓練学校「海軍伝習屯所」の施設として大政奉還の前年の慶応2年(1866年)に着工した石造りの洋館で、明治2年(1869年)に外国人接待所「延遼館」として竣工されました。「延遼館」は復元の予定があったのですが、舛添要一都知事の辞任により未定となっているようです。
「花木園」の表示が立っています。この浜離宮は一年を通じて四季折々の様々な花が楽しめるところです。特にこの北庭には牡丹園と梅園があります。梅林には約80本の梅の木があり、1月下旬から3月上旬にかけては園内の各所にある梅の木をあわせて約130本の紅白梅が咲き誇るのだそうです。江戸時代の最盛期にはなんと1万本もの梅の木が植えられていたのだそうです。
このあたりにベトナムから運ばれてきた象の飼育舎がありました。享保13年(1728年)に第8代将軍・徳川吉宗の注文により、中国の貿易商によって、翌享保14年(1729年)、雄の象(ゾウ)がベトナムから運ばれ、濱御殿のここにあった小屋で12年を過ごしました。象は長崎から江戸まで陸路運ばれてきたのですが、その時の様子を大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが紙芝居で説明してくれました。象に起伏がある道を歩かせたり、広い川幅の河川を渡らせたりしないといけなくて、大変だったようです。
園内は東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭園になっています。江戸時代に庭園として造成されたもので、ここがその潮入の池(大泉水)です。海水を引き入れ、潮の干満(水位の上下に従って水門を開閉)による眺めの変化を楽しむことができるようになっています。東京湾からボラ、セイゴ、ハゼ、ウナギなどの魚が入り込んで生育していて、江戸時代には盛んに釣りが行われていました(現在は禁止されています)。
馬場跡です。馬場とは乗馬の練習場のことで、200メートルほどの長さがあります。「暴れん坊将軍」として知られる第8代将軍・徳川吉宗もここで乗馬の練習をしていたのでしょうか。
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