将軍の鷹狩りの鴨場は庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2箇所があります。前者が安永7年(1778年)、後者が寛政3年(1791年)の築造という古いものです。こちらはそのうちの新銭座鴨場です。
鴨場とは野生の鴨(カモ)などを狩猟するための施設で、池と林を3メートルほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹をびっしりと植えられ、鴨が安心して休息できるように外部と遮断していました。ここでは池に幾筋かの引堀(細い堀)を設けられ、「小覗(このぞき)」と呼ばれる小屋の小さな覗き穴から土手の向こうからやって来る鴨の様子を窺いながら、鴨を稗・粟などの餌と囮のアヒルで巧妙にその引掘におびき寄せ、機をみて土手の陰からよせ網で掬い取ったり鴨をめがけて鷹を放ったりして捕まえるという猟を行っていました。「小覗」のほかに「大覗(おおのぞき)」という覗き穴が設けられた小屋もあり、そこでは池全体を観察して、猟をする場所を決めていたのだそうです。
この日は日差しが強かったのですが、園内の散策路は木々が茂った中を歩くので、爽やかで気持ちいいです。さすがに徳川将軍家の別邸。そういうところも配慮して作られているのでしょう。
歴史を感じさせる日本庭園の背景に高層ビル群が見えます。
江戸時代、この奥に観音堂や鐘楼堂があったようです。
園内に2箇所(汐留水門、横堀水門)ある水門の1つ、汐留水門です。ここから東京湾の海水を調整し、園内の池に引き入れていました(います)。
「お伝い橋」で潮入りの池(大泉水)を渡ります。この「お伝い橋」は潮入りの池の岸から小の字島(このじしま)と中島を結んでいる檜(ヒノキ)造りの橋で、117.8メートルの長さがあります。元は宝永4年(1707年)、第6代将軍・徳川家宣が本園の大改修を行った際に架けられたものがはじまりで、平成9年(1997年)5月に架け替えられ、平成24年(2012年)5月に床板等が取り替えられました。鉤形の特徴的な構造をした橋です。
潮入の池の中央に位置する小さい島「中島」です。中島には「伝い橋」と同様、宝永4年(1707年)、第6代将軍・徳川家宣によって休憩施設である御茶屋が建てられました。その後、天明8年(1788年)、第11代将軍の徳川家斉によって再建されました。現在は無料の休憩所として開放されています。
「小の字島(このじしま)」です。この島を中心として左右に橋で結ばれた2つの飛島が配置されている形が漢字の「小」の字に似ているところから、この名称が付けられたのだそうです。
天明7年(1787年)から天保8年(1837年)まで50年間にわたる第11代将軍・徳川家斉の時代は濱御殿が最も整備された時代であり、華々しい催しが続いた時代でした。この時代、燕の御茶屋をはじめ、多くの建物が徳川家斉によって建てられました。
近年、かつて園内にあった複数の建築物(その多くは東京大空襲で焼失)の再建計画が進められており、2010年に潮入りの池の北東側に「松の御茶屋」、2015年に潮入りの池の北側に「燕の御茶屋」の復元が完了し、今年2018年4月に同じく潮入りの池の北側に「鷹の御茶屋」の復元も完成しました。
これは「燕の御茶屋」です。
こちらは「鷹の御茶屋」です。
「松の御茶屋」です。
「松の御茶屋」の前には船着き場が作られています。徳川将軍もここから屋形船に乗って庭園の散策をしたり、魚釣りを楽しんだりしたのでしょう。
小高い山、御亭山(おちんやま)の頂上は園内が一望できる絶景ポイントです。360℃のパノラマで東京湾や東京タワーも見えたりします。ビル群がなかった時代にはここから富士山も見えたそうです。
ここに「船上雅楽」という表示があります。この内堀に船を浮かべ、濱御殿の松林を背景に見ながら雅楽奏者が演奏する雅楽の調べを聴く……、当時としては最高の贅沢だったのでしょうね。
2つの潮入りの池「大泉水」と「横堀」の間に架かる小さい太鼓橋「中の橋」を渡ります。
伝統的な日本庭園の背景に近代的な高層ビルが林立している景観に、妙な美しさを感じるのは私だけでしょうか?
ここは御亭山よりも少し高い「富士見山」です。幕末期、黒船来航の知らせを聞いた江戸幕府は江戸城を守る最後の砦として、この富士見山の上に大砲を設置し、砲台としました。また、同じく幕末期、日本で最初の電信の実験が行われたのもこの富士見山だったのだそうです。
……(その6)に続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿