2018年6月28日木曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その6)


四谷(四ツ谷)が近づいてきました。四谷と言えばSophia University、上智大学ですが、久し振りにその上智大学の姿を見て、ビックリしてしまいました。なんと地上17階、地下1階建ての白亜の近代的な建物に大変貌を遂げているではありませんか!  愛称は「ソフィアタワー」というらしいです。竣工したのは昨年(2017)。ここ数年、四谷にご縁がなくて四ツ谷駅に降りたこともなく、東京メトロ丸ノ内線で四ツ谷駅を通る時も、窓の外を見ることがなかったので、久し振りに見て、本当にビックリしてしまいました。古い上智大学の校舎群、都心部にありながら、ゆったりとした空気が漂う感じがして私は好きでした。

 

東京に出て来た当初、東京の風景の何もかもが新鮮で、休みのたびにあちこちブラついて東京の雰囲気を楽しんだのですが、特に新鮮だったのが東京の都心にある私立大学の雰囲気でした。大学を卒業したてでしたからね。私が卒業したのが地方の国立大学、しかも男だらけの工学部だったので、その対極にあるかのような雰囲気(校風)の東京の私立の大学はとにかく新鮮でした。目がクラクラしそうで、学生さん達が羨ましくも思えましたね。中でも上智大学の雰囲気は私の中では抜きん出ていましたね。カトリック系の大学ってこんな感じなんだぁ〜って思ったものです。(私のキャラクターには合いそうもない印象ではありましたが…。)

ソフィアタワーは低層部(2階〜6)を大学施設、高層部(7階〜16)をテナントオフィスで構成した、都市型キャンパスの新しい可能性を秘めた複合施設で、オフィスビル部分(1階店舗部分および高層部)にはテナントとして株式会社あおぞら銀行の本社が入居しています。テナント賃料で得られる収益は、海外からの留学生や遠方出身の学生への支援を目的とした奨学金等として活用するのだそうです。都心部にキャンパスを持つ大学としては、こういう経営も十分にありかな…と私は思います。隣接するカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)とのマッチングも考えて建てられた建物のようで、地域の街並みとも一体化しているように思います。

JRの四ツ谷駅です。四谷(電車の駅名は四ツ谷)にはJR中央線と総武線、そして東京メトロ丸ノ内線と南北線という4つの路線の駅があるのですが、驚くのは東京メトロ丸ノ内線の四ツ谷駅です。なんと地下鉄であるにもかかわらず、JR中央線・総武線のホームよりも高い所にあり、立体交差しているのです。実は立体交差の部分は皇居外側の埋立地で、JR(旧国鉄)の線路と駅が堀割りの谷底に立地していたため、後から高架で丸ノ内線の駅が造られたという経緯があります。それまで地下鉄はずっと地下を走っているものだ…という先入観を持っていたので、東京に出てきてこの光景を初めて目にした時、本当に驚いてしまいました。

 

地下鉄が地上に顔を出すのは丸ノ内線の駅ではほかにも茗荷谷駅と後楽園駅が地上に立地しており、御茶ノ水駅付近も地上に顔を出しますが、JR中央線と総武線の線路の下を走ります。東京メトロ銀座線では地下鉄の渋谷駅が高架のJR山手線の渋谷駅のさらにその上を跨ぐように立体交差しており、なんと渋谷駅ビルの地上3階を発車して地下に潜っていきます。これは改めて周囲の地形を考えてみるとなるほど…と思えるのですが、最初に見た時は正直衝撃でした。ホント田舎モンでした。


まったくの余談ですが、私が大学1年の時に流行った歌にフォークグループの「猫」が歌った『地下鉄にのって』がありました。作詞が岡本おさみさんで、作曲が吉田拓郎さん。吉田拓郎さんはご自身でも歌っておられます。その1番には「今 赤坂見附をすぎたばかり  新宿までは まだまだだね」という歌詞があり、2番には「今 四谷を通りすぎたばかり」という歌詞がありました。明らかに丸ノ内線を歌った歌ですね。

JR四ツ谷駅の隣に「四谷見附」の跡があります。日比谷見附のところでも書きましたが、見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。この四谷見附は両側を高い頑丈な石垣で固められ、そこに黒々としたガッチリ構えた見附門があったと言われています。この門は六ツ時(午後6時頃)には容赦なく扉が閉められたのだそうです。


四谷見附橋を渡ります。前述のように現在は谷底をJR中央線と総武線の線路が通っていますが、かつてここは江戸城の外濠の堀割りでした。なので、このように橋が架かっていました。橋の上にはその説明書きと明治元年(1868)、さらには明治30年代の四谷見附付近の写真が掲載されています。大変に興味深い写真です。




この四谷見附橋はJR中央線と総武線の電車を撮影するのに絶好なポイントの1つです。当時の私は斉藤哲夫さんが歌う「いまのキミはピカピカに光って」をバックに宮崎美子さんのピチピチ水着姿が印象的だった伝説のテレビCM(1980)に刺激を受けて、ボーナスでミノルタ(現コニカミノルタ)の一眼レフカメラ「X-7」を購入したばかりで、このポイントで当時国鉄だった中央線と総武線の電車を撮影したことがあります。当時の中央線はオレンジ色、総武線はカナリア色をした車体の103系直流通勤電車が主体で、中間に非冷房の車両も挟んだ編成もあったように記憶しています。


宮崎美子さん、今でも女優として、またその博識ぶりが買われてクイズ番組の回答者としてテレビに登場されているお姿を時々拝見しますが、私達の世代にとっては、やっぱり「いまのキミはピカピカに光って」です!  とにかく、宮崎美子さんがメチャメチャ可愛らしくて、強烈なインパクトがあったテレビCMでした。もともと“撮り鉄”ではなく、写真撮影は苦手だった(カメラにまったく興味のなかった)私がそのミノルタの一眼レフカメラ「X-7」を購入しちゃったくらいですから。


四谷見附橋を渡り終えたところで左折し、国道20号線(新宿通り)に戻っていきます。


 

JR四ツ谷駅の裏に歌碑が建っています。「福羽美静歌碑」と刻まれています。福羽美静(ふくば びせい)って方を存じ上げていなかったのでその場でネットで調べてみると、幕末期の石見国津和野藩士で国学者、歌人だった方のようです。子爵で、貴族院議員も長く務められた方です。何故その福羽美静の歌碑がこの四谷に建っているのかは、分かりません。


国道20号線(新宿通り)を新宿方向にただ黙々と進みます。




四谷と言えば「四谷怪談」、「お岩さん」です。四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる実際の事件をもとに創作された怪談のことです。基本的なストーリーは「貞女だった岩が夫の伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者の四代目 鶴屋南北によって作られた歌舞伎『東海道四谷怪談』や、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家の初代 三遊亭圓朝の創作した怪談『四谷怪談』などで有名になりました。怪談の定番とされているのですが、折に触れて舞台化・映画化されているため、実は様々なバリエーションが存在します。基本的なあらすじは以下の通りです。

時は元禄時代、物語の舞台は江戸の四谷。御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門の一人娘である「お岩」は、容姿・性格ともに難があり、なかなか婿を得ることができませんでした。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として入り、このお岩を妻にしました。愛があっての結婚ではありませんでしたが、次第にお岩は伊右衛門に惹かれていきます。

しかし、近くに住んでいた金持ちの伊藤喜兵衛という男の孫娘お梅が、男前であった伊右衛門に惚れ込んでしまったのです。可愛い孫娘のため「どうにかして孫娘の婿に」…と考えた喜兵衛は、お金に物を言わせ伊右衛門に言い寄ります。初めは断っていた伊右衛門でしたが、段々とお金に目がくらんでいき、気持ちが変わっていきました。そこで喜兵衛は、お岩に少しずつ毒を盛るよう伊右衛門に指示。伊右衛門はそれを実行すると、知らずに毒を飲み続けたお岩の髪はバラバラと抜けおち、顔は醜くただれていきます。

その姿を鏡で見たお岩は絶叫し、錯乱状態に陥り、その果てにショックで死んでしまうのです。そうして幽霊となったお岩は、毎夜毎夜、伊右衛門の枕元に現れては、「うらめしや〜、うらめしや〜」と立ち続ける……このようなストーリーが一般的なのではないでしょうか。

これが鶴屋南北の代表的な歌舞伎『東海道四谷怪談』全5幕では、基本となる前述のお岩伝説に不倫の男女が戸板に釘付けされて神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられ、かなりオドロオドロしい怪奇な話に変貌します。お岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死んだり(二幕目・伊右衛門内の場)、お岩と別に惨殺した小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたものが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見てお岩の執念に驚いたり(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられたり(大詰・蛇山庵室の場)…と、怪奇色がテンコ盛りで満載で訳がわからなくなるような内容となります。

ただ、こういうストーリーゆえに「お岩さん=祟り」のイメージだけが勝手に一人歩きして、人々の間で定着してしまっているような気がしています。

四谷三丁目交差点を左折し、外苑東通りを少し進み、左門町交差点の手前を左側に入った四谷左門町に、その「四谷怪談」のお岩と深い縁のある「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」が、道を挟んで両側に建っています。まず、こちらが於岩稲荷田宮神社です。



於岩稲荷田宮神社に掲げられている由緒書きには、実に意外なことが書かれてあります。

この四谷の於岩稲荷田宮神社は田宮家の跡地に建てられたもので、お岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれています。お岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の江戸入府とともに駿府から江戸に移住してきた御家人でした。一人娘のお岩と、婿養子に入った伊右衛門は近所でも評判の仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活をお岩が奉公に出て支えていたともいわれています。お岩が田宮神社を勧請した後に生活が急に上向いたと言われており、そのことがこの辺りの住民の信仰の対象となりました。

江戸の四谷の御家人・田宮又左衛門とその娘・お岩。そして婿養子に入った伊右衛門。まさに四谷怪談の登場人物そっくりです。ただ、異なっているのはお岩と伊右衛門が近所で評判の仲のよい夫婦であったという点です。田宮家の菩提寺である妙行寺には田宮家の過去帳が残されていて、田宮家2代目伊右衛門の妻で寛永13222(1636329)に死亡した『得証院妙念日正大姉』という法名を贈られた女性がお岩だとされているのだそうです。なんと、お岩と伊右衛門は仲のよい夫婦だったのです!!  ここからどうやってあの恐ろしい「四谷怪談」が生まれてきたのか…大いに謎が残ります。

さらに、これが正しいとすると、本物のお岩さんがお亡くなりになったのが寛永13(1636)。元禄年間とは1688年から1704年までの期間のことですから、お岩さんがお亡くなりになってから50年以上も後のことです。さらに、四代目 鶴屋南北が本格的に歌舞伎の台本を書き始めたのが享和3(1803)のこと。初代 三遊亭圓朝が真打(しんうち)に昇進したのが安政2(1855)のことですから、亡くなられて約200年が経ってから勝手に名前を使われ、自分が死んでから50年以上後の元禄時代を舞台を移した怪談話に登場させられるわけです。しかも、毒は盛られるは、顔は醜くただれさせられるは、発狂して殺されちゃうは、幽霊となって夜な夜な出てこらされるは、色男の極悪人にさせられちゃうは…ってことになるわけで、ご両人にとっては酷く迷惑な話なのではないでしょうか。

とは言え、火のないところに煙は立たない…って言いますが、仲がいいと評判だったお岩さんと伊右衛門さんの間で、もしかすると“何か”があったのかもしれません。それが地元(四谷)に伝わる伝承として残り、200年間のうちにある事ない事の尾ひれがビッシリとくっ付いていき、とうとう怪談にまでなっちゃった…とも考えられます。

さらにさらに、謎ってことでいうと、四代目 鶴屋南北によって作られた歌舞伎の題名自体も謎ですよね。『東海道四谷怪談』って、四谷を通っているのは甲州街道であって、東海道ではありません!  にもかかわらず、何故『東海道四谷怪談』って題名なんでしょうね?   そして、誰もこのことに対して「違うじゃん!」ってツッコミを入れないんでしょうね。謎です。

於岩稲荷田宮神社は明治12(1879)の火災によって一度は焼失して中央区新川に移ったのですが、今度はそこが第二次世界大戦の戦災で焼失。戦後、この四谷の旧地に再興されたものです。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院ですが、境内に「お岩さま縁の井戸」というものがあります。この間の経緯に関しては、元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物がなくなって困った地元の有志達が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが現在の陽雲寺の成り立ちと言われています。地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げた背景には、於岩稲荷は歌舞伎俳優はもとより、お岩の浮気に対して見せた怨念から男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰も集めたため、賽銭のほかに土産物などで地元経済が潤ったからだと言われています。間違っていたら大変に申し訳ないのですが、現在の於岩稲荷田宮神社は、要は歌舞伎や落語、講談等で有名になった「四谷怪談」絡みの単なる便乗商法の産物ってことなのかもしれません。

こちらが於岩稲荷陽運寺です。


於岩稲荷陽運寺の「お岩さま縁の井戸」というのがこれです。


と言うことで、この於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺には、本物のお岩さんと、歌舞伎や落語で創作されたフィクションのお岩さんの両方が祀られているってことで、あとは参拝する人の気持ち次第ってことなのでしょう。実際、現在、この於岩稲荷田宮神社は都内有数のパワースポットとしても知られていて、「縁結び」「縁きり」などの祈願に訪れる人が後を絶たないのだそうです。この日もパワースポット巡りをしていると思われる若い女性が何人も訪れていました。

おやっ!  赤地に白で「奉納  於岩稲荷田宮神社」と染め抜かれた幟に「人間国宝  講談師  一龍斎貞水」の文字があります。講談とは演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能の一つです。私は古典落語が好きで、時々は寄席に行って落語を聴くことがあるのですが、15年ほど前の一時期、講談にはまったことがあります。はまるキッカケとなったのが、この人間国宝 六代目 一龍斎貞水先生の講談を聴いたことでした (落語の真打には敬称として“師匠”を付けますが、色物・講談の真打の場合には“先生”を付けるのが伝統です)



一龍斎貞水先生は昭和14(1939)のお生まれですから今年で79歳。昭和30(1955)16歳で五代目 一龍斎貞丈に入門し、昭和41(1966)27歳で真打に昇進し、六代目 一龍斎貞水を襲名。平成14(2002)、講談師初の人間国宝に認定されています。「怪談の貞水」の異名を持ち、照明や音響、大道具などを効果的に用いた「立体怪談」を得意としています。

私はその後、前の会社(NTTデータ)で本社の営業企画部長として、NTTデータが毎年夏にお客様企業や金融機関のトップご夫妻をお招きして開催する「サマーフォーラム」の事務局長も務めさせていただいたのですが、北海道の札幌で開催したサマーフォーラムで行う講演の講師にこの六代目 一龍斎貞水先生をお招きしたことがあります。「講演なんてどうでもよいので、師匠の四谷怪談を是非VIPの皆様がたの前でご披露してください!」ってお願いして。いくらVIPの方々と言っても、日本の伝統芸能、それも人間国宝の技にナマで触れることって滅多にないことですからね。で、照明や音響、大道具などを札幌に持ち込んでいただき、人間国宝技の立体怪談で「四谷怪談」を演じていただきました。夏の札幌で聴く四谷怪談、さぞや涼しく感じられたことではないでしょうか。この意表を突いた企画は大成功で、参加いただいたお客様からも一様に「大変良かった」というご評価をいただきました。

私は最初の出演依頼の時を含め何度か一龍斎貞水先生と直接お会いしてお話をさせていただく機会があったのですが、人間国宝ということで職人肌の取っつきにくい方じゃあないか…との先入観があったのですが、実際にお会いしてみると、とぉ〜っても親しみやすい気さくなオッチャンでした。ここで師匠のお名前を目にしたからには、また近いうちに(本拠の)湯島天神のほうに先生の講談を聴きにいこうと思います。

聞くと、芸能界には、四谷怪談、お岩さんを題材とした歌舞伎や映画などを制作する際には、お岩さんの祟りを恐れて、役者やスタッフは必ずお参りしてから撮影したり演じたりする…といった暗黙のルールが存在するのだそうで、当然のこととして六代目 一龍斎貞水先生はこの於岩稲荷田宮神社に幟を奉納なさったんでしょうね。お岩さんを殺しちゃって、そのお岩さんが幽霊となって出てくる話が高く評価されて、人間国宝にまで上り詰められたわけですから。そこに到るまでに、(話の中で)お岩さんを何度殺したことか…。せめて幟くらいは奉納しないと、お岩さんに祟られますよ()





四谷三丁目交差点まで戻り、甲州街道歩きを再開しました。


……(その7)に続きます。









2018年6月27日水曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その5)


甲州街道(国道20号線:内堀通り)は国会前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って緩やかに右にカーブしていきます。後ろを振り返ると、桜田門を過ぎてからかなり坂を登って来たことが分かります。皇居(江戸城)より東側(海側)は元々は低湿地帯で、徳川家康が江戸城に入府して以降、東京湾に流れ込んでいた利根川と荒川の流路を変えることにより生まれたり、埋め立てたりしてできあがった人工の陸地であり街であることを書きましたが、ここから西側は徳川家康の江戸城入府以前から陸地であったところというのがこの景色からも分かります。これが「山の手」ってことなんですね。


国会前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。まさに日本の中心ですね。ここは日本国の水準原点が置かれているところで、ちょっとした公園(国会前庭)になっています。


ここにあるのが江戸の名水「櫻の井」です。ここから憲政記念館にかけての一帯には近江彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていました。その井伊家上屋敷の表門外西側にあったのがこの「櫻の井」で、名水として知られ、江戸の人々に親しまれたということです。この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正が命じて掘られたものだと伝えられています。現在の井戸は昭和43(1968)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま約10メートル離れた現在の地に移設復元されたものです。また、桜田濠の斜面の水際近くに柳の木が1本立っていて、そのそばに井戸があります。「柳の井」で、この「柳の井」も「櫻の井」と並んで名水として有名でした。



内堀通り(甲州街道)に戻りました。ここに「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)」の碑が建っています。ここは前述のように近江彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていたところです。近江彦根藩井伊家の初代藩主は井伊直政。昨年(2017)NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で菅田将暉さんがこの井伊直政を演じました。慶長5(1600)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩したのが近江彦根藩のそもそもの起こりです。直政は2年後の慶長7(1602)に関ヶ原の合戦で受けた戦傷が元で死去したのですが、嫡男の直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11(1606)完成し、彦根城に入城しました。これにより佐和山藩から近江彦根藩に名称が変更になりました。



その後、江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と56度の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となります。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかったことが特徴として挙げられます。江戸時代後期、第15代藩主・井伊直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行いました。それがもとで、前述のように万延元年(1860)33日、大雪の朝、この上屋敷から60名ほどの供を従えて登城する途上、外桜田門を目前にして水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されました。桜田門外の変ですね。ここから桜田門の方向を見ると、警視庁の建物が見えます。刺客が待ち受けている中を桜田門に向けて登城する井伊直弼の一行がイメージできそうです。

現在、「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)」の碑の裏を首都高速都心環状線が走っています。


三宅坂交差点です。三宅坂は半蔵門外から桜田門外の警視庁付近まで、皇居内濠に沿って続く緩やかな坂道で、江戸時代以来、堀端の景勝地として知られています。半蔵門交差点の海抜はおよそ23メートルで、桜田門交差点の海抜およそ8はメートル。その間の約1.2kmの区間はおおむね下りの傾斜が続きます。三宅坂交差点は、国道246(通称:青山通り)の起点となっています。また、三宅坂交差点付近の地下は首都高速道路の三宅坂ジャンクションになっています。

坂の名前は、江戸時代、この坂の途中の(現在の)国立劇場付近に譜代大名である三河田原藩12千石 三宅家の上屋敷があったことに由来します。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも前述のように(現在の)憲政記念館・国会前庭付近に同じく譜代大名の近江彦根藩井伊家上屋敷の広大な敷地もありました。

明治維新以降、三宅家と井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれました。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞でした。我が国が第二次世界大戦に参戦した昭和16(1941)128日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部が、この三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転しました。

戦後、参謀本部跡地(井伊家屋敷跡)は国会用地に転用され、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分の一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が建設されました。このため、「三宅坂」は日本社会党、そして現在の社会民主党(社民党)を指す言葉として使われるようにもなりました(現在、社民党本部は永田町に移転し、社会文化会館は20134月解体されています)。一方、三宅家屋敷跡は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住むパレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40(1965)からは国立劇場と最高裁判所が相次いで建設されました。


奥に見えるのが最高裁判所の建物です。




そこに「渡辺崋山誕生地」の案内表示が立っています。江戸時代後期の画家、渡辺崋山は三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政5(1793)にここにあった田原藩上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。三河田原藩の家老にも就任しています。



「広告記念像」です。この銅像を建てた「株式会社 日本電報通信社」とは、現在の電通のことでしょうか?



国立劇場です。この日も歌舞伎の公演があるようです。役者をやっている知人が時々この国立劇場の舞台にも歌舞伎の役者として立っているそうなので、いつか観に行きたいと思っています。

  

甲州街道(内堀通り)をさらに先に進みます。道路の反対側の歩道を多くのランナーが走っています。内堀通りは濠側の歩道を走ると一度も信号待ちをすることなく皇居の周りを1周することができます。その皇居1周の距離は約5km。ランニングコースとして約5kmも取れて、さらに途中に信号がまったくないコースとなると、日本全国探してもなかなかありません。これが大きな魅力の1つで、今や市民ランナーの聖地のようになっています。

実は今でこそその片鱗のカケラも感じられないでしょうが、私は若い頃中長距離走が得意で、数年間、職場の代表として会社(電電公社)の社内駅伝大会を走っていました。そのコースがこの皇居の周回コースでした。なので、ここは練習も含め何度も走ったことがあります。実はこの皇居の周りの周回コース、意外とアップダウンのあるコースなんです。特に半蔵門から桜田門までのこの区間。緩く長い下り坂が続き、前方の見通しがいいので、前を走っているランナーの姿がしっかり確認できることから、まさに勝負どころでした。二重橋付近に中継ポイントがあったので、ちょうどこのあたりは半分を過ぎたところでしたし。考えていることは他のランナーの皆さんも同じだったようで、この区間は下り坂に任せて一気にスプリント競争を仕掛ける絶好のポイントでした。

私は下り坂の区間は前のランナーとの差を詰めることだけを考えて我慢。桜田門が近くなって平坦な区間になってから一気に勝負を仕掛ける作戦でした。後半ですので疲れも出てきて、仕掛けることができるのは1回だけ。早めに仕掛けてもその後抜き返されたら、そこでジ・エンドですからね。ちなみに、下り坂だし見通しがいいので近くにあるようにも見えるのですが、半蔵門から桜田門までは約1.2kmもあります。意外と長く、早めに仕掛けたら途中で息切れしちゃいますから。この区間でいったい何人を追い抜き、何人に追い抜かれたことか。追い抜きの収支は、う〜〜ん、トントンって言いたいところですが、ちょっと負け越していたように記憶しています()

ちなみに、この内堀通りの濠側の歩道は、安全確保のため、ランナーは反時計回りの一方向で走る決まりになっているようです。

また、このあたりに日本橋を出てから最初の一里塚「隼町一里塚」があったと推定されるのですが、その痕跡はどこにもありません。


半蔵門が見えてきました。現在、半蔵門と言えば「エイティー・ポイント・ラヴ (周波数80.0MHz)」、エフエム東京(Tokyo FM)です。そしてエフエム東京と言えば『JET STREAM(ジェット・ストリーム)です。広島の大学を卒業して東京に出てきた昭和53(1978)、ラジオから流れてきたオープニング曲『ミスター・ロンリー』(フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ)をバックに「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、たゆみない 宇宙の営みを告げています…」で始まる城達也さんのオープニングナレーションに大きな衝撃を受けました。勤務を終えて帰宅した後、寝る前にくつろいで聴けるお洒落なイージーリスニングの楽曲の数々に、「あぁ〜東京に出てきたんだなぁ〜」って思ったものです。エンディング曲『夢幻飛行』をバックにして流れる「夜間飛行の、ジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星のまたたきと区別がつかなくなります…」というエンディングナレーションも大好きでした。この城達也さんのナレーション、今でも覚えています。

広島での大学時代は東京が憧れの地のようなところがありましたが、東京に出てきてこの『JET STREAM』を聴き、海外への憧れを持つようになりました。今でも時々YouTubeで懐かしい城達也さんバージョンの『JET STREAM』を聴き、当時の思いを蘇らせたりしています。


現在、エフエム東京の1階にはランナーをターゲットにした番組『JOGLIS』とタイアップとした「半蔵門ランナーズサテライト"JOGLIS"」が設けられ、皇居の周りを走るランナー達の1つの拠点となっています。


   
半蔵門です。半蔵門は、江戸城(皇居)にある門の1つで、西端に位置する門です。大手門とは正反対の位置にあります。この門を出ると、まっすぐ甲州街道(国道20号:通称・新宿通り)に通じています。この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇陛下の住居)、宮中三殿、天皇がお田植えをする水田などがあり、天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの半蔵門が用いられています (他の皇族は乾門を使用することが多いのだそうです)。そのため警護は厳重で、一般人の通行は認められておりません。太平洋戦争時の空襲で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものなのだそうです。

半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するという説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するという説があります。定説は前者であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200)がこの門外に組屋敷を構えていました。また、甲州街道はここからほぼまっすぐ西に延びているのですが、街道沿いの麹町一帯が旗本屋敷が建ち並び、完全な警備体制が敷かれていました。これは一説によると、幕府初期の仮想敵国は仙台藩伊達家であり、北東から攻め込まれた場合、将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われています。この時、半蔵門を脱出経路と考えており、その退路を半蔵門、麹町の旗本が塞ぐという計略であったというわけです。その意味で、半蔵門は江戸城の搦手門にあたると言えます。


半蔵門交差点で、甲州街道(国道20号線)は左折し、内堀通りから分かれて新宿通りに入ります。

甲州街道は新宿通りを進みます。右の写真は振り返って半蔵門方向を眺めた風景です。甲州街道は半蔵門から真っ直ぐに延びているのがよく分かります。


麹町4丁目交差点です。交差する道路の様子を見ると、ここがこのあたりの地形の最も標高の高いところ、すなわち尾根筋を通っているのが分かります。左右に延びる道路はどちらも甲州街道(国道20号線:新宿通り)を頂点に下っていますから。これって旧街道を見分ける最大の特徴です。



麹町4丁目の案内板が立っています。麹町は甲州街道(国道20号線:新宿通り)に沿って半蔵門から四谷見附までの細長い街区を形成している町です。徳川家による江戸城建設以前は、大手町・日比谷方面から局沢(つぼねざわ:現在の吹上御苑のあたり)を経由して半蔵門から四谷見附へ通じる甲州街道の前身となる古道があり、武蔵府中(武蔵国府)へ通じる重要な交通路となっていました。甲州街道は複雑に浸食された麹町台地の中央にのびる尾根筋を一直線になるように造成されたもので、道路の両側は人工的に谷を埋め立てたところが入り交じっており、麹町通りの沿道は、今も場所によって地盤が弱いところがあるのだそうです。

町名の由来は、町内に「小路(こうじ)」が多かったためという説、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が住んでいたためという説もありますが、府中の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口であったため、すなわち国府路(こうじ)の町であったためという説が有力です。近年の発掘成果によれば、麹町から四ツ谷駅周辺にあった江戸時代の屋敷地跡から、味噌や麴を製造した手掘りの地下室である「室」(むろ)が数多く発見されており、文字通り麴の産地でもあったようです。

麹町一帯の甲州街道沿いは、江戸時代には通りの北側にある番町の旗本屋敷の消費生活を支える商業地として繁栄し、日本橋の越後屋・白木屋などと並び称された大型呉服店の岩城桝屋(いわきますや)が、現在の麹町四丁目北側に店を開いていました。また麹町五丁目の大和屋には、天保の改革の一環の失業対策事業として土蔵群が建設され、戦後の道路拡張工事で撤去されるまで威容を誇っていました。明治維新にともない、徳川家の旗本が全て失職して屋敷を失い、多くが徳川宗家とともに静岡に移住してしまった後は、麹町通りの賑わいは急速に衰え、江戸時代から続く老舗も廃業したり移転したりしました。その後しだいに番町に元勲や官僚をはじめ、政財界の有力者が邸宅を構えるようになり、麹町地区も1960年代までは商業地としての命脈を保っていました。しかし、1968年に都電が廃止されると、麹町通りに沿って走る鉄道がなくなり、地下鉄の有楽町線麹町駅・半蔵門線半蔵門駅が開業するまで、都市的な発展は停滞。1970年代に新宿通りが拡幅され、古くからの町並みが一新されるとともに、麹町一帯はオフィス街に変貌し、商業地区としての性格は薄くなっています。


  
「紀州藩麹町邸」という表示があります。徳川御三家の1つ紀伊和歌山藩徳川家は江戸に20以上の屋敷を構えていました。藩主が暮らした私的な中屋敷が「赤坂邸」で、この赤坂邸は現在、赤坂御用地となっています。公的な施設がこの上屋敷「麹町邸」でした。この麹町邸は約25,000坪の広大な敷地と豪壮な建物群を誇っていました。近年、その跡地から立派な三つ葉葵の鬼瓦や各種の生活用品が出土したのだそうです。


参議院麹町議員宿舎です。この議員宿舎の向こう側、四ツ谷駅にかけての一帯は千代田区紀尾井町です。紀尾井町の地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾州家、井伊家と呼ばれていました)、各家の文字を1文字ずつとって町名としたものです。紀州徳川家の中屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張徳川家の中屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の中屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっています。



参議院宿舎前の交差点で反対側車線の歩道に渡りました。甲州街道(国道20号線:新宿通り)と交差する道路は急な坂で下っていっているのがよく分かります。旧街道はそのあたりの尾根筋を通っている…、このセオリー通りです。





……(その6)に続きます。


愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...