2018年6月27日水曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その5)


甲州街道(国道20号線:内堀通り)は国会前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って緩やかに右にカーブしていきます。後ろを振り返ると、桜田門を過ぎてからかなり坂を登って来たことが分かります。皇居(江戸城)より東側(海側)は元々は低湿地帯で、徳川家康が江戸城に入府して以降、東京湾に流れ込んでいた利根川と荒川の流路を変えることにより生まれたり、埋め立てたりしてできあがった人工の陸地であり街であることを書きましたが、ここから西側は徳川家康の江戸城入府以前から陸地であったところというのがこの景色からも分かります。これが「山の手」ってことなんですね。


国会前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。まさに日本の中心ですね。ここは日本国の水準原点が置かれているところで、ちょっとした公園(国会前庭)になっています。


ここにあるのが江戸の名水「櫻の井」です。ここから憲政記念館にかけての一帯には近江彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていました。その井伊家上屋敷の表門外西側にあったのがこの「櫻の井」で、名水として知られ、江戸の人々に親しまれたということです。この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正が命じて掘られたものだと伝えられています。現在の井戸は昭和43(1968)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま約10メートル離れた現在の地に移設復元されたものです。また、桜田濠の斜面の水際近くに柳の木が1本立っていて、そのそばに井戸があります。「柳の井」で、この「柳の井」も「櫻の井」と並んで名水として有名でした。



内堀通り(甲州街道)に戻りました。ここに「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)」の碑が建っています。ここは前述のように近江彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていたところです。近江彦根藩井伊家の初代藩主は井伊直政。昨年(2017)NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で菅田将暉さんがこの井伊直政を演じました。慶長5(1600)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩したのが近江彦根藩のそもそもの起こりです。直政は2年後の慶長7(1602)に関ヶ原の合戦で受けた戦傷が元で死去したのですが、嫡男の直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11(1606)完成し、彦根城に入城しました。これにより佐和山藩から近江彦根藩に名称が変更になりました。



その後、江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と56度の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となります。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかったことが特徴として挙げられます。江戸時代後期、第15代藩主・井伊直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行いました。それがもとで、前述のように万延元年(1860)33日、大雪の朝、この上屋敷から60名ほどの供を従えて登城する途上、外桜田門を目前にして水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されました。桜田門外の変ですね。ここから桜田門の方向を見ると、警視庁の建物が見えます。刺客が待ち受けている中を桜田門に向けて登城する井伊直弼の一行がイメージできそうです。

現在、「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)」の碑の裏を首都高速都心環状線が走っています。


三宅坂交差点です。三宅坂は半蔵門外から桜田門外の警視庁付近まで、皇居内濠に沿って続く緩やかな坂道で、江戸時代以来、堀端の景勝地として知られています。半蔵門交差点の海抜はおよそ23メートルで、桜田門交差点の海抜およそ8はメートル。その間の約1.2kmの区間はおおむね下りの傾斜が続きます。三宅坂交差点は、国道246(通称:青山通り)の起点となっています。また、三宅坂交差点付近の地下は首都高速道路の三宅坂ジャンクションになっています。

坂の名前は、江戸時代、この坂の途中の(現在の)国立劇場付近に譜代大名である三河田原藩12千石 三宅家の上屋敷があったことに由来します。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも前述のように(現在の)憲政記念館・国会前庭付近に同じく譜代大名の近江彦根藩井伊家上屋敷の広大な敷地もありました。

明治維新以降、三宅家と井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれました。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞でした。我が国が第二次世界大戦に参戦した昭和16(1941)128日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部が、この三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転しました。

戦後、参謀本部跡地(井伊家屋敷跡)は国会用地に転用され、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分の一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が建設されました。このため、「三宅坂」は日本社会党、そして現在の社会民主党(社民党)を指す言葉として使われるようにもなりました(現在、社民党本部は永田町に移転し、社会文化会館は20134月解体されています)。一方、三宅家屋敷跡は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住むパレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40(1965)からは国立劇場と最高裁判所が相次いで建設されました。


奥に見えるのが最高裁判所の建物です。




そこに「渡辺崋山誕生地」の案内表示が立っています。江戸時代後期の画家、渡辺崋山は三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政5(1793)にここにあった田原藩上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。三河田原藩の家老にも就任しています。



「広告記念像」です。この銅像を建てた「株式会社 日本電報通信社」とは、現在の電通のことでしょうか?



国立劇場です。この日も歌舞伎の公演があるようです。役者をやっている知人が時々この国立劇場の舞台にも歌舞伎の役者として立っているそうなので、いつか観に行きたいと思っています。

  

甲州街道(内堀通り)をさらに先に進みます。道路の反対側の歩道を多くのランナーが走っています。内堀通りは濠側の歩道を走ると一度も信号待ちをすることなく皇居の周りを1周することができます。その皇居1周の距離は約5km。ランニングコースとして約5kmも取れて、さらに途中に信号がまったくないコースとなると、日本全国探してもなかなかありません。これが大きな魅力の1つで、今や市民ランナーの聖地のようになっています。

実は今でこそその片鱗のカケラも感じられないでしょうが、私は若い頃中長距離走が得意で、数年間、職場の代表として会社(電電公社)の社内駅伝大会を走っていました。そのコースがこの皇居の周回コースでした。なので、ここは練習も含め何度も走ったことがあります。実はこの皇居の周りの周回コース、意外とアップダウンのあるコースなんです。特に半蔵門から桜田門までのこの区間。緩く長い下り坂が続き、前方の見通しがいいので、前を走っているランナーの姿がしっかり確認できることから、まさに勝負どころでした。二重橋付近に中継ポイントがあったので、ちょうどこのあたりは半分を過ぎたところでしたし。考えていることは他のランナーの皆さんも同じだったようで、この区間は下り坂に任せて一気にスプリント競争を仕掛ける絶好のポイントでした。

私は下り坂の区間は前のランナーとの差を詰めることだけを考えて我慢。桜田門が近くなって平坦な区間になってから一気に勝負を仕掛ける作戦でした。後半ですので疲れも出てきて、仕掛けることができるのは1回だけ。早めに仕掛けてもその後抜き返されたら、そこでジ・エンドですからね。ちなみに、下り坂だし見通しがいいので近くにあるようにも見えるのですが、半蔵門から桜田門までは約1.2kmもあります。意外と長く、早めに仕掛けたら途中で息切れしちゃいますから。この区間でいったい何人を追い抜き、何人に追い抜かれたことか。追い抜きの収支は、う〜〜ん、トントンって言いたいところですが、ちょっと負け越していたように記憶しています()

ちなみに、この内堀通りの濠側の歩道は、安全確保のため、ランナーは反時計回りの一方向で走る決まりになっているようです。

また、このあたりに日本橋を出てから最初の一里塚「隼町一里塚」があったと推定されるのですが、その痕跡はどこにもありません。


半蔵門が見えてきました。現在、半蔵門と言えば「エイティー・ポイント・ラヴ (周波数80.0MHz)」、エフエム東京(Tokyo FM)です。そしてエフエム東京と言えば『JET STREAM(ジェット・ストリーム)です。広島の大学を卒業して東京に出てきた昭和53(1978)、ラジオから流れてきたオープニング曲『ミスター・ロンリー』(フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラ)をバックに「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、たゆみない 宇宙の営みを告げています…」で始まる城達也さんのオープニングナレーションに大きな衝撃を受けました。勤務を終えて帰宅した後、寝る前にくつろいで聴けるお洒落なイージーリスニングの楽曲の数々に、「あぁ〜東京に出てきたんだなぁ〜」って思ったものです。エンディング曲『夢幻飛行』をバックにして流れる「夜間飛行の、ジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星のまたたきと区別がつかなくなります…」というエンディングナレーションも大好きでした。この城達也さんのナレーション、今でも覚えています。

広島での大学時代は東京が憧れの地のようなところがありましたが、東京に出てきてこの『JET STREAM』を聴き、海外への憧れを持つようになりました。今でも時々YouTubeで懐かしい城達也さんバージョンの『JET STREAM』を聴き、当時の思いを蘇らせたりしています。


現在、エフエム東京の1階にはランナーをターゲットにした番組『JOGLIS』とタイアップとした「半蔵門ランナーズサテライト"JOGLIS"」が設けられ、皇居の周りを走るランナー達の1つの拠点となっています。


   
半蔵門です。半蔵門は、江戸城(皇居)にある門の1つで、西端に位置する門です。大手門とは正反対の位置にあります。この門を出ると、まっすぐ甲州街道(国道20号:通称・新宿通り)に通じています。この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇陛下の住居)、宮中三殿、天皇がお田植えをする水田などがあり、天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの半蔵門が用いられています (他の皇族は乾門を使用することが多いのだそうです)。そのため警護は厳重で、一般人の通行は認められておりません。太平洋戦争時の空襲で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものなのだそうです。

半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するという説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するという説があります。定説は前者であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200)がこの門外に組屋敷を構えていました。また、甲州街道はここからほぼまっすぐ西に延びているのですが、街道沿いの麹町一帯が旗本屋敷が建ち並び、完全な警備体制が敷かれていました。これは一説によると、幕府初期の仮想敵国は仙台藩伊達家であり、北東から攻め込まれた場合、将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われています。この時、半蔵門を脱出経路と考えており、その退路を半蔵門、麹町の旗本が塞ぐという計略であったというわけです。その意味で、半蔵門は江戸城の搦手門にあたると言えます。


半蔵門交差点で、甲州街道(国道20号線)は左折し、内堀通りから分かれて新宿通りに入ります。

甲州街道は新宿通りを進みます。右の写真は振り返って半蔵門方向を眺めた風景です。甲州街道は半蔵門から真っ直ぐに延びているのがよく分かります。


麹町4丁目交差点です。交差する道路の様子を見ると、ここがこのあたりの地形の最も標高の高いところ、すなわち尾根筋を通っているのが分かります。左右に延びる道路はどちらも甲州街道(国道20号線:新宿通り)を頂点に下っていますから。これって旧街道を見分ける最大の特徴です。



麹町4丁目の案内板が立っています。麹町は甲州街道(国道20号線:新宿通り)に沿って半蔵門から四谷見附までの細長い街区を形成している町です。徳川家による江戸城建設以前は、大手町・日比谷方面から局沢(つぼねざわ:現在の吹上御苑のあたり)を経由して半蔵門から四谷見附へ通じる甲州街道の前身となる古道があり、武蔵府中(武蔵国府)へ通じる重要な交通路となっていました。甲州街道は複雑に浸食された麹町台地の中央にのびる尾根筋を一直線になるように造成されたもので、道路の両側は人工的に谷を埋め立てたところが入り交じっており、麹町通りの沿道は、今も場所によって地盤が弱いところがあるのだそうです。

町名の由来は、町内に「小路(こうじ)」が多かったためという説、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が住んでいたためという説もありますが、府中の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口であったため、すなわち国府路(こうじ)の町であったためという説が有力です。近年の発掘成果によれば、麹町から四ツ谷駅周辺にあった江戸時代の屋敷地跡から、味噌や麴を製造した手掘りの地下室である「室」(むろ)が数多く発見されており、文字通り麴の産地でもあったようです。

麹町一帯の甲州街道沿いは、江戸時代には通りの北側にある番町の旗本屋敷の消費生活を支える商業地として繁栄し、日本橋の越後屋・白木屋などと並び称された大型呉服店の岩城桝屋(いわきますや)が、現在の麹町四丁目北側に店を開いていました。また麹町五丁目の大和屋には、天保の改革の一環の失業対策事業として土蔵群が建設され、戦後の道路拡張工事で撤去されるまで威容を誇っていました。明治維新にともない、徳川家の旗本が全て失職して屋敷を失い、多くが徳川宗家とともに静岡に移住してしまった後は、麹町通りの賑わいは急速に衰え、江戸時代から続く老舗も廃業したり移転したりしました。その後しだいに番町に元勲や官僚をはじめ、政財界の有力者が邸宅を構えるようになり、麹町地区も1960年代までは商業地としての命脈を保っていました。しかし、1968年に都電が廃止されると、麹町通りに沿って走る鉄道がなくなり、地下鉄の有楽町線麹町駅・半蔵門線半蔵門駅が開業するまで、都市的な発展は停滞。1970年代に新宿通りが拡幅され、古くからの町並みが一新されるとともに、麹町一帯はオフィス街に変貌し、商業地区としての性格は薄くなっています。


  
「紀州藩麹町邸」という表示があります。徳川御三家の1つ紀伊和歌山藩徳川家は江戸に20以上の屋敷を構えていました。藩主が暮らした私的な中屋敷が「赤坂邸」で、この赤坂邸は現在、赤坂御用地となっています。公的な施設がこの上屋敷「麹町邸」でした。この麹町邸は約25,000坪の広大な敷地と豪壮な建物群を誇っていました。近年、その跡地から立派な三つ葉葵の鬼瓦や各種の生活用品が出土したのだそうです。


参議院麹町議員宿舎です。この議員宿舎の向こう側、四ツ谷駅にかけての一帯は千代田区紀尾井町です。紀尾井町の地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾州家、井伊家と呼ばれていました)、各家の文字を1文字ずつとって町名としたものです。紀州徳川家の中屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張徳川家の中屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の中屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっています。



参議院宿舎前の交差点で反対側車線の歩道に渡りました。甲州街道(国道20号線:新宿通り)と交差する道路は急な坂で下っていっているのがよく分かります。旧街道はそのあたりの尾根筋を通っている…、このセオリー通りです。





……(その6)に続きます。


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