2022年6月10日金曜日

鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路①

公開予定日2022/11/03

[晴れ時々ちょっと横道]第98回 鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路① 


鉄道のみならず、バスや船、飛行機なども大好きで広い守備範囲を誇る“公共交通機関マニア”の私が今回取り上げるのは船、フェリーです。まぁ〜フェリーの船体も鉄でできておりますし、鉄分補給の対象とさせていただきましょう()

かつて、瀬戸内海には大小様々な海運会社がフェリーや高速船をひっきりなしに運航していました。瀬戸内海を南北に横断して愛媛県の各港と対岸の広島県の港とを結ぶ短距離航路に限っても、私が記憶している航路だけでも、

・堀江港(松山市)〜仁方港(呉市)航路 ……国鉄仁堀連絡船

・堀江港(松山市)〜阿賀港(あがこう:呉市)航路

・今治港〜大長港(おおちょうこう:大崎下島)〜呉港中央桟橋〜広島宇品港航路

・今治港〜御手洗港(みたらいこう:大崎下島)〜大長港(大崎下島)〜豊島港(豊島)〜呉港中央桟橋航路

・今治港〜大長港(大崎下島)〜久比港(くびこう:大崎下島)〜豊島港(豊島)〜川尻港(呉市)航路

・今治港〜大長港(大崎下島)〜久比港(大崎下島)〜豊島港(豊島)〜宮盛港(上蒲刈島)〜仁方港(呉市)航路

・今治港〜友浦港(大島)〜木浦港(伯方島)〜岩城港(岩城島)〜佐島港(佐島)〜弓削港(弓削島)〜土生港(因島)〜田熊港(因島)〜重井港(因島)〜尾道港航路

・今治港〜瀬戸田港(生口島)〜三原港航路

・波方港(なみかたこう:今治市)〜宮浦港(大三島)~竹原港航路

・新居浜港〜四阪島港(四阪島)〜弓削港(弓削島)〜尾道港航路

等がありました。

これらの航路は本州と四国を結ぶ本州四国連絡橋、特に広島県尾道市を起点に向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市に至る延長59.4kmの高規格幹線道路「西瀬戸自動車道(通称:しまなみ海道)が平成18(2006)429日に全通したことに伴い、航路廃止、あるいは橋の架かっていない島嶼部とを結ぶ区間だけへの航路縮小に追い込まれました。

これに伴い、かつては多くのフェリーや高速船が頻繁に行き交い、多くの乗降客で賑わった今治港も、現在は芸予汽船の今治港~友浦港(大島)~木浦港(伯方島)~岩城港(岩城島)~佐島港(佐島)~弓削港(弓削島)~生名港(生名島)~土生(因島)航路の小型高速船(18便)や、今治港~大下島~小大下島~岡村港(岡村島)航路の今治市営せきぜん渡船の小型フェリー(14便)、今治港~宗方港(大三島)~大下島~小大下島~岡村港(岡村島)航路の今治市営せきぜん渡船の小型高速船(14便)、今治港~宗方港(大三島)~木江港(大崎上島)航路の大三島ブルーラインのフェリー(12便)、今治港~津島航路の津島渡船の小型旅客船(11便)と言った離島航路のみの寂しい状況になっています。しまなみ海道が開通して本州と四国が地続きになったことによるもので仕方ない部分もありますが、幾多のフェリーや高速船が白い航跡を残しながら頻繁に行き交う往時の繁栄を知る乗り物マニアとしては、寂しい感じがしています。

そういう中で、フェリーや高速船がまだまだ元気に運航されているのが松山です。石崎汽船と瀬戸内海汽船が共同運航する松山観光港〜(呉港中央桟橋)〜広島宇品港航路は毎日フェリーが10往復、高速船のスーパージェットが9往復運航されています。また、防予フェリーと周防大島松山フェリーが共同運航する松山市の三津浜港と山口県柳井市の柳井港を結ぶ航路は113往復が運航されています。このほか、株式会社ごごしまが運航する高浜港と興居島(ごごしま)の由良港を結ぶフェリーと高浜港と泊港(興居島)を結ぶフェリーがそれぞれ114往復、さらには、三津浜港・高浜港と忽那諸島の島々を結ぶ中島汽船のフェリーと高速船も運航されています。このように、今や松山は、船好きにとって残された聖地のようなところになっています。

ということで、船好きの私としては乗りに行かねばなるまい…と思い、今年の1月に、中島汽船の忽那諸島めぐりのフェリーに乗りに行ってきました。


三津浜港から中島汽船・西線航路のフェリーに乗って出港です。

忽那諸島(くつなしょとう)は松山市の沖、瀬戸内海の安芸灘と伊予灘との間に位置する島嶼群のことです。最も面積が大きい中島本島を主島とし、7つの有人島と22の無人島から成ります。総称して、忽那七島と呼ばれる主な島々は、中島(なかじま:本島)、津和地島(つわじじま)、怒和島(ぬわじま)、二神島(ふたがみじま)、睦月島(むづきじま)、野忽那島(のぐつなじま)、由利島(ゆりじま)。このうち、由利島は現在は無人島で、テレビのバラエティー番組『進ぬ!電波少年』の無人島脱出企画の舞台となったり、現在も某テレビ番組の中で◯◯◯◯島の舞台となったりもしています。また、忽那諸島に第二次世界大戦当時、大日本帝国海軍の聨合艦隊の停泊地となった山口県の柱島を含める場合や、松山市沖の釣島(つるしま)、さらには興居島(ごごしま)を含めることもあります。


忽那諸島の位置です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

忽那諸島の島々です。これから向かう忽那諸島の島々の位置関係がお分かりいただけるかと思います。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

航路図です。青い線が西線、赤い線が東線です。

松山市の三津浜港から中島汽船のフェリーに乗ります。中島汽船のフェリーには西線と東線の2つの航路があります。

西線は、三津浜港釣島港神浦港(中島)⇄二神港(二神島)⇄津和地港(津和地島)⇄元怒和港(怒和島)⇄上怒和港(怒和島)⇄西中港(中島)と忽那諸島の西側の5つの島を巡ります。

東線は、三津浜港(松山)⇄高浜港(松山)⇄睦月港(睦月島)⇄野忽那港(野忽那島)⇄大浦港(中島)と忽那諸島の東側の2つの島を巡ります。

西線は毎日フェリーが2往復と高速船が5便、東線はフェリーが5往復と高速船が5往復運航されています。また、中島の島内は中島汽船が運行するバス路線があり、西線の終着港である西中港と東線の終着港である大浦港の間も路線バスで移動することができます。

私は三津浜港910分発の西線のフェリーに乗って西中港(中島)を目指しました。乗船したのは中島汽船のフェリー「じんわ」です。462総トン、全長49.50メートル。旅客定員310名、乗用車18台又は大型車4台を搭載できます。「じんわ」とは、忽那諸島のうち。二神島・津和地島・怒和島および二神島の属島である由利島が1959年まで神和村と呼ばれていたことに由来します。


乗船したフェリーは「じんわ」。中島汽船の西線航路専用のフェリーです。

三津浜港を出港しました。目の前に興居島(ごごしま)が見えます。

三津浜港を出港しました。目の前に興居島が見えます。

まずは釣島(つるしま)港に寄港します。釣島は面積が約0.36平方kmの小さな島で、人口は約80人。釣島の名前のとおり周辺は好漁場で、ここで10数名の釣竿を持った釣り客が下船しました。Good luck!!

まずは釣島(つるしま)港に寄港します。

中島と興居島・釣島とを隔てる釣島海峡は瀬戸内海の東西航路が通り、多くの船が行き交います。おっ!、この船は商船三井の豪華クルーズ船「にっぽん丸」ですね。

商船三井の豪華クルーズ船「にっぽん丸」です。中島と興居島・釣島とを隔てる釣島海峡は瀬戸内海の東西航路が通り、多くの船が行き交います。

次に神浦港(中島)に寄港します。忽那諸島の主島であり最も面積の大きな中島には、フェリーが寄港する港が3つあります。神浦港はその1つです。この神浦港で多くの自動車(ほとんどが軽自動車)が下船しました。

次に神浦港(中島)に寄港します。

神浦港で多くの自動車(ほとんどが軽自動車)が下船しました。

下船が終わるとすぐに出港して、次の二神島を目指します。

下船が終わるとすぐに出港して、次の二神島を目指します。

中島が遠くなっていきます。

前方には小市島、中島、横島といった小さな無人島が見え、その向こう側に二神島も見えています。


二神港(二神島)に寄港します。二神島は周囲約10km、面積約 2.15平方km。人口160名ほど。タコツボ漁が盛んな漁業と柑橘栽培の島です。

二神港(二神島)に寄港します。

二神港では1人の下船客・乗船客もいなかったので、接岸後すぐに出港しました。

中島汽船のフェリー「じんわ」の船内です。乗船したのは2022年の1月。休日だったのですが、乗客は数えるくらい。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で人の流れが少なくなっているとは言え、こんな状態で経営が成り立つのだろうか…と心配になります。早く、新型コロナウイルスの感染拡大が終息して、忽那諸島を訪れる人達が戻ってきてほしいものだと、切に願います。

2階にある客室です。

3階の甲板です。見晴らしがいいので、私はほとんどここにいました。(ただ、前方がよく見えないので、前方の景色を見たい時だけ、2階の客室に移動していました。)

津和地港(津和地島)に寄港します。津和地島は周囲約12 km、面積約 2.85平方km。忽那諸島の有人島の内では最も北西にあり、この島の先は中国地方の山口県、広島県になります。人口約 380人。柑橘栽培と鯛や鰯といった水産業の島です。

津和地港(津和地島)に寄港します。


津和地島は柑橘栽培と鯛や鰯といった水産業の島です。

津和地港を出港して怒和島に向かいます。向こうに見える島は広島県の倉橋島。その倉橋島の先には江田島や呉市があります。


津和地島より北は広島県。広島県の倉橋島が見えます。その倉橋島の先には江田島や呉市があります。


元怒和港(怒和島)に寄港します。怒和島には港が2つあって、そのうちの1つです。怒和島は周囲約 13.5km、面積約 4.81平方km。人口約400人で、柑橘栽培が盛んな島です。特にレモンが有名です。

元怒和港(怒和島)に寄港します。


怒和島は柑橘栽培が盛んな島で、特にレモンが有名です。

元怒和港を出港して、怒和島にあるもう1つの港、上怒和港を目指します。遠くに見えるのは広島県の呉市でしょうか。

元怒和港を出港して、怒和島にあるもう1つの港、上怒和港を目指します。

怒和島の南側をグルッと回り込むように進み、上怒和港に寄港します。

怒和島の南側をグルッと回り込むように進みます。

上怒和港に寄港します。

港の先にそこそこの集落があります。


上怒和港を出港して、終着の西中港(中島)を目指します。

上怒和港を出港して、終着の西中港(中島)を目指します。

右舷に中島が見えます。さすがに忽那諸島の主島。中島は大きな島です。

こちらは左舷。大館場島、小館場島という2つの無人島の向こうに見えるのは、広島県の呉市ですね。

中島の西側にある西中港に到着しました。西中港到着は1137分。2時間27分の船旅でしたが、途中幾つもの島に寄港するので、十分に瀬戸内海の船旅を満喫できました。


中島の西側にある西中港に入港します。

接岸して下船準備です。ここで下船したのはバイクに乗った男性と女性1人と私の3人だけでした。

接岸して下船準備です。

ここで下船したのはバイクに乗った男性と女性1人と私の3人だけでした。

中島汽船の西線航路専用のフェリー「じんわ」です。


中島は忽那諸島の主島(本島)とも言える島で、面積約21.17平方kmと、忽那諸島の中では最も面積の広い島です。人口も約3千人と多く、忽那諸島(旧温泉郡中島町)の中では行政や経済の中心地でもあるため、地元では中島本島(なかじまほんとう)や、単に本島(ほんとう)と呼ばれています。ミカンとトライアスロンの島として知られ、かつては段ボール箱の横にの中に「中」の字が描かれた「丸中」ブランドの高級ミカンの産地として、全国的にもその名が知られていました。しかしながら、現在は過疎化が進んでおり、かつて15千人以上いた島の人口も現在はおよそ3千人と5分の1に減少し、耕作放棄地が増え続けているのが悲しい現状です。

船好きということもありますが、実は私がこの中島を訪れてみようと思った本当の理由は、中島が亡き弟の最初の赴任地だったからです。私には6歳離れた弟がいたのですが、今から24年前に急性の敗血症による多臓器不全で亡くしています。享年36歳の若さでした。弟が亡くなった時に生後3ヶ月だった弟の息子(私にとっては甥っ子)は、現在、青年海外協力隊の隊員(小学校理科教師)として西アフリカのガーナ共和国に赴任しています。

その弟が私と同じ広島大学の教育学部を卒業し、愛媛県の中学校の理科教諭として最初に赴任したのが、この中島にある中島中学校でした。どちらかと言うと運動が苦手な私と異なり、弟は運動神経が抜群。中学校から大学まで野球部に所属し、赴任した中島中学でも野球部の顧問兼監督を務めました。中島中学校を温泉郡のみならず、松山市を含めた中予地域の中堅強豪校に育て上げ、卒業生の中には松山市内や愛媛県内の強豪高校に進み、甲子園大会出場を目指した生徒さんも多数いたと聞いています。

そのいっぽうで、何を思ったのか、中島中学校の教員時代に弟が始めたスポーツが“競歩”でした。おそらく、1日何便かしかフェリーがない中島では容易に松山市内に遊びに行くこともできず、身体と時間を持て余して始めたジョギングが最初だったのではないかと推察されます。独学で競歩を練習し、腕試しのつもりで出場した愛媛県の大会でいきなり優勝。その後、愛媛陸協の強化指定選手に選ばれ、正式な指導者による指導がついてさらに記録を伸ばし、男子1万メートル競歩の愛媛県記録を更新して、昭和62(1987)に開催された沖縄国体にこの種目では愛媛県初の代表選手として出場。成年男子1万メートル競歩で12位に入り、愛媛県に貴重な天皇杯のポイント1を獲得しました。弟は私より体格が小柄でしたが、もともと才能があったのでしょうね。

弟は昭和62年の4月に中島中学校から同じ忽那諸島の島の睦月島にある睦月中学校に異動になっていたので、沖縄国体に出場した時の肩書きは「睦月中学校教員」でした。睦月島という全校生徒が20人ほどの小さな離島の中学校の教師が、教師になってから始めた競歩で、国体で12位に入ったということは、当時、愛媛県内の明るい話題として注目され、地元紙の愛媛新聞に紙面1面ブチ抜き写真入りで特集記事が載ったりしました。「頑張ったぞ先生は」「やればできるということを島の子供達に伝えたくて」といった見出しがついていたような記憶があります。絶対に実家のどこかにこの時の愛媛新聞が保管されていると思うのですが、いまだ発見されておりません。

先日、亡き弟の25回忌の法事を行ったのですが、法事の最中、弟の遺影を見つめながら私が思ったのは「そうだ!! 中島と睦月島に行かねば」ということでした。私は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で外出自粛が求められるようになって以降運動不足解消と、このところ人間ドックを受診するたびに境界値だと指摘され続けている血糖値と肝機能を少しでも改善することを目的にほぼ毎日1万歩前後のウォーキングを日課にしているのですが、松山でウォーキングをやるのだったら、弟が競歩を始めて練習を重ねた中島や睦月島の島内の道を、弟が見たであろう景色を眺めながら歩くしかないだろう!…と思ったわけです。まずは、弟の最初の赴任地で、競歩を始めた中島に…ということで、中島に初めてやってきました。

鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路②は、明後日(6月12日)に掲載します。



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