2018年12月7日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その11)


このタチバナの木の前が歴代徳川将軍家の「御台所(みだいどころ:将軍の正妻)」の居室があったところ、すなわちこのあたりが皆さんよくご存知の「大奥」があったところです。

「大奥」は、言い方は悪いですが、徳川将軍家の世襲制を存続させるために作られた施設でした。「大奥」は将軍の私邸で、御台所を中心に、将軍の側室や子供達といった家族や、それをお世話する奥女中達の生活の場でした。「中奥」とは仕切られており、御鈴廊下で結ばれていました。

前述のように、本丸御殿の建て坪は約11,000(36,000平方メートル)と広大なものがあったのですが、そのうち「表」と「中奥」が約4,700(15,000平方メートル)なのに対して、「大奥」は約6,300(21,000平方メートル)と、本丸御殿の中で「大奥」が最大の割合を占めていました。なぜ「大奥」だけがそんなに広いのかと言うと、大勢の人が常時そこに住んでいたからです。主に日中に実務や行事が行われる「表」や、将軍個人が執務や居住に使う「中奥」に対し、「大奥」は大別すると御台所をはじめ将軍の生母や子供達、さらには側室の居室といった建物が建ち並ぶ「大奥御殿向(おおおくごてんむき)」、役所機能があった「御広敷(おひろしき)」、「長局向(ながつぼねむき)」と呼ばれる奥女中達の生活する長屋などが何棟も立ち並び、部屋数は軽く100を超えていたといわれています。

27.新座敷=将軍の母の住居です。
28.御殿=多くの部屋が置かれている部分です。
29.対面所=大奥に外部からやってくる客を接待する場所です。
30.御座之間=将軍と御台所が対面するための部屋です。
31.御休息之間・御化粧之間=御台所の生活する部屋です。
32.長局(ながつぼね)=奥女中達が生活する部屋です。

「大奥三千人」といわれていますが、実際には、大奥には仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹にあたる皇女和宮が第14代将軍徳川家茂の御台所(正室)になった幕末の最も多い時で、約1,000人ほどの女性達が暮らしていたと言われています。それ以前の時期においても、引退した前将軍や御台所に仕えた女性達も含め、幕府から正規に給与を得ていたのが約300人ほどで、これに加えて、彼女らが自らのサポート要員として雇い入れた私設の女性達がさらに約300400人おり、全部合わせると600700人の女性達が大奥で生活していたようです。前述のように、将軍と一部の役人以外の男性は足を踏み入れることができませんでした。働く女性達は一生奉公が原則で、身分の高い者ほど宿下がり(実家への帰省)が難しかったといわれています。


この大奥は皆さんTVドラマや時代小説等を通してよくご存知のように、大奥は、将軍以外は男子禁制で、勝手に男が入れば死罪となる完全な女の園でした。そのため、大奥へのアクセスは、本丸御殿中奥にある「御錠口(おじょうぐち)」という将軍専用の出入り口が1ヶ所あるのみでした(後に防災上の観点からもう1ヶ所増設されたようですが…)。ただし、御台所が城外へ外出するときに使う玄関や、大奥の女性達が城の出入りに使う通用口は別途設けられており、将軍以外の訪問者はこちらの出入り口を利用しました。

TVドラマや時代小説等では大奥は将軍はハーレムのような場所として描かれ、そこで将軍の御寵愛を受けるために女性達のドロドロとした権力争いが繰り広げられていたかのような描かれ方がされていますが、あくまでもこれは現代人の勝手な妄想によるフィクションに過ぎず、史実では大奥は将軍の正室である御台所を頂点として整然とした秩序が保たれた空間でした。秩序を乱すような者がいると、即刻、将軍や御台所から罷免されていました。幕府の秩序を乱すようなことを企んだら、男性の大名や直参旗本では即切腹という時代でしたからね。

大奥で働く女性達は、「御目見(おめみえ)以上」「御目見以下」「部屋方(へやかた)」の3つに大きく分類されます。職掌によって将軍に接触できるのが「御目見以上」、そうでないのが「御目見以下」で、彼女達は幕府から直接給料が支払われていた女性達でした (なので、将軍や御台所の意に沿わない場合は、即刻罷免されたわけです)。さらにこれらの女性達が自らのサポート役として私的に雇っている女性が「部屋方」です。「御目見以上」と「御目見以下」は、それぞれの中でもさらに細かく分類され、明確に定員も設けられていました。

まず御目見以上ですが、計18職種84人と定員が定められていました。上臈御年寄(じょうろうおとしより:1)は大奥の最高位で将軍・御台所の相談役ですが、たいていは公家の娘で、儀礼典礼の秘書として大奥入りしているので、あくまでも名誉職で実権はなかったといわれています。大奥全体を取り締まる実質的なトップは御年寄(おとしより)と呼ばれ、4人が定員でした。さらにその下に将軍と御台所の身辺の世話係である御中臈(おちゅうろう:定員7)がいました。通常はこの将軍付中臈の中から側室が出ました。これらを加えて、前述のように計18職種84人が将軍と接触できる女性達でした。御目見以下は95人の定員で、仲居(おなかい)、御火之番(おひのばん)、御末(おすえ)など計6職種に分かれていました。御目見以上が総合職、御目見以下が一般職ってところでしょうか。御目見以上や御目見以下の奥女中が、私的に雇ったサポート役が部屋方で、派遣社員・契約社員ってところでした。役職も仕事も多岐に渡っていました。力仕事用の女性や大奥で出た罪人を処罰する女性、警備員などもすべて女性が行っており、女性だけですべての事柄が賄える仕組みになっていました。

将軍は日々の公務に加えて、徳川歴代将軍の月命日の墓参りがあり、極めて多忙でした。加えて徳川歴代将軍の月命日の墓参りの前日は身を清める意味で大奥での宿泊は禁止されていました。このため、江戸後期の将軍は代が進むほど日程が窮屈となり、どんなに頑張っても大奥へは月のうち半分ほどしか泊まれなかったようです。


また、将軍は、相手の女性を自由に「選り好み」できたのかというと、実際はほぼ不可能なことでした。広大な敷地に1,000人近い女性達がいた大奥ですが、将軍が行き来できる範囲は限られていました。将軍と日ごろ接触することができる女性も、若い者は将軍付の御中臈くらいしかおらず、「添い寝役」も大抵はその御中臈の中から選ばれるのが一般的でした。夜の時間2人きりを満喫できたのかというと、そんな時にも将軍に自由はありませんでした。大奥での将軍専用の部屋である「御小座敷」には常時、隣室に夜勤の女性が複数控えていました。当日「御添寝」を担当する女性が部屋に入ると、さらにもうひとり別の女性が彼女のすぐ隣に敷かれた布団に背を向けて横になります。将軍があとから部屋を訪れて“夜の時間”が始まっても、横の女性はそこを離れずじっと聞き耳を立てていました。隣室からも気配を感じたままですから、ムードもへったくれもありませんでした。

ちなみに、将軍の“お手”がついた女性は「御手付中臈(おてつきちゅうろう)」と呼ばれ、側室として扱われました。さらに、将軍の子どもを懐妊すると専用の個室が与えられ、その後、男子を出産すると「御部屋様(おへやさま)」、女子を出産すると「御腹様(おはらさま)」と呼ばれて、正式に「側室」と認められました。そして、子供の有無に関わらず一生大奥からは出られませんでした。また、たとえ将軍がどれだけその女性を気に入っていたとしても、当時は御台所も側室も、30歳を区切りに「御褥御断り(おしとねおことわり)」といって、将軍と夜を共にすることを辞退するのが一般的な習わしでした。このように、はた目には恵まれた境遇に見える将軍であっても、日々の生活での制約は多く、思ったほど享楽に浸る生活を送ってはいなかったというのが現実でした。歴代将軍の中には、こうした面倒から大奥通いを苦痛に感じ、むしろ中奥で1人気ままに過ごすのを好んだ将軍も1人や2人ではなかったようです。

大奥の項の最後に、御台所のトイレ事情についてご紹介します。御台所のトイレは「万年」と呼ばれるもので、4畳ほどの畳敷きのお部屋でした。「万年」はいわゆるぼっとん式便所で、地中深くに穴が掘られており大小便はここに落ちました。その深さは一説によると18メートルほどもあったそうです。御台所一代で同じ穴を使い続けたので、臭いは相当なものだったと思われます。そのため、常に匂い消しのためお香が焚かれていました。そして、御台所が代わると古い穴は埋められ、また新しい穴が掘られました。御台所はトイレの時にも御台所の身辺の世話係である御中臈が付いてきて、用を足した後とお尻を拭くこともやってもらっていたそうです。日常生活において、御台所が手を動かすことと言えば食事の時くらいで、トイレをはじめ、その他の爪切り、お召し替えなどは全て御中臈たちが代わりに手を動かしてくれていました。高貴なお方は庶民と感覚が違います。通常はこの御中臈の中から将軍の側室が出たわけで、TVドラマ等で見られるような御台所と側室の間でのドロドロとした争いが起きるはずもありません。厳然とした身分の違いがありました。

このように、私達がTVの時代劇や歴史小説で目にする「ドラマの中の歴史」は、「史実としての歴史」とは大きく異なっていることが多々あります。何も知らずにドラマの世界を史実と鵜呑みにして人前で話すと、思わぬ恥をかいてしまうこともあります。注意が必要です。あくまでもフィクション、ドラマの中の歴史、娯楽だと思って楽しんでいただけたらと思います。


「天守台」です。現在残る江戸城の天守台は高さ11メートル、東西約41メートル、南北約45メートルの大きさを誇り、すべてが瀬戸内海の小豆島(香川県)から切り出され、船で遠路はるばる運ばれてきた御影石(花崗岩)でできています。

この天守台は慶長11(1606)に筑前国福岡藩初代藩主の黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台で、明暦の大火によって寛永天守閣が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀国金沢藩第4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。

もとの寛永天守閣の天守台は13メートルほどの高さあったので、再建時に高さは約11メートルと少し低くなっています。また、前述のように、使用する石も伊豆半島から運ばれてきた黒っぽい安山岩から、瀬戸内海の小豆島からはるばる運ばれてきた黄色がかった御影石(花崗岩)に変えて、より精緻な切石で積まれました。もとの寛永天守閣の天守台で使われていた伊豆半島から運ばれてきた安山岩の石材のうち、再利用できるものは御書院御門(中雀御門)前の石垣に転用されたそうです。なお、天守台の手前にある小天守台に使われている黒っぽい石材は伊豆半島から運ばれてきた安山岩ですが、これは寛永天守台の石材が転用されているのだそうです。


天守閣の基礎となる天守台は完成したのですが、前述のように、天守閣そのものの再建は当時の第4代将軍徳川家綱の後見役で、徳川家光の異母弟である陸奥国会津藩初代藩主の保科正之が「今は天守閣の再建よりも被災した人たちの救済と江戸の街の復興が先であろう」と主張したため、天守再建はとりやめられました。そして、これ以降は本丸東南隅に位置する富士見櫓を実質の天守と見なされるようになりました。


天守台の石垣の東南側には焼けたあとが残っていますが、これは幕末の文久3(1863)の大火によるものです。前述のように、この火災では焼失した本丸御殿は再建されず、幕府の政務機能を西の丸御殿に移しています。


現在、天守台はスロープで上がれるようになっており、展望台になっています。


この天守台横には明治17(1885)から大正12(1923)まで中央気象台 (設置当初は東京気象台。明治20年に中央気象台に改称し、昭和31年気象庁と改称) が置かれていました。東京気象台は、それまでは赤坂区溜池葵町(現在のホテルオークラ近く)にあったのですが、明治17(1885)に江戸城本丸御殿跡に移設。大正12(1923)に麹町区元衛町(現在のKKRホテル東京の場所)に移るまで、本丸御殿跡には中央気象台が置かれていました。さらに、天守台には、天体観測と緯度経度計測のための天測塔と気象観測の風力塔を兼ねたレンガ(煉瓦)造りの建物(東京観測点)が建設されていました。明治1761日から東京気象台で毎日3回全国の天気予報の発表が始まったのですが、天守台の堅牢な石垣は天文観測などにも絶好だったからです。本丸御殿跡には昭和30年代まで気象庁の官舎も建っていました。

城、石垣、香川県…と来ると、忘れてはならない城があります。それが丸亀城です。歴代の藩主となった生駒親正と山崎家治、そして京極高和が築いた丸亀城は「石垣の名城」と言われるほどで、「扇の勾配」と呼ばれる高く美しい曲線が描かれた石垣が有名な城です。江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達したときに作られたもので、優れた技術で積まれた石垣を見ることができます。万治3(1660)に完成した天守閣は全国に現存する12の天守閣の1つで国の史跡に指定され、四国に残る木造天守閣では一番古い天守閣です。私は中学高校時代の6年間を香川県丸亀市で過ごしました。なので、丸亀城は毎日のように眺めていた思い入れの強い城なのです。

その丸亀城の石垣が今年108日から9日にかけて、広範囲にわたって崩落しました。崩落したのは「帯曲輪(おびぐるわ)石垣」と、その上部に造られた「三の丸坤櫓(ひつじさるやぐら)跡石垣」で、帯曲輪石垣は西面が幅約18メートル、高さ約16メートルにわたって崩れ、三の丸坤櫓跡石垣は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートルと広い範囲で崩落しました。帯曲輪石垣の老朽化などで周囲は以前から立ち入り禁止となっており、老朽化や930日に来襲した台風24号の大雨が原因になったとみられています。丸亀城では7月の西日本豪雨でも、この場所とは別の石垣が崩落しており、「石垣の名城」と言われた見事な石垣が見るも無残な状況になっているようです。

石垣の修復には30年はかかると言われているようですが、死ぬまでにもう一度あの美しい石垣を見たいと思っていますので、それまでは「ふるさと納税」で少しでも復旧資金のお手伝いをさせていただきたいと思っています。


……(その12)に続きます。

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