2018年8月28日火曜日

甲州街道歩き【第6回:高尾→相模湖】(その2)


目の前に見える高架道路は圏央道(首都圏中央連絡自動車道)です。圏央道は神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由し千葉県木更津市に至る、東京都心からおおむね半径40 km60kmの位置を環状に結ぶ自動車専用道路で、このすぐ右手にある八王子ジャンクション(JCT)で中央自動車道と接続しています。この道路ができたおかげで、私が住む埼玉県さいたま市からも慢性的に渋滞する東京都心部を通らずに中央自動車道、東名高速道路方面に行くことができるようになりました。


小仏関所を過ぎたあたりから進行方向の右側には中央自動車道の高架が併走しているのが見えます。ここは八王子ジャンクションですね。また、旧甲州街道の横をJR中央本線が併走して走っているのですが、家々の陰に隠れているので、列車の屋根の部分が見えるだけです。時々列車の通過する音が間近に聞こえます。


蛇滝口バス停のすぐ前に「蛇滝口の湧水」があります。建屋もあって水量も結構多く、きちんと清掃されて地元で愛されている湧水です。車で来て、この湧水をポリタンなどにたっぷりと汲んでいく人も多いそうです。


この蛇滝口の湧水の隣には、古い旅籠のような木造の建物(蛇滝茶屋)が建っています。ここは修験者の宿泊所らしく、軒下にははね板といわれる講の名前を彫った札が今も掲げられています。これらのはね板は、蛇滝で水行を行う人達が講を組んでやってきた記念として架けたもののようです。西側の橋詰には、「上行講 是より蛇滝まで八丁」と彫られた道標の石碑も残っています。建物は現在は利用されておらずひっそりとしていますが、ここには川と豊富な湧き水もあり、多くの高尾山参りの講の人々が集まった当時の光景を想像できます。


蛇滝口の湧水の道路反対側に、「猪鼻(いのはな、湯ノ花)列車銃撃事件供養碑」への道標と説明板があります。道標に従って畑の中を行くと、中央線の線路際に供養碑が静かにあります。この供養碑は、終戦直前に起きた米軍機による列車銃撃事件による犠牲者を弔った慰霊の碑です。昭和2085日、湯ノ花(いのはな)トンネルにさしかかった満員の新宿発長野行きの中央線下り列車を米軍のP51ムスタング戦闘機が機銃掃射し、多数の一般市民(非戦闘員)を死傷させるという事件がおきました。少なくとも52人が死亡、900人以上が怪我をしました。太平洋戦争中、列車銃撃では国内でももっとも被害が大きかったとされています。当時はよく晴れて暑い日で、八王子空襲で不通になった中央線が4日ぶりに開通し、乗客が窓にぶら下がるほどの満員電車であったようです。戦闘機が見えた時、すぐ窓を閉めるように車内放送が流れましたが、満員の声にかき消されうまく伝わらなかったようです。戦時下とはいえ、これは国際法にも違反する人道上許されぬ行為として、当時非難の声があがりました。現場近くに建てられたこの供養碑には、この事件による犠牲者の名前が刻まれており、毎年、事件のあった85日には、「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が中心となり、慰霊祭が行われているのだそうです。


旧甲州街道沿いのこの地域は、「高尾梅郷」の名で梅の名所として知られています。春先の梅の開花時2月中旬から3月下旬にかけ、旧甲州街道が分岐する西浅川交差点付近から、小仏川と旧甲州街道に沿って小仏のバス折り返し場付近まで、関所梅林、天神梅林、湯ノ花梅林、遊歩道梅林を中心に約10,000本の梅が開花し、山の斜面や畑の梅林、民家の庭先などに咲く梅が楽しめるのだそうです。地面には梅の実がたくさん落ちています。この見えている範囲に落ちている梅の実だけでどのくらいの梅酒ができるものか…。


頭上高くを圏央道の高架が通っています。ここで、しばし休憩の後、街道歩きを再開しました。


高尾山山頂への道を示す道標が立っています。


「蛇滝水行道場入口」の道標が立っています。ここから蛇滝道を行くと徒歩20分ほどで「蛇滝」があります。蛇滝は高尾山琵琶滝とならぶ高尾山水行修業の体験場です。蛇滝は琵琶滝と違い水行修業の体験者しか入ることができない天狗信仰ゆかりの神聖な霊場なので、滝に至る道には木戸があり、「御信徒以外の方は入場禁止」の看板がかかっているのだそうです。この蛇滝の場所は、僧に助けられた白蛇が恩返しに教えたという伝説が残っていて、白蛇がやがて龍になったということです。


中山道でよく見掛けた上州櫓造りの民家です。屋根の上にもう一段、小屋根が設けられています。この小屋根は換気を良くするために設けられているもので、特に養蚕農家で多く見られる民家の構造です。八王子市はかつて桑都と呼ばれるほど養蚕業や絹織物の生産が盛んであったところでした。おそらくこの農家も養蚕業が行われていた(今でも行なっている)のかもしれません。


かなり高いところを中央自動車道が走っています。


高尾駅北口と小仏峠の登り口の小仏の間を結ぶ京王バスの路線バスと頻繁に行き合います。バス停の時刻表を見ると、上り下り20分毎のようで、こんな山の中に向かう路線としては本数が多いようです。まぁ〜それだけ乗客の需要があるということですね。


バス停の名称が「摺差(するさし)」。あれっ!?  先ほど「摺指(するさし)」って通ったような……。


摺差(するさし)バス停の先の左手の小高い位置に常林寺があり、旧甲州街道に面して六地蔵が祀られています。この常林寺はJR高尾駅南口にある高乗寺の末寺で、寺を興したのは峰尾氏とされていますが、ここ摺差地区の住民はほとんどが峰尾の名字とのことですから驚きます。佐藤孝太郎著『多摩歴史散歩』によれば、峰尾氏は14世紀の南北朝時代の南朝方の重鎮小山氏の末裔とのことで、足利氏の圧力を避けて一族は常陸・会津・白河と転々とした後、八王子に至り、甲斐の武田氏の元で再挙を図るもかなわず、ついには摺指のこの地に土着したといわれています。常林寺は峰尾氏の開基になる寺だそうで、当初の寺院は大正6年の火災で焼失してしまいましたが再建されました。入口に、二十三夜と書かれた二十三夜塔や庚申供養塔などが並んでいます。二十三夜塔は月を信仰の対象とした供養塔ですが、背後を走る中央自動車道の高架がなんとも場違いでものものしい雰囲気を醸し出しています。


旧甲州街道の雰囲気が漂うS字カーブの道路が続きます。


右側を通っているのはJR中央本線の線路。左側が小仏川で、小仏川のせせらぎの音だけが聞こえます。


左手に「浅川国際マス釣場」があります。高尾山の麓にある自然豊かな釣場で、都心からのアクセスもよく、一日中自然と釣りを満喫することができるということで、この日も多くの釣り人が訪れていました。


木下沢橋を渡ります。「きのしたさわ橋」って読みそうですが、正しくは「こげさわばし」。この先に約1,400本もの紅梅・白梅の木がある有名な梅の里「木下沢(こげさわ)梅林」があり、梅が開花する時期には、一面に咲き誇る紅白の梅を眺めに多くの観光客が訪れるのだそうです。


気になるのは橋の右側に見える煉瓦造りの暗渠。この暗渠の10メートルほど上をJR中央本線の線路が通っています。写真では分かりづらいのですが、この暗渠から薄い霧が吹き出しています。おそらく下を流れる清流の水温と、今にも雨が降り出しそうな温かく湿った(湿度が相当高い)大気とがぶつかり合ってその温度差から発生した霧なのでしょうが、なんとも幻想的な風景を生み出しています。


おやおや、トレイルランニングを楽しまれている方でしょうか。この緩い坂道を走って下っている方とすれ違いました。ここに来るまでもこういう方と何人かすれ違いました。小仏峠を走って越えられているのでしょうね。


日影沢林道の入口です。日影沢林道は小仏城山へのハイキングコースになっているほか、小仏城山を経て高尾山の山頂に行く登山口にもなっています。林道を少し入ったところに「カツラ林遊歩道」があり、春にはその新緑が清流に映え、秋には鮮やかな黄葉に衣替えし、見事な景色だそうです。ですが、私達は旧甲州街道をそのまま進みます。


「右 小仏峠 景信山」と刻まれた道標が立っています。景信山(かげのぶやま)は東京都八王子市と神奈川県相模原市との境界にある標高727.1メートルの山です。名前の由来は、北条氏照の重臣・横地景信が武田氏の情勢を窺うための出城を築き守護していた場所であるから…とされています。


JR中央本線の線路を架道橋で潜ります。煉瓦造りの架道橋が歴史を感じさせてくれます。JR東日本のE257系直流特急電車で運行される上りの特急「かいじ」が、私達が歩いていく横を通り過ぎていきます。


JR中央本線の線路があります。中央本線は、ここから小仏峠の下の小仏トンネルに入り甲府方面へと向かいます。東京都と神奈川県の都県境に位置する小仏トンネルは延長2,545メートル。中央本線の八王子〜甲府間では笹後トンネル(4,656メートル)に次いで2番目に長いトンネルです。


このJR中央本線の線路の下を潜ったあたりが小仏宿の江戸方(東の出入口)でした。このあたりから京王バスの終点、小仏のバス折り返し所のあたりまでが、小仏宿があったところです。天保14(1843)の記録によると、小仏宿は人口252名、総家数58軒、旅籠屋11軒。左側下にはJR中央本線が走り、右側には山が迫っているので、家が建つ面積が非常に少ないところです。江戸時代にも問屋と旅籠が11軒あったものの、1つ前の駒木野宿よりもさらに小さな集落でした。今は一般的な家が建っているだけで、宿場の面影はほとんど残っていません。 『新編五街道細見』には、小仏宿から小仏峠は26(3)あると書かれているのだそうです。


静かな街道には、車の通行も人の姿もほとんどなく、小仏川の清流のせせらぎの音だけが響いています。


小仏宿の名主でもあった旅籠屋「鈴木藤右衛門」の屋敷跡です。このあたりの旅籠屋のうち特に青木家は三度飛脚たちの定宿とされていて、「三度屋」という屋号で呼ばれていました 。三度飛脚とは、月に三度甲府と江戸の間を往来した飛脚のことで、三度笠は三度飛脚たちが被ったつばの深い菅笠のことをいいます。


旅籠屋「鈴木藤右衛門」の屋敷跡には門前に「明治天皇御小休所跡の碑」が立っています。明治天皇は明治13年に甲州街道から中山道(木曽路)を経て京都へ御巡行なされたのですが、その際の明治13617日の午前7時に八王子をご出立。840分頃にこの旅籠屋「鈴木藤右衛門」宅にご到着され、小休止の後に板輿に乗られ小仏峠へと向かわれました。明治天皇は小仏峠に到着された際にも小休止されており、それを記念した小休止跡の石碑がこれから向かう小仏峠に建っています。


小仏宿に入ったあたりから細かい霧雨が降ってきました。皆さん、雨具を羽織ります。


少し古びた道標が旅情を掻き立ててくれます。


高尾変電所の横を通り過ぎると京王バスの小仏バス折り返し所に出ます。ここは小仏宿の諏訪方(西の出入口)があったところです。


10数年前の一時期、私はバスの終点巡りを趣味にしていたことがあります。もともとは鉄道の終着駅巡りを趣味にしていたのですが、ローカル線の相次ぐ廃止で魅力ある終着駅が次々と姿を消してしまい、仕方なく対象を広げて路線バスの終点に切り替えてみたのです。バスの終点と言ってもいろいろあって、鉄道の駅やどこかの観光地、病院や大学のようなところは対象外で、あくまでも人々が暮らす生活圏のギリギリ端っこにあるバスの終点がその対象です。川を遡って行く山の奥の奥であったり、海に突き出た岬の突端であったり…。終点だけにそのほとんどのところにはバスの折り返し所や待機所があります。周辺の風景も素晴らしいところが多く、それぞれに独特の味のある終点ばかりなのですが、問題は人々の生活圏のはずれにあることから便数が極端に少ないこと。過疎が進む上、自家用車の普及による利用者の減少で路線の廃止が相次ぎ、残った路線も1日に数便だけの運行に減便されていたりしているのがほとんどなのですが、この京王バスの高尾駅北口と小仏間の路線バスは昼間も約20分毎の運行と運行頻度も高いのが特徴です。しかも、終点の小仏は人々が暮らす生活圏のギリギリ端っこ。なんと言っても、旧甲州街道であるこの東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線は、都県境の小仏峠を挟んだ前後の区間は山道になっていて、自動車の通行はできません。このバス折り返し所の先は道幅の細い林道になっていて、大型バスによる運行はできません。まさにバスの終点マニアとしては涙を流して喜びそうな理想的なところです。こういうところは国際興業バスが運行する埼玉県の飯能駅(名栗車庫経由)湯の沢線くらいなのではないでしょうか。


……(その3)に続きます。

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