ここでガイドの瓜生和徳さんからこのあたりの地形についての説明をお聞きしました。
東京都の地形は、西の多摩から東に向かって山地、洪積台地、沖積低地とだんだん低くなっていきます。これは氷河時代に奥多摩から流れ出した氷河が山を削り、内陸部まで深く入り江になっていた海を自然が埋めたてて、今の東京23区の西部から中部までが陸地となったためです。この洪積台地を武蔵野台地と呼び、この武蔵野台地の東縁が台東区、文京区から港区、品川区にまで及びます。このため、文京区や港区、品川区あたりは実に坂道の多い土地柄となっています。その地域のことを知ろうと思うと、まずはそこの“地形”と“気象”を理解することです。NHKの人気番組『ブラタモリ』のようですが…。
この武蔵野台地が江戸湾(東京湾)に向かって張り出してきた端が現在「駿河台(するがだい)」と呼ばれている高台の部分でした。駿河台は元来、本郷や湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山(かんだやま)」と呼ばれていました。江戸の街づくりは、まずその神田山(現在の駿河台)の切り崩しから始まったといわれています。
前述のように、当時の地形は現在の日比谷あたりが大きな入江、さらに三崎町から飯田橋、九段下にかけては沼地となっており、南側には遠浅の海が広がり、北側は武蔵野の原野となっていました。このような江戸湾の奥の、どちらかといえば辺境ともいえるようなところに江戸城を建て、幕府の本拠地としようとした徳川家康の着眼は大したものであると思います。しかしながら、その目的を達する為には大規模な土木工事を行う必要があったのです。そこで目をつけたのが神田山の土砂でした。神田山の土砂で、この日ここまで歩いてきた現在の両国橋あたりから日本橋浜町・中洲、そして京橋方面へかけての海を埋め立てました。その時の神田山は、現在の外神田、JR秋葉原駅のあたりまで張り出していたといわれています。また、現在の日枝神社のあたりの高台も切り崩して江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立て、江戸の街の礎(いしずえ)を築きました。
さらに東北方面から江戸城を攻撃された場合のことを考え(徳川家康は仙台藩伊達家を仮想敵と考えていました)、神田山を分断し江戸城の外濠としての役目を果たす掘割の開削の大工事を伊達正宗に命じて3年がかりで完成させ、平川(現在の日本橋川)の水を隅田川に分流させました。この掘割が現在の神田川となるわけですが、当時平川が飯田橋から竹橋の辺りを経て日比谷の入江に通じていたのですが、前述の埋め立てによってそれまで海に流れ込んでいた平川の流れが滞り、毎年のように氾濫を繰り返すようになっていたことから、城下を水浸しにすることを防止するためのものでもありました。こうしてこの界隈は、本郷と湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。そして元和2年(1616年)、現在の大手町・将門首塚の所にあった神田明神が今の場所へと移って来たのです。そのような経緯から、神田山の土で埋め立てた所が神田明神の氏子地となりました。
このようにして江戸の街は作られていったのですが、当時江戸に集まった約10万人もの人夫達の食糧は、現在の内神田一丁目辺りにあった魚河岸と、神田多町にあった青物市場、通称「やっちゃば」とで賄われていました。魚は江戸湾から平川を船で上がり、青物は荷車によって埼玉方面から運ばれてきていました。このため、小伝馬町や大伝馬町などは物流の一大ターミナルとして大いに栄えました。河岸はその後、日本橋から現在の築地へ移り、青物市場も秋葉原から大井へ移転しましたが、どちらも発生の地は神田というわけです。また、遊廓として名をはせた吉原も、現在地へ移る前は日本橋の吉町(よしちょう)という所にありました。もともとは今の千代田区立体育館の辺りにあった「丹前(たんぜん)風呂」の湯女(ゆな)から始まったといわれています。すなわち、神田という街は様々な物資やサービスの供給地であったというわけです。そしてその後、神田は職人街、日本橋は商人街として分化し発展していったということのようです。
ちなみに、「駿河台」という地名は、徳川家康が駿府(すんぷ)で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)達が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えて住んだことや、この地から駿河国の富士山が見えたことなどから、「駿河台」と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本・中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸など幾つかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。
その駿河台の湯島坂を登っていきます。
緩くダラダラ続く湯島坂を登りきったところにあるのが湯島聖堂です。湯島聖堂に祀られているのは孔子です。この湯島聖堂は、もと上野の忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟を元禄3年(1690年)に第5代将軍徳川綱吉がここに移し、大成殿(たいせいでん)と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まりとされています。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになりました。
入徳門です。現在の湯島聖堂で唯一の木造建造物で、宝永元年(1704年)に建造されたものです。関東大震災の時に焼失せずに残った数少ない建物です。さすがに歴史を感じさせます。
湯島聖堂を作ったと言われる第5代将軍徳川綱吉に関連して、ガイドを務めていただいた瓜生和徳さんから衝撃的な情報を教えていただきました。なんと第5代将軍・徳川綱吉の身長は124cmしかなかったそうなのです。
愛知県岡崎市にある大樹寺は、家康が徳川氏を名乗り、江戸に幕府を開く前までの松平氏の菩提寺であり、徳川家康の祖父の松平清康や父の松平広忠もこの寺に墓があります。徳川家が江戸に幕府を開いてからは、歴代の将軍が亡くなると墓は芝の増上寺か上野の寛永寺に作られたのですが、それとは別に亡くなった将軍の身長と同じ高さの位牌を作り、大樹寺に安置する習慣があったのだそうです。その位牌を調べたところ、だいたいどの将軍も160cm前後と今の時代の感覚で言うと低い身長だったようなのですが(もっとも、当時の男性の平均身長は157cmだったそうです)、その中でもひときわ低い身長の将軍が2人いて、それが第7代将軍の徳川家継と第5代将軍の徳川綱吉です。第7代将軍の徳川家継は亡くなった時、わずか8歳の子どもであり位牌の高さが135cmなのは理解出来ますが、第5代将軍の徳川綱吉の位牌の高さは、わずか124cmしかないのです。身長が124cm、これは明らかに小人症、いわゆる低身長症であったといえます (ちなみに、当時の記録には徳川綱吉が小人症であったかどうかについての記録は残っていません)。
身長と能力とは関係がありませんが、申し訳ないのですが、これだけ身長が低いと将軍の座に就いても“威厳”というものが感じられなかったのではないでしょうか。このハンディキャップは徳川綱吉にとって劣等感以外のなにものでもなかったのではないかと思われます。その劣等感をバネに綱吉は人一倍勉学に励み、様々な知識を吸収していったのではないでしょうか。彼は自ら能楽を舞い、また自ら朱子学の講義も行っていたようです。
徳川綱吉が力を入れたのが儒学と朱子学。儒学は孔子の唱えた倫理政治規範を体系化したものです。「五経」(『書経』『易経』『詩経』『春秋』『礼記』)によって先王の道を知り、実践的な政治や道徳に関することを学ぶ学派のことで、五倫五常を中心としています。このうち、“五常”は人に存する仁・義・礼・智・信の五つの徳を示し、“五倫”は父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信のことを言います。いっぽう、朱子学は南宋の朱熹によって大成されたもので、宋学と呼ばれることもあります。理気説と呼ばれる二元論(理=宇宙・万物などの原理を指し、気=物質、存在、運動を表す)と性(人間の持って生まれた本性)は理であるとする性即理、上下関係の秩序を重んじる大義名分論が主な内容となっており、「四書」(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視しています。
徳川綱吉と言えば天下の悪法と言われる「生類憐れみの令」が有名ですが、このような背景を知った上で改めてこの「生類憐れみの令」のことを考えてみると、まったく違った捉え方もできるのではないか…と思います。なんと言っても、第5代将軍徳川綱吉の治世の時代は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展、及び経済活動の活発化を受けて華美な生活と遊興娯楽の余裕を町人に与え、文芸・学問・芸術の著しい発展を見た時代でしたからね。特に、豊かな経済力を背景に成長してきた町人達が、大坂・京など上方の都市を中心に優れた作品を数多く生み出しました。俗に言われる「元禄文化」がそれです。その意味で、徳川綱吉は庶民にとっては非の打ちどころのない名将軍と言えます。低身長の劣等感をバネにして、政治や学問に力を注いだ名将軍。それが第5代将軍徳川綱吉の真実の姿だったのではないでしょうか。
石段の上にある杏壇門(きょうだんもん)を通って、聖堂の中に入ります。
大成殿です。寛政9年(1797年)、第11代将軍徳川家斉が規模を拡大して、昌平坂学問所となった時の大成殿の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸藩の徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされました。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとしました。その当時の大成殿の建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災により罹災し、入徳門・水屋を残し全て焼失しました。現在の建物は昭和10年(1935年)に再建されたもので、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りに変えてあります。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートルの入母屋造りで、規模や姿形は寛政9年(1797年)当時のものに従っているのだそうです。
大成殿の中に入ります。祀られている孔子像は、朱舜水が亡命時に携えてきたものが旧水戸藩徳川家から大正天皇に献上され、次にそれを湯島聖堂に御下賜された御物です。
湯島聖堂の次は日本の首都東京の守護神・神田明神を訪れました。
「神田明神」という名称で親しまれていますが、正式名称は「神田神社」です。東京の中心、神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会の総氏神様です。神田明神に伝わる社伝によると、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に入植した出雲系の氏族で大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)が、天平2年(730年)に祖神である大己貴命を祀ったのが最初と言われています。神田という地名は、元々伊勢神宮の社領である御田(おみた)があったため付けられた名前なのだそうです。
元々は現在の大手町にあったのですが、天慶の乱で敗れた平将門が、神社の近くに葬られ、その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威として人々を恐れさせたため、将門の霊を鎮めるため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の御霊を慰め、鎌倉時代後期の延慶2年(1309年)に神田明神の相殿神として合祀されたといわれています。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
神田祭のところでも書きましたが、慶長5年(1600年)、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康が合戦に赴く際にここで戦勝祈願のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し、天下統一を果たしました。それにより、神田明神は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬受けるようになりました。
明治時代に入り、明治7年(1874年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのは良くないこととされて、平将門は祭神から外されました。その代わりに、大洗磯前(おおあらいいそさき)神社から勧請されたのが、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。この時に平将門は境内摂社に遷され、同時に神社名を神田明神から神田神社に改称したのですが、今でも一般的には神田明神と呼ばれていて、日本の首都東京の守護神となっています。大正12年(1923年)、関東大震災により社殿が焼失してしまいましたが、昭和9年(1934年)に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。そのため、第二次世界大戦ではわずかな損傷で戦災を耐え抜きました。昭和59年(1984年)、朝敵として明治7年に別殿に出されていた将門の神霊が110年ぶりに本殿に戻りました。
前述のような経緯もあり、神田明神に祀られている祭神は、一之宮が大己貴命、二之宮が少彦名命、三之宮が平将門となっています。
大己貴命は大国主神(おおくにぬしのかみ)の別称です。大国主神は、出雲大社に祀られているので有名ですが、国づくりの神で、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様とされています。大国主神は、大国が「ダイコク」と通じるので、七福神の1神、大黒天と同一視されるようになりました。「だいこく様」の像は、随神門を入った左側に鎮座しています。石造りでは、日本で一番大きい大黒さまの像です。
二之宮の少彦名命が七福神の1神、恵比寿天、通称「えべっさん(えびす様)」です。恵比寿天(えびす様)の像は、だいこく様の像の少し先に、鎮座しています。少彦名命は一寸法師の原型とも言われていますので、小さな像となっています。周囲を波や魚で囲まれていて、その中に小さく鎮座している珍しい像となっています。でも、私達がふだん見慣れた「えべっさん(えびす様)」の姿とは大きく異なっています。少彦名命は、大海の彼方・常世(とこよ)の国より現れて、大国主神(おおくにぬしのかみ)と一緒に国づくりを行った神様です。そこで、少彦名命を恵比寿様とする考えがあると言われています。この像を見ると、ちょっと日本人離れしたお顔をしています。これはもしや……。恵比寿天は商売繁盛の神様であるとともに、医薬の教えを広めたと言われていることから、医薬健康の神様でもあります。
日本の首都東京の守護神・神田明神に参拝しました。前述のようにこの御神殿は昭和9年(1934年)に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されたものです。
御神殿横にある獅子山です。獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられていて、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名でした。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、這い上がってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したものです。今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与える喩えとして知られています。
神田明神の神馬「神幸(みゆき)号」です。仔馬のようですが平成22年5月の生まれということですから8歳。立派な大人の馬です。神馬「神幸号」は日本固有の在来馬です。
日本在来馬には木曽馬や御崎馬、対馬馬等幾つかの種類がいますが、すべて小型馬・中型馬であり、ポニーに分類され、モンゴルの他、中国や朝鮮半島でも最も一般的であった蒙古馬系に属します。現在、競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてズングリとした体形で、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛などが挙げられます。こうした体型ですから、平坦地のスピードにおいては、日本在来馬は、スピード競争のために品種改良が重ねられたサラブレッドに遠く及びません。全馬種のなかで最も高速で走るサラブレッドが平坦地で時速60km 以上のスピードで走れるのに対して、日本在来馬で最も速いとされる木曽馬でもせいぜい時速40km程度で、その他の日本在来馬は時速20km程度です。
昔の日本の馬はこうした日本固有の在来馬が主体でした。そう考えると、戦国時代最強と謳われた武田騎馬軍団のイメージも大きく変わってきますね。
神田明神の裏手にある銭形平次の碑です。銭形平次はあくまでも野村胡堂の書いた「銭形平次捕物控」の主人公でフィクションの人物ですので、あくまでも記念碑です。銭形平次の住所は神田明神下の台所町ということになっていますので、神田明神の裏手に碑が建てられています。銭形平次の碑の右側には平次の手下の八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑も建てられています。
その碑の前が銭形平次が住んでいたとされる神田明神下の台所町です。確かに地形的にも神田明神“下”です。
合祀殿です。この合祀殿は平成24年(2012年)に旧・籠祖神社の社地に建立された新しい拝殿です。籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)が合祀されています。
神田明神の裏手にある藤棚では藤の花が綺麗に見頃を迎えていました。
おやおや、ここに金刀比羅神社があります(四国人なので、金刀比羅神社にはすぐに反応しちゃいます)。この金刀比羅神社は天明3年(1783年)に武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目)に創建されたものです。かつては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めました。昭和41年(1966年)、薬研堀よりこの神田明神境内に遷座し、江戸時代より神田三河町の守護神として信仰されていた三宿稲荷神社とともに御鎮座されました。
江戸神社です。江戸神社は大宝2年(702年)に現在の皇居内に創建された江戸最古の地主神で、今もなお崇敬されている神社です。慶長8年(1603年)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616年)に神田明神が現在の社地に遷座するのに合わせてこの江戸神社も現在の社地に移りました。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称されました。慶長10年に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われました。
明治元年(1868年)に神社名を「須賀神社」に改めたのですが、明治18年の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座しました。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に改めました。平成元年(1988年)、今上天皇陛下のご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、さらに神輿庫を改修して、千貫神輿を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っています。2年に一度の神田祭の時には、この江戸神社千貫神輿が宮入りを行います。
右から水神社(魚河岸水神社)、小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社が並んで建っています。
水神社(魚河岸水神社)は日本橋に魚市場があった頃に徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神・大市場交易神として神田明神境内に祀られたものです。明治6年(1873年)に当時の魚市場内(現在の日本橋室町1丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社の合殿に祀られ、さらに明治24年(1891年)に社名を魚河岸水神社と改め、明治34年(1901年)、再び神田明神境内に遷座し、末社として祀られ、現在に至っています。市場が日本橋より築地に移り築地魚市場(東京都中央卸売市場築地市場)に移転した後には市場内にこの魚河岸水神社の遙拝所が建立され、現在も築地魚河岸会の方々を中心に神事が執り行われているのだそうです。
小舟町八雲神社の前に鉄製の天水桶が置かれているのですが、銘文によれば、この天水桶の奉納者は、江戸の魚問屋中に属する商人・遠州屋新兵衛他十名で、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べて塩干肴や乾物などの商いをしていた商人達だということのようです。
大伝馬町八雲神社の前に鉄製の天水桶が置かれていて、こちらは江戸の問屋仲間の1つである太物問屋仲間が天保10年(1839年)に奉納したものです。太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。
神田明神をあとにして、聖橋(ひじりばし)を渡ります。聖橋は神田川に架けられた千代田区駿河台と文京区湯島にまたがる橋です。全長79.3メートルのうち、神田川の上部の36.3メートルが放物線を描く鉄筋コンクリート製のアーチ橋で、関東大震災後の震災復興橋梁の1つとして、昭和2年(1927年)に完成しました。聖橋という名称は、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから命名されました。
聖橋から下を見ると、JR御茶ノ水駅のホームと神田川を渡る東京メトロ丸ノ内線の線路が見えます。御茶ノ水駅はJR東日本の中央本線と総武本線、東京メトロ丸ノ内線が乗り入れる接続駅です。
聖橋を渡るとJR御茶ノ水駅の東端に出ます。御茶ノ水駅は明治37年(1904年)の開業。開業当時は甲武鉄道の終着駅でした。現在のJR中央本線となる新宿~八王子間は、私鉄の甲武鉄道が建設した路線でした。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、明治37年(1904年)にこの御茶ノ水駅まで開通しました。甲武鉄道はその後明治41年(1908年)に昌平橋駅までの区間が開通して、御茶ノ水駅は中間駅となりました (昌平橋駅は仮設の駅で、明治45年(1912年)に万世橋駅まで延伸開業されると廃止されました)。いっぽう、それまで両国駅が起点だった総武鉄道(後のJR総武本線)は、関東大震災の震災復興事業の一環として東京市街地中心部への路線延長が進められ、昭和7年(1932年)、ついにこの御茶ノ水駅まで開通。御茶ノ水駅は総武本線の起点となりました。
このあたりは古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きになっていて、「神田山」と呼ばれていたというのは前述のとおりです。第2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成されました。同じ頃、その掘割の北側にあった高林寺から泉が湧き出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれています。
聖橋を渡り終えたところから駅に沿って西に移動し、JR御茶ノ水駅の西口がこの日のゴールでした。御茶ノ水駅周辺は明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街となっていて、また、江戸の総鎮守である神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数立地しています。さらには国内最大の書店街、楽器店街、スポーツ店街もあります。この日も多くの若者で駅前は賑わっていました。
両国をスタートして御茶ノ水まで、この日歩いた歩数は17,816歩、距離にして13kmほどに過ぎず、ふだんの街道歩きと比べると短いのですが、さすがにお江戸です。見どころが満載で、メチャメチャ面白かったです。今まで知らなかった江戸の歴史がいろいろと分かってきました。次回は今回のゴールだったお茶の水から水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四谷と外濠沿いを歩くようですので、時間を調整して、是非参加してみたいと思っています。とにかく、江戸の歴史探索は面白いです。
――――――――〔完結〕――――――――
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